-----ご注意----- | |
(1) |
この復刻シリーズは編集作業を全く行っていないため、 レコード盤の切れ目で曲が途切れます(1トラック= 盤の片面となります)。また、トラック間の空白は 統一されておらず、リードアウト部分の短い盤は、 終わりの部分のノイズが入る場合があります。一部の CDプレーヤーにおいて、ディスクの最終トラックの音楽が 終了した後で無音部分が終了する際に、デジタル信号が 切れることによるノイズが発生する場合がございます。 |
(2) |
機械式録音盤(電気式以前)の復刻アイテムには、 収録分数が3分弱〜15分程度(例:78CDR-3059; ロゼー) のものがあります。 |
(3) |
取引条件の関係から、このシリーズを1枚でご注文の 場合は価格が異なります。他の商品と併せてご注文でも、 当シリーズ以外との組み合わせの場合は1枚での ご注文価格となりますので、御了承下さい。 |
GOODIES "DIRECT TRANSFER" CD 2015年4月からリリース開始されたプレス盤が含まれる復刻を当欄(と元の品番の項目にも;後述)掲載。ただし、CD の品番は3000から振り直されており、CDR, DSD 盤とは異なっているため、ご注意の程お願い致します。なおCD盤の音質や復刻については『これまでのCD-Rの音質とはまた違った音質でお楽しみいただけます。尚、マスターは CD-R と同一で、再復刻は行っておりません〔カデンツァ注:一部プレス盤のみの追加曲あり〕。これまで同様にノイズはありますが、生々しい音質でお楽しみいただけます。』とアナウンスされています。 | ||
ミュンシュ 1949「幻想」、1946「ボレロ」 ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14 (*) ラヴェル:ボレロ(#) |
シャルル・ミュンシュ指揮 フランス国立放送o.(*)、 パリ音楽院o.(#) | |
録音:1949年9月9日、シャンゼリゼ劇場、パリ(*) /1946年10月10日、ウォルサムストウ・アセンブリー・ホール、ロンドン(#) 。仏 COLUMBIA LFX880-85 (*) /英 DECCA K1637-38 (#) 。 ご注意:ノイズカットや編集は一切行っていませんので、SP盤特有の針音等のノイズが入ります。盤面ごとのつなぎ編集も行っておりませんので、CD、CD-R、DVD-R 、すべての商品でSP盤1面(約5分)ごとに音楽再生が途切れます。# 先に発売されていた CD-R, DSD [DVD-R] 盤(品番:3164 (旧・1164), 3351)は1曲づつの収録で、2曲共収録されているのはプレス盤CD (78CD-3003) のみとなります。 『ベルリオーズは1950年フランス・ディスク大賞受賞レコード。数種類あるミュンシュの「幻想」の最初の録音。シャルル・ミュンシュ(1891-1968)はストラスブール生まれ。生家は音楽一家でアルバート・シュヴァイツァー(1875-1965)の甥にあたる。生地の音楽院でオルガンを学んだ後、パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1828)にヴァイオリンを学んだ。その後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)にも師事した。1926年ライプツィヒ音楽院の教授に就任。1928年-32年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ソロ第一ヴァイオリン奏者をつとめ、ブルーノ・ワルター(1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し、指揮法も身につけた。パリに戻って1935年にパリ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者としてデビュー。1938年にはエコル・ノルマルのヴァイオリン科教授に任命された。1938年にはパリ音楽院管弦楽団の指揮者に迎えられ、1939年には同音楽院の指揮科の教授に任命された。1949年にニューヨーク・フィルとさらにボストン交響楽団と全米ツアーをし、クーセヴィツキー(1874-1951)を継いでボストン交響楽団の正指揮者となり1962年までつとめた。これはボストンに出向く直前にパリで録音された貴重なSPレコード。ラヴェルは1946年パリ音楽院管弦楽団とのイギリス公演中の録音でミュンシュの英デッカへの初録音。英デッカのffrr録音が本格的に胎動しはじめた頃の素晴らしい録音で、パリ音楽院の名手たちのこぼれるばかりの妙技が聴ける。』 | ||
フルトヴェングラー 「悲愴」「黄昏〜葬送行進曲」、独盤 SP からの復刻 チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調Op.74「悲愴」(*) ワーグナー:「神々の黄昏」〜葬送行進曲(#) ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 BPO | ||
ソース:独 ELECTROLA DB 3328/32S (英 HMV DB 3328/32S と同一録音) (*) |独 POLYDOR 67054 (#) 。録音:1938年10月15日-27日、ベートーヴェンザール、ベルリン (*) /1933年、ベルリン高等音楽院(#)。
ご注意:ノイズカットや編集は一切行っていませんので、SP盤特有の針音等のノイズが入ります。盤面ごとのつなぎ編集も行っておりませんので、SP盤1面ごとに音楽再生が途切れます。#「神々の黄昏」〜葬送行進曲はプレス盤 78CD-3002 が初登場となる復刻で、CD-R, DSD [DVD-R] 盤へは収録されておりません。
テレビでも話題になった玉音放送の復刻を担当した新 忠篤氏の復刻音源シリーズから、プレスCD第3回発売! これまでの復刻からは聴けなかった鮮烈な演奏がよみがえる! 「悲愴」はヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)が残した唯一の正規録音。SPレコード録音が頂点に達した1930年代後半の録音である。テープ録音時代には聴き取れなくなったオーケストラ内声部の細かな動きが明瞭に聞こえるのはSP録音ならではのもの。これまでのSP復刻盤ではそれがノイズと共に消え去ってしまっていた。ベルリン・フィルがフルトヴェングラーの指揮のもとで巨大な怪物と化し、そのウネリが聴き手を恍惚の境地に導いてくれる。ワーグナーの「葬送行進曲」も同様である。フルトヴェングラーの指揮はこのシリーズで「英雄」(78CD-3000)と「運命」+「未完成」(78CD-3001)が出ている。 | ||
フルトヴェングラー 1937年「運命」&1950年「未完成」、独&墺盤 SP からの復刻 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」(*) シューベルト:交響曲第8番 ロ短調「未完成」(#) ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 BPO (*)、VPO (#) | ||
ソース:独 ELECTROLA DB 3328/32S (英 HMV DB 3328/32S と同一録音) (*) |墺 HMV DB 21131/3 (#) 。録音:1937年10月8日、11月3日、ベートーヴェンザール、ベルリン (*) /1950年1月19日-21日、ムジークフェライン大ホール、ウィーン(#)。 ご注意:ノイズカットや編集は一切行っていませんので、SP盤特有の針音等のノイズが入ります。盤面ごとのつなぎ編集も行っておりませんので、SP盤1面ごとに音楽再生が途切れます。#未完成はプレス盤 78CD-3001 が初登場となる復刻で、CD-R, DSD [DVD-R] 盤へは収録されておりません。 「運命」は大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)の英 HMV への初めての録音。録音はベルリンのベートーヴェンザールから電話線でエレクトローラの原盤カットルームに中継され、そこで原盤が作成された。フルトヴェングラーは 1926 年にもベルリン・フィルを指揮して独 GRAMMOPHON に同曲を録音していたが、音質に遜色があったブランズウィック社開発の光学式録音だったために早期に廃盤になっていた。「未完成」は第 2 次世界大戦後の1950 年にウィーン・フィルを指揮して HMV に録音したもの。録音方式は磁気テープ録音と思われる。SP レコード時代の最末期のものでたいへん珍しい。復刻に使用した原盤に起因する雑音が冒頭にある。 | ||
フルトヴェングラー&VPOの「英雄」1947〜 ベートーヴェン: 交響曲第3番 変ホ長調 Op.55「英雄」 |
ヴィルヘルム・ フルトヴェングラー指揮 VPO | |
ソース:英 HIS MASTER'S VOICE, DB 9266/9302。録音:1947年11月10日-12日、17日、ウィーン、ムジークフェライン、大ホール。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)はドイツの大指揮者。1937年ベートーヴェンの「運命」をBPOとHMVに録音したのに続き、この「英雄」はベートーヴェンの第二弾録音にあたる。オーケストラはウィーン・フィル。フルトヴェングラーは1952年11月に再度ウィーン・フィルと「英雄」を録音しているので、このSP録音はあまり知られていない。ムジークフェライン大ホールの残響はLP録音よりずっと美しい。これまでの復刻盤にはなかった低音部の動きにも耳を傾けていだきたい。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2020年リリース分 1月-12月 (末尾 785-820) | ||
アレクサンドル・モギレフスキー、東京録音 コレッリ/モギレフスキー新版:ヴァイオリン・ソナタ第12番 ニ短調「ラ・フォリア」 チャイコフスキー:カンツォネッタ(ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35 より第2楽章) アレクサンドル・モギレフスキー(Vn) ピアノ伴奏 | ||
録音:1937年頃、東京|日本コロムビア, JW 264/5 。アレクサンドル・モギレフスキー(1885-1953)はロシア〔現・ウクライナ〕のオデッサ生まれ。7歳でヴァイオリンを始めロストフの音楽学校で学んだ後、モスクワに出てチェコ出身のヤン・フジーマリー〔イヴァン・グルジマリ〕(1844-1915)に師事した。モスクワでは弦楽四重奏団を組織したり、教員生活を送った後、1922年パリに移住し、ヴァイオリン奏者で名弦楽四重奏団のリーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)とも親交をもった。ロシア系の豊麗な音色に加えてフランス風の洗練された独特の音色を身につけていた。1926年11月初来日、1930年に再度来日してから1953年に亡くなるまで演奏家として、また優れた教師として日本の音楽界に多大な貢献をした。このシリーズでモギレフスキーはヴェラチーニのヴァオリン・ソナタ第8番 ホ短調 Op.2 No.8、他 (78CDR-3471)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ワルター〜モーツァルト: 交響曲第40番 ト短調 K.550 |
ブルーノ・ワルター指揮 ベルリン国立歌劇場o. | |
録音:1929年|独 COLUMBIA, DWX 1326/28 。ブルーノ・ワルター(1876-1962)は生涯に交響曲第40番 K.550を3回正規録音したが、これは最初の物。このドイツ盤オリジナルSPレコードからの復刻は、ワルター・ファンに贈る最上のプレゼント。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
20世紀初頭に活躍した名歌手による〜夏のなごりのばら〔庭の千草〕 *マルセラ・ゼンブリッヒ(S)[ VICTOR, 88102 (U.S.) /録音:1907年10月9日、キャムデン(*) ] *ルイーザ・テトラツィーニ(S)[ VICTOR, 6343A (U.S.) /1911年3月15日、キャムデン(*) ] *グレーテ・シュトゥックゴルト(S)[ VOX, 02117B (Germany) Matrix: 1218A /録音:1920年代中頃] *アメリータ・ガリ=クルチ(S)[ VICTOR, VE 1001B (JP) /録音:1928年9月5日、N.Y. ] | ||
録音:[/内]。# (*):機械式録音盤〔電気式録音以前〕の復刻音源。「夏のなごりのばら〔庭の千草〕」はアイルランドの詩人トーマス・ムーア(1779-1852)がアイルランドの民謡に詩をつけて1805年に発表した。この美しいメロディはドイツの作曲家フリードリヒ・フォン・フロトー(1812-1883)の歌劇「マルタ」のアリアにとり入れれた他、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、パガニーニ等も編曲や変奏曲に使った。日本では1884年(明治17年)に文部省唱歌に選定された。翻案は里見義(さとみただし 1824-1886)。当初のタイトルは「菊」だったが、歌詞の冒頭の「庭の千草」がいつしか曲名になり、唱歌のひとつとして広く親しまれた。 マルセラ・ゼンブリッヒ(1858-1935)はポーランド生まれ。幼少の頃父親からヴァイオリンとピアノを学び、10歳でレンベルグ音楽院に入った。1877年オペラ・デビューをして、ヨーロッパ各地を回り、1883にアメリカに渡りメトロポリタン歌劇場にデビューした。1907年にVICTOR社で録音を始めた。この録音は彼女の最初期ものだが、録音時彼女は49歳だった。ルイーザ・テトラツィーニ(1871-1940)は国際的に名声を得たイタリアのソプラノ。フィレンツェに生まれ3歳から歌いはじめたと伝えられる。1890年フィレンツェでマイアベーアの歌劇「アフリカの女」のイネス役でオペラ・デビュー。その後ヨーロッパと南北アメリカで大成功し、レコードも1904年から1920年にかけて数多く吹き込まれた。すべて機械式録音。引退後は後進の指導にあたった。グレーテ・シュトゥックゴルト(1895-1977)はロンドン生まれ。1927年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場でワーグナーの歌劇「ニュルッンベルクのマイスタージンガー」のエヴァ役でデビューし、1929年にはベルリンでパウル・ヒデミット(1895-1963)の歌劇「今日のニュース」の初演で主役をつとめた。ドイツのVOXレコードは1921年にベルリンで設立された。1924-25年頃ウェスタン・エレクトリックとは別の方式の電気録音(おそらく米ブランズウィックの開発した"ライト・レイ" 式電気録音と思われる)を始めたと伝えられるが1926年に倒産した。これはそのライト・レイ式電気録音と思われる。アメリータ・ガリ=クルチ(1882-1963)はイタリアのミラノ生まれのコロラトゥーラ・ソプラノ。1906年トラーニで「リゴレット」のジルダ役でオペラ・デビュー。以降20世紀初頭の最も偉大な女声声楽家の一人に数えられている。ガリ=クルチは1917年の機械式録音でこの曲を録音していたが、これは電気録音初期の吹き込み直し盤。 | ||
ロセンタル〔ローゼンタール〕〜ショパン: ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11 |
マウリツィ・ロセンタル 〔モーリツ・ローゼンタール〕(P) フリーダー・ヴァイスマン指揮 交響楽団 | |
録音:1930年5月1日、11月26日、ベルリン|英 Parlophone, E 5307/9, E 15184/5 。 ピアノのモーリツ・ロゼンタール(1862-1946)はポーランドのリヴィウ生まれ。1872年にカロル・ミクリ(1821-1897)に師事した。ミクリはショパンの弟子で助手をつとめたピアニスト。1878年フェレンツ・リスト(1811-1886)の門下に入り欧州各地で演奏した。一時ウィーン大学の哲学科で学んだこともある。1888年にボストンでアメリカ・デビュー。1895年にライプツィヒ、ロンドンでも大成功を収めた。1926年から28年にはフィラデルフィアのカーティス音楽院で教鞭をとり、1939年からはニューヨークで自らのピアノ学校を開いて多くの弟子が居た。指揮者のフリーダー・ヴァイスマン(1893-1984)はパーロフォン/オデオン等のレコード会社やヨーロッパの名門オーケストラのハウスコンダクターを務めた人物。上記2回の録音日には音質の違いが聞き取れる。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ワルター& LSO 〜 ハイドン:交響曲第86番 ニ長調 |
ブルーノ・ワルター指揮 LSO | |
録音:1938年9月13日、アビー・ロード EMI 第1スタジオ、ロンドン|米 RCA VICTOR, 12461/3 (英 HMV, DB 3647/9 と同一録音)。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1894年ハンブルク歌劇場の指揮者だった時、音楽監督のグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い親交を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo. の楽長、音楽監督を歴任、またVPOやBPOも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツの併合されると迫害を避けてフランス、イギリスを経てアメリカに逃れた。この録音はイギリス滞在中に行われた物。評論家の宇野功芳氏はこの演奏を「 LSOの弦にウィーンのそれのような憧れを湛えた音色とレガートを求め、ダイナミズムの角をとって和やかで情緒的な雰囲気を醸成している」(音楽之友社刊「ブルーノ・ワルター-レコードによる演奏の歩み」から引用)と評している。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
20世紀初頭に活躍した名歌手による〜カミン・スルー・ザ・ライ〔ライ麦畑を通って/故郷の空〕 *ジェラルディン・ファーラー[ VICTOR, 87005 (U.S.) /録音:1907年2月19日、キャムデン] *メアリー・ガーデン[ COLUMBIA, A 1190 (U.S.) /録音:1912年5月17日] *ネリー・メルバ[ VICTOR, 88449 (U.S.) /録音:1913年10月4日] *アルマ・グルック[ VICTOR, 64422 (U.S.) /録音:1914年3月9日、キャムデン] *マリオン・タリー(ボーナス)[ VICTOR, 1146B (U.S.) /録音:1926年2月2日、電気収録] | ||
録音:[/内]。#ボーナスを除き、機械式録音盤〔電気式録音以前〕の復刻音源。「カミン・スルー・ザ・ライ〔ライ麦畑を通って〕」はスコットランドの詩人ロバート・バーンズ(1759-1796)が詞を書き、スコットランド民謡の曲にあてられた。日本では1888年(明治21年)文部省唱歌に選定され、日本語タイトルは「故郷の空」(作詞:大和田健樹 1857-1910)になった。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ハイフェッツ〜ブルッフ: スコットランド幻想曲 Op.46 |
ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn) ウィリアム・スタインバーグ指揮 RCA ビクターo. スタンリー・チャルプカ(Hp) | |
録音:1947年9月12日、ニューヨーク|米 RCA VICTOR, 12-0011/3 。#第4面(トラック4)に盤面キズ起因のノイズが入ります。ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)はロシア生まれのアメリカのヴァイオリニスト。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1939)に師事し10歳でデビューした。1917年16歳の時にロシア革命を逃れ一家はシベリア経由でアメリカに移住した。その途中で日本に立ち寄ったと伝えられる。アメリカ移住後少年ハイフェッツは一流演奏家として待遇された。その後青年期、壮年期から引退するまで世界最高のヴァイオリニストとして崇められた。ハイフェッツは生涯に2度「スコットランド幻想曲」を録音しているが、これは第1回目の物。指揮者のウィリアム・スタインバーグ(1899-1978)はドイツ生まれのユダヤ系指揮者。1933年ナチスによりフランクフルト歌劇場から追われ、1936年にパレスチナに移住、パレスチナso.(現イスラエル・フィル)の指揮者になった。大戦後はアメリカで活躍し、ピッツバーグso.、ボストンso.の音楽監督をつとめた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ワルター& VPO 〜シューベルト: 交響曲第8番 ロ短調 D.759「未完成」 |
ブルーノ・ワルター指揮 VPO | |
録音:1935年5月19日、21日、ムジークフェライン大ホール、ウィーン|日本コロムビア, J 8642/4 (英 HMV, DB 2937/9 と同一録音)。 ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1894年ハンブルク歌劇場の指揮者だった時、音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い親交を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.の楽長、音楽監督を歴任、またVPOやBPOも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、イギリスを経てアメリカに逃れた。この録音はワルターがウィーンを去る3年前の物。HMV録音だが、日本では日本コロムビアが発売権を得ていた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
「セントルイス・ブルース」(W.C.ハンディ)) Vol.3 〜 1944-58 *ロイ・エルドリッジと彼のトランペット・アンサンブル [ KEYNOTE, 607 (U.S.) 78rpm /録音:1944年1月24日、 N.Y. ] *ジョニー・マーサー&パイド・パイパーズ(Vo) ポール・ウェストン楽団 [ CAPITOL, 10062 (U.S.) 78rpm /録音:1946年] *ジャック・ティーガーデンのビッグ・エイト[ RCA VICTOR, 202458 (U.S.) 78rpm /録音:1947年3月14日] *バークレイ・アレンとリズム・フォー[ CAPITOL, 15107 (U.S.) 78rpm /録音:1947年] *ダニー・ケイ(Vo)&ヴィック・シェーン楽団[ DECCA, 24401 (U.S.) 78rpm /録音:1947年12月10日] *テックス・ベネキー楽団[ RCA VICTOR, 202722 (U.S.) 78rpm /録音:1947年12月23日] *ジーン・クルーパ・トリオ[ MERCURY, 8983 (U.S.) 78rpm /録音:1952年3月19日] *ジェイムズ・ムーディ楽団[ MERCURY, 16015 (U.S.) 78rpm /録音:1952年6月6日、 N.Y. ] *ペレス・プラド楽団[ RCA VICTOR, 205820 (U.S.) 78rpm /録音:1954年4月1日] *ナット・キング・コール(Vo) ネルソン・リドル楽団[ CAPITOL, EAP-1-993 45rpm /録音:1958年 LA ] | ||
録音:[/内]。2017年10月に第1集、2019年10月に第2集が出たこのシリーズの第3集で1944年から1958年録音の「セントルイス・ブルース」を10曲選んで収録した。 | ||
グレインジャー〜ショパン: ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 Op.58 |
パーシー・グレインジャー(P) | |
録音:1925年6月10日-11日、ロンドン|英 COLUMBIA, L 1695/7 (英 COLUMBIAの "L" シリーズで発売された最初の電気録音)。パーシー・グレインジャー(1882-1961)はオーストラリア生まれのピアニストで作曲家。1892年7月、10歳の時首都メルボルンで演奏会を開いた。1895年5月(13歳)の時に母親と共にドイツのフランクフルトに行き、ピアノと作曲を学んだ。1901年19歳のときロンドンに行き才能が開花した。1907年にはノルウェーの作曲家グリーク(1943-1909)と交友を持った。グリークの指揮グレインジャーのピアノでグリーグのピアノ協奏曲のツアーを計画したがグリーグの死で実現しなかった。1918年アメリカの市民権を得て、1932年からニューヨーク大学の音楽学部長つとめ、1938年にグレインジャー博物館が開館した。晩年エレクトリック・シンセサイザーの開発にも手をそめた。これはおそらくこの曲の世界初録音。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
カザルス&ホルショフスキ〜ベートーヴェン: チェロ・ソナタ第4番 ハ長調 Op.102 No.1 |
パブロ・カザルス(Vc) ミェチスワフ・ ホルショフスキ(P) | |
録音:1936年11月28日、 EMI スタジオ、ロンドン|豪 HMV, DB 3065/6 。 パブロ・カザルス(1876-1973)はスペインのカタルーニャ地方の町エル・ペドレル生まれたチェロ奏者。バルセロナ音楽院でチェロ、ピアノ、楽理、作曲を学んだ。1890年バルセロナでバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会った。1899年23歳でパリにデビュー、1902年ピアノのコルトー、ヴァイオリンのティボーとトリオを結成、1904年にバッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏した。1908年ラムルーo. で指揮者デビューした。レコード録音は機械式録音時代の1915年から始め、バッハの無伴奏チェロ組曲第3番から4曲、「G線上のアリア」ほか小品を18面録音した。ピアノのミェチスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)はポーランド出身。99歳までステージに立った伝説のピアニスト。カザルスの第1回目のベートーヴェン:チェロ・ソナタ全集では第3番以外のピアニストを務めた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
E.クライバー〜ベートーヴェン: 交響曲第2番 ニ長調 Op.36 |
エーリヒ・クライバー指揮 ベルリン国立歌劇場o. | |
録音:1929年5月|独 POLYDOR, 66905/8 。#トラック1途中にキズ、トラック6途中にボコ・ノイズと音崩れがあります。エーリヒ・クライバー(1890-1956)はウィーン出身の20世紀前半を代表する指揮の一人。指揮者のカルロス・クライバー(1930-2004)は息子。プラハ・カレル大学で歴史と哲学を学んだが、一方で指揮者への道を目指すようになった。プラハ音楽院で指揮法を学び1911年に指揮者デビュー。1923年にレオ・ブレッヒ(1871-1958)の後任としてベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任した。ナチスの台頭でベルリンの職を辞し、1935年に妻と当時5歳のカルロスらとアルゼンチンに移住した。1939年に市民権を得て、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンの首席指揮者に就任した。大戦後ヨーロッパに戻り、イギリス・デッカ社の専属になり各地の客演指揮者として活躍した。クライバーはこのシリーズでベートーヴェン:「田園」(1948年ロンドン響) (78CDR-3686)とチャイコフスキー:第4番(1949年パリ音楽院管)(78CDR-3518)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ハイフェッツ + バルビローリ& LPO /他 ヴィエニャフスキ: ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ短調 Op.22 (*) フンメル/ハイフェッツ編曲: ロンド 変ホ長調 Op.11 (#) |
ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn) ジョン・バルビローリ指揮(*) LPO (*) アールパード・ シャーンドル(P;#) | |
録音:1938年3月18日、ロンドン|英 HMV, DB 2447/9 。ヴィエニャフスキはポーランド出身のヴァイオリニスト。8歳でパリ音楽院に入り13歳で演奏家としたデビューした。ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)はロシア生まれのアメリカのヴァイオリニスト。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1939)に師事し10歳でデビューした。1917年16歳の時にロシア革命を逃れ一家はシベリア経由でアメリカに移住した。その途中で日本に立ち寄ったと伝えられる。移住後少年ハイフェッツは一流演奏家として待遇された。その後青年期、壮年期から引退するまで世界最高のヴァイオリン奏者として崇められた。指揮者のジョン・バルビローリ(1899-1970)はイギリス生まれ、1936年からNYPハーモニーso. の指揮者をつとめた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ヴァインガルトナー& RPO 〜 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」 |
フェリックス・ ヴァインガルトナー指揮 ロイヤルpo. | |
録音:1927年1月28日-29日、ロンドン|英 COLUMBIA, L 1880/3 。フェリックス・フェリクス・ヴァインガルトナー(1863-1942)はオーストリアの大指揮者。ライプツィヒ大学で哲学を専攻するが、音楽への魅力に惹かれグラーツ、ライプツィヒ、ヴァイマルの各音楽院で学んだ。1855年からドイツ各地の歌劇場を転々としたが、1908年にマーラーの後任としてウィーン宮廷歌劇場とVPOの音楽監督に就任した。ヴァインガルトナーは1924年のラッパ吹き込みを含めて生涯4回「運命」交響曲を録音したが、これは1927年の第2回目の録音。1927年はベートーヴェン没後100年記念だった。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
20世紀初頭に活躍した名歌手による〜フォスター:故郷の人々〔スワニー川〕 *ネリー・メルバ[ランドン・ロナルド(P)|英 HMV, DA 337 /録音:1905年9月4日] *エマ・カルヴェ[米 VICTOR, 88089 /録音:1907年4月22日] *アリス・ニルセン[米 COLUMBIA, D 17705 /録音:1910年11月22日] *アルマ・グルック[エフレム・ジンバリスト(Vn)|米 VICTOR, 87514 /録音:1914年11月15日] *エルネスティーネ・シューマン=ハインク[米 VICTOR, 6277 /録音:1918年7月29日、キャムデン] *クララ・バット[英 COLUMBIA, 7170 /録音:1917年] *ローザ・ポンセル[日本コロムビア, J 7002 〔米 COLUMBIA, 499934 と同一録音〕/録音:1921年頃] | ||
録音:[/内]。#機械式録音盤〔電気式録音以前〕の復刻音源。 この曲は1851年に楽譜が出版された。旅芸人一座のクリスティ・ミンストレルズが演奏するために書かれたもので、作曲者のフォスターは15ドルの著作権料を受け取って売り渡したと伝えられる。だが楽譜は大ヒットし、多くの著名歌手が歌い録音を残した。その一部をここに集めた。 ネリー・メルバ(1861-1931)はオーストラリア生まれ。ヨーロッパに渡り成功を収め、その後ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも大成功を収めた。録音された1905年は明治38年で日露戦争の年だった。エマ・カルヴェ(1858-1942)はフランス生まれのソプラノ歌手。1893年からニューヨークのメトロポリタン歌劇場に出ていた。アリス・ニルセン(1872-1943)はブロードウェイ・ミュージカルの大スター。自らのオペラ団を持っていた。アルマ・グルック(1884-1938)はルーマニア出身のソプラノ。ドイツで活躍した後アメリカに移住、成功をとげた。名ヴァイオリニストのエフレム・ジンバリストと結婚した。息子に俳優のエフレム・ジンバリスト・ジュニア、孫に女優のステファニー・ジンバリストがいる。これは夫君ジンバリストのヴァイオリン助奏付き(ドヴォルジャークのユモレスク)。エルネスティーネ・シューマン=ハインク(1861-1936)はプラハ近郊の小都市リーベンの生まれ。1877年グラーツでデビュー。その後ドイツ、英国、ニューヨークの歌劇場で大活躍。1921年(大正10年)に来日し、帝国劇場でリサイタルを開いた。クララ・バット(1872-1936)は英国のコントラルト歌手。1931年(昭和6年) 2月に来日し、コロムビアに北原白秋作詞、山田耕筰作曲の「チンコロ子犬」(J4008)を録音した。デイムの称号を持つ。ローザ・ポンセル(1897-1981)はアメリカのソプラノ。1920年代から30年代にかけてニューヨークのメトロポリタン歌劇場を中心に活躍した。アメリカの生んだ最も偉大なソプラノの一人。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
モーリス・マレシャル ルイ・ド・ケ=デルヴロワ/ド・ベロン編曲: チェロとピアノための組曲 C.P.E.バッハ: チェロ協奏曲第3番 イ長調 Wq.172 〜 Largo mesto |
モーリス・マレシャル(Vc) ジャン・ドワイヤン(P) | |
録音:1929年頃|仏 COLUMBIA D.15221/2 。ルイ・ド・ケ=デルヴロワは18世紀フランスのヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オルレアン公の宮廷音楽家として活躍した。チェロのモーリス・マレシャル(1892-1964)はフランスの名チェリスト。1911年にパリ音楽院を一等賞で卒業し、第1次世界大戦(1914-1918)に従軍。戦後の1919年にコンセール・ラムルーでソリストとしてデビューした。以来世界中を楽旅し日本にも来訪した。日本コロムビアでの録音もある。ピアノのジャン・ドワイヤン(1907-1982)はパリ音楽院でマルグリット・ロン(1874-1966)に師事し、1922年に一等賞を得て卒業した。1941年に師のロンの後任としてパリ音楽院教授をつとめ1977年に退任した。レコード録音も多い。妹のジネット・ドワイヤン(1921-2002)もピアニストで夫君のジャン・フルニエ(1911-2003)はヴァイオリン奏者で名チェリストのピエール・フルニエ(1906-1986)の実弟。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ナイ三重奏団〜ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 〔第5番 ニ長調 Op.70 No.1「幽霊」/ 第3番 ハ短調 Op.1 No.3 〜メヌエット〕 |
エリー・ナイ三重奏団 [エリー・ナイ(P) マックス・シュトループ(Vn) ルートヴィヒ・ヘルシャー(Vc)] | |
録音:1938年、ベルリン|英 HMV DB 4587/90 。エリー・ナイ(1882-1968)、マックス・シュトループ(1900-1966)、ルートヴィヒ・ヘルシャー(1907-1996)はナチス・ドイツの時代に活躍した非ユダヤ系の奏者による三重奏団。三重奏団は1936年頃結成された。このシリーズでエリー・ナイとルートヴィヒ・ヘルシャーによるシューベルト:アルペジオーネ・ソナタ(78CDR-3653)とマックス・シュトループのベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(カール・ベーム指揮) (78CDR-3125) が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
フルトヴェングラー〜モーツァルト: セレナード第10番 変ロ長調 K.361 (370a) 「グラン・パルティータ」 |
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 VPO 管楽器ソリストたち | |
録音:1947年11月10日、19日、26日、12月3日、ブラームスザール、ムジークフェライン、ウィーン| 英 HMV DB 6707/11 。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)はドイツの大指揮者。これはフルトヴェングラー指揮のベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」(HMV DB6741/7、復刻78CDR-3369)と同時期に録音された。それは原盤番号が「英雄」と入り組んでいるからだ。録音場所のブラームスザールはムジークフェラインの中にある室内楽用の小ホール。「英雄」の録音中に13人の管楽器奏者をここに移動させて録音したものと推測する。78CDR-3369「英雄」のカードに記載の原盤番号と比較参照されたい。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
パニッツァ〜メンデルスゾーン: 交響曲第4番 イ長調 Op.90「イタリア」/ 「真夏の夜の夢」〜結婚行進曲 |
エットーレ・パニッツァ指揮 ミラノ・スカラ座o. | |
録音:1930年12月-1931年1月|カナダ VICTOR 36279/82 (伊 LA VOCE DEL PADRONE AW265/68 と同一録音)。
エットーレ・パニッツァ(1875-1967)はアリゼンチン生まれのイタリアの指揮者、作曲家。イタリア系移民の両親のもとブエノス・アイレスに生まれた。父親がテアトロ・コロンのチェリストで、幼少から音楽教育を受けて育った。その後、両親の祖国イタリアに渡り、ミラノのジュゼッペ・ヴェルディ音楽院でピアノ、作曲、指揮法を学んだ。卒業後1897年にローマ歌劇場で指揮者デビュー。イタリア各地の歌劇場で活動後、1907年にはロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスにデビューし、1914年までイタリア・オペラの指揮をした。さらにニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも名声を確立した。1908年にはミラノ・スカラ座でデビュー。トゥリオ・セラフィン(1878-1968)やアルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)と並ぶ名声をはくした。1930年代にメトロポリタン歌劇場、ライヴ録音が数多く残されている。パニッツァの交響曲録音は大変少ないのが不思議だ。
復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。
#2020年6月下旬発売予定。当レーベルの既出商品とともにご注文の場合、分送となる可能性があります。 | ||
ヨハネス・シューラー〜シューベルト: 交響曲第7番(第8番) ロ短調 D.759 「未完成」 |
ヨハネス・シューラー指揮 BPO | |
録音:1941年6月12日、ベルリン|独 IMPERIAL 014042/4 。ヨハネス・シューラー(1894-1966)はドイツの指揮者。ノイマルク地方のヴェッズ(現在ポーランドのウィトニカ)の生まれ。ベルリン高等音楽院卒業後、グライヴェッツ、ケーニヒスベルク、ハノーファー市立歌劇場で修行を重ね、1932年オルテンブルク歌劇場の音楽監督になった。さらに1933年からエッセン歌劇場の指揮となり、1936年から1949年までベルリン国立歌劇場の指揮者をつとめた。その後ハノーファー市立歌劇場の音楽監督になった。レコード録音が少ないので今日殆ど知られていないが、第2次世界大戦中の放送録音の復刻CDに名前を見ることができる。 IMPERIAL レコードはドイツとデンマークで販売されていたマイナー・レーベル。
復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。
#2020年6月下旬発売予定。当レーベルの既出商品とともにご注文の場合、分送となる可能性があります。 | ||
ワルター〜マーラー:交響曲第4番 ト長調 | デジ・ハルバン(S) ブルーノ・ワルター指揮 NYP | |
録音:1945年5月10日、ニューヨーク|英 COLUMBIA LX 949/54 (米 COLUMBIA 11213/8D と同一録音)。
ソプラノのデジレ・ハルバン(1912-1996)はウィーン生まれ。母親はラッパ吹き込みのSPレコードに150枚を越える録音を残した名ソプラノ、ゼルマ・クルツ(1874-1933)。父親はウィーン大学医学部教授のヨゼフ・ハルバンブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1894年ハンブルク歌劇場の指揮者だった時、音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い親交を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo. などの楽長、音楽監督を歴任、またVPOやBPOも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると、迫害を避けてアメリカに逃れた。この録音は日米戦争終戦の直前の5月に行われた。
復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。
#2020年6月下旬発売予定。当レーベルの既出商品とともにご注文の場合、分送となる可能性があります。 | ||
エレナ・ゲルハルト〜 AEORIAN VOCALION 全録音集 死とおとめ(シューベルト)/待ちながら(グリーグ)/「ミルテの花」〜くるみの木(シューマン)/ セレナード(R.シュトラウス)/魔王(シューベルト)/野の寂しさ(ブラームス)/音楽に寄す(シューベルト) サッフォー頌歌(ブラームス)/あすの朝(R.シュトラウス)/ミューズの子(シューベルト)/ 甲斐なきセレナード(ブラームス)/チェチーリエ(R.シュトラウス) エレナ・ゲルハルト(Ms) アイヴァー・ニュートン、ハロルド・クラクストン(P) | ||
録音:1923年3月23日、1924年5月29日、ともにロンドン|アナウンスにソース記載無し|#機械式録音盤(電気式録音以前)の復刻音源|#尚、「音楽に寄す」〜「チェチーリエ」に入っている雑音は録音に使用された電気モーターの回転音と思われる。 大リート歌手エレナ・ゲルハルト(1883-1961)が英国エオリアン・ヴォカリオンに録音した全曲を集めた。録音時は電気録音が始まる直前の時期。ゲルハルトは1902年ライプツィヒ音楽院の学生の時、学長に就任したアルトゥール・ニキシュ(1855-1922)が彼女がライプツィヒの公衆の前で歌うことを特別に認めた。1903年音楽院を卒業すると多くの演奏会契約が待っていた。レコード録音はニキシュのピアノで1907年から始まった。ゲルハルトはこのシリーズで、ブラームス、シューベルト、ヴォルフを歌う(78CDR-3496)、シューベルト「冬の旅」(抜粋) (78CDR-3566) 、シューマン「女の愛と生涯」(78CDR-3631)、シューベルト:リサイタル(78CDR-3642)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
モイーズ親子〜ドップラー: ハンガリー田園幻想曲 Op.26 |
マルセル・モイーズ(Fl) ルイ・モイーズ(P) | |
録音:1934年5月24日、ロンドン|日 COLUMBIA J 2575/6 (英 COLUMBIA DB 1630/31 と同一録音)。マルセル・モイーズ(1889-1984)はフランスのフルート奏者。14歳でパリ音楽院に入りポール・タファネルのクラスで学び3年後に一等賞を得てデビュー・リイタルを開いた。その後も師のタファネルとフィリップ・ゴーベール(1879-1941)に師事して研鑽を積んだ。1932年から1940年までパリ音楽院教授、1946年から48年までジュネーヴ音楽院での教授をつとめた。戦後、日本でも教育を行った。ピアノのルイ・モイーズ(1912-2007)はマルセルの息子でパリ音楽院で父にフルートを師事した。ピアニスト、作曲家でもある。ドップラー(1821-1883)はフルート曲で有名なハンガリーの作曲家。18歳でブダペスト歌劇場の首席フルート奏者になり、後にウィーン音楽院の教授もつとめた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ワルター〜ハイドン: 交響曲第96番 ニ長調「奇跡」 |
ブルーノ・ワルター指揮 VPO | |
録音:1937年5月5日、ムジークフェライン、ウィーン|米 RCA VICTOR 13856/8 (英 HMV DB 3282/4 と同一録音)。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1894年ハンブルク歌劇場の指揮者だった時、音楽監督のグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い親交を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo. などの楽長、音楽監督を歴任、またVPOやBPOも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると、迫害を避けてアメリカに逃れた。この録音はウィーン・ムジークフェラインの美しい残響をを伴ったオーケストラの音色が楽しめる。ワルターとVPOの演奏はこのシリーズでハイドン:「軍隊」(78CDR-3554)、モーツァルト:「ジュピター」(78CDR-3611)、ベートーヴェン:「田園」(78CDR-3371)、ブラームス:交響曲第3番(78CDR-3733)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ホーレンシュタイン& BPO 〜 ハイドン:交響曲第94番 ト長調「驚愕」 |
ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮 BPO | |
録音:1929年、シューマンザール、ベルリン。|日 POLYDOR 40435/7 (独 POLYDOR 66914/6 と同一録音)|#原録音に電気系ノイズが全体に入っています。ヤッシャ・ホーレンシュタイン(1898-1973) はキーウ〔キエフ〕生まれ。13歳の時家族と共にウィーンに移り、同地で指揮者・作曲家のフランツ・シュレーカー(1878-1934)に師事した。その後ベルリンに移りヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)の助手になった。これはこの指揮者の最初期の録音。1940年にナチスの迫害を避けてアメリカに移住し国籍を得た。LPの初期に多くの録音を米VOXに残している。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
リリー・クラウス〜シューベルト: ピアノ・ソナタ第14番 イ短調 Op.143, D.784 / レントラー Op.18, D.145 |
リリー・クラウス(P) | |
録音:1937年11月23日| PARLOPHONE 20388/90 (U.K.) 。リリー・クラウス(1905-1986)はハンガリー生まれの女流ピアニスト。17歳でブダペスト音楽院に入り、ベラ・バルトーク(1881-1945)、ゾルタン・コダーイ(1882-1967)らに師事した。1922年ウィーンに赴きウィーン音楽アカデミーでアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)やエドゥアルト・シュトイアーマン(1892-1964)についてさらに研鑽を積んだ。1930年代からモーツァルトやベートーヴェンの演奏家として名声をあげ、ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)と共演して各国で評判をとった。戦後はイギリス国籍を取得し、その後アメリカで活躍した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
プロコフィエフ自作自演 ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.26 |
セルゲイ・プロコフィエフ(P) ピエロ・コッポラ指揮 LSO | |
録音:1932年6月28日、アビー・ロード EMI 第1スタジオ、ロンドン|英 HMV DB 1725/7 。プロコフィエフは1891年、帝政ロシア時代のウクライナに生まれ、13歳でサンクトペテルブク音楽院に入り作曲・ピアノを学んだ。1918年ロシア革命を機にシベリア鉄道に乗り日本経由でアメリカに行き、その後西ヨーロッパで活躍し1933年に祖国に復帰した。この録音は西欧滞在時代の最後の頃にロンドンで行われた。作曲者自身のピアノが聴ける貴重な録音。この曲の第3楽章に作曲者が日本で聴いた「越後獅子」の旋律が出てくるのは興味深い。指揮者のピエロ・コッポラ(1888-1971)はミラノ生まれ。HMV系列の仏GRAMOPHONE社の専属指揮者をつとめ、多くの世界初録音の指揮をした。なお原盤番号の末尾の卍印は新たに EMI 社の技術者ブルムレインが開発したMC型カッターを使用した記号。後に□になる。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
コッポラ〜ショーソン: 交響曲 変ロ長調 Op.20 |
ピエロ・コッポラ指揮 パリ音楽院o. | |
録音:1934年12月3日、5日、パリ|仏 DISQUE GRAMOPHONE DB 4953/6 |当曲の世界初録音。ピエロ・コッポラ(1888-1971)はミラノ生まれ。生地の音楽院でピアノと作曲を学んだ後スカラ座で指揮者としてデビューした。1912年から翌年までブリュッセルのモネ劇場の指揮者をつとめ、1914年にはロンドン、1915年から19年までスカンジナヴィアを転々とした後、パリのDISQUEGRAMOPHONE専属指揮者として活躍した。1930年にはサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」の世界初録音を行った(78CDR-3109)。復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ユリア・クルプ〜 シューマン:歌曲集「女の愛と生涯」 |
ユリア・クルプ(Ms) オットー・バーケ(P) | |
録音:1910年7月1日|ニッチク S-9007/10 (独 ODEON xB 4983/90 と同一録音)|この曲集の世界初録音|#機械式録音(電気式録音以前)の復刻音源。ユリア・クルプ(1880-1970)はオランダのフローニンヘン生まれ。1896年アムステルダム音楽院に入りコルネリ・ファン・ツァンデンに師事した。クルプはリートを専門にした最初の歌手とされている。この原盤SPは第2次世界大戦中に日本蓄音機商会(日本コロムビア)から発売された。この大歌手の初録音でもある。原盤は海軍の伊号潜水艦でドイツから運ばれて来たと伝えられる。SP盤には75ページの豪華解説書(野村あらえびす、中村善吉、青木謙幸他)がついていた。復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ハイフェッツ&バルビローリ〜 ヴュータン:ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ短調 Op.31 |
ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn) ジョン・バルビローリ指揮 LPO | |
録音:1935年3月、ロンドン|米 VICTOR 9813/5 (英 HMV DB 2444/6と同一録音)。ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)はロシア生まれのアメリカのヴァイオリニスト。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1939)に師事し10歳でデビューした。1917年16歳の時にロシア革命を逃れ一家はシベリア経由でアメリカに移住した。その途中日本に立ち寄ったと伝えられる。移住後少年ハイフェッツは一流演奏家として待遇された。その後青年期、壮年期から引退するまで世界最高のヴァイオリン奏者として崇められた。指揮者のジョン・バルビローリ(1899-1970)はイギリス生まれ、1936年から43年にニューヨーク・フィルハーモニック響の首席指揮者をつとめた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ゼルキン&ブッシュSQ 〜ブラームス:ピアノ四重奏曲第2番 イ長調 Op.26
ルドルフ・ゼルキン(P) ブッシュSQ 団員 [アドルフ・ブッシュ(Vn) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)] | ||
録音:1932年9月21日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン|英 HMV DB 1849/52 。ブッシュ弦楽四重奏団は1913年リーダーのアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によってドイツで結成され1939年からアメリカで活動したが1952年にブッシュの死によって消滅した。ピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)は1922年からアドルフ・ブッシュとデュオを組んで活躍し、1935年にブッシュの娘イレーネと結婚した。ゼルキンはナチスのユダヤ人迫害を避けアメリカに移住した。このシリーズで1942年のアメリカ録音、シューマンピアノ五重奏曲(78CDR-3305)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
E.フィッシャー〜シューベルト: 幻想曲 ハ長調 Op.15, D.760「さすらい人」 |
エトヴィン・フィッシャー(P) | |
録音:1934年5月22日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン|英 HMV DB 2276/8 。エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイス生まれ。主にドイツで活躍したピアニスト、指揮者で教育者でもあった。ベルリンでリストの最後の弟子だったマルティン・クラウゼ(1853-1918)に師事した。1933年にEMIのアーティストとなり、J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」全曲(78CDR-1142/6)の世界初録音を行った。1942年にスイスに戻った。フィッシャーはこのシリーズで多数出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
コッポラ〜シューマン: 交響曲第3番 変ホ長調 Op.97「ライン」 |
ピエロ・コッポラ指揮 パリ音楽院o. | |
録音:1933年11月7日-8日、パリ|仏 DISQUE GRAMOPHONE DB 4936/6 |当曲の世界初録音。ピエロ・コッポラ(1888-1971)はミラノ生まれ。生地の音楽院でピアノと作曲をんだ後、スカラ座で指揮者としてデビューした。1921年から翌年までブリュッセルのモネ劇場の指揮者を務め、1914年にはロンドン、1915年から19年までスカンジナヴィアを転々とした後パリのDISQUES GRAMOPHONE社専属指揮者になり活躍した。1930年にはサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」の世界初録音を行った(78CDR-3110)。さらにこの「ライン」もこの曲の世界初録音であった。復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
シュナーベル〜モーツァルト: ピアノ・ソナタ第8番 イ短調 K.310 |
アルトゥール・シュナーベル(P) | |
録音:1939年1月27日、 EMI アビー・ロード第3スタジオ、ロンドン|豪 HMV ED 274/6 (英 HMV DB 3778/80 と同一録音)。 アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はポーランドのリプニク(旧オーストリア領)に生まれた。1889年7歳でウィーン音楽院に入り、1891年から1897年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1915)に師事した。1901年にベルリンにデビュー、1933年までこの地を本拠にした。その間演奏活動の傍らベルリン高等音楽院で教えた。その後1932年から34年にはロンドンに居を構え、世界初のベートーヴェンピアノ・ソナタ全集やピアノ協奏曲全集をHMVに録音した。その後ナチスの台頭でスイスに移り、1939年にアメリカに渡った。戦後はスイスに戻って演奏会や録音に活躍した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
E.フィッシャー〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K.453 |
エトヴィン・ フィッシャー(P)指揮 フィッシャー室内o. | |
録音:1937年5月7日、ベルリン|英 HMV DB 3362/64 。エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイス生まれ。主にドイツで活躍したピアニスト、指揮者で教育者でもあった。ベルリンでリストの最後の弟子だったマルティン・クラウゼ(1853-1918)に師事した。1933年にEMIのアーティストとなり、J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」全曲(78CDR-1142/6)の世界初録音を行った。フィッシャーは協奏曲の録音で独奏と同時に指揮をする「弾き振り」の演奏法を現代に復活させた。このシリーズでモーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 K.466やハイドン:ピアノ協奏曲 ニ長調 Op.21 (78CDR-3129)が「弾き振り」で聴ける。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
マイロヴィッツ&パリ響〜 ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14 |
ゼルマー・マイロヴィッツ指揮 パリso. | |
録音:1934年3月14日、16日、21日、パリ| 英 COLUMBIA LX-372/7 (仏 PATHE PDT-10/15と同一録音)。ゼルマー・マイロヴィッツ(1875-1941)はライプツィヒ音楽院でカール・ライネッケ(1824-1910)とザーロモン・ヤダスゾーン(1831-1902)に学び、その後ベルリンでマックス・ブルッフ(1838-1920)に3年間師事した。その間に指揮者のフェリックス・モットル(1856-1911)に認められ1897年カールスルーエ歌劇場でアシスタントとして抜擢され、1900年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場に同行した。アメリカ滞在中にソプラノのヨハンナ・ガドスキ(1872-1932)の伴奏指揮者をつとめた。1905年にヨーロッパに戻りプラハ国立歌劇場から始まりいくもの著名なオペラ劇場で指揮棒をとった。やがてベルリンに定住しBPOやブリュットナー歌劇場で指揮者をつとめた(1918-1923)。1933年にナチスの台頭でパリに逃れ、余生をその地で送った。1937年クルト・ヴァイルの「三文オペラ」のフランス初演の指揮をした。またラッパ吹き込み時代からレコード録音を多数手掛けた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2019年リリース分 1月-12月 (末尾 749-784) | ||
A.ブッシュ〜J.S.バッハ: 管弦楽組曲 Vol.2 〔第3番 ニ長調 BWV.1068 /第4番 ニ長調 BWV.1069 〕 アドルフ・ブッシュ指揮ブッシュ室内合奏団 | ||
録音:1936年10月27日-28日、 EMI アビー・ロード第2スタジオ、ロンドン|英 HMV DB 3018/22 。 | ||
A.ブッシュ〜J.S.バッハ: 管弦楽組曲 Vol.1 〔第1番 ハ長調 BWV.1066 /第2番 ロ短調 BWV.1067 (#) 〕 マルセル・モイーズ(Fl;#) アドルフ・ブッシュ指揮ブッシュ室内合奏団 | ||
録音:1936年10月27日-28日、 EMI アビー・ロード第2スタジオ、ロンドン|英 HMV DB 3012/17 。 アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの名ヴァイオリニスト。自らの弦楽四重奏団のリーダーとして活躍する一方、ピアノのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍した。マルセル・モイーズ(1889-1984)はフランスのフルート奏者。以上2点は、前年の1935年に英COLUMBIAに録音されたバッハのブランデンブルグ協奏曲(78CDR-3758/78CDR-3759)に続くブッシュ室内o. のバッハ・シリーズで、英HMVに録音された。驚くことに全曲すべてテイク1 (一回の演奏でOKを出している)で完結している。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
コッポラ〜シューマン: 交響曲第1番 変ホ長調 Op.38「春」 |
ピエロ・コッポラ指揮 ナショナルso. | |
録音:1946年7月11日-12日、キングズウェイ・ホール、ロンドン|仏 DECCA GAG 2151/4 (英 DECCA AK 2151/4と同一録音) #トラック 7 & 8 終結部に原盤オフセンター(中心ズレ)起因の音揺れあり。ピエロ・コッポラ(1888-1971)はミラノ生まれ。生地の音楽院でピアノと作曲を学んだ後、スカラ座で指揮者としてデビューした。1912年から翌年までブリュッセルのモネ劇場の指揮者を務め、1914年にはロンドン、1915年から1919年までスカジナヴィアを転々とした後パリのDISQUE GRAMOPHONE社専属指揮者を務め、主として協奏曲の録音で活躍した。1930年にはサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」の世界初録音を行った(78CDR-3110)。また大歌手フェオドール・シャリアピン(1873-1938)のアメリカ公演に乞われて随行したこともある。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
アムステルダム弦楽四重奏団 スメタナ:弦楽四重奏曲第1番 ホ短調「わが生涯より」 ショタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 Op.49 〜第3楽章 アムステルダムSQ [ナップ・デ・クライン(Vn1) ディック・フォス(Vn2) パウル・ゴッドウィン(Va) マウリッツ・フランク(Vc)] | ||
録音:1947年3月25日、デッカ・スタジオ、ロンドン|英 DECCA, AK 1789/92 。ナップ・デ・クライン(1909-1979)はオランダ、アムステルダム生まれのヴァイオリニスト。第2次世界大戦直後の英DECCA 社にはこれ以外にベートーヴェン:「ラズモフスキー第2番 (AK 1785/8) 、ハイドン:変ホ長調 Op.33 No.2 (K 1793/4) 、エティンガー:ユダヤの旋律 (K 1795) を録音した。デ・クラインはピアニストのアリス・ヘクシュと結婚。デュオを組んで活躍した。また1952年にカレル・ファン・レーウレン・ボームキャン、ヤープ・シュレーダー、パウル・ゴドウィンとオランダ弦楽四重奏団を結成し、PHILIPSやDECCAに数多くの録音を残した。またモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集(ピアノは夫人のアリス・ヘクシュ)もある。デ・クラインは1979年8月23日、ラーレンで死去した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ブダペスト弦楽四重奏団〜モーツァルト:弦楽四重奏曲第19番 ハ長調 K.465「不協和音」
ブダペストSQ [ヨゼフ・ロイスマン(Vn1) アレクサンダー・シュナイダー(Vn2) イシュトヴァーン・イポリー(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc)] | ||
録音:1932年、ベルリン|ソース:アナウンスに記載無し。ブダペスト弦楽四重奏団は1917年ブダペスト歌劇場o. のメンバー4人によって結成され1967年に解散した。1932年に初代のリーダーだったエミール・ハウザ-(在籍:1917-1932)からヨゼフ・ロイスマン(1900-1974)になり、アメリカをベースに活躍し20世紀中期最高の四重奏団として君臨した。アレクサンダー・シュナイダー(在籍:1932-1945、1955-1967)は第2ヴァイオリン奏者で一時期ソリストと自らの四重奏団を結成して活躍していた。ヴィオラのイシュトヴァーン・イポリー(在籍:1917-1936)はボリス・クロイト(在籍:1936-67)に代わった。チェロのオリジナル・メンバーであるハリー・ソン(1917-1930)はミッシャ・シュナイダー(在籍:1930-1967)に代わった。この録音は新メンバーになった直後のもので、ベルリンで録音された。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ハンガリー弦楽四重奏団〜ハイドン:弦楽四重奏曲第67番 ニ長調 Op.64 No.5 「ひばり」
ハンガリーSQ [ゾルターン・セーケイ(Vn1) アレクサンドル・モシュコフスキー(Vn2) デーネシュ・コロムサイ(Va) ヴィルモシュ・パロタイ(Vc)] | ||
録音:1946年、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン|英 HMV, DB 6390/1 。ハンガリー弦楽四重奏団は1935年にブダペストで結成された。1940年に第2ヴァイオリンのシャーンドル・ヴェーグが退団しアレクサンドル・モシュコフスキーに代わった。第2次大戦中はオランダにとどまり作品の分析に没頭し、特にベートーヴェンの弦楽四重奏曲徹底的研究に多くの時間を費やした。この録音は大戦直後の物。その後1950年にメンバーはアメリカ国籍を得て定住した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
超希少 SP 、クロイツァー〜リスト: パガニーニによる大練習曲S.141R.3b |
レオニード・クロイツァー(P) | |
録音:1943年、東京|日ニッチク、JD 6056/60 。 レオニード・クロイツァー(1884-1953)はドイツと日本で活躍したロシア生まれの名ピアニストで指揮者。両親はユダヤ系ドイツ人。サンクトベテルブルク音楽院でアンナ・エシポワにピアノをアレクサンドル・グラズノフに作曲を学んだ。1906年ライプツィヒに移住、アルトゥール・ニキシュに指揮法を学んだ。1921年から1933年までベルリン音楽大学教授。1931年初来日。1933年再来日。近衛秀麿の要請で帰国せず1937年から亡くなるまで東京音楽学校(現東京芸術大学)教授をつとめた。1942年ナチス・ドイツの欠席裁判によってドイツ国籍を剥奪され無国籍となった。1953年10月28日、リサイタル中に心筋梗塞をおこし2日、後に死去した。これは大戦中の貴重な日本録音。超希少 SP レコードの復刻。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
シュナーべル〜ベートーヴェン: ディアベッリ変奏曲 ハ長調 Op.120 |
アルトゥール・シュナーベル(P) | |
録音:1937年10月30日、11月2日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン|英 HMV DB 3519/25 。 アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はポーランドのリプニク(旧オーストリア領)生まれ。1889年7歳でウィーン音楽院に入り1891年から1897年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1915)に師事した。1901年にベルリンでデビュー、1933年までこの地を本拠にした。1932年からロンドンに居を構え、世界初のベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集やピアノ協奏曲全集を録音した。これはその中の一曲。その後ナチスの台頭でスイスに移り、1939年にアメリカに渡った。大戦後はスイスに戻り演奏会や録音に活躍した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
SP レコード復刻「セントルイス・ブルース」 Vol.2, 1915-1955 *プリンス楽団(G.ヘップバーン・ウィルソン指揮)[録音:1915年12月18日、機械式収録] *オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド&アル・バーナード(Vo)[1921年5月25日、機械式収録] *ベシー・スミス&ルイ・アームストロング[1924年1月14日、機械式収録] *ルイ・アームストロング楽団[1929年12月13日] / *アーロン・シスターズ[1932年8月12日] *クリフ・エドワーズとイートン・ボーイズ[1934年10月19日] / *ラリー・アドラー(ハーモニカ)[1935年] *オリジナル・グレン・ミラー楽団[1940年5月15日、 Chester Field Shaw 、ライヴ] *ビリー・ホリデイ[1940年10月15日] / *ジョン・カービー楽団[1942年2月11日] *ダイナ・ショア[1946年11月] / *ラルフ・サットン(P)[1949年1月22日] *バディ・デフランコ(Cl)楽団[1951年7月22日] / *三味線豊吉とビクターo.[1953年7月(発売月)] *ジョー・スタッフォード(Vo) ザ・スターライターズ&ポール・ウェストン楽団[1955年] | ||
録音・発売:[内]。2017年10月に第1集が出てから2年ぶりの第2集。今回はこの名曲の初レコード録音盤プリンス楽団(1915年12月18日、録音)からジョー・スタッフォーとポール・ウェストン楽団(1955年録音)までの40年間に録音された15曲が収録してある。 | ||
アラウ、クルーガー&デトロイト響〜 シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54 |
クラウディオ・アラウ(P) カール・クルーガー指揮 デトロイトso. | |
録音:1944年12月4日、デトロイト|英 HMV, DB 6376/9 (米 VICTOR, 12280/3 と同一録音) 。クラウディオ・アラウ(1903-1991)は南米チリ出身のピアニスト。1911年チリ政府の援助でドイツに留学。ベルリンのシュテルン音楽院で大作曲家でピアノの大家フランツ・リスト(1811-1886)の最後の弟子だったマルティン・クラウゼ(1853-1911)に師事した。1914年ベルリン・デビュー。1925年母校シュテルン音楽院の教授に就任した。1935年からベルリンでバッハとモーツァルトのクラヴィーア曲全曲演奏会を開いた。1941年にカーネギー・ホールにデビュー。本拠をアメリカに移し、RCAにレコード録音を始めた。これはその一枚。その後米 COLUMBIA (1946-1950)、英EMI (1950年代)、オランダPHILIPS (1960年代-1980年代)に数多くの録音を残した。指揮者のカール・クルーガー(1894-1979)はニューヨーク生まれ。法律と哲学を学ぶためにウィーンとハイデルベルク大学に留学したがその後指揮者の道を志し、アルトゥール・ニキシュ(1855-1922)と知り合い、ニキシュの推薦でウィーン宮廷歌劇場とVPOの指揮者フランツ・シャルク(1863-1931)のアシスタントとなり経験を積んだ。帰米後はシアトルso.、デトロイトso. などを指揮した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
C.クラウス& SRO 〜 ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 Op.90 |
クレメンス・クラウス指揮 VPO | |
録音:1930年1月15-21日、ウィーン|英 HMV, C 2016/9 。クレメンス・クラウス(1893-1954)はウィーン生まれのオーストリアの指揮者。ウィーン音楽院で作曲家のリヒャルト・ホイベルガーに学ぶ。ドイツ各地のオペラ劇場で研鑽を積んだ後、1929年にフランツ・シャルク(1863-1931)の後任としてウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任した。この録音はその直後の物。1935年エーリヒ・クライバー(1890-1956)の後任としてベルリン国立歌劇場の音楽監督に、さらに1937年にはハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)の後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任、1941年からザルツブルク音楽祭の総監督に任命された。第2次大戦後はウィーンに戻ったが、1954年メキシコで楽旅中に世を去った。享年61歳。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
クーレンカンプ、マイナルディ、シューリヒト& SRO 〜ブラームス: ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 Op.102 ゲオルク・クーレンカンプ(Vn) エンリコ・マイナルディ(Vc) カール・シューリヒト指揮スイス・ロマンドo. | ||
録音:1947年7月8日、ジュネーヴ放送局、スイス|英 DECCA, AK 2025/8 。ヴァイオリンのゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)はドイツのブレーメン生まれ、第2次世界大戦中ソリストとして活躍する傍らベルリン高等音楽院を1943年までつとめた。1944年スイスのルツェルン音楽院教授となり、ピアノのエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)、チェロのエンリコ・マイナルディ(1897-1976)とのトリオでも活躍した。マイナルディはイタリア生まれ、ミラノ音楽院でチェロを、ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院で作曲を学んだ。後にベルリン高等音楽院でフーゴー・ベッカーに師事し、1933年からベッカーの後を継いでチェロ科の教授になった。カール・シューリヒト(1880-1967)はドイツの指揮者。1912年から1944年までヴィスバーデン歌劇場の音楽監督をつとめた。このシリーズでスイス・ロマンドo. を指揮した1947年録音のベートーヴェン:交響曲第2番(78CDR-3115)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
E.フィッシャー〜J.S.バッハ 半音階的幻想曲とフーガ BWV.903 (*) /前奏曲とフーガ第5番 ニ長調 BWV.850 (*) J.S.バッハ/ブゾーニ編曲:前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV.552 (#) エトヴィン・フィッシャー(P) | ||
録音:1931年10月、ベルリン(*) /1933年4月25日、アビー・ロード(#) |英 HMV, DB 4403/4 (*), DB 1991/2 (#) 。 エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイスのバーゼル生まれ。ベルリンでリストの最後の弟子だったマルティン・クラウゼ(1853-1918)に師事した。同門にクラウディオ・アラウ(1903-1991)がいる。ベルリン時代、オイゲン・ダルベール(1864-1932)やフェルッチョ・ブゾーニ(1886-1824)と交友があった。ここに収録したブゾーニ編「前奏曲とフーガ BWV.552」は「平均律」録音の初日に指慣らしとして演奏されたようだが(原盤番号がつながっている)、その演奏の気迫に圧倒される。同年から採用されたEMI開発の録音機(原盤番号の末尾に□)も演奏の細部を見事に捉えていると思う。このシリーズでフィッシャーは多数出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
E.フィッシャー〜 J.S.バッハ:ピアノ協奏曲第5番 ヘ短調 BWV.1056 モーツァルト:コントルダンス ニ長調 K.534「雷雨」 エトヴィン・フィッシャー(P)指揮フィッシャー室内o. | ||
録音:1938年4月、ベルリン|米 VICTOR, 18028/29 (英 HMV, DB 4679/80 と同一録音) 。 エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)は1933年にEMIのアーティストになり、1933年4月から1936年6月にかけてJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」(78CDR-1142-46で復刻)をSPレコード32枚に世界初全曲録音した。この録音はその完成2年後の物。フィッシャーは協奏曲の録音でピアノを弾きながら指揮をする「弾き振り」を現代に復活した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
E.フィッシャー〜J.S.バッハ: ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 BWV.1052 |
エトヴィン・ フィッシャー(P)指揮 フィッシャー室内o. | |
録音:1933年1月5日、ベルリン|英 HMV, DB 4420/22 。エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイスのバーゼル生まれ。ベルリンでリストの最後の弟子だったマルティン・クラウゼ(1853-1918)に師事した。フィッシャーはこの大企画開始直前に録音されたこの協奏曲は言わば露払い的存在。フィッシャーは自ら指揮をしながらピアノを弾いている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
F.ブッシュ&デンマーク国立放送響〜 ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 Op.73 |
フリッツ・ブッシュ指揮 デンマーク国立放送so. | |
録音:1949年、デンマーク|英 HMV, C 4006/9 (デンマーク HMV, Z-7004/7 と同一録音) 。フリッツ・ブッシュ(1890-1951)はドイツの指揮者。ヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュやチェリストのヘルマン・ブッシュの兄。ケルン音楽院で学んだ後1909年にリガで指揮者デビュー。1912年からアーヘン市立歌劇場、1918年からシュトットガルト、1922年からドレスデン国立歌劇場の音楽監督を歴任。1933年ナチスを嫌ってドイツを離れ、南米や北欧を中心に活動する。1934年から死去するまでグラインドボーン音楽祭の音楽監督を務めたが、1937年-1940年までストックホルム・フィルの音楽監督を兼任、1937-1951年までデンマーク国立放送so. の首席指揮者を務めていた。このシリーズで弟のアドルフ・ブッシュと共演したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(33CDR-3660)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
カバスタ&ミュンヘン・フィル〜 ベートーヴェン:交響曲第8番 ヘ長調 Op.93 |
オズヴァルト・カバスタ指揮 ミュンヘンpo. | |
録音:1941年5月、ミュンヘン|独 ELECTROLA, DB 5639/41 。オズヴァルト・カバスタ(1896-1946)はオーストリアの指揮者。ウィーン音楽院で学び、1930年ブルックナーの交響曲第8番を指揮してVPOの定期演奏会にデビューした。1931年にはフランツ・シャルクの後任としてウィーン音楽院の指揮科教授になり、1937年ミュンヘンに創立されたミュンヘン・フィルの首席指揮者に任命された。この地位はナチスに入党しなければならないほど政治色の濃い要職で、カバスタは政治指導に従順だった。カバスタは戦後の1946年、ナチスに加担したことで連合国当局に指揮活動を禁止され、それを苦にして妻と共に自殺した。享年50歳。モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」(伝説のモーツァルト第3巻 - 飛鳥新社刊に収録)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
メンゲルベルク& ACO 〜ドヴォルジャーク: 交響曲第9番 ホ短調 Op.95「新世界より」 |
ウィレム・メンゲルベルグ指揮 アムステルダム・ コンセルトヘボウo. | |
録音:1941年4月、アムステルダム|独 TELEFUNKEN, SK 3190/4 。この指揮者最高の名演奏。ウィレム・メンゲルベルグ(1871-1951)はオランダの大指揮者。1895年24歳でアムステルダム・コセルトヘボウo. の首席指揮に就任した。さらに1921年-30年には合併以前の NYP の首席指揮者を兼任、レコード録音は機械式録音と電気録音時代のニューヨーク録音は米VICTOR 、電気録音初期のコンセルトヘボウとの録音は英COLUMBIAと独ODEONに、電気録音の完成期には独TELEFUNKENに行った。またコンセルトヘボウとの放送録音はLP時代になって蘭PHILIPSから発売された。この録音は第2次世界大戦中のものだが、TELEFUNKENの録音技術が当時世界最高だったことを窺わせる見事な物。原盤SPの盤質も奇跡的に優れている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
故郷の人(スワニー川)〜フォスター:作品集 恋人よ窓を開け/ネッド伯父さん/村の娘/夢みる人/バンジョーをかき鳴らせ/おお、レミュエル/ ネリー=ブライ/おお友よ私をつれて行って/ルイジアナの美人/草競馬/ネリーはいい娘だった/ 金髪のジェニー/おお、スザンナ/おいで、愛する人のまどろむところへ/きびしい時はもうやってこない/ アンジェリーナ=ベーカー/やさしいアニー/老犬トレイ/ある人は/オールド・ブラック・ジョー/ なつかしいケンタッキーのわが家よ/主人は冷たい土の中に/故郷の人びと(スワニー川) ナサニエル・シルクレット指揮ビクター・サロン・グループ | ||
録音:1928年6月13-29日| 米 VICTROLA 9246/9 。ナサニエル・シルクレット(1889-1982)はアメリカの作曲家、指揮者、ピアニスト、クラリネット奏者。1920年代はじめにニューヨークso. やメトロポリタン歌劇場o. のクラリネット奏者として活躍、またスーザ吹奏楽団にも参加した。1926年にビクターの軽音楽部門の責任者となり多くの録音を残した。フォスターStephen Collins Foster (1826-1884)はアメリカの作曲家で、アメリカのポピュラー・ソングの父と称される。このアルバムは電気録音の初期に登場し、日本でも大ヒットした物。戦前蓄音器のあった家庭にはほとんど備えてあったベストセラーアルバム。聞きなれたメロディーが胸にしみる。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
クーセヴィツキー& LPO 「運命」他 ベートーヴェン: 交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」 ハイドン:交響曲第88番 ト長調〜第4楽章 |
セルゲイ・クーセヴィツキー指揮 LPO | |
録音:1934年9月3日-4日、 EMI アビーロード第1スタジオ、ロンドン|独 ELECTROLA DB 2338/42 (英 HMV DB 2338/42 と同一録音) 。セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)はロシア生まれのユダヤ系指揮者。モスクワ音楽院で学んだ後、名コントラバスとして活躍を始めた。1920年ロシア革命後のポリシェヴィキ政権を嫌ってパリに移住、1924年にボストンso. の常任指揮者に任命されアメリカに移住し、1949年までつとめこのオーケストラを世界的地位に高めた。この「運命」は第1回目の録音で、ボストンso. とは大戦後の1949年に録音がある(RCA VICTOR 12-0959/62)。クーセヴィツキーのベートーヴェンは復刻が殆どないため、敢えてこのシリーズに組み込んだ。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ワルター&パリ音楽院管〜 ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14 |
ブルーノ・ワルター指揮 パリ音楽院o. | |
録音:1939年5月19日、パリ|英 HMV DB 3852/7 。大指揮者ブルーノ・ワルター(1876-1962)は1938年ナチスのオーストリア併合による迫害を避けてフランスを経由してアメリカに逃れた。この「幻想交響曲」はワルターのヨーロッパ最後の録音で、以降LP時代になっても再録音はなかった。パリ音楽院o. は木管や金管楽器のソロに独特の輝きがありワルターがこのオーケストラと「幻想交響曲」を録音したことが納得できる。SP時代このレコードの日本での発売権はコロムビア・レコードにあったが、原盤が間違ってビクターに送られてきたため、ビクターが発売してしまった事件があった。日本コロムビアはEMI社とレコード製造特許の開放と引き換えにワルターとフルトヴェングラーのEMI録音の日本販売権を得ていた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
機械式吹込、ヴァインガルトナー〜 ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 Op.92 |
フェリクス・ ヴァインガルトナー指揮 LSO | |
録音:1923年6月1日、ロンドン|英 COLUMBIA L 1480/84 |※機械式録音盤(電気録音以前)の復刻音源。フェリクス・ヴァインガルトナー(1863-1942)はオーストリア生まれの大指揮者。ライプツィヒ大学で哲学を専攻したが、音楽への魅力に惹かれグラーツ、ライプツィヒ、ヴァイマルの各音楽院で学んだ。最初作曲家を志したが生活の安定を求め指揮者に転じた。1885年からドイツ各地の歌劇場を転々としたが、1908年にはグスタフ・マーラーの後任としてウィーン宮廷歌劇場とVPOの音楽監督に就任した。1937年夫人のカルメン・テューダーと来日し夫妻で新so.(現在のNHKso. )と共演した。この録音は機械式録音時代の物。ヴァインガルトナーの交響曲録音の最初だった。この録音についてあらえびす(1882-1963)は大正13年(1924年) 7月6日-7日の報知新聞に電気録音以前のベートーヴェンの九つの交響曲を総括している中で、この7番を「ベートーヴェンの交響曲中こんなによくレコードに入ったのはない」と吹き込みの良さを誉めていた(野村あらえびす「音楽は愉し」音楽之友社)。その後ベートーヴェン:交響曲第8番(英 COLUMBIA L 1538/41)、モーツァルト:交響曲第39番(英 COLUMBIA L 1569/72)、ブラームス:交響曲第1番(英COLUMBIA L 1596/1600)、ベートーヴェン:交響曲第5番(英 COLUMBIA L 1640/43)が機械式録音で発売されていた。そして本シリーズの 78CDR-3708、ベルリオーズ幻想交響曲(1925年10-11月録音)はヴァインガルトナー初の電気式録音だった。いずれもLSO 。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ワルター&パリ音楽院管〜ハイドン: 交響曲第92番 ト長調「オックスフォード」 |
ブルーノ・ワルター指揮 パリ音楽院o. | |
録音:1938年5月7日、パリ|米 RCA VICTOR 12974/6 (英 HMV DB 3559/61 と同一録音) 。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ生まれの大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1894年ハンブルグ歌劇場の指揮者だった時、音楽監督のグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン州立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo. などの楽長、音楽監督を歴任、またVPOやベルリン・フィルハーモニーを指揮した。1938年オーストリアがナチスドイツに併合されると、迫害を避けてフランスを経由してアメリカに逃れた。この録音はその途中に立ち寄ったパリでの録音。この翌年パリでベルリオーズ:幻想交響曲(HMV DB3852/7)も録音していた。耳を澄ますとこのオーケストラの木管・金管セクションの妙技が鮮やかに聞こえてくる。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
クナ&ベルリン国立歌劇場管〜モーツァルト: 交響曲第39番 変ホ長調 K.543 |
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 ベルリン国立歌劇場o. | |
録音:1929年10月1日、ベルリン|米 DECCA 25007/9 (独 Odeon O-6735/7 と同一録音) 。ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)は20世紀の半ばに活躍したドイツの指揮。オランダ国境に近いウッパータールに生まれた。ボン大学で哲学を修めた後ケルン音楽学校で指揮法を学んだ。この録音は電気録音初期のもので、おそらくクナッパーツブッシュの初の交響曲録音と思われる。このシリーズで同時期の録音のベートーヴェン:交響曲第7番(78CDR-3374)、1933年録音のハイドン:交響曲第100番「軍隊」(78CDR-3751)、1941年録音のハイドン:交響曲第94番「驚愕」(78CDR-3401)、大戦中の1943年録音のベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」(78CDR-3102)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
コンスタンチィノフ + ミュンシュ〜 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 Op.23 コスチャ・コンスタンチィノフ(P) シャルル・ミュシュ指揮パリ音楽院o. | ||
録音:1941年4月17日-21日、パリ|仏 COLUMBIA LFX 595/8 。 コスチャ・コンスタンチィノフ〔コスティア・コンスタンティノフ〕(1903-1947)はオデッサ生まれのロシア人ピアニスト、作曲家、指揮者。1947年5月30日、43歳の時航空機事故で死去した。18歳の時トルコのコンスタンチノープル、ベルリンを経てパリに定住した。数々の音楽活動後1941年にピアニストとしてこの録音でレコード・デビューした。大戦下ではパリで指揮活動を続けた。指揮のシャルル・ミュンシュ(1891-1968)はストラスブール生まれ。生地の音楽院でオルガンを学んだ後、パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)にヴァイオリンを学び、その後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1928)に師事した。1926年ライプツィヒ音楽院の教授に就任、1925年から32年にはゲヴァントハウスo. のソロ第一ヴァイオリン奏者もつとめブルーノ・ワルター(1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し指揮法も身につけた。パリに戻り1935年から38年にはパリ・フィルハーモニーの指揮者、1938年から45年にはパリ音楽院o. の指揮者をつとめた。1939年には同音楽院の指揮科教授に任命されされた。大戦後の1949年にボストン交響楽団の正指揮者となり1962年までつとめた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
A.ブッシュ〜J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲集 Vol.2 〔第5番 ニ長調 BWV.1050 (*) /第6番 変ロ長調 BWV.1051 (#) /第3番 ト長調 BWV.1048 (+) 〕 マルセル・モイーズ(Fl;*) ルドルフ・ゼルキン(P;*) アドルフ・ブッシュ(Vn;*)指揮ブッシュ室内合奏団 | ||
録音:1935年10月9日(*)、1935年10月9日(+)、1935年10月14日(#)、1935年10月15日(*/#)、 EMI アビー・ロード第1スタジオ、ロンドン| COLUMBIA LX-8204/8210 automatic couplings same as LX 443/449 (U.K.) 。 アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの名ヴァイオリニスト。1912年20歳の時ウィーンのコンツェルトフェライン(後のウィーンso. )のソロ・ヴァイオリンに抜擢され、1918年にはベルリン高等音楽院教授になった。1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活動した。1936年ゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚したが、ゼルキンはナチスのユダヤ人迫害を避けてアメリカに移住した。その後ブッシュもドイツを去ってスイスに移住、1939年実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに移住した。マルセル・モイーズはフランスのフルート奏者。パリ音楽院でポール・タファネル(1844-1908)、フィリップ・ゴーベール(1879-1941)に師事し1906年に一等賞を得た。1932年から1949年までパリ音楽院の教授をつとめる一方、パドルーo.、パリ音楽院o.の首席奏者もつとめた。1960年代にはスイス、イギリス、アメリカ、日本で後進の指導にあたった。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
A.ブッシュ〜J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲集 Vol.1 〔第2番 ヘ長調 BWV.1047 (*) /第1番 ヘ長調 BWV.1046 (#) /第4番 ト長調 BWV.1049 (+) 〕/ シチリアーノ(ラルゴ) BWV.1031 (**) ジョージ・エスクデール(Tp;*) マルセル・モイーズ(Fl;*/+) ルイ・モイーズ(Fl;+) イヴリン・ロスウェル(Ob;*/#) オーブリー・ブレイン、フランシス・ブラッドレー(Hr;#) ルドルフ・ゼルキン(P;**) アドルフ・ブッシュ(Vn;*/#/+/**)指揮(**以外)ブッシュ室内合奏団(**以外) | ||
録音:1935年10月13日(*)、1935年10月15日(+)、1935年10月17日(#)、1935年11月18日(**)、 EMI アビー・ロード第1スタジオ、ロンドン| COLUMBIA LX-8197/8203 automatic couplings same as LX 436/442 (U.K.) 。豪華なソリストを迎えたバッハの名曲。アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの名ヴァイオリニスト。ピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍した。ジョージ・エスクデール(1897-1969)は英国のトランペット奏者。SPレコードにハイドンのトランペット協奏曲(第2と第3楽章のみ)の名録音があった。マルセル・モイーズ(1889-1984)はフランスのフルート奏者。第2フルートのルイ・モイーズ(1912-2007)はマルセルの息子。ピアニストでもあった。イヴリン・ロスウェル(1911-2008)は英国のオーボエ奏者で名指揮者サー・ジョン・バルビローリ(1899-1970)夫人(1939年結婚)となった。この録音は24歳の時の物。当時オーケストラではハープ奏者を除いてすべて男性だった時代で女性楽員は珍しかった。オーブリー・ブレイン(1893-1955)は名ホルン奏者デニス・ブレイン(1921-1957)の父親。第2ホルンのフランシス・ブラッドレーはオーブリー・ブレインの師アドルフ・ブルスドルフの息子。イングリッシ・ナショナル・オペラのホルン奏者をつとめ1975年に引退した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
レナー弦楽四重奏団〜ラヴェル:弦楽四重奏曲 ヘ長調
レナーSQ [イェネ・レナー(Vn1) ヨーゼフ・スミロヴィッツ(Vn2) シャーンドル・ロート(Va) イムレ・ハルトマン(Vc)] | ||
録音:1933年2月27日、3月2日|英 COLUMBIA LX 270/3 。 レナー弦楽四重奏団は1918年にハンガリーのブダペストで結成された。メンバー全員がブダペスト音楽院出身。リーダーのイェネ・レナー(1894-1948)、第2ヴァイオリンのヨーゼフ・スミロヴィッツとヴィオラのシャーンドル・ロートがイェネ・フバイ(1858-1937)の弟子、チェロのイムレ・ハルトマンがダヴィド・ポッパー(1843-1913)に師事した。4人はブダペスト・オペラの楽員だったが、1918年のハンガリー革命を機に弦楽四重奏団を結成した。2年に渡って田舎の村にこもって練習を積んだ後、1920年にウィーンでデビューした。そこに居合わせた作曲家のラヴェル(1875-1937)が演奏に感動し、彼らをパリに招いた。公演はセンセーショナルな成功を収めた。その後1922年にロンドン、1929年にアメリカにデビューした。1927年のベートーヴェン没後100年を記念して16曲の弦楽四重奏曲中11曲(SPレコード40枚)をイギリス・コロンビアに録音した。これは作曲者ラヴェルが存命中の録音。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
メルケル他〜ラヴェル:ピアノ三重奏曲 イ短調
アンリ・メルケル(Vn) マドレーヌ・マルセリ=エルソン(Vc) エリアーヌ・ズルフル=タンロック(P) | ||
録音:1931年3月12日-13日、パリ|米 VICTROLA 11243/5 (仏 Disque Gramophone DB 4803/5 と同一録音) 。ヴァイオリンのアンリ・メルケル(1897-1969)はパリ生まれ。パリ音楽院でギヨーム・レミに師事し1914年に一等賞を得た。パリ・オペラ座o.、コンセール・ラムルーo. のヴァイオリン奏者を務めた後、1929年からパリ音楽院管弦楽団のコンサート・マスターを務め、後に音楽院の教授になった。ピアノのエリアーヌ・ズルフル=タンロックは1900年生まれ。このシリーズでフォーレ:ピアノ四重奏曲(78CDR-3441)が出ている。チェロのマドレーヌ・マルセリ=エルソンはSPレコード時代小品の録音がいくつか発売されていた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
ゴーティエ&ルフェビュール〜 ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ |
ジャンヌ・ゴーティエ(Vn) イヴォンヌ・ルフェビュール(P) | |
録音:1950年4月11日、パリ|仏 LE CHANT DU MONDE LDY-8115 (17cm LP) 。ジャンヌ・ゴーティエ(1898-1974)はフランスの女流ヴァイオリン奏者。パリ郊外のアニエール生まれ。パリ音楽院でジュール・ブーシュリ(1877-1962)のクラスで学び1914年に一等賞を得た。1915年から第一線で演奏活動を始めた。第2次大戦中はオーストラリアに居住し、1942年から1944年までメルボルン大学で教鞭を取った。大戦後フランスに戻り、1952年からチェロのアンドレ・レヴィ(1894-1982)、ピアノのジュヌヴィエーヴ・ジョワ(1919-2009)とフランス三重奏団を結成。1962年から1968年までパリ音楽院教授を務めた。イヴォンヌ・ルフェビュール(1898-1986)はフランスの女流ピアニスト。パリ音楽院に学び12歳で一等賞を得た。1924年エコール・ノルマルでアルフレッド・コルトー(1877-1962)の助手をつとめ、後にパリ音楽院の教授に就任した。弟子にディヌ・リパッティ(1917-1950)がいる。1965年サン・ジェルマン音楽祭を創設した。レコード録音は少ないが、フランスの大物ピアニスト。これは彼女の数少ないスタジオ録音。 復刻には WESTREX 10A カートリッジ(MONO接続)とコルグの Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
レナーSQ + レーザー=レーベルト〜ドヴォルジャーク:ピアノ五重奏曲 イ長調 Op.81
オルガ・レーザー=レーベルト(P) レナーSQ [イェノ・レナー(Vn1) ヨーゼフ・スミロヴィッツ(Vn2) シャーンドル・ロート(Va) イムレ・ハルトマン(Vc)] | ||
録音:1930年10月1日-2日、ロンドン|英 COLUMBIA, LX 150/53 。ピアニストのオルガ・レーザー=レーベルト夫人とレナー弦楽四重奏団はピアノ五重奏曲の録音を4曲残している。1番目は1923年11月8日にラッパ吹き込みでフランク:ピアノ五重奏曲 ヘ短調 -第2楽章(英 COLUMBIA, L 1620) 、2番目が1927年3月4日に録音されたブラームス:ピアノ五重奏曲 ヘ短調 Op.34 (英 COLUMBIA, 2040/4) 、3番目が1930年10月1日-2日録音のこのドヴォルジャーク、4番目が1933年3月9日 & 13日、録音のシューマン:ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44 (英 COLUMBIA, LX 266/9) 。このピアニストの経歴は不詳だが〔ドイツ出身でオルガ・レーベルト・カウフマン [Olga Lebert Kaufmann] とも表記(出生時の名前かどうかは不明)され、アメリカ合衆国出身の裕福なドイツ系美術史家&収集家、チャールズ・レーザー [Charles Loeser] (1864-1928)の妻。二人は1888年(資料によっては1890年)にイタリアのフィレンツェで出会い、以降チャールズの死去までこの地で暮らした。夫妻の子息の一人にマチルダ・カルナン [Mathilda Calnan] (1913-2000)という女優がおり、その娘(チャールズ&オルガの孫)のフィリッパ・カルナン [Philippa Calnan] (1938-)はケネディ大統領夫人のジャクリーンとも親交があったらしい〕、この名四重奏団と完全に同化した演奏は見事。また不思議なことにソロのレコーディングは残っていない。レナー弦楽四重奏団は1922年にロンドン・デビュー。すぐにイギリスCOLUMBIAの専属アーティストとなり、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲録音を1938年に完成させた。また売り上げは合計100万枚を記録した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
レナーSQ 〜ベートーヴェン: 弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調 Op.59 No.1「ラズモフスキー第1番」 レナーSQ [イェノ・レナー(Vn1) ヨーゼフ・スミロヴィッツ(Vn2) シャーンドル・ロート(Va) イムレ・ハルトマン(Vc)] | ||
録音:1926年10月29日、1927年3月2日|英 COLUMBIA, L 1837/41 。レナー弦楽四重奏団は1918年にハンガリーのブダペストで結成された。メンバー全員がブダペスト音楽院出身。リーダーのイェノ・レナー(1894-1948)、第2ヴァイオリンのヨーゼフ・スミロヴィッツとヴィオラのシャーンドル・ロートがイェノ・フバイ(1858-1937)の弟子、チェロのイムレ・ハルトマンがダヴィド・ポッパー(1843-1913)に師事した。4人はブダペスト・オペラの楽員だったが、1918年のハンガリー革命を機に弦楽四重奏団を結成した。2年に渡って田舎の村にこもって練習を積んだ後、1920年にウィーンでデビューした。そこに居合わせた作曲家のラヴェル(1875-1937)が演奏に感動し、彼らをパリに招いた。公演はセンセーショナルの成功を収めた。その後1922年にロンドン、1929年にアメリカにデビューした。1927年のベートーヴェン没後100年を記念して16曲の弦楽四重奏曲中11曲( SP レコード40枚)をイギリス・コロンビアに録音した。これはその中の一曲。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
E.フィッシャー指揮〜 ハイドン:交響曲第104番 ニ長調「ロンドン」 |
エトヴィン・フィッシャー指揮 フィッシャー室内o. | |
録音:1938年4月11日、ベルリン|英 HMV, DB 4615/7 。エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイス生まれ。主にドイツで活躍したピアニスト、指揮者で教育者でもあった。ベルリンでリストの最後の弟子だったマルティン・クラウゼ(1853-1918)に師事した。1933年にEMIのアーティストとなり、ハッハの「平均律クイラヴィーア曲集」全曲の世界初録音を行った。フィッシャーは協奏曲の演奏ではピアノを弾きながら指揮をする「弾き振り」を現代に復活した。これはフィッシャーが指揮者に専念した唯一のもので大変貴重。この録音の4年後、第2次世界大戦下のウィーンでフィッシャーはハイドンのピアノ協奏曲 ニ長調をVPOと弾き振りで録音した(78CDR-3129)。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
クナ〜ハイドン: 交響曲第100番 ト長調「軍隊」 |
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 ベルリン大so. | |
録音:1933年4月、ベルリン|英 Parlophone, R 1537/40 (独 Odeon, O-11848/51 と同一録音)。ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)は20世紀の半ばに活躍したドイツの指揮者。オランダ国境に近いウッパータールに生まれた。ボン大学で哲学を修めた後ケルン音楽学校で指揮法を学んだ。これはドイツOdeonへのスタジオ録音。これはこの名曲の初の全曲録音だった。クナッパーツブッシュはこのシリーズでハイドン:交響曲第94番「驚愕」(78CDR-3401)、ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」(78CDR-3102)、ベートーヴェン:交響曲第7番(78CDR-3374)が出ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
シュトループSQ 〜 ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第9番 ハ長調 Op.59 No.3「ラズモフスキー第3番」 シュトループSQ [マックス・シュトループ(Vn1) ヘルマン・フーブル(Vn2) ヘルマン・ヒルシュフェルダー(Va) ハンス・ミュンヒ=ホーラント(Vc)] | ||
録音:1940年秋|独 ELECTROLA, DB 5599/5602S 。マックス・シュトループ(1900-1968)はドイツのヴァイオリン奏者。1922年ザクセン国立歌劇場の音楽監督だったフリッツ・ブッシュ(1890-1951)の招きでコンサートマスターに就任。1924年から1928年ワイマール音楽学校のヴァイオリン科教授をつとめ、1928年から1934年までベルリン国立歌劇場のコンサートマスターもつとめた。大戦後の1947年からはデトモルト音楽アカデミーでヴァイオリンと室内楽の指導にあたった。シュトループは1936年第一次シュトループ弦楽四重奏団を組織したがその後メンバーが替わり1940年代に入ってこのメンバーになり戦後まで活動を続けた。シュトループはこのシリーズでカール・ベーム指揮のベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3215)が出ている。 | ||
フルニエ&ユボー〜 シューベルト:アルペジオーネ・ソナタ イ短調 D.821 |
ピエール・フルニエ(Vc) ジャン・ユボー(P) | |
録音:1937年5月4日、9月22日|仏 DISQUE GRAMOPHONE, L1037/8 。#一部強音で原盤のオトミゾが削れているところがある。アルペジオーネは1823年にウィーンのシュタウファーが開発した6弦のフレットをもつ弦楽器。この曲は今日ではチェロで弾かれる。ピエール・フルニエ(1906-1986)はパリ生まれ。最初ピアノを学んだが9歳のとき小児麻痺による右足障害のためチェロに転向した。1923年パリ音楽院で一等賞を得て楽壇にデビュー、ヴァイオリンのガブリエル・ブイヨン、ピアノのヴラド・ペルルミュテルとのトリオで注目された。1937年エコール・ノルマル教授、1941年から1949年までパリ音楽院教授をつとめた。1942年にヴァイオリンのシゲティ、ピアノのシュナーベルとのピアノ・トリオ、ヴィオラのプリムローズを加えて四重奏で活動、さらに1945年にはヴァイオリンのティボー、ピアノのコルトーと演奏活動をした。1954年に初来日、その後何度も日本を訪れた。ジャン・ユボー(1917-1992)は9歳でパリ音楽院に入学を許されピアノをラザール・レヴィに師事し1930年13歳で一等賞を得た。また作曲ではローマ賞次点(1934年)を得ている。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ の Nu1 DSD 録音機を使用した。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2018年リリース分 1月-12月 (末尾 709-748) | ||
プロ・アルテSQ 団員 + シュナーベル〜 ドヴォルジャーク:ピアノ五重奏曲 イ長調 Op.81 アルトゥール・シュナーベル(P) プロ・アルト〔プロ・アルテ〕SQ [アルフォンス・オンヌー(Vn1) ローラン・アルー(Vn2) ジェルマン・プレヴォ(Va) ロベール・マース(Vc)] | ||
録音:1934年2月11日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン| 英 HMV, DA 2177/80 。復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ Nutube フォノ・イコライザーを使用した。 | ||
プロ・アルテSQ 団員 + シュナーベル〜 シューベルト:ピアノ五重奏曲 イ長調 Op.114, D.667「鱒」 アルトゥール・シュナーベル(P) クロード・ホブデイ(Cb) プロ・アルト〔プロ・アルテ〕SQ 団員 [アルフォンス・オンヌー(Vn) ジェルマン・プレヴォ(Va) ロベール・マース(Vc)] | ||
録音:1935年11月16日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン|米 RCA VICTOR, 1623/7 (英 HMV, DB 2714/8と同一録音)。 プロ・アルト弦楽四重奏団は1912年アルフォンス・オンヌーをリーダーにベルギーのブリュッセルで結成された。1926年アメリカ初公演、ワシントンの国会図書館ホールの開館式で演奏した。1932年にはベルギーの宮廷四重奏団の称号を得た。1941年アメリカのウィスコンシン大学からの要請でメンバー全員が教授に就任した。1944年コーリッシュ弦楽四重奏団が解散した時リーダーだったルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)がプロ・アルトの第1ヴァイオリンに就任した。この団体はハイドン、モーツァルトの古典派四重奏曲からロマン派、現代音楽と幅広いレーパートリーを誇る一方、ピアニストのアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)との共演でも名声を上げた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ Nutube フォノ・イコライザーを使用した。 | ||
シュナーベル〜J.S.バッハ: トッカータ ハ短調 BWV.911 |
アルトゥール・シュナーベル(P) | |
録音:1937年11月24日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン| 英 HMV, DA 1613/4 。アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はポーランドのリプニク(旧オーストリア領)生まれ。1889年7歳でウィーン音楽院に入り1891年から1897年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1915)に師事した。1901年ベルリンでデビュー、1933年までこの地を本拠にした。演奏活動の傍らベルリン高等音楽院で教え、弟子にクリフォード・カーゾン(1907-1982)、ペーテル・フランクル(1935-)などがいる。またカール・フレッシュ(1873-1944)、パブロ・カザルス(1876-1973)、エマヌエル・フォイアマン(1902-1942)、パウル・ヒンデミット(1895-1963)との室内楽演奏はベルリンの呼び物だった。その後1932年から34年にはロンドンに居を構え、1939年にアメリカに移住した。大戦後はスイスに住んで演奏会や録音に活躍した。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ Nutube フォノ・イコライザーを使用した。 | ||
ルネ・バトン〜 ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14 |
ルネ・バトン指揮 コンセール・パドルーo. | |
録音:1924年10月14日、17日-18日、パリ|英 HMV, D 987/92 |#機械式録音盤(電気式録音以前)の復刻音源|この名曲の世界初の録音。ルネ=バトン(1879-1940)はフランスの指揮者で作曲家。パリ音楽院でピアノと楽理をアンドレ・ジェダルジュ(1856-1926)に学んだ。1907年オペラコミークの合唱指揮者となりキャリアをスタートした。1910年ミュンヘンで開催された「フランス音楽祭」の責任者に選ばれ、1912-13年にはディアギレフ(1872-1929)の「ロシアバレエ団」の指揮者をつとめた。第1次世界大戦中の1916-18年にはオランダ王立歌劇場の責任者、また1914-19年にはハーグ・レジデシティo. を率いて避暑地スケフェニンヘンのサマーコンサートを担当した。コンセール・パドルーo. はその前進をコンセール・ポピュレールと名乗り1861年に発足したフランスで最も古いオーケストラだったが、後発のコンセール・コロンヌ(1873年設立)、コンセール・ラムルー(1881年設立)に押され1884年に活動を停止した。1918年に映画企業家のセルジュ・サンベールがオーケストラを復活し、ルネ=バトンに指揮を依頼し、1921年からコンセール・パドルーを名乗った。その後アンドレ・カプレ、アルベール・ウォルフ、デジレ=エミール・アンゲルブレシュト等が指揮者をつとめた。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ Nutube フォノ・イコライザーを使用した。この録音の翌年、1925年に電気式録音が登場した。 | ||
稀少日本録音&含・初復刻〜エタ・ハーリヒ=シュナイダー J.S.バッハ:イタリア協奏曲 BWV.971 (*) ヘンデル:アリアと変奏曲「調子のよい鍛冶屋」(#) エタ・ハーリヒ=シュナイダ-(Cemb) | ||
録音:1941年、日本|日 POLYDOR, S-4046/7 | (*)はおそらく LP 以降の初復刻となるもの|既出CD: 日本 SP 名盤復刻選集 IV (ローム ミュージックファンデーション、 ANOC-6137A/43A 〔日本語版〕, ANOC-6144A/50A 〔英語版〕 [各 7CDs] )(#) 。 エタ・ハーリヒ=シュナイダー(1897-1986)はベルリン生まれの女流奏者。ハープシコードをワンダ・ランドフスカ(1879-1959)について学んだ。1933年から39年にかけてベルリン高等音楽院の教授をつとめたが、ナチス政権に反抗して追放され大戦中を日本で過ごした。戦後はアメリカに渡り、その後ヨーロッパに戻り活躍した。この録音は大戦直前に行われた貴重な日本録音。戦時の物資不足でレコード盤の材料が枯渇していた時代のもので、現存するレコードが極めて少ない。またレコードに手が触れなくても自然に割れてしまうこの時期のポリドール盤からの貴重な復刻。復刻には GE 製 バリレラ・カートリッジ RPX-046 を使用した。 | ||
シゲティ + マガロフ〜ヘンデル: ヴァイオリン・ソナタ第4番 ニ長調 Op.1 No.13 |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) ニキタ・マガロフ(P) | |
録音:1937年2月2日、ロンドン|米 COLUMBIA, 17098/9-D (英 COLUMBIA, LB-36/7 と同一録音)。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリー生まれ。ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。1905年にベルリンで大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)に認められ、1917年から24年スイスのジュネーヴ音楽院で教え、1940年にアメリカに移住した。このヘンデルはシゲティが2回録音した最初の物。アメリカ時代の2回目の録音(1954年)は33CDR-3525で出ている。ピアノのニキタ・マガロフ(1912-1992)はサンクトペテルブルクでロシア系貴族の家に生まれた。1918年に祖国を離れパリでイジドール・フィリップについて学んだ。シゲティの伴奏者となったことが縁で娘婿となった。1949年ジュネーヴ音楽院の教授に就任し1960年までその地位にあった。このシリーズでヘンデルのヴァイオリン・ソナタ第4番は多数出ているがこの演奏はエネスコ盤(78CDR-3035)と双璧の名演。 復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ Nutube フォノ・イコライザーを使用した。 | ||
ケンタッキーのわが家〜フォスター名曲集 なつかしいケンタッキーのわが家/おお、スザンナ/ 恋人よ窓を開け/サム・フォークス/ネリー・ブライ/ 故郷の人びと(スワニー川)/草競馬/夢みる人/ おおレミュエル/グレンディ・バーク/金髪のジェニー/ バンジョーをかき鳴らせ/ オールド・ブラック・ジョー/ケティー・ベル |
ロジェー・ワーグナー指揮 ロジェー・ワーグナーcho. | |
録音:1954年|日 CAPITOL, 2LC-4 (Mono) 。 指揮者ロジェー・ワーグナー(1914-1992)は1921年フランスから両親と共にアメリカに移住。1946年にロサンゼルス・コンサート合唱団を設立し、後にこの合唱団に自らの名前を冠しロジェー・ワーグナー合唱団とした。アメリカCAPITOL Recordsの専属となり、宗教曲、民謡、現代音楽と幅広いジャンルのアルバムを発表、また定期的に日本公演を行った。このアルバムはロジェー・ワーグナー合唱団の3枚目のアルバムで日本へのデビュー盤。フォスターStephen Collins Foster (1826-1864)はアメリカの作曲家で、アメリカのポピュラー・ソングの父と称される。作品のいくつかはわが国の小学唱歌にも取り入れられ、親しみ深い。ロジェー・ワーグナー合唱団はステレオ時代になって再録音している。 復刻には1958年、ステレオが出現したときに原盤の検聴用に開発された WESTREX 10A カートリッジをモノラル接続で使用、フォノイコライザーはコルグ株式会社の新型真空管 Nutube 使用、 AES カーブで再生した。 | ||
スターダスト〜ライオネル・ハンプトン スターダスト/ザ・マン・アイ・ラヴ |
ライオネル・ハンプトン・ オール・スターズ | |
録音:1947年8月4日、パサデナ市公会堂、ロサンゼルス郊外、カリフォルニア州、 US |米 DECCA, DL 7013 (Mono) 。#初期 LP 特有のノイズあり。 パサデナ市公会堂で開かれたジャズ・コンサートのライヴ録音。プロデューサーはロサンゼルスの放送局でジャズ番組を担当していたジーン・ノーマン(1922-2015)で、彼はこのコンサートを円盤録音機に収めた。磁気テープ録音機がまだ普及する以前のことだった。当夜のゲスト出演はヴァイブラフォンのライオネル・ハンプトン(1908-2002)。名曲「スターダスト」の圧倒的名演奏は米デッカ社がレコード化権利を買い取り、10インチ盤LPで発売された。円盤録音機に収められた音は、テープ録音よりずっと強靱で迫力がありハンプトンの演奏が輝いている。録音後70年の歳月を経た今日でもこの10インチ盤の音は当夜のコンサートの熱気をあますことなく再現している。復刻には1958年、ステレオが出現したときに原盤の検聴用に開発された WESTREX 10A カートリッジをモノラル接続で使用、フォノイコライザーはコルグ株式会社の新型真空管 Nutube 使用、 NAB カーブで再生した。 | ||
ネリーニ兄妹〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 Op.24「春」 |
ピエール・ネリーニ(Vn) ジャニーヌ・ネリーニ(P) | |
録音:1948年|仏 PACIFIC, PIZ 1518/20 。ピエール・ネリーニ(1915-2006)はミラノ出身の音楽家の家族のもとパリに生まれた。父親のエマニュエル・ネリーニは「ネリーニ音楽コンクール」を始めた人物。息子のピエールはパリ音楽院のヴァイオリン科で一等賞を得て、コンセール・ラムルーo.、パドルーo. のメンバーを歴任後1945-1965年パリ・オペラ座管弦楽のコンサートマスターをつとめた。さらに1957-1967年にヴェルサイユ音楽院、1965-1985年にはパリ音楽院の教授の職にあった。ピアノのジャニーヌ・ネリーニはピエールの妹。ネリーニのヴァイオリンはデゾルミエール指揮の「シルヴィア」&「コッペリア」、アンセルメ指揮の「シェヘラザード」(いずれもデッカ録音)で聴ける。復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ Nutube フォノ・イコライザーを使用した。 | ||
テルマーニ・エミル〔エミール・テルマニー〕〜 SP 録音集 サン=サーンス:序奏とロンド・カプリツィオーソ Op.28 [ TONO (Denmark), X 25086-1/2 (3030C/31L) /録音:1947年] ベートーヴェン:ロマンス第1番 ト長調 Op.40 [ TONO (Denmark), X 25123-1/2 (3313I/14R) /録音:1947年] ロマンス第2番 ヘ長調 Op.50 [ SONORA (Sweden), K 9510 A/B (1673CP/74BP) /録音:1942年8月10日] サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン Op.20 [ TONO (Denmark), X 25005-1/2 (1675/76BP) /録音:1942年8月10日] テルマーニ・エミル〔エミール・テルマニー〕(Vn) トマス・イェンセン指揮コペンハーゲン王立歌劇場o.、チヴォリ劇場o. カール(・フォン)・ガラグリ指揮デンマーク国立放送so. | ||
エミール・テルマニー(1892-1988)はハンガリー生まれのヴァイオリニスト。ブダペスト音楽院でフバイ・イェネー〔イェネー・フバイ〕(1858-1937)に師事した。1919年来デンマークのコペンハーゲンに在住、作曲家カール・ニルセン(1865-1931)の娘婿になった。1933年に離婚後、ピアニストのアネッテ・ショアラーと再婚し、1940-1969年までオーフス音楽院の教授をつとめた。テルマニーはバロック音楽の演奏法の研究にも熱心で、デンマークの楽器職人とVEGA弓(湾曲弓)を開発し、その弓を使って1954年にJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ(デッカ)を録音した。テルマニーはこのシリーズでメンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3087)、ニルセン:ヴァイオリン・ソナタ第1番(78CDR-3240)が出ている。復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ Nutube フォノ・イコライザーを使用した。 | ||
クーレンカンプ + S=イッセルシュテット ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77 (*) レーガー:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ イ短調 Op.91 No.1 より (#) |
ゲオルク・クーレンカンプ(Vn) ハンス・シュミット= イッセルシュテット指揮 BPO (*) | |
録音:1937年6月21日(*)、6月30日(#)、ベルリン|独 TELEFUNKEN E2074/78 。ゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)はドイツのブレーメン生まれ、第2次世界大戦中ソリストとして活躍する傍らベルリン高等音楽院教授を1943年までつとめた。1944年にスイスのルツェルン音楽院教授となり、ピアノのエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)、チェロのエンリコ・マイナルディ(1897-1976)とのトリオでも活躍した。指揮者のハンス・シュミット=イッセルシュテット(1900-1973)はドイツの名指揮者。第2次世界大戦中も非ナチス党員を保ち、戦後に北ドイツ放送so. の設立に尽力した。クーレンカンプはこのシリーズでブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番(シューリヒト指揮) (78CDR-3123)、ベートーヴェン:「クロイツェル・ソナタ」(ピアノ:ケンプ) (78CDR-3457)&(ピアノ:シュルツェ) (78CDR-3618)他が出ている。復刻には「音のエジソン」 http://www.otono-edison.com/ SP レコード専用 MC 型カートリッジ (3 mil 針) とコルグ Nutube フォノ・イコライザーを使用した。 | ||
マイナルディ〜シューベルト: アルペジオーネ・ソナタ イ短調 D.821 |
エンリコ・マイナルディ(Vc) ギド・A.ボルチアーニ(P) | |
録音:1950年10月8日-9日|独 GRAMMOPHON LVM 72041/2 。 エンリコ・マイナルディ(1897-1976)はイタリア生まれのチェロ奏者。ミラノ音楽院でチェロを、ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院で作曲を学んだ。後にベルリン高等音楽院でフーゴー・ベッカーに師事し、1933年からベッカーの後を継いでチェロ科の教授になった。この頃ヴァイオリンのクーレンカンプ、ピアノのエトヴィン・フィッシャーとトリオを結成し名声をあげた。この録音はSPレコード末期にドイツグラモフォンが開発した78回転長時間収録レコードVG盤に残された物。マイナルディはこのシリーズでJ.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番(33CDR-3318)が出ている。またアルペジオーネ・ソナタはこのシリーズでフォイアマン(78CDR-3161)、ヘルシャー&ナイ(78CDR-3653)とカサド(オーケストラ伴奏版) (78CDR-3511)が出ている。復刻には "音のエジソン" モノラル専用MC型カートリジ(3mil針)と Korg Nutubeフォノ・イコライザーを使用した。 | ||
ゴールドベルク、リドル、ヒンデミット〜モーツァルト:ヴァイオリンと ヴィオラのための二重奏曲集〔第1番 ト長調 K.423 (*) /第2番 変ロ長調 K.424 (#) 〕 シモン・ゴールドベルク(Vn) フレデリック・リドル(Va;*) パウル・ヒンデミット(Va;#) | ||
録音:1949年6月2日(*)、1931年1月21日(#)|英 PARLOPHONE R20576-7 (*), 英 COLUMBIA LX291-2 (#) 。シモン・ゴールドベルグ(1909-1993)はポーランド生まれのヴァイオリニスト。ベルリンで名教授カール・フレッシュ(1873-1944)に師事し、1929年フルトヴェングラーに招かれてBPOのコンサート・マスターに就任した。1934年ドイツがナチス政権になった時、BPOを退団しロンドンに移住した。1942年ハンガリー出身の女流ピアニスト、リリー・クラウスと共にアジアを演奏旅行中、インドネシアのジャワ島で日本軍に捕らえられ1945年まで抑留生活をを強いられた。晩年日本人ピアニスト山根美代子さんと結婚、富山県立山で暮らしていた。フレデリック・リドル(1912-)は英国のヴィオラ奏者。ロンドンの王立アカデミーで学び、1932年LSOに所属。1938年にロンドン・フィルハーモニー、1953年ロイヤル・フィルハーモニーの首席奏者を務めた。パウル・ヒンデミット(1895-1963)は1915年から1923年までフランクフルト市立劇場オ-ケストラの首席奏者として活躍、後にアマール・ヒンデミット弦楽四重奏団のヴィオラ奏者として活躍した。1935年ナチス政権から活動停止処分をを受け、1937年スイス経由でアメリカに亡命した。1946年アメリカ市民権を得て指揮者、作曲家として活動を続けた。 | ||
フランスのピアニスト、ジャンヌ=マリー・ダレ〔ダルレ〕〜 SP 録音集
サン=サーンス:トッカータ Op.111 [Rec. 9 Feb.1931 / HMV C2336A U.K.] リスト:パガニーニ大練習曲第5番ホ長調「狩」[Rec. Feb.1931 / HMV C2336B U.K.] / 超絶技巧練習曲集〔第5番「鬼火」 [Rec. 10 Sep.1948 / PATHE PDT92A France] / 第11番「夕べの調べ」 [Rec. 10 Sep.1948 / PATHE PDT197A France] ショパン:練習曲〔変イ長調 Op.25 No.1「牧童」/嬰ト短調 Op.25 No.6 〕[Rec. 1 May 1944/PATHE PDT92B France] ラフマニノフ:前奏曲〔嬰ハ短調 Op.3 No.2 /ト短調 Op.23 No.5 〕[Rec. 10 Sep.1948/PATHE PD83 France] J.S.バッハ/マンジャガッリ編曲:前奏曲(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番 ホ長調 BWV.1006) [Rec. 1922(機械式録音)/Vocalion K No.05062 U.K.] ウェーバー/ガンツ編曲:無窮動 [Rec. 1922(機械式録音)/Vocalion Vocalion K No.05062B U.K.] メンデルスゾーン:前奏曲第3番 ニ長調 Op.104a No.3 [Rec. 1922(機械式録音)/Vocalion X9178A U.K.] シューマン:ロマンス 嬰ヘ長調 Op.28 No.2 [Rec. 1922(機械式録音)/Vocalion X9178B (02991) U.K.] ショパン:練習曲嬰ハ短調 Op.10 No.4 [Rec. 1922(機械式録音)/Vocalion X9189 (02988) U.K.] ジャンヌ=マリー・ダレ〔ダルレ〕(P) | ||
ジャンヌ=マリー・ダレ(ダルレ) (1905-1999)はフランスの女流ピアニスト。10歳でパリ音楽院に入りマルグリット・ロン(1874-1966)とイジドール・フィリップ(1863-1958)に師事した。1919年に一等賞を得て卒業、1920年にパリでデビューした。ダレは1958年にパリ音楽院教授に指名された。ここにはダレの壮年期のSP録音に加えて機械式録音による17歳のダレ初録音が聴ける。ダレはこのシリーズでサン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番(ポール・パレー指揮)(78CDR-3189)とサン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番&第5番(ルイ・フーレスティエ指揮)(33CDR-3572)が出ている。 | ||
カザルス&コルトー〜ベートーヴェン: 「魔笛」の主題による7つの変奏曲 変ホ長調 WoO.46 |
パブロ・カザルス(Vc) アルフレッド・コルトー(P) | |
録音:1927年6月21日、クイーンズ・ホール(大ホール)、ロンドン| 仏 DISQUE "GRAMOPHONE" DA 915/6 。ピアノのアルフレッド・コルトー(1877-1962)とヴァイオリンのジャック・ティボー(1880-1953)とチェロのパブロ・カザルス(1876-1973)のトリオによる録音は1926年7月-1928年12月の2年間にイギリスのHMVによってなされた。録音順に記すと、1. シューベルト:ピアノ三重奏曲第1番78CDR-3131 (1926年7月5日-6日)、2. ハイドン:ピアノ三重奏曲 ト長調78CDR-3199 (1927年6月20日)、3. メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第1番78CDR-3723 (1927年6月20日-21日)、4. シューマン:ピアノ三重奏曲 ニ短調78CDR-3728 (1928年11月15&18日、12月3日)、5. ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲「大公」78CDR-3009、78CDR-3157 (1928年11月19日&12月3日)。このベートーヴェンはトリオ録音の2年目のハイドンとメンデルスゾーンのセッション時にコルトーとカザルスの二人で行われた。 | ||
ワルター& VPO 〜 ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 Op.90 |
ブルーノ・ワルター指揮 VPO | |
録音: 1936年5月18日-19日、ムジークフェライン、ウィーン| 米 VICTOR 12022/5 (英 HIS MASTER'S VOICE DB 2933/6 と同一録音)。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1894年ハンブルク歌劇場の指揮者だった時、音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ゲヴァントハウス、ライプツィヒo. などの楽長、音楽監督を歴任、またVPOやベルリン・フィルハーモニーも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると、迫害を避けてアメリカに逃れた。この録音はウィーンのムジークフェライン大ホールで録音されたもので、美しい残響を伴ったオーケストラの音色が名演奏に花を添えている。復刻にはSPレコード特有のノイズが少ない米VICTOR盤を使用した。 | ||
メンゲルベルグ〜 ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 Op.73 |
ウィレム・メンゲルベルグ指揮 アムステルダム・ コンセルトヘボウo. | |
録音:1940年4月9日、アムステルダム|独 TELEFUNKEN SK 3075/9 。 ウィレム・メンゲルベルグ(1871-1951)はオランダの大指揮者。1895年24歳でアムステルダム・コンセルトヘボウo. の首席指揮者に就任した。さらに1921年-30年にはNYPハーモニ-so. の首席指揮者を兼任、レコード録音は機械式録音時代と電気録音時代のニューヨーク録音は米VICTOR 、電気録音初期のコンセルトヘボウとの録音は英COLUMBIAと独ODEONに、電気録音の完成期には独TELEFUNKENに行った。またコンセルトヘボウとのライヴ放送録音はLP時代になって蘭PHILIPSから発売された。この録音は第2次世界大戦突入直後のもので、SPレコードの盤質が悪くヒズミが多いが貴重な演奏のために本シリーズに組み入れた。 | ||
シャルク& VPO 〜ベートーヴェン: 交響曲第6番 ヘ長調 Op.68「田園」 |
フランツ・シャルク指揮 VPO | |
録音:1928年4月|英 HIS MASTER'S VOICE D.1473/7 (U.K.) 。フランツ・シャルク(1863-1931)はウィーン生まれ。1903、1905-1908年にVPO (創立1842年)の常任指揮者をつとめた。この地位はグスタフ・マーラー(1898-1901)、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー(1901-1903)を継いだもので、同時期にカール・ムック(1904-1906)、フェリックス・モットル(1904-1907)、リヒャルト・シュトラス(1906-1908)も常任指揮者だった。シャルクはベートーヴェンの交響曲3曲を電気録音最初期にHMVに残した。この「田園」の他に交響曲第5番「運命」(HMV C2022/5, 1929年10月録音)、交響曲第8番(HMV D.1481/3, 1928年4月録音)がある。この時代のVPOはコンサート・マスターにアルノルト・ロゼー(1863-1964)が居た時代(在任:1881-1931)でシャルクの指揮するこれらの古いSPレコードからも他のオーケストラとは違った音の香りがする。この独特な音色を是非聴き取ってほしい。 | ||
R.シュトラウス指揮〜 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」 |
リヒャルト・シュトラウス指揮 ベルリン国立歌劇場o. | |
録音:1928年|独 GRAMMOPHON 66814/7 。リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)はドイツのミュンヘン生まれ。作曲家としてよく知られているが、指揮者としても活躍した。電気録音初期にはモーツァルト:交響曲第39番、第40番、第41番「ジュピター」に加えてベートーヴェン:交響曲第5番「運命」と第7番があった。米 BRUNSWICK が開発した"ライトレイ"方式の電気録音を採用した独GRAMMOPHONはこの方式でフルトヴェングラー指揮BPOの「運命」(GRAMMOPHON69855/9)を1926年に録音した。機械式録音とあまり変わらない音で評判はいまいちだった。ドイツ本国ではすぐに廃盤になり、その代わりに登場したのがこのリヒャルト・シュトラウス指揮の「運命」だった。切れ込みの良い鮮やかな音質で精気あふれるシュトラウスの演奏に今日聴いても心を打たれる。ドイツ本国ではすぐに廃盤になったフルトヴェングラーの「運命」だが日本ではHMVによる「運命」の新録音(HMV DB3328/32S=78CDR-3521)が登場した1930年代半ば過ぎまでポリドール社のカタログに残っていた。 | ||
カザルス指揮〜ベートーヴェン: 交響曲第4番 変ロ長調 Op.60 / 「アテネの廃墟」 Op.113 〜序曲 |
パブロ・カザルス指揮 バルセロナ・パブロ・カザルスso. | |
録音:1929年7月4日、オリンピア劇場、バルセロナ|英 HIS MASTER'S VOICE D.1725/8 。チェロ奏者パブロ・カザルス(1876-1973)のレコード録音は1915年-25年の機械式録音時代にアメリカCOLUMBIAに約60面、アメリカVICTORに2面が残されている。カザルスがピアノのアルフレッド・コルトー(1877-1962)とヴァイオリンのジャック・ティボー(1880-1953)と入れたトリオの録音は1926年12月-1928年12月の2年間にイギリスのHMVによってなされた。ハイドン:ピアノ三重奏曲 ト長調(HMV DA895/6=78CDR-3199)、ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲「大公」(HMV DB1223/7=78CDR-3009)、シューベルト:ピアノ三重奏曲第1番(HMV DB947/50=78CDR-3131)、メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第1番(HMV DB1072/5=78CDR-3723)、シューマン:ピアノ三重奏曲 ニ短調(HMV DB1209/12=78CDR-3728)がその全貌。トリオに続いてティボーとカザルスはコルトーの指揮でブラームス:ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲を録音した(HMV DB1311/4, 1929年5月10日-11日、バルセロナ録音)。この頃HMVにはカザルスを指揮者として起用する動きがあり、最初はLSOとブラームス:ハイドンの主題による変奏曲(HMV DB1131/4, 1927年12月と28年3月録音)だった。そしてバルセロナにカザルスのためのオーケストラが作られると、1929年7月にこのベートーヴェン:交響曲第4番と交響曲第1番(HMV D.1729/31)が録音された。これらはあまり知られていない指揮者カザルスのSPレコード。名演奏。 | ||
カザルス・トリオ〜 シューマン:ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.63 |
アルフレッド・コルトー(P) ジャック・ティボー(Vn) パブロ・カザルス(Vc) | |
録音:1928年11月15日、18日、12月3日、Cスタジオ、小クイーンズ・ホール、ロンドン|英 HIS MASTER'S VOICE, DB 1209/12 。 この3人は1905年頃からトリオとして活動をはじめた。アルフレッド・コルトー(1877-1962)のもとにパブロ・カザルス(1876-1973)とジャック・ティボー(1880-1953)が集まって自然発生的に生まれた室内楽グループで史上最高の顔合わせ。このトリオのレコード録音が始まった時点まで約20年の歳月をかけて音楽を熟成させた。3人の奏でるすべての音、すべてのフレーズが聴き手に感動をあたえる。このグループのすべての録音がこのシリーズで聴くことができる。 | ||
レジナルド・ケル モーツァルト:クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 (*) シューマン:幻想小曲集 Op.73 No.1 (#) |
レジナルド・ケル(Cl) マルコム・サージェント指揮(*) LPO (*) ジェラルド・ムーア(P;#) | |
録音:1940年3月7日(*)、3月29日(#)、アビー・ロード第1(*)&第3(#) スタジオ|英 HIS MASTER'S VOICE, C 3167/70 。 レジナルド・ケル(1908-1981)は英国のクラリネット奏者。王立音楽アカデミーでハイドン・ドレイパーに師事し、在学中からロイヤル・フィルハーモニー協会オーケストラの首席奏者をつとめ、卒業後ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に移籍した。戦後の1948年アメリカに渡りコンサートやレコーディングのほかにベニー・グッドマン(1909-1988)やピーナッツ・ハッコー(1918-2003)にクラシック奏法を指導した。1958年に母国に帰り画家として余生を送った。指揮のサー・マルコム・サージェント(1895-1967)は英国の指揮者。1939年ロンドンpo. が創設されると客演指揮者として活躍した。これはその時期の録音。 | ||
プレスラー〜 MGM 映画「愛の調べ」(1947)より シューマン/リスト編曲:献呈 Op.25 No.1 / シューマン:トロイメライ Op.15 No.7 ブラームス:ワルツ 変イ長調 Op.39 No.15 /子守歌 シューマン:アラベスク ハ長調 Op.18 /謝肉祭 Op.9 メナヘム・プレスラー(P) | ||
録音:1947年|米 MGM, 30026/29 (Set: 6A) 。 1923年12月16日、生まれのピアニスト、メナヘム・プレスラーの初録音。プレスラーはドイツのマグデブルグ生まれ。1939年ナチスの迫害を逃れパレスチナに家族と共に移住した。祖父母、叔父、叔母、いとこ等はすべてナチスの強制収容所で死亡した。1946年サンフランシスコで開かれたドビュシー国際ピアノ・コンクールで一等賞を得た。この録音はその翌年のものでこのピアニストの初レコード。録音時プレスラーは18歳だった。1955年のバークシャー音楽祭でボザール・トリオのピアニストとてしデビュー。50年以上このトリオのピアニストとして活躍後、2014年の90歳でBPOの演奏会でソロ・デビューし現在もソロ・ピアニストとして活躍中。映画「愛の調べ」は1947年に製作された。クララ・シューマンと夫のロベルトの出会いから結婚生活を描いたもので、クラレンス・ブラウン監督、クララ・シューマン役にキャサリン・ヘプバーン、ローベルト・シューマン役にポール・ヘンリード、ブラームス役にロバート・ウォーカーが出演し日本では1949年に公開された。映画公開当時ピアノはアルトゥール・ルービンシュタインによるものとされていた。 | ||
ベイヌム〜ブラームス: 交響曲第3番 ヘ長調 Op.90 |
エドゥアルト・ ファン・ベイヌム指揮 LPO | |
録音:1946年3月20日、22日-23日、ウォルサムストウ・アセンブリー・ホール、ロンドン|英 DECCA, K 1448/52 。 エドゥアルト・ファン・ベイヌム指揮ロンドン・フィルの英デッカへの初録音。エドゥアルト・ファン・ベイヌム(1900-1959)はアムステルダム音楽院出身のオランダの指揮。1929年にアムステルダム・コンセルトヘボウo. にデビュー。1931年にウィレム・メンゲルベルク(1871-1951)の率いる同楽団の次席指揮者になり、1938年からはメンゲルベルクと共に首席指揮者となった。大戦後の1945年、メンゲルベルクの後任としてコンセルトヘボウo. の音楽監督兼終身指揮者に就任した。その頃コンセルトヘボウo. のロンドン公演が大成功し、英デッカに録音を開始した。1949年から1951年にロンドン・フィルの首席指揮者、1956年から1958年にロサンゼルスpo. の首席指揮者をつとめたが、1959年の4月13日、アムステルダムでブラームス:交響曲第1番リハーサル中に心臓発作で倒れ死去した。享年57歳。録音は SP レコードからモノラル LP 時代の英デッカ、モノラル LP からステレオ LP はオランダ・フィリップスに多く残した。 | ||
ワルテル・ストララムの芸術 ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲 ラヴェル:「鏡」〜道化師の朝の歌 イベール:寄港地(3つの交響的絵画) |
ワルテル・ストララム指揮 ストララムo. | |
録音:1930年2月24日、3月30日、1月23日|仏 COLUMBIA, LFX 30, LFX 185, LFX 17 。#強音で音ワレあり。 指揮者のワルテル・ストララム(1876-1933)は、1925年パリの数あるオーケストラの中から優れた人材を選んでコンセール・ストララムo. を組織した。その目的は当時の作曲家が書いた作品を最上の演奏で世に知らせることだった。中でも作曲家モーリス・ラヴェル(1875-1937)の「ボレロ」(1928)の初演はよく知られている。オーケストラはコンサート・マスターにマルセル・ダリュー(1891-1989)、フルートにマルセル・モイーズ(1889-1984)、ハープにリリー・ラスキーヌ(1893-1988)らの超一流演奏家が加わっていた。これらの録音でも各所にそのソロが聴ける。特に第1曲のドビュッシー:牧神の午後への前奏曲のモイーズのフルート・ソロとラスキーヌのハープは注目。オーケストラの内部を浮き彫りにする鮮烈な演奏に耳を傾けられたい。 | ||
カザルス・トリオ〜メンデルスゾーン: ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 Op.49 |
アルフレッド・コルトー(P) ジャック・ティボー(Vn) パブロ・カザルス(Vc) | |
録音:1927年6月20日-21日、クイーンズ・ホール(大ホール)、ロンドン|英 HIS MASTER'S VOICE, DB 1072/5 。この3人の中の最年長者パブロ・カザルス(1876-1973)の名を冠したカザルス・トリオは1905年頃から活動をはじめた。アルフレッド・コルトー(1877-1962)のもとにカザルスとジャック・ティボー(1880-1953)が集まって自然発生的に生まれた室内楽グループでクラシック史上最高の顔合わせ。このトリオのレコード録音が始まった時点まで約20年の歳月をかけて音楽を熟成させた。3人の奏でるすべての音、すべてのフレーズが聴き手に感動をあたえる。 | ||
コルトー 1929 〜 ショパン:4つのバラード |
アルフレッド・コルトー(P) | |
録音:1929年6月7日(作品23)、3月11日(作品47, 作品38, 作品47)、小クイーンズ・ホール、ロンドン|米 VICTOR、 7333/6 (英 HIS MASTER'S VOICE, DB 1343/6 と同一録音) アルフレッド・コルトー(1887-1962)は20世紀最高のフランスのピアニスト。1892年5歳でパリ音楽院のルイ・ディエメール(1843-1919)のクラスに入り1896年9歳で一等賞を得て卒業。1906年にヴァイオリンのジャック・ティボー(1880-1953)とチェロのパブロ・カザルス(1876)とトリオを組んだ。1917年にパリ音楽院教授、1919年にパリにエコール・ノルマル音楽学校を設立した。コルトーはショパンの4つのバラードを生涯に3回録音していて、これはその最初の録音。1933年の第2回の録音はこのシリーズの78CDR-3223で出ている。比較試聴は興味あるところ。 | ||
ハイフェッツ〜J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 BWV.1001 |
ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn) | |
録音:1935年12月11日、 EMI アビー・ロード第3スタジオ、ロンドン|日本ビクター、 JD 769/70 。 ハイフェッツが34歳の時に録音したJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソンタ第1番。原録音は英国 HIS MASTER'S VOICE だがカタログ番号が DB 2721/2 として与えられたものの、何らかの理由で未発売に終わった。だが日本ビクターには原盤が送られてきたために、日本地域だけで発売された超稀少SPレコードからの復刻。ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)はロシア生まれのアメリカのヴァイオリニスト。ペテルブルグ音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1939)に師事し10歳でデビューした。1917年16歳の時にロシア革命を逃れ一家はシベリア経由でアメリカに移住した。その途中日本に立ち寄った伝えられる。移住後少年ハイフェッツは一流演奏家として待遇された。その後青年期、壮年期から引退するまで世界最高のヴァイオリン奏者として崇められた。ハイフェッツのレコードは LP 期のものより SP 期のものが優れていることはあまり知られていない。 SP レコードからの復刻はこのシリーズで多数出ている。 | ||
マルツィ〜モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218 |
ヨハンナ・マルツィ(Vn) オイゲン・ヨッフム指揮 バイエルン放送室内o. | |
録音:1952年11月3日-4日、アメリカ・ハウス、ミュンヘン|独 GRAMMOPHON, 72323/4 (VG盤) 。 SP レコード末期にドイツ・グラモフォンが開発した78回転長時間収録VG盤からの復刻。ヨハンナ・マルツィ(1924-1979)はハンガリー生まれの女流ヴァイオリニスト。1934年10歳でブダペストのフランツ・リスト音楽院に入学、イェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。13歳でデビューしたが、大戦のために活動を中断。1947年ジュネーヴ国際音楽コンクールに入賞しスイスに居をかまえた。1953年ロンドンでデビューした。この録音はロンドン・デビュー以前にドイツ・グラモフォンにいれた物。このシリーズでモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ K.376 (78CDR-3208)が出ている。指揮者のオイゲン・ヨッフム(1902-1987)はバイエルン生まれ。1949年バイエルン放送so. の創立に関わり、60年まで首席指揮者をつとめた。これはこの時期の録音。 | ||
ティボー&ストコフスキー〜 ラロ:スペイン交響曲 Op.21 |
ジャック・ティボー(Vn) レオポルド・ストコフスキー指揮 NYP | |
録音:1947年5月1日、カーネギー・ホール、ニューヨーク|放送済ライヴ音源。 ジャック・ティボー(1880-1953)は20世紀前半に活躍したフランスの大ヴァイオリニスト。ボルドー出身で1893年からパリ音楽院のマルタン・マルシック(1848-1924)に師事し、1896年16歳で一等賞を得た。生活のためにパリのカフェ、コンセール・ルージュで弾いていたのを指揮者のエドゥアール・コロンヌ(1838-1910)に見いだされコロンヌo. の楽員に採用された。そのときティボーの親友で後にパリ音楽院の教授になったジュール・ブーシュリ(1877-1963)もコロンヌの楽員になった。ティボーは1923年と1936年に来日、1953年の3度目の来日の途中、乗っていたエール・フランス機がアルプスの支峰スメ山に激突して死亡した。享年72歳。この録音は第2次世界大戦後NYPの演奏会にティーボーが登場した時の放送がアセテート盤に残されていた物。数種類あるティボーの「スペイン交響曲」のライヴ録音の中で最も優れた演奏で再発の要望が大きかった。 | ||
レイボヴィッツ& RPO 〜ベートーヴェン:交響曲全集 Vol.5 〔第9番 ニ短調 Op.125「合唱」〕 インゲ・ボルク(S) ルート・ステュアート(A) リチャード・ルイス(T) ルートヴィヒ・ヴェーバー(B) ルネ・レイボヴィツ指揮ロイヤルpo.、ビーチャムcho. | ||
録音:1961年6月3日、5日、7日、ウォルサムストウ・タウン・ホール、ロンドン|日 READER'S DIGEST, RBS 6B, 7 (ステレオ) 。 ルネ・レイボウィツ(1913-1972)はポーランドのワルソー生まれ。1926年に家族と共にパリに定住。1930-1933年にベルリンでアルノルト・シェーンベルク(1874-1951)に、ウィーンでアントン・ヴェーベルン(1883-1945)について作曲法を師事した。さらにパリではオーケストレーション法をモーリス・ラヴェル(1875-1937)に、指揮法をピエール・モントゥー(1875-1964)に学んだ。1936年から指揮者としての活動を開始し、数年の内に名声を高めたが第2次大戦の勃発で指揮活動から退き、作曲や著作に専念するようになった。戦後になって再び指揮者として復帰した。これはステレオ期にリーダースダイジェスト社に録音された物。目が覚めるような指揮振りと録音はベートーヴェンが現代に蘇ったような印象を与える。今回発売のカップリングは録音順に並べてレイボウィッツがベートーヴェンの交響曲全曲を構築していく過程を再現することを試みた。 | ||
レイボヴィッツ& RPO 〜 ベートーヴェン:交響曲全集 Vol.4 〔第8番 ヘ長調 Op.92 (*)/ 第4番 変ロ長調 Op.60 (#) 〕 |
ルネ・レイボヴィツ指揮 ロイヤルpo. | |
録音:1961年4月14日(*)、5月30日-31日(#) 、ウォルサムストウ・タウン・ホール、ロンドン|日 READER'S DIGEST, RBS 6A (*), RBS 3A (#) (ステレオ) 。 | ||
レイボヴィッツ& RPO 〜 ベートーヴェン:交響曲全集 Vol.3 〔第3番 変ホ長調 Op.55「英雄」(*) / 第5番 ハ短調 Op.67 (#) |
ルネ・レイボヴィツ指揮 ロイヤルpo. | |
録音:1961年4月10日(*)、11日(*)、12日(*/#)、13日(#)、ウォルサムストウ・タウン・ホール、ロンドン|日 READER'S DIGEST, RBS 2, RBS 3B (ステレオ) 。 | ||
レイボヴィッツ& RPO 〜 ベートーヴェン:交響曲全集 Vol.2 〔第2番 ニ長調 Op.36 (*) / 第1番 ハ長調 Op.21 (#) 〕 |
ルネ・レイボヴィツ指揮 ロイヤルpo. | |
録音:1961年4月10日(*/#)、11日(*/#)、12日(#)、ウォルサムストウ・タウン・ホール、ロンドン|日 READER'S DIGEST, RBS 1 (ステレオ) 。 | ||
レイボヴィッツ& RPO 〜 ベートーヴェン:交響曲全集 Vol.1 〔第7番 イ長調 Op.92 (*)/ 第6番 ヘ長調 Op.68「田園」 (#) 〕 |
ルネ・レイボヴィツ指揮 ロイヤルpo. | |
録音:1961年4月5日(*)、6日(*)、7日(*/#)、8日(#) 、ウォルサムストウ・タウン・ホール、ロンドン|日 READER'S DIGEST, RBS 5 (*), RBS 4 (#) (ステレオ) 。 | ||
デカーヴ&ブイヨンSQ 〜フランク:ピアノ五重奏曲 ヘ短調
リュセット・デカーヴ(P) ブイヨンSQ [ガブリエル・ブイヨン(Vn1) アルベール・ロカテッリ(Vn2) アンリ・ブノワ(Va) カミーユ・ドゥローベル(Vc)] | ||
録音:1940年12月17日-18日、ペルーズ・スタジオ、パリ|仏 DISQUE "GRAMOPHONE", DB 5123/26 。 ピアノのリュセット・デカーヴ(1906-1993)は幼少時からマルグリット・ロン(1874-1966)に師事し、パリ音楽院では1923年にイヴ・ナット(1890-1956)のクラスで一等賞を得た。現代音楽を得意とし、1923年にプロコフィエフ(1891-1953)のピアノ協奏曲第3番を作曲者の指導を受けた後パリで演奏した。またジョリヴェ(1905-1974)の「5つの儀礼の踊り」やピアノ協奏曲の初演を行った。とくに協奏曲は生涯100回以上演奏した。音楽院ではロンやナットの助手をつとめ、1947年から教授に選任され1976年に引退するまでその地位にあった。門下生にはブリジット・アンゲレル、カティアとマリエル・ラベック姉妹、ブルーノ・リグット、パスカル・ロジェ、ジャン=イヴ・ティボーデ等がいる。ブイヨン弦楽四重奏団はガブリエル・ブイヨン(1896-1984)によって結成された。ブイヨンはパリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)のクラスで学び1910年に一等賞を得た。1940年にカペー弦楽四重奏団のヴィオラ奏者ブノワとチェロ奏者ドゥローベルと四重奏団を結成した。また1943年から音楽院教授をつとめた。フランクのピアノ五重奏曲はこのシリーズでマルセル・シャンピ(P)とカペーSQ (78CDR-3034)、アルフレッド・コルトー(P)とインターナショナルSQ (78CDR-3125)、ジャクリーヌ・エマール(P)とレーヴェングートSQ (33CDR-3403)が出ている。いずれもフランスのピアニストで聴き比べも一興。 | ||
クライスラー&ラフマニノフ〜グリーグ: ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ短調 Op.45 |
フリッツ・クライスラー(Vn) セルゲイ・ラフマニノフ(P) | |
録音:1928年9月15日、ベルリン|豪 HMV, DB 1259/61 。 大ヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーが(1875-1962)が大ピアニストのセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)と顔を合わせた歴史的録音。クライスラーとラフマニノフは第1次世界大戦後、同じマネージャーだったことからこの録音が実現したと言われる。これは電気録音初期のもので録音時クライスラーが53歳、ラフマニノフが55歳だった。この二人の巨匠による録音は他にベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第8番(78CDR-3575)とシューベルト:"デュオ"ソナタ イ長調があるが、いずれもアメリカ録音。これは録音当時クライスラーが居を構えていたベルリン録音。じっくり時間をかけた録音であることは原盤番号の後にあるテイク数が合計31テイクであったことに現れている。SP盤6面を完成するためになんと31枚の原盤を使ったということである。 | ||
リッチ〜J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV.1003 |
ルッジェーロ・リッチ(Vn) | |
録音:1948年頃|米 VOX, 12039/40 。 ルッジエーロ・リッチ(1918-2012)はアメリカのヴァイオリニスト。メニューインの師でもあったルイ・パーシンガー(1887-1966)に師事し、16歳でサンフランシスコでデビューした。1930年代にベルリンでゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)の門下に入った。1942年から1945年まで米軍籍で慰問演奏に携わった。この演奏は戦後のSPレコード末期の録音で盤がシェラックではなくLPと同じビニール製でSP特有の針音がしない。リッチはこのシリーズでパガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番(78CDR-3687)、モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ K.378 (33CDR-3690)、サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番(33CDR-3430)が出ている。 | ||
L.クラウス〜ハイドン:ピアノ・ソナタ集 〔第34番 ホ短調/第49番 変ホ長調〕 |
リリー・クラウス(P) | |
録音:1953年頃|原盤:仏デュクレテ=トムソン|英 LONDON (DUCRETET-THOMSON), EL 93021 (モノ) 。 リリー・クラウス(1905-1986)はハンガリー生まれの女流ピアニスト。17歳でブダペスト音楽院に入り、ベラ・バルトーク(1881-1945)、ゾルターン・コダーイ(1882-1967)らに師事した。1922年にはウィーンに赴きウィーン音楽アカデミーでアルトゥール・シュナーベル(1882-1967)とエドゥアルト・シュトイアーマン(1892-1964)についてさらに研鑽を積んだ。1930年代からモーツァルトやベートーヴェンの演奏家として名声をあげ、ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)と共演して各国で評判をとった。1942年インドネシアのジャワで公演中、ゴールドベルクと共に日本軍によって軟禁され大戦集結まで拘束された。戦後イギリス国籍を取得して演奏活動を再開、1967年から83年はアメリカで活躍。最終的にアメリカに定住した。このシリーズではモーツァルト:ピアノ協奏曲第18番(78CDR-3274)、シモン・ゴールドベルクと共演したベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(78CDR-3431)、モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ選集(78CDR-3380/81)、バルトーク:民謡の旋律による3つのロンド&ルーマニア民族舞曲集(78CDR-3707)が出ている。 | ||
レイボヴィッツ〜 ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14 |
ルネ・レイボヴィツ指揮 ウィーン国立歌劇場o. | |
録音:1958年7月、モーツァルトザール、コンツェルトハウス、ウィーン| 独 HELIODOR 429 003 (ステレオ) (米 WESTMINSTER WST 14046と同一録音) #当初 米 WESTMINSTER 盤が使用される予定でしたが、変更になりました。ルネ・レイボウィツ(1913-1972)はポーランドのワルソー生まれ。1926年に家族と共にパリに定住。1930-1933年にベルリンでアルノルト・シェーンベルク(1874-1951)に、ウィーンでアントン・ヴェーベルン(1883-1945)について作曲法を師事した。さらにパリではオーケストレーション法をモーリス・ラヴェル(1875-1937)に、指揮法をピエール・モントゥー(1875-1964)に学んだ。1936年から指揮者としての活動を開始し、数年の内に名声を高めたが第2次大戦の勃発で指揮活動から退き、作曲や著作に専念するようになった。戦後になって再び指揮者として復帰した。この録音はステレオLP初期の物。格調高いこの演奏は新ウィーン楽派の大作曲家の薫陶の賜物と思う。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2017年リリース分 1月-12月 (末尾 649-708) | ||
ヴァインガルトナー〜 ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14 |
フェリックス・ ヴァインガトルナー指揮 LSO | |
録音:1925年10月29日、11月1日、ロンドン|英 COLUMBIA L1708-13 。#原盤に起因する音割れがあります。 フェリクス・ヴァインガルトナー(1863-1942)はオーストリアの大指揮者。ライプツィヒ大学で哲学を専攻するが、音楽への魅力に惹かれグラーツ、ライプツィヒ、ヴァイマルの各音楽院で学んだ。最初作曲家を志したが生活の安定を求め指揮者に転じた。1885年からドイツ各地の歌劇場を転々としたが、1908年にはグスタフ・マーラーの後任としてウィーン宮廷歌劇場とVPOの音楽監督に就任した。1937年夫人のカルメン・テューダーと来日し夫婦で新so.(現在のNHKso. )を指揮した。ヴァインガルトナーのレコード録音は機械式録音の時代からあったが、この「幻想交響曲」はマイクロフォンを使用した電気録音の最初期の物。ヴァインガルトナーは「幻想交響曲」を1925年の3月に機械式録音で行ったが、電気録音の開発情報で未発売にしたと伝えられる。 | ||
リリー・クラウス〜バルトーク: ルーマニア民族舞曲集(*) / 民謡の旋律による3つのロンド〔 Nos.1 (*), 2-3 (#) 〕 |
リリー・クラウス(P) | |
録音:1938年8月23日(*) 、1938年10月7日(#) 、ロンドン|濠 PARLOPHONE AR 1123-24 。 リリー・クラウス(1905-1986)はハンガリー生まれの女流ピアニスト。17歳でブダペスト音楽院に入り、ベラ・バルトーク(1881-1945)、ゾルターン・コダーイ(1882-1967)らに師事した。1922年にはウィーンに赴きウィーン音楽アカデミーでアウトゥール・シュナーベル(1882-1967)とエドゥアルト・シュトイアーマン(1892-1964)についてさらに研鑽を積んだ。1930年代からモーツァルトやベートーヴェンの演奏家として名声をあげ、ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)と共演して各国で評判をとった。1942年インドネシアのジャワで公演中、ゴールドベルクと共に日本軍によって軟禁され大戦集結まで拘束された。戦後イギリス国籍を取得して演奏活動を再開、1967年から83年はアメリカで活躍。最終的にアメリカに定住した。このシリーズではモーツァルト:ピアノ協奏曲第18番(78CDR-3274)、シモン・ゴールドベルクと共演したベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(78CDR-3431)、モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ選集(78CDR-3380/81)が出ている。 | ||
プシホダ〜無伴奏抜粋 1943|J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ハ長調 BWV.1005 より〔第1楽章 アダージョ/第2楽章 フーガ〕 ヴァーシャ・プシホダ(Vn) | ||
録音:1943年6月、ベルリン|独 POLYDOR 68282-83 。元々抜粋の録音。 鬼才プシホダが第2次世界大戦の真っ只中に録音したJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 BWV.1005から第1楽章アダージョと第2楽章フーガ。なぜ全曲を完成しなかったかは謎。ヴァーシャ・プシホダ(1900-1960)はチェコのヴォズナニーに生まれたヴァイオリニスト。11歳でプラハ音楽院に入った。ミラノの演奏会に居合わせた大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)を驚愕させ「新しいパガニーニ」と激賞させたのがきっかけでヨーロッパ諸国で認められた。1921年にアメリカデビュー。その直後から縦振動盤のエジソン・ダイアモンドディスクやドイツPOLYDORに録音が始まった。第2次世界大戦中はザルツブルクのモーツァルテウムで教鞭をとった。戦後はウィーンを拠点に教鞭と演奏活動を行った。プシホダはこのシリーズでドヴォルジャーク:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3392)、タルティーニ:悪魔のトリル(78CDR-3628)、チゴイネルワイゼン他(78CDR-3574)、ヴィターリ:シャコンヌ(78CDR-3068)が出ている。 | ||
デゾルミエール〜チャイコフスキー:「くるみ割り人形」組曲 Op.71a 〔小序曲/行進曲/こんぺい糖の踊り/トレパーク/アラビアの踊り/中国の踊り/あし笛の踊り/花のワルツ〕/ バレエ「白鳥の湖」抜粋 〔第2幕への導入/ワルツ/小さな白鳥たちの踊り/情景ー第2幕/チャルダーシュ/フィナーレ〕 ロジェ・デゾルミエール指揮フランス国立so. | ||
録音:1951年4月、パリ|米 CAPITOL P 8140 (モノラル)。 ロジェ・デゾルミエール(1898-1963)はフランスのヴィシー生まれ。パリ音楽院で作曲家のシャルル・ケクラン(1867-1950)に師事し卒業後パリのソワレ・ド・パリo. のフルート奏者になった。1921年コンセール・プレイエルの指揮になり、1924-1925にはパリのスエーデン・バレエ団の指揮者をつとめた。1925年ディアギレフ・バレエ団にスカウトされ、バレエ団のヨーロッパ公演を指揮した。1929年ディアギレフの死によってバレエ団は解散、デゾルミエールは現代音楽とバロック音楽のスペシャリストとして名声を確立していった。1937年オペラ・コミックの指揮者になり、1944年に音楽監督に指名された。1945年にはパリ・オペラ座のアシスタント・ディレクターの職務が加わった。特にドビュッシーの歌劇「ペレアスとメリザンド」のほか大戦後の音楽界に登場したオリヴィエ・メシアンやピエール・ブレーズ等の先端音楽の初演を手掛けた。またヴェルサイユでバロック音楽の演奏会に力を入れ、一方で映画音楽の作曲家でもあった。1950年フランス国立o. の首席指揮者に就任したが、麻痺性の疾患にかかり引退した。これはLP最初期に出たデゾルミエールの名演の復刻。 | ||
レイボヴィツ〜ワルツへのお誘い ウェーバー/ベルリオーズ編曲:舞踏への勧誘 / チャイコフスキー:弦楽サレナード Op.48 〜ワルツ ベルリオーズ:幻想交響曲 Op..14 〜舞踏会 / シベリウス:悲しきワルツ Op.44 ヨハン・シュトラウス II :ウィーン気質 / ヨーゼフ・シュトラウス:わが人生は愛と喜び ルネ・レイボヴィツ指揮ウィーン国立歌劇場o. | ||
録音:1958年7月、ウィーン|米 WESTMINSTER XWN 18817(モノラル)。 ルネ・レイボヴィツ(1913-1972)はポーランドのワルソー生まれ。1926年に家族と共にパリに定住。1930-1933年にベルリンでアルノルト・シェーンベルク(1874-1951)に、ウィーンでアントン・ヴェーベルン(1883-1945)について作曲法を師事した。さらにパリではオーケストレーション法をモーリス・ラヴェル(1875-1937)に、指揮法をピエール・モントゥー(1875-1964)に学んだ。1936年から指揮者としての活動を開始し、数年の内に名声を高めたが第2次大戦の勃発で指揮活動から退き、作曲や著作に専念するようになった。戦後になって再び指揮者として復帰した。この録音は戦後の LP 初期のもので、現在ではほとんど忘れ去られていた物。近年レイボヴィツのステレオ録音が再評価されているが、これはウィーン国立歌劇場o.(実体はVPO)との共演で、ポピュラーな曲をこれど格調高く仕上げているのはさすがに新ウィーン楽派の大作曲家の薫陶の賜物と思う。 | ||
メーリケ〜シューベルト: 交響曲第8番 ロ短調 D.957「未完成」 |
エドゥアルト・メーリケ指揮 ベルリン・オペラハウスo. | |
録音:1921年10月22日、ベルリン(アコースティック)|英 PARLOPHONE E 10052/54 。この名曲の世界初全曲録音。#古い録音のため各所にノイズがあります。 指揮者のエドゥアルト・メーリケ(1877-1929)はシュトゥットガルト生まれ。ピアニスト、作曲家としても活躍した。1912年-24年までベルリン・ドイツ・オペラの指揮者ををつとめた。この録音はその頃の物。1919年からレコード会社 PARLOPHONE/ODEON に録音を始め数多くのレコードを残した。1922年と1923年にはワグナーの楽劇&オペラの北米引っ越し公演をしている。1924-29年にはドレスデン・フィルの音楽監督をつとめた。1929年に52歳で没した。「未完成交響曲」の最初の録音は1911年4月吹き込み、アメリカ COLUMBIA の Prince's Symphony OrchestraによるSP盤2面に収めた抜粋版だった。それから10年後の1921年にやっとこのSP盤6面の全曲版が登場した。その間に5種の抜粋盤が出た。ちなみに未完成交響曲の初演は1865年ウィーンで行われた。 | ||
ハンゼン&メンゲルベルク〜 チャイコフスキー: ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 Op.23 |
コンラート・ハンゼン(P) ウィレム・メンゲルベルク指揮 BPO | |
録音:1940年7月9日、ジングアカデミー、ベルリン|独 TELEFUNKEN SK 3092/5 。 コンラート・ハンゼン(1906-2002)はドイツのピアニスト。ベルリン高等音楽院でエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)に師事し、後にフィッシャーの助手をつとめるかたわらコンサート・ピアニストとして活躍した。SPレコードにはこのチャイコフスキーの他に1941年6月20日、22日録音のベートーヴェン「皇帝」(ヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ劇場o.) (78CDR-3184)があった。ドイツ帝国放送のライヴ録音にはフルトヴェングラー指揮BPO (1943年10月31日収録)のベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番がLP時代になって発売された。ハンゼンは第2次世界大戦後教育者として活躍し、デットモルト音楽アカデミーの創設に関わり、ヘレン版のベートーヴェン全集の校訂をした。東京藝術大学や上野学園大学で教えたこともある。ウィレム・メンゲルベルグ(1871-1951)はオランダの大指揮者。1895年、24歳でアムステルダム・コンセルトヘボウo. の首席指揮者に就任した。さらに1921年-30年にはニューヨーク・フィルハーモニックso. の首席指揮者を兼任、また第2次世界大戦中はBPOの指揮者をつとめた。 | ||
作曲者自身の演奏を含むSPレコード復刻「セントルイス・ブルース」 1928-42 ニュー・セントルイス・ブルース[ボイド・センター(Cl) エディ・ラング(G) ジャック・ラッセル(P)/ 録音:1928年1月21日、ニューヨーク/日本コロムビア J 1793 ]/ セントルイス・ブルース・ルンバ(ペドロ・グルダ編曲) [マノロ・カストロとハバナ・ヨットクラブ楽団/録音:1931年7月10日/日本ビクター 22812 ]/ セントルイス・ブルース「コンサート・ヴァージョン」[ビング・クロスビー(Vo) デューク・エリントン楽団/ 録音:1932年2月11日、ニューヨーク/英 COLUMBIA DX 898 ]/ 浪曲「セントルイス・ブルース」(平茂雄編曲)[川田義雄〔吉本ショウ〕/録音:1939年9月/日本ビクター J-54656 ]/ セントルイス・ブルース〔10種〕 [アイリーン・ビースリー(Vo) ベニー・グッドマン(Cl)/録音:1928年5月1日/米 VICTOR 21467 ]/ [ルディ・ヴァレー(Vo)と彼のコネティカット・ヤンキース/ 録音:1930年2月19日/日本ビクター 22321, VICTOR (U.S.) 5880 ]/ [キャブ・キャロウェイ(Vo)と彼の楽団/録音:1930年7月24日/米 BRUNSWICK 33355 ]/ [ルイ・アームストロング楽団/録音:1933年4月26日/日本ビクター JA-125 ]/ [ボズウェル・シスターズ/録音:1935年8月21日/日本 COLUMBIA (Lucky) 60086 ]/ [ステファン・グラッペリとホット4 ジャンゴ・ラインハルト(G)/ 録音:1935年9月30日、パリ/米 DECCA 23032 ]/ [ベニー・グッドマン楽団/録音:1936年8月21日/日本ビクター JA-835 ]/ [マキシン・サリヴァン(Vo)とクロード・ソーンヒル楽団/録音:1938年6月29日/日本ビクター JA-1230 ]/ [W.C.ハンディとオーケストラ/録音:1939年12月26日、ニューヨーク/米 PHILHARMONIC FR 81 ]/ [カウント・ベイシー(P) オール・アメリカン・リズム・セクション バック・クレイトン(Tp) ドン・バイアス(テナーSax)/録音:1942年7月24日、ハリウッド/米 COLUMBIA 36711 ] | ||
「セントルイス・ブルース」はW.C.ハンディ(1873-1958)が作詩・作曲し、1914年9月に楽譜が出版されたジャズの名曲。以来多くのミュージシャンが演奏し、そのレコードは1000種類を越えるといわれている。今回選んだ14曲は昭和初期から第2次世界大戦中のSPレコードに残された名演奏を集めた。 Track 12 にあるハンディ自身の演奏はほとんど知られていないアメリカのマイナー会社への貴重な録音。 | ||
チーク・トゥ・チーク&ホワイト・クリスマス〜 コニー・ボズウェル、アーヴィング・バーリンを歌う チーク・トゥ・チーク/ホワイト・クリスマス/アレグザンダーズ・ラグタイム・バンド/ ショウほど素敵な商売はない/オール・バイ・マイセルフ/愛は海より深く/ ブルー・スカイオール・アローン/オールウェイズ/メイビー・イッツ・ビコーズ コニー・ボズウェル(Vo) ウォーレン・ヴィンセント指揮オーケストラ | ||
録音:1958年|米 DESIGN RECORDS DLP68 (モノラル) 。コニー・ボズウェル(1907-1976)は三姉妹によるコーラスグループ、ボズウェル・シスターズの中姉。長姉のマーサ・ボズウェル(1905-1958)、末姉のヴェット・ボズウェル(1911-1988)三姉妹はニューオリンズの中産階級の家庭生まれ。子供の頃からコニーはピアノ、マーサはチェロ、ヴェットはヴァイオリンを習い、演奏会を開いたこともあった。その後伝説のコルネット奏者エメット・ハーディ(1903-1925)に出会い、その激励を受けてコーラスに転向、ジャズのフィーリングが横溢した歌唱で人気を博した。ハーディはNORK (New Orleans Rhythm Kings)のコルネット奏者だった。1936年ヴェットの結婚を機にグループは解散、その後コニーはソロ・シンガーとして活躍した。このアルバムは作曲家アーヴィング・バーリン(1888-1989)の作品を集めたもので、バーリンの作曲活動50年を記念したアルバム。バーリンは旧ロシア帝国の現ベルラーシ生まれ。5歳の時両親と共にアメリカに移住。1915年に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を作曲して注目された。1927年初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」で主演のアル・ジョルスンが歌った「ブルー・スカイ」が大ヒットした。このアルバムのミュージシャンにはマンデル・ロウ(G)、ジョージ・ウェットリング(ドラムス)、ジョージ・デュヴィヴィエ(ベース)、アラン・シュルマン(Vc)等の名前が見える。 | ||
レジナルド・ケル〜クラリネット・アンコール集 ヘンデル/レジナルド・ケル編曲:リコーダー・ソナタへ長調 Op.1 No.11, HWV.369 〜シチリアーナとジーグ/ ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 HWV.370 〜アダージョ/ オーボエ・ソナタ ヘ長調、HWV.363a 〜アレグロ コレッリ/レジナルド・ケル編曲:ソナタ ハ長調 Op.5 No.9 〜ジーグ クライスラー:ベートーヴェンの主題によるロンディーノ / ラヴェル:ハバネラ形式の小曲 ドビュッシー:クラリネットとピアノのための小品 L.120 / リチャードソン:鳥のさえずり ゴダール/レジナルド・ケル編曲:ジョスランの子守歌 ベンジャンミン/W.プリムローズ編曲:ジャマイカン・ルンバ レジナルド・ケル(Cl) ブルックス・スミス(P) | ||
録音:1958年| 米 DECCA DL9926 (モノ) 。 レジナルド・ケル(1908-1981)は英国のクラリネット奏者。王立音楽アカデミーでハイドン・ドレイパーに師事し、在学中からロイヤル・フィルハーモニー協会オーケストラの首席奏者をつとめ、卒業後ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に移籍した。戦後の1948年アメリカに渡りコンサートやレコーディングのほかベニー・グッドマン(1909-1988)やピーナッツ・ハッコー(1918-2003)らにクラシック奏法を指導した。1958年に母国に帰り晩年は画家として余生を送った。このシリーズでベートーヴェン:街の歌(78CDR-3672)とモーツァルト:クラリネット五重奏曲(78CDR-3691)とブラームス:クラリネット五重奏曲(78CDR-3697)が出ている。ピアニストのブルックス・スミス(1912-2000)はテキサス州マッコーレン生まれ。ジュリアード音楽院でジョゼフ&ロジーナ・レヴィーンに師事した。1939年に卒業後、伴奏者として進むことを決意、名歌手達や器楽奏者達の伴奏者をつとめた。1954年にヴァイオリンのヤッシャ・ハイフェツ(1901-1987)の伴奏者となり、1972年ハイフェッツが引退するまでこの大ヴァイオリニストの伴奏者をつとめた。 | ||
E.ヴォルフ 弾き歌い〜シューベルト: 歌曲集「美しき水車屋の娘」 Op.25, D.795 |
エルンスト・ヴォルフ(Br/P) | |
録音:1937年3月-1938年1月、ニューヨーク。米 COLUMBIA, 9137-41M, 4196-98M 。エルンスト・ヴォルフ(1905-1992)はバリトン歌手、ピアニスト、指揮者のユダヤ系ドイツ人。1937年にアメリカ国籍を得て移住し、ユダヤ系の音楽家マックス・ラインハルト(1873-1943)とクルト・ヴァイル(1900-1950)の後押しで、フランツ・ウェルフェルの戯曲の制作アシスタントとして働いた。ウェルフェルはグスタフ・マーラーの未亡人アルマが三度目に結婚した人物。ヴォルフはニューヨークでユダヤ人音楽家組織の中心人物となり、またピアノの弾き語りでこのシューベルト:美しき水車屋の娘の他にロベルト・フランツ歌曲集、クララ・シューマン歌曲集、フランツ・リスト歌曲集をアメリカCOLUMBIAの78回転盤に録音を残した。大戦後の1948年ヨーロッパに戻りスイスに定住、後進の指導にあたった。 | ||
ケル&ブッシュSQ 〜ブラームス: クラリネット五重奏曲 ロ短調 Op.115 |
レジナルド・ケル(Cl) ブッシュSQ [アドルフ・ブッシュ(Vn1) ゲスタ・アンドレアソン(Vn2) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)] | |
録音:1937年10月10日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。英 HMV, DB 3383-86 。レジナルド・ケル(1908-1981)は英国のクラリネット奏者。王立音楽アカデミーでハイドン・ドレイパーに師事し、在学中からロイヤル・フィルハーモニー協会オーケストラの首席奏者をつとめ、卒業後ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に移籍した。戦後の1948年アメリカに渡りコンサートやレコーディングのほかベニー・グッドマン(1909-1988)やピーナッツ・ハッコー(1918-2003)らにクラシック奏法を指導した。1958年に母国に帰り晩年は画家として余生を送った。このシリーズでベートーヴェン:街の歌(78CDR-3672)とモーツァルト:クラリネット五重奏曲(78CDR-3691)が出ている。ブッシュ弦楽四重奏団は1919年にヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュ(1981-1952)によって組織され、1930年代に英HMVに多くの録音を残した。このシリーズでも多数出ている。 | ||
E.シューマン〜J.S.バッハ: 結婚カンタータ「消えよ、悲しみの影よ」 BWV.202 |
エリーザベト・シューマン(S) ミッチェル・ミラー(Ob) イェラ・ペッスル(Cemb)指揮 シルヴァン・シュルマン(Vn) アラン・シュルマン(Vc) | |
録音:1941年10月10日、11月22日、 RCA VICTOR 第2スタジオ、ニューヨーク。米 VICTOR, 2075-77 。エリーザベト・シューマン(1885-1952)はドイツ生まれの名ソプラノ。1909年ハンブルク歌劇場でデビューし、機械式録音の時代から活躍した人気歌手。この録音時シューマンは56歳だった。オーボエのミッチェル・ミラー(1911-2010)はニューヨーク州ロチェスター生まれ。1932年にイーストマン音楽学校を卒業後オーボエ、イングリッシュ・ホルン奏者として活躍し、その後アメリカCOLUMBIAの制作部長として多くの名アーティストを世に送り出した。また自らミッチ・ミラー合唱団を組織しヒット作品を生んだ。指揮とチェンバロのイェラ・ペッスル(1906-1991)はウィーン生まれの女流。1931年アメリカに移住した。ヨーロッパ時代から名声があったがアメリカではトスカニーニやワルターの指揮のもとで演奏したりソロ・リサイタルを多数開いた。またコロンビア大学でも教鞭をとった。ヴァイオリンのシルヴァン・シュルマンとチェロのアラン・シュルマンはスタイヴザント弦楽四重奏団のメンバー。これは日米開戦前夜の録音。 | ||
パリのお嬢さん〜ジャクリーヌ・フランソワ初期録音集 パリのお嬢さん/ボレロ/バラ色の人生/ラ・メール/ ラ・セーヌ/パリの夜/詩人の魂(#) /三度もありがとう(#) ジャクリーヌ・フランソワ(Vo) ポール・デュラン楽団、ポール・バロン楽団、ジョー・ボワイエ楽団 | ||
録音: 1948年(無印)、1950年(#) |発売:1950年。 米 VOX VL 3010 & VL 3070 (モノ)|仏 POLYDOR 。原盤のキズによるノイズ多数あり。ご容赦下さい。 ジャクリーヌ・フランソワ(1922-2009)はフランスのシャンソン歌手。最初ピアノとソルフェージュ(一種の歌唱訓練)を学んだが歌手になるのが夢だった。作曲家兼バンドリーダーのポール・デュラン(1907-1977)に出会い、フランスPOLYDORに「春なのよ C'est le printemps 」と「春 Printemps 」の2曲を録音した。「春なのよ」は20世紀フォックス映画「ステート・フェア」の中で歌われた「It might as well be spring」が原曲で、リチャード・ロジャースのアカデー賞受賞作品。フランソワはこの仏訳をデュランのオーケストレーションで録音した。それはフランソワにとって初レコーディングだったが、いきなりACCディスク大賞に輝いた。続いて1948年制作の映画「パリのスキャンダル」の中で「パリのお嬢さん」と「ボレロ」を歌った。この2曲がフランスだけではなくアメリカでも大ヒットした。「ボレロ」はアメリカで「オール・マイ・ラヴ」としてパティ・ペイジが歌い、ベスト・セラーになった。「マドモワゼル・ド・パリ」はヒット曲を追って同名映画が制作されフランソワが出演した。ここでは懐かしいシャンソンの名曲が聴ける。 | ||
エルリ + アンゲルブレシュト〜ラロ: スペイン交響曲 Op.21 /ノルウェー狂詩曲 |
ドヴィ・エルリ(Vn) デジレ=エミ-ル・ アンゲルブレシュト指揮 LPO | |
録音: 1956年10月29日-31日、サル=アポロ、パリ。仏デュクレテ・トムソン 320 C 124 (Mono) 。原盤のキズによるノイズ多数あり。ご容赦下さい。 ドヴィ・エルリ(1928-2012)はパリ生まれのフランスのヴァイオリニスト。パリ音楽院でジュール・ブーシュリ(1877-1962)に師事し1942年に14歳で一等賞を得た。1955年のロン=ティボー国際音楽コンクールのヴァイオリン部門で優勝しソリストとして活動を開始した。1968年にマルセイユ音楽院の教授になり、1973年にはマルセイユ・ゾリステンを設立した。1982年にパリ音楽院教授に就任。1995年以降はエコル・ノルマル音楽院で後進の指導にあたった。2012年2月7日、火曜日の朝、音楽院に向かう途中トラックに接触して事故死した。享年83歳。エルリの師ブーシュリの指導についての思い出の書簡が「ヴァイオリンの奥義ジュール・ブーシュリ回想録」マルク・ソリアノ編桑原威夫訳(音楽之友社)の168ページにある。師ブーシュリとドニーズ・ソリアノ、兄弟弟子のセルジュ・ブランと第2次大戦中の1942年に撮った写真も同書213ページにある。指揮者のデジレ=エミ-ル・アンゲルブレシュト(1880-1965)はフランスの指揮者。パリ音楽院では放校処分を受けたが、作曲家ドビュッシー(1862-1918)に認められ「聖セバスティアンの殉教」(1911年初演)の合唱指揮者に起用された。1934年に設立されたフランス国立放送o. の初代指揮者に就任した。この録音はデュクレテ・トムソン社に残された貴重な記録。 | ||
ハンガリーSQ 〜モーツァルト:弦楽四重奏曲第15番 ニ短調 K.421
ハンガリーSQ [ゾルターン・セーケイ(Vn1) アレクサンドル・モシュコフスキー(Vn2) デーネシュ・コロムサイ(Va) ヴィルモシュ・パロタイ(Vc)] | ||
録音:1946年5月13日-14日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。 英 HMV, DB 9106-08 。 ハンガリー弦楽四重奏団は1935年にブダペストで結成され、1970年に解散した。メンバーの在籍期間は次の通り。第1ヴァイオリン:シャードル・ヴェーグ(1935)、ゾルターン・セーケイ(1935-70)。第2ヴァイオリン:ペーテル・セルヴァンスキー(1935)、シャーンドル・ヴェーグ(1935-1940)、アレクサンドル・モシュコフスキー(1940-59)、マイケル・カットナー(1959-70)。ヴィオラ:デーネシュ・コロムサイ(1935-70)。チェロ:ヴィルモシュ・パロタイ(1935-56)、ガブリエル・マジャール(1956-70)。グループは1937年にオランダに移住、1956年にアメリカ国籍をえた。これは第2次世界大戦直後に録音された物。リーダーのゾルターン・セーケイ(1903-2001)は名ヴァイオリン奏者イエノ・フバイ(1858-1937)に師事し、ゾルターン・コダーイ(1882-1967)に作曲を学び、作曲家ベラ・バルトーク(1881-1945)とは少年時代からの友人だった。 | ||
ミッチ・ミラー/他〜モーツァルト:セレナード第11番 変ホ長調 K.375
ミッチェル・ミラー、アルバート・ゴルツァー(Ob) クラーク・ブロディ、シドニー・パワーズ(Cl) エレン・ストーン、フリップ・パーマー(Hr) ハロルド・ゴルツァー、ルイ・マストロコーラ(Fg) ナショナル・オーケストラ・アソシエーション 同窓会メンバー〔リチャード・コーン監修〕 | ||
録音:1941年5月27日。 米 RCA VICTOR, 18174-76 (Set: DM 826) 。 オーボエを吹いているミッチェル・ミラー(1911-2010)は後にミッチ・ミラーとしてアメリカのポップス業界を牛耳った大人物。ニューヨーク州ロチェスターに生まれ10代の頃オーボエを習い始め、名門のイーストマン音楽学校に進んだ。1932年に優秀な成績で卒業後オーボエ、イングリッシュ・ホルン奏者として活躍した。これはミッチ・ミラーが30歳の時のもので、演奏家として恐らく最初の録音と思われる。ここに登場する演奏家が所属していたナショナルo. ・アソシエーションは1930年に創立され、若い演奏家達の"トレーニング・スクール"だった。それは音楽学校を卒業したての若手ミュージシャンを既成のオーケストラに橋渡しをする機関でオーケストラメンバーの人たちが直面する演奏テクニックや音楽解釈上の問題を指導した。音楽監督は1930から1958年までレオン・バージン(1900-1999)、1958年以降はジョン・バーネット(1917-)がつとめた。このシリーズでロジーナ・レヴィーンの演奏するショパン:ピアノ協奏曲第1番(33CDR-3649)が出ている。 | ||
ケル〜モーツァルト:クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581
レジナルド・ケル(Cl) フィルハーモニアSQ [ヘンリー・ホルスト(Vn1) アーネスト・エレメント(Vn2) ハーバート・ダウンズ(Va) アンソニー・ピーニ(Vc)] | ||
録音:1945年2月5日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。 英 COLUMBIA, DX 8206-09 。 レジナルド・ケル(1908-1981)は英国のクラリネット奏者。王立音楽アカデミーでハイドン・ドレイパーに師事し、在学中からロイヤルフィルハーモニー協会オーケストラの首席奏者をつとめ、卒業後ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に移籍した。戦後の1948年にアメリカに渡りコンサートやレコーディングのほかベニー・グッドマン(1909-1988)やピーナッツ・ハッコー(1918-2003)らにクラシック奏法を指導した。1958年に母国に帰り晩年は画家として余生を送った。このシリーズでベートーヴェン:街の歌」(78CDR-3672)が出ている。フィルハーモニア弦楽四重奏団は1940年代初頭にできたイギリスの団体。リーダーのヘンリー・ホルスト(1899-1991)は1923年から1931年までベルリン・フィルのコンサートマスターをつとめていた。ヴィオラのハーバート・ダウンズ(1909-2004)はポール・ビアードやカール・フレッシュ(1873-1944)に師事した。チェロのアンソニー・ピーニ(1902-1989)はソリストとしても活躍し録音も多くある。 | ||
リッチ、ボワネ VOX 録音〜モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタ第34番 変ロ長調 K.378 (317d) (*) / ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330 (300h) /幻想曲 ニ短調 K.397 (385g) ルッジェーロ・リッチ(Vn;*) グラウコ・ダッティーリ(P;*) エマ・ボワネ(P;*以外) | ||
録音:1949年。米 VOX, VLP 6400 (Mono) 。# 原盤に起因する音ユレあり。 )ルッジェーロ・リッチ(1918-2012)はアメリカのヴァイオリニスト。名教師ルイ・パーシンガー(1887-1966)に師事し、16歳でサンフランシスコでデビューした。1930年代にベルリンでゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)の門下に入った。1942年から45年まで米軍籍で慰問演奏に携わった。ピアノのグラウコ・ダッティーリはローマ生まれ。テノール歌手ベニャミーノ・ジーリ(1890-1957)が1927年ニューヨークに連れてきて、ファースト・ピアノ四重奏団(1941年設立)のメンバーになり活躍し2007年に死去した。エマ・ボワネ(1891-1971)はパリ音楽院のピアノ科の名教授イジドール・フィリップ(1863-1958)のクラスで一等賞を得た。ボストンso. の指揮者だったセルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)はボワネのモーツァルトを聴いて"まるで天使が弾いているようだ"と絶賛し、ボストンso. の演奏会にソリストとして何度も招いて共演した。ボワネはニューヨークのアメリカン・カレッジ・オブ・ミュージックで教鞭を取った。録音はSP時代米RCAに、初期LP時代には米VOXに残した。 | ||
ドルイアン&セル〜モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ集 〔第32番 ヘ長調 K.376 (374d) /第25番 ト長調 K.301 (293a) / 第28番 ホ短調 K.304 (300c) /第24番 ハ長調 K.296 〕 ラファエル・ドルイアン(Vn) ジョージ・セル(P) | ||
録音:1967年8月1日。 米 COLUMBIA, MS 7064 (ステレオ)。 ジョージ・セル(1897-1970)はハンガリー生まれ。ウィーンとライプツィヒで学び、10歳の時にピアニストとしてウィーンso. の演奏会でデビュー、17歳でBPOを指揮した。1930年から36年にはチェコ・フィルの音楽監督、1942年から46年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場の指揮者だった。1946年にアメリカ市民となり、46年から70年までクリーヴランドo. の音楽監督の地位にあった。ヴァイオリンのラファエル・ドルイアン(1922-2002)はロシアのヴォローダ生まれ、幼少の頃両親はキューバのハバナに移住した。ハバナ・フィルハーモニーの指揮者だったアマデオ・ロルダン(1900-1939)に最初の手ほどきを受け、さらにフィラデルフィアのカーティス音楽院でエフレム・ジンバリスト(1899-1985)のもとで研鑽を積んだ。1943年から46年の兵役後、指揮のアンタル・ドラティ(1906-1988)からダラスso. のコンサートマスターに指名され、1949年ドラティがミネアポリスso. に移ったとき一緒にコンサートマスターとして移籍した。1960年にはジョージ・セルに乞われてクリーヴランドo. のコンサートマスターになった。このシリーズでシューベルト:大幻想曲」ほか(33CDR-3515)が出ている。 | ||
エマ・ボワネ〜フランス・ピアノ曲集 フォーレ:舟歌第5番 嬰ヘ短調 Op.66 / ピエルネ:ワルツ形式の夜想曲 Op.40 No.2 セヴラック:日光浴 / シャブリエ:ブレー・ファンタスク/牧歌 ドビュッシー:前奏曲集第1巻〜第4曲「音と香りは夕べの大気のなかに漂う」 エマ・ボワネ(P) | ||
録音:1938年1月19日、31日。 米 RCA VICTOR, AM 549-1/10 (Set) 。 エマ・ボワネ(1891-1971)はパリ音楽院のピアノ科の名教授イジドール・フィリップ(1863-1958)のクラスで一等賞を得た。ボワネはアメリカに移住し、演奏活動の傍らニューヨークのアメリカン・カレッジ・オブ・ミュージックで教鞭を取った。ボストンso. の指揮者だったセルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)はボワネのモーツァルトを聴いて"まるで天使が弾いているようだ"と絶賛し、ボストンso. の演奏会にソリストとして何度も招いて共演した。 | ||
リッチ + ビゴ パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 Op.6 /魔女たちの踊り クライスラー:レチタティーヴォとスケルツォ・カプリス ルッジェーロ・リッチ(Vn) ウジェーヌ・ビゴ指揮ラムルーo. ルイ・パーシンガー(P) | ||
録音:1947年12月16日(協奏曲)、12月18日(クライスラー)、 1948年(魔女たちの踊り)。 仏 ポリドール, 566.242-44, 566.307 。 ルッジェーロ・リッチ(1918-2012)はアメリカのヴァイオリニスト。メニューインの師でもあったルイ・パーシンガー(1887-1966)に師事し、16歳のときサンフランシスコでデビューした。1930年代にベルリンでゲオルク・クーレンカンプ(1898-1949)の門下に入った。1942年から1945年まで米軍籍で慰問演奏に携わった。この録音は大戦後間もなくの1947年にパリで行われた。同じ時に録音されたサン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番(33CDR-4330)も出ている。ウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)はフランスの指揮者。1935年から1950年まで名門ラムルーo. の首席をつとめた。録音当時29歳だったリッチをフルサポートしてこの名演奏を実現したのはビゴーの力によるものと思う。 | ||
E.クライバー〜ベートーヴェン: 交響曲第6番 ヘ長調 Op.68「田園」 |
エーリヒ・クライバー指揮 LSO | |
録音:1948年2月24日-25日、5月17日、キングズウェイ・ホール、ロンドン。 英 DECCA, AK 1824-28 (ffrr録音) 。 エーリヒ・クライバー(1890-1956)はウィーン出身の20世紀前半を代表する指揮のひとり。指揮者のカルロス・クライバー(1930-2004)の父親。プラハ大学で歴史と哲学を学んだが、一方で指揮者への道を目指すようになった。プラハ音楽院で指揮法を学び、1911年に指揮者デビュー。1923年にベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任した。ナチスの台頭でベルリンの職を辞し、1935年に妻と当時5歳のカルロスとアルゼンチンに移住した。1939年に市民権を取得し、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンの首席指揮者に就任した。大戦後はヨーロッパに戻り、英国デッカの専属となり各地に客演指揮者として活躍した。このシリーズでパリ音楽院o. を1949年に指揮したチャイコフスキー:交響曲第4番(78CDR-3518)が出ている。 | ||
イルマ・コラッシ〜ショーソン (モーリス・ブショール詞):愛と海の詩 Op.19 |
イルマ・コラッシ(Ms) ルイ・ド・フロマン指揮 LSO | |
録音:1955年5月9日-10日、キングズウェイ・ホール、ロンドン。 米 LONDON, LL 1386 (Mono) 。 イルマ・コラッシ(1918-2012)はギリシャのアテネ生まれ。14歳でアテネ音楽院の声楽科とピアノ科で一等賞を得たのち、ローマのサンタ・チーリア音楽院でさらに研鑽を積んだ。声楽とピアノの両方で優秀な成績をおさめたが、最終的に声楽を選んだ。第2次大戦中にアテネに戻りアテネ音楽院で教えた。そこでマリア・カラス(本名マリア・カロゲロプーロス) (1923-1977)を指導したことがある。1949年パリに行き、ラヴェルやフランス六人組作曲家の作品を歌い有名になった。1970年に現役を退き、パリのスコラ・カントルム音楽院で後進の指導にあたった。ルイ・ド・フローマン(1921-1994)はパリ音楽院でウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)やアンドレ・クリュイタンス(1905-1967)に師事した。ニース放送局o. やルクセンブルク放送so.の指揮者をつとめた。 | ||
シルルニク、シャブリュン、パウムガルトナー〜モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 K.219 (*) / 交響曲(#) 〔第10番 ト長調 K.74 /ハ長調 K.96 (111b) 〕 シャルル・シルルニク(Vn;*) ダニエル・シャブリュン指揮セント・ソリo.(*) ベルンハルト・パウムガルトナー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム室内o.(#) | ||
録音:1958年3月19日(*)、1956年10月15日(#) 。 英 THE RECORD SOCEIETY, RS 35 (Mono) 。 シャルル・シルルニク(1923-2003)はパリ生まれのフランスのヴァイオリニスト。パリ音楽院でジュール・ブーシュリ(1877-1962)とマルセル・シャイエ(1881-1936)のクラスで学び1939年に一等賞を得た。このシリーズでベートーヴェンの協奏曲(33CDR-3615)が出ている。このモーツァルトは師ブーシュリが弾いた1906年機械式録音の第3楽章がこのシリーズ(78CDR-3065)で出ているが、シルルニクは師譲りの清楚な演奏を繰り広げていて素晴らしい。指揮者のダニエル・シャブリュン(1925-2006)はパリ音楽院で指揮法をルイ・フレスティエール(1892-1976)に学び1954年に一等賞を得た。交響曲を指揮するベルンハルト・パウムガルトナー(1887-1971)はウィーン生まれ。1917年から1959年までモーツァルテウム音楽院の学院長を、1959年から1971年までザルツブルグ音楽祭の総裁をつとめた。 | ||
ラザール・レヴィ、日本録音集 クープラン:ゆりの花ひらく葦 シューベルト:即興曲 変イ長調 Op.142 No.2 ラザール・レヴィ:ワルツ集〔 I / II 〕 ショパン:マズルカ第2番 嬰ハ短調 Op.6 No.2 / マズルカ第31番 変イ長調 Op.50 No.2 シューマン:幻想小曲集 Op.12 より 〔夕べに/夢のもつれ〕 |
ラザール・レヴィ(P) | |
録音:1950年10月、ビクター・スタジオ、築地、東京。 VICTOR (JAPAN), SD 53-55 。 この録音は第2次世界大戦後、初めて来日した外国人アーティスト、ラザール・レヴィ(1882-1964)が日本ビクターに録音した1950年録音のSP盤復刻。レヴィはパリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)に師事し、1898年に一等賞を得た。1914年からパリ音楽院教授をつとめ、1953年に退任したが、その間1916年から21年と1941年から44年に、ドイツ軍のパリ占領のため地下に潜伏した。レヴィの弟子には、クララ・ハスキル、モニク・アース、イヴォンヌ・ロリオ他、日本人ピアニストの安川加壽子、原智恵子、井上二葉、田中希代子、遠藤郁子、他が居る。レヴィのレコード録音はたいへん少なく、この復刻の他にモーツァルト:幻想曲 ハ短調K.475 (1931年録音)は「モーツァルト:伝説の録音」第2巻の CD23 (飛鳥新社)に収録されている。 | ||
メルケル&ユボー〜モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタ第40番 変ロ長調 K.454 |
アンリ・メルケル(Vn) ジャン・ユボー(P) | |
録音:1942年2月23日、パリ。 仏 アンソロジー・ソノール、 111-113 。 ヴァイオリンのアンリ・メルケル(1897-1969)はパリ生まれ。パリ音楽院のギヨーム・レミー教授のクラスで1912年に一等賞を得た。パリ・オペラ座o.、コンセール・ラムルーo. のヴァイオリン奏者をつとめた後、1929年からパリ音楽院o. のコンサートマスターになり、その後ソリスト、室内楽奏者として活躍した。メルケルはこのシリーズで多数出ている。ピアノのジャン・ユボー(1917-1992)はパリ音楽院でラザール・レヴィ(1882-1964)に師事し、1930年13歳で一等賞を得た。このメルケルとのモーツァルト:ヴァイリン・ソナタK.454の録音は発売当時非常に高く評価された。 | ||
不世出の名ソプラノ、マギー・テイト アーン:私の詩に翼があったなら/いみじき時 / デュパルク:旅への誘い ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」より 〔手紙/君は知らない、なぜ僕が遠くへ行かなければならないのか/私の長い髪〕 ショーソン:終わりなき歌 / メサジェ:オペレッタ「ムッシュ・ボーケール」〜軽やかに、軽やかに アーン:音楽喜劇「モーツァルト」〜さようなら / ドビュッシー:「ビリティスの3つの歌」〜パンの笛 ラヴェル:シェエラザード / ベルリオーズ:「夏の夜」〜君なくて / フォーレ:夢の後に | ||
マギー・テイト(1888-1976)はイングランド中部のウルバーハンプトン生まれ。パリでジャン・ド・レスケ(1850-1925)が創立した歌劇学校に入学した。教師の一人にレナルド・アーン(1874-1947)が居た。1908年にクロード・ドビュッシー(1862-1918)に認められ「ペレアスとメリザンド」のヒロイン役を歌い、初演歌手のメアリー・ガーデン(1874-1967)の後を継いだ。ここにはテイトの数々の名唱に加えてメアリー・ガーデンの歴史的演奏(ドビュッシーのピアノ伴奏による1904年録音)を加えた。 | ||
F=コロンビエール、ガルニエール&クエンツ〜J.S.バッハ: ヴァイオリン協奏曲〔第1番 イ短調 BWV.1041 (*) /第2番 ホ長調 BWV.1042 (#) 〕/ 2つのヴァイオリンのための協奏曲〔ニ短調 BWV.1043 (+) /ハ短調 BWV.1060 (+) 〕 モニク・フラスカ=コロンビエール(Vn;*/+) リリアン・ガルニエール(Vn;#/+) ポール・クエンツ〔キュンツ〕室内o. | ||
録音:1960年、パリ。 仏 CLUB INTENATIONAL DU DISQUE, 51-52 (Mono) 。 通常演奏されるヴァイオリン協奏曲3曲に、原曲はオーボエとヴァイオリンのための協奏曲の2つのヴァイオリンのための協奏曲 BWV.1060 (2台のハープシコードのための協奏曲 BWV.1060の編曲もある)を加えたJ.S.バッハのヴァイオリン協奏曲全集。指揮者のポール・キュンツ(1930-)はフランスのミュルーズ生まれ。1947年から1950年までパリ音楽院で指揮法をウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)に学んだ。1951年に若い音楽家を集めて、自分の名前を冠した室内管弦楽団を組織し指揮者としての活動を始めた。1956年にヴァイオリニストのモニク・フラスカ・コロンビエールと結婚した。もうひとりのヴァイオリン奏者リリアン・ガルニエールはRCAに小品集(LSC2646)などを録音している。 | ||
ブルダン、ブシノー、ブレ ジャン・マリー・ルクレール:フルート協奏曲 ハ長調 ミシェル・コレット:弦楽合奏のための協奏曲 変ロ長調 ジャック・オベール:2つのヴァイオリン協奏曲〔ニ長調/変ロ長調〕 ロジェ・ブルダン〔ブールダン〕(Fl) ミシェル・ブシノー〔ブーシノー〕(Vn) ロランス・ブレ〔ブーレ〕(Cemb) ベルナール・ヴァル指揮ヴェルサイユ室内o. | ||
録音:1956年、パリ。仏 CONTREPOINT MC 20.135 (ステレオ) 。 フランスの女流ヴァイオリン奏者ミシェル・ブーシノー(1929-)が聴ける希少LPの復刻。ブーシノーはパリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリ(1878-1962)に師事し、1953年のロン=ティボー国際コンクールのヴァイオリン部門で入賞した。この年はコンクールの創設者のジャック・ティボー(1880-1953)が審査員をつとめた最後の年だった。ティボーは同年の9月に日本公演に向かう途中の航空機事故で73歳の命を落としたからだ。このコンクールの審査員のひとりだったダイヴィド・オイストラフ(1908-1974)はソ連政府を説得してブーシノーを助手にした。フルートのロジェ・ブールダン(1923-1976)はパリ音楽院のマルセル・モイーズ(1889-1984)のクラスで薫陶を得た名手。1943年からヴェルサイユ音楽院の教授に任命され生涯その地位にあった。クラヴサンのローレンス・ブーレ(1925-2007)は女流奏者。ブーシノーはこのシリーズでヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第4番(78CDR-3029)が出ている。 | ||
木下 保(T)〜信時 潔: 組曲「沙羅」(詞:清水重道)〔丹澤/あづまやの/北秋の/沙羅/鴉/行々子/ゆめ/占ふと〕/ 詞:北原白秋の歌曲〔つなで/幻滅/をみな子よ〕 木下 保(T) 水谷達夫(P) | ||
録音:1943年12月1日。ニッチク〔日本コロムビア〕、 90634-36 。# SP レコード特有のノイズがあります。 作曲者の信時潔は幼少より讃美歌に親しみ東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)に入学、チェロをハインリヒ・ヴェルクマイスター(1883-1936)に、指揮法をアグスト・ユンケルに学んだ。1920年ドイツに留学しゲオルク・シューマン(1866-1952)に師事した。「沙羅」は1936年の作品。テノールの木下保(1903-1982)は兵庫県富岡市出身。1926年に東京音楽学校を卒業。1932年から1935年までドイツとイタリアに留学した。帰国後、母校の声楽科主任教授になり、日本人作曲家の作品も多く取り上げた。「沙羅」の初演者で、信時潔のカンタータ「海道東征」(神武天皇を題材とした作品)の初演指揮者もつとめた。ピアノの水谷達夫(1911-1998)は東京音楽学校でレオ・シロタ(1885-1965)に師事し、卒業後長く母校で後進を指導をした。この録音は第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)12月1日に行われた。日本コロムビアはニッチクと改名し、レコード材料の不足から返品レコードを再利用していた時代のものである。ノイズが大きいのはその所為だが、録音そのものは見事である。時代背景はレコードどころではなかったのに、よくぞこのような作品を残してくれたと頭が下がる。 | ||
ゲイエル&ザッハー モーツァルト:ヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ ホ長調 K.261 (*) レーガー:ヴァイオリンとピアノのための組曲 イ短調 Op.103a 〜アリア タルティーニ/クライスラー編曲: ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 Op.1 No.1 〜フーガ シュテフィ・ゲイエル(Vn) ヴァルター・シュルテス(P) パウル・ザッハー指揮コレギウム・ムジクム・チューリッヒ | ||
録音:1938年(*)、1927年4月11日(*以外) 。 スイス COLUMBIA, LZX 7 /日 ODEON, U-10020 (独 Odeon 6573 と同一録音) 。 シュテフィ・ゲイエル(1888-1956)はハンガリーの女流ヴァイオリン奏者。ブダペストのリスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。ベラ・バルトーク(1881-1945)やオトマール・シェック(1886-1957)は共に彼女のためにヴァイオリン協奏曲を献呈した。初婚の相手が病死した後、1920年にスイスの作曲家ヴァルター・シュルテスと再婚しチューリッヒに居を構え音楽院で教えた。その時の弟子の一人がアイダ・シュトゥツキ(1921-2011)。シュトゥツキは後にアンネ=ゾフィ・ムターの師となった。シュトゥツキはこのシリーズでモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第7番 K.271a(33CDR-3645)が出ている。パウル・ザッハー(1906-1999)はスイスの指揮者で作曲家。往年の名指揮者フェリクス・ヴァインガルトナー(1863-1942)に学んだ後バーゼル室内管弦楽団を設立した。世界的製薬会社エフ・ホフマン・ラ・ロッシュ社のオーナー未亡人との結婚で巨大な富を得て、多くの作曲家へ作品委嘱をした。武満徹の「ユーカリプス」もザッハーの委嘱による。 | ||
メニューイン兄妹〜ベートーヴェン: ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調 Op.70 No.1 「幽霊」 |
ヘプシバ・メニューイン(P) イェフディ・メニューイン(Vn) モーリス・アイゼンバーグ(Vc) | |
録音:1936年3月5日、アルベール・スタジオ、パリ。 英 HMV, DB 2879-81 。 ピアノのヘプツィバ・メニューイン(1920-1981)はサンフランシスコ生まれ。4歳でジュディス・ブロックリーについてピアノを始め、後にレフ・アに学んだ。8歳の時サンフランシスコで初リサイタルを開いた。その後バーゼルでルドルフ・ゼルキン(1903-1991)に、パリでマルセル・シャンピ(1891-1980)について研鑽を積んだ。兄でヴァイオリニストのユーディ・メニューイン(1916-1999)と初共演したモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ K.526(1933年録音)(78CDR-3025)がキャンディド賞を受賞しピアニストとして注目されるようになった。チェロのモーリス・アイゼンバーグ(1900-1972)はドイツ生まれ。1902年に両親と共にアメリカに移住した。1921年にアメリカ公演中のパブロ・カザルス(1876-1973)に出会い、ヨーロッパで学ぶことをすすめられ、ベルリンでユリウス・クレンゲル(1859-1933)やフーゴ・ベッカー(1864-1941)、パリでナディア・ブーランジェ(1887-1979)に薫陶を得た。 | ||
パリキアン&タリアフェロ〜 ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ集 〔第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」/ 第5番 ヘ長調 Op.24「春」〕 |
マヌーグ・パリキアン(Vn) マグダ・タリアフェロ(P) | |
録音:1960年、パリ。 仏 PRESTIGE DE LA MUSIQUE, SR-9657 (Stereo) 。 ヴァイオリンのマヌーグ・パリキアン(1920-1987)はトルコのメルシン生まれ。ロンドンで学び1949年にフィルハーモニア管弦楽団のコンサートマスターになり1957年までその席にあった。その後ソリストとして活躍する一方後進の指導にあたった。フィルハーモニア管弦楽団コンサートマスター時代にクレンペラー、カラヤン、ジュリーニ等の指揮者に乞われたソロ録音がある。ピアノのマグダ・タリアフェロ(1893-1986)はブラジルのリオ・デジャネイロ生まれ。父親はラウル・ピュニョ(1852-1914)にピアノを学んだという。一家は1906年にフランスへ移住。彼女は13歳でパリ音楽院に入学、アントナン・マルモンテルのクラスに入り9カ月後に一等賞を得た。音楽院を卒業後、アルフレッド・コルトー(1877-1962)についてさらに研鑽を積んだ。彼女はこのシリーズでモーツァルト:ピアノ協奏曲「戴冠式」(78CDR-3093)、ヴァイオリンのドニーズ・ソリアノ(1916-2006)と共演したフォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番(78CDR-3135)、モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第40番 K.454(78CDR-3027)他が出ている。 | ||
ベニー・グッドマン〜モーツァルト: クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 (*) /クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581 (#) ベニー・グッドマン(Cl) シャルル・ミュンシュ指揮ボストンso.(*) ボストン交響楽団SQ (#) [リチャード・バーギン(Vn1) アルフレッド・クリプス(Vn2) ジョゼフ・デパスクァーレ(Va) サムエル・メイス(Vc)] | ||
録音: 1956年7月9日(*) 、12日(#) 、レノックス、マサチューセッツ州、 US 。 録音:1956年、パリ。 仏 RCA, 630 398 (Mono) (米 RCA VICTOR LM 2073 と同一録音)。 ベニー・グッドマン(1909-1986)はシカゴ生まれ。クラリネットを習得し11歳でデビュー。1923年にコルネット奏者のビックス・バイダーベックと共演、1925年にベン・ポラック楽団に入った。1928年ニューヨークに移り、1932年自身の楽団を結成し、NBC放送にレギュラー出演し一躍スターになった。1938年1月ニューヨークのカーネギーホールで初のジャズ・コンサートを開き全米を沸かせた。この録音はLP時代になってからのもので協奏曲はグッドマンにとって初録音、五重奏曲は2回目の録音である。1回目はブダペスト弦楽四重奏団と1938年に行われ78CDR-3661で出ている。グッドマンにクラシック音楽奏法を指導したのはイギリス生まれのレジナルド・ケル(1908-1981)でケルは1948年にアメリカに渡ったので2種の五重奏曲のクラリネット奏法がどう違うか聴き較べが興味ある。指揮者のシャルル・ミュンシュ(1891-1968)はフランス生まれ。1949年から1962年までボストン交響楽団の正指揮者をつとめた。 | ||
クェリングSQ 〜ハイドン: 弦楽四重奏曲第67番 ニ長調 Op.64 No.5, Hob.III: 63「ひばり」 クェリングSQ | ||
録音:1939年1月、ベルリン。英 HMV EH 1248/9 。 クェリング弦楽四重奏団は全員女性奏者のユニークな団体。リーダーのリーレ・クェリング(1903-没年不詳)はドイツのクレグフェルド生まれでブラム・エルデリンクに師事した。エルデリンクはアドルフ・ブッシュにドイツ・ヴァイオリン奏法の基礎を教えた人物で、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)の奏法を後世に伝えることに心血をそそいだ。クェリングは1935年に結婚し、オランダのユトレヒトに在住したと伝えられている。この「ひばり」はSP時代にビクターの「洋楽愛好家協会」盤として発売されたこがあるが、レコード材料の欠乏していた時代であったため、雑音が多く真の演奏が理解されなかった。この復刻には英HMV盤を使用した。 | ||
マシューズ、ケル、ピーニ ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調 Op.11「街の歌」(*) J.S.バッハ:アダージョ ト長調(#) デニス・マシューズ(P) レジナルド・ケル(Cl) アンソニー・ピーニ(Vc) | ||
録音:1944年7月2日(*)、1944年7月31日(#)、アビー・ロードEMI第3スタジオ、ロンドン。 英 COLUMBIA DX 8200/2 。 デニス・マシューズ(1919-1988)は英国のピアニスト。ロンドンの王立音楽アカデミーでハロルド・クラックストン(1885-1971)に師事し1939年にデビューした。その後1946年まで兵役につき、大戦後コンサート・ピアニストとして活躍しレコード録音も多く残した。晩年はバーミングハム音楽院で教鞭をとった。レジナルド・ケル(1906-1981)は英国のクラリネット奏者。王立音楽アカデミーでハイドン・ドレイパーに師事し、在学中からロイヤル・フィルハーモニー協会オーケストラの首席奏者をつとめ、卒業後ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に移籍した。戦後の1948年にアメリカに渡り、コンサートやレコーディングのほか、ベニー・グッドマン(1909-1986)やピーナッツ・ハッコー(1918-2003)らにクラシック音楽奏法を指導した。1958年に母国に帰り晩年は画家として余生を送った。アンソニー・ピーニ(1902-1989)は英国の五大オーケストラの首席チェロ奏者やソリスト、室内楽奏者として活躍、また王立音楽カレッジやギルドホール音楽演劇学校で教鞭をとった。この録音は第2次世界大戦末期の物。SPレコードとしては日本では発売されなかった。 | ||
ブッシュ・ゼルキン〜シューベルト: ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 Op.100 |
ブッシュ・ゼルキン三重奏団 [アドルフ・ブッシュ(Vn) ヘルマン・ブッシュ(Vc) ルドルフ・ゼルキン(P)] | |
録音:1935年10月23日、アビー・ロードEMI第3スタジオ、ロンドン。英 HMV DB 2676/80 。アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの大ヴァイオリニスト。1922年からピアノのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍した。1936年ゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚したが、ゼルキンはナチスのユダヤ人迫害を避けてアメリカに逃れた。その後ブッシュもドイツを去ってスイスに移住。1939年に実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに移住した。この録音はヨーロッパ時代の物。このシリーズでブッシュとゼルキンにホルンのオーブリー・ブレイン(1893-1955)を加えたブラームス:ホルン三重奏曲(78CDR-3018)とブッシュ兄弟がアメリカに移住後の録音であるベートーヴェン:ピアノ三重奏曲「幽霊」(78CDR-3253)が出ている。 | ||
ジャンドロン&カザルス ハイドン:チェロ協奏曲 ニ長調 Op.101, Hob.VIIb: 2 ボッケリーニ:チェロ協奏曲 変ロ長調 G.481 |
モーリス・ジャンドロン(Vc) パブロ・カザルス指揮 ラムルーo. | |
録音:1960年10月、パリ。 仏 PHILIPS 835069 AY (Stereo) 。 モーリス・ジャンドロン(1920-1990)は南仏ニース生まれ。ニース音楽院を卒業後、パリ音楽院でジェラール・エキング(1879-1942)のクラスで学び1938年に一等賞を得た。大戦後の1945年12月2日にロンドンのウィグモア・ホールでベンジャミン・ブリテン(1913-1976)のピアノ伴奏でフォーレとドビュッシーのソナタを弾いてソロデビュー。さらに同月、プロコフィエフのチェロ協奏曲第1番の初演をワルター・ジュスキンド指揮ロンドン・フィルと行って名声を高めた。ジャンドロンはメニューイン兄妹とピアノ三重奏を25年に渡って行った。パブロ・カザルス(1876-1973)はスペインのカタルーニャ地方の町エル・ペドレル生まれ。バルセロナ音楽院でチェロ、ピアノ、楽理、作曲を学んだ。第2次世界大戦後、南仏プラドに隠遁していたカザルスに、友人でヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーが室内音楽祭を開くことを提案してカザルスは受け入れた。これはカザルスが弟子のジャンドロンのために指揮棒をとった唯一のスタジオ録音。それだけカザルスがこの弟子に目をかけていたことがうかがえる。 | ||
ワルター、ウィンナ・ワルツ集〜ヨハン・シュトラウス II : 皇帝円舞曲/「こうもり」序曲/ウィーン気質/ ウィーンの森の物語/「ジプシー男爵」序曲/美しく青きドナウ ブルーノ・ワルター指揮コロムビアso. | ||
録音:1956年3月16日、22日-23日、ニューヨーク30丁目 COLUMBIA STUDIO。米 COLUMBIA ML 5113 (Mono) 。ブルーノ・ワルター(1876-1962)ドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー。後に指揮者に転向した。1869年ハンブルク歌劇場でグスタフ・マーラー(1860-1911)に出会い交友を深めた。その後ドイツ、オーストリア各地のオーケストラや歌劇場の楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてアメリカに逃れた。これはLP時代にNYPのメンバーを母体に編成されたコロムビアso. を起用して録音された物。ドイツ、オーストリアで永年音楽生活を過ごした指揮者ならではの愛情に満ちた素晴らしいヨハン・シュトラウスのワルツ集。ワルターはこのシリーズで名演が多数出ている。 | ||
野邊地瓜丸〔勝久〕〜ショパン&フォーレ ショパン:ワルツ〔第3番 イ短調 Op.34 No.2 /第6番 変ニ長調 Op.64 No.1「小犬」/ 第12番 ヘ短調 Op.70 No.2 /第2番 変イ長調 Op.34 No.1「華麗なるワルツ」/ 第7番 嬰ハ短調 Op.64 No.2 /第5番 変イ長調 Op.42 / 第1番 変ホ長調 Op.18「華麗なる大ワルツ」〕/ 練習曲〔ホ短調 Op.25 No.5 /ヘ短調 Op.25 No.2 /ヘ長調 Op.25 No.3 〕 フォーレ:ヴァルス・カプリス第3番 変ト長調 Op.59 (2種) 野邊地 瓜丸〔野邊地 勝久〕(P) | ||
発売:1950年(G38/40)、1953年(B325 & B322)。日本コロムビア G38/40, B325, B322。野邊地瓜丸(1910-1966) (後に勝久に改名) は1926年16歳でフランスに留学、エコール・ノルマルでラザール・レヴィ(1882-1964)に師事し、アルフレッド・コルトー(1877-1963)にも多大な影響を受けた。1930年に帰国後ソリストとして活躍、ショパンやフランスの作品を得意とした。1946年26歳で東京藝術大学音楽学部の教授に就任した。ここに収録したショパンのワルツ集は1950年に発売された物。ショパンのエチュード3曲とフォーレのヴァルス・カプリスは野邊地勝久とレーベルに記されている。戦後の物資が不足していた時代のSPレコードのため音が良くないが、フランス仕込みの演奏は堂に入って素晴らしい。野邊地はこのシリーズでヴァイオリンの巌本真理との二重奏でルクー:ヴァイオリン・ソナタ(78CDR-3486)が出ている。 | ||
カサドシュ&カルヴェ〜フォーレ: ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 Op.15 |
ロベール・カザドシュ(P) ジョゼフ・カルヴェ(Vn) レオン・パスカル(Va) ポール・マ(Vc) | |
録音:1935年5月7-8日、アルベール・スタジオ、パリ。米 COLUMBIA 68524/7-D (仏 COLUMBIA LFX380/383 と同一録音) 。ピアノのロベール・カザドシュ(1889-1972)はパリの音楽一族の生まれ。パリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)に師事し、1913年に一等賞を1920年にディエメール賞を得た。1921年にピアニストのガブリエル・ロートと結婚、二人は四手、2台ピアノでしばしば共演した。1935年からフォンテーヌ・ブローのアメリカ音楽院で教鞭をとった。その後アメリカに移住したが戦後フランスに戻った。ヴァイオリンのジョゼフ・カルヴェ(1897-1984)は1919年に弦楽四重奏団を組織し、ヴィオラのレオン・パスカルとチェロのポール・マはカルヴェ四重奏団のメンバー。フォーレのピアノ四重奏曲第1番はこのシリーズでシャイエ=リシェ四重奏団(78CDR-3167)とアンリ・メルケル夫妻にタンロックのピアノによる(78CDR-3441)が出ている。 | ||
バルトーク、シゲティ、グッドマン〜バルトーク: ヴァイオリン、クラリネットと ピアノのためのコントラスト |
べーラ・バルトーク(P) ヨーゼフ・シゲティ(Vn) ベニー・グッドマン(Cl) | |
録音:1940年5月13日-14日、World Broadcasting Studios 、ニューヨーク。米 COLUMBIA 70362/3D (Set X-178) 。 作曲者バルトークとヴァイオリニトのヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリー生まれの同胞。ジャズ・クラリネットのベニー・グッドマン(1909-1986)がシゲティに会った時(1938年)二人にバルトークのピアノを加えた三人で共演できる曲が書けないだろうかと、シゲティを通してバルトークに作曲の打診して出来上がったのがこの曲。作品にはハンガリーとルーマニアのさまざまな民俗舞曲の要素が組み込まれ、さらにジャズの香りも盛り込まれている。3人の巨匠が繰り広げるスリリングが演奏が聞きどころ。グッドマンはこのシリーズでモーツァルト:クラリネット五重奏曲(78CDR-3661)、ベニー・グッドマンとペギー・リー(78CDR-35389), ベニー・グッドマン・ウィズ・チャーリー・クリスチャン(78CDR-3579)が出ている。 | ||
モリーニ&カザルス〜モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 K.219「トルコ風」 |
エリカ・モリーニ(Vn) パブロ・カザルス指揮 ペルピニャン祝祭o. | |
録音:1951年7月13日、ペルピニャン市民劇場。 米 COLUMBIA ML 4565 (Mono) 。 エリカ・モリーニ(1904-1995)はオーストリア生まれの女流ヴァイオリニスト。8歳でウィーン音楽院に入学を許され、オタカル・シェフチーク(1852-1934)に師事した。1916年にアルトゥール・ニキシュ(1855-1922)指揮ゲヴァントハウスo. と共演してデビューした。1938年にアメリカに移住し1976年に引退するまで第一線で活躍した。彼女はハイフェッツも一目置く技巧家だったことはあまり知られていない。パブロ・カザルス(1876-1973)はスペインのカタルーニャ地方の町エル・ペドレル生まれ。バルセロナ音楽院でチェロ、ピアノ、楽理、作曲を学んだ。第2次世界大戦後、南仏プラドに隠遁していたカザルスに、友人でヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーが室内音楽祭を開くことを提案してカザルスは受け入れた。この録音は音楽祭2年目にプラドの近くの町ペルピニャン、ライヴ録音。モリーニの音楽祭登場はこの年だけだった。 | ||
シゲティ〜プロコフィエフ:ヴァイオリン・ソナタ集 〔第1番 ヘ短調 Op.8 (*) /第2番 ニ長調 Op.94a (#) 〕 |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) アルトゥール・バルサム(P) | |
録音:1959年12月7日(*)、8日(#)、10日(#)。米 MERCURY MG 50319 (Mono) 。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリー生まれのヴァイオリン奏者。名教師イエノ・フバイ(1858-1937)に師事し13歳でデビューした。20世紀に活躍した最も偉大な音楽家の一人。この録音はシゲティが67歳の時の物。同世代の作曲家プロコフィエフに強い共感を抱いた鬼気迫る演奏が聴ける。ピアノのアルトゥール・バルサム(1906-1994)はポーランド生まれ。ベルリン高等音楽院でアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)に師事した。ナチスの台頭でアメリカに移住し、名伴奏者であると共にソリストとして活躍した。このシリーズでジョセフ・フックスのヴァイオリンによるベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全曲(33CDR-3489/3490/3491単売)が出ている。 | ||
ABM 初録音〜 1943年テレフンケン J.S.バッハ:イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV.971 ペレグリーノ・トメオーニ(1721-1816):アレグロ |
アルトゥーロ・ベネデッティ・ ミケランジェリ(P) | |
録音:1943年1月22日、ベルリン。 独 TELEFUNKEN SKB 3320/1 。#強音で音割れがある。アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920-1995)はイタイアの大ピアニスト。1939年ジュネーヴ国際コンクールで優勝し、その時の審査員長だったアルフレッド・コルトー(1877-1962)が「リストの再来」と賞讃したと伝えられる。この「イタリア協奏曲」は第2次世界大戦中のベルリンでテレフンケン社が録音した物。当時23歳だったミケランジェリの初録音と思われる。もうレコードどころではないドイツの国内事情を考慮すると極めて貴重な録音。ペレグリーノ・トメオーニ(1721-1816)はイタリアの作曲家でオルガン奏者。オペラや宗教音楽の作品を書いた。ミケランジェリはこのシリーズでJ.S.バッハ=ブゾ-ニ編曲:シャコンヌ(1948年録音) (78CDR-3229)が出ている。 | ||
ブダペストSQ + ケイティムズ〜モーツァルト:弦楽五重奏曲第5番 ニ長調 K.593
ブダペストSQ [ヨーゼフ・ロイスマン(Vn1) エドガー・オルテンベルク(Vn2) ボリス・クロイト(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc)] ミルトン・ケイティムズ(Va2) | ||
録音:1946年12月12日、1948年1月30日、リーダークランツ・ホール、ニューヨーク。英 COLUMBIA LX-1046/8 (Mono) (米 COLUMBIA 72346/8D と同一録音)。 ブダペスト弦楽四重奏団は1917年ブダペスト歌劇場のメンバーだった4人によって結成され、1967年に解散した。1932年にリーダーがヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)になりアメリカをベースに活躍し20世紀中期最高の四重奏団として君臨した。第2ヴァイオリンのエドガー・オルテンベルク(在籍1944-1949)はアレクサンダー・シュナイダーが抜けた時期にメンバーを務めた。第2ヴィオラのミルトン・ケイティムズ(1909-2006)はロシアとオーストリア=ハンガリー帝国出身の両親の元にブルックリンに生まれ、コロムビア大学で教育を受けた。ヴィオラはベルギー生まれのレオン・バージン(1900-1999)の指導をうけ、1943年ウィリアム・プリムローズ(1903-1962)の後任としてNBCso. の首席奏者として入団し、またNYP 、フィラデルフィアo.、ボストンso.、ロンドン・フィル、クリーヴランドo. を指揮した。ブダペスト弦楽四重奏団とは15年以上に渡って共演した。 | ||
グッドマン&ブダペストSQ 〜モーツァルト:クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581
ベニー・グッドマン(Cl) ブダペストSQ [ヨーゼフ・ロイスマン(Vn1) アレクサンダー・シュナイダー(Vn2) ボリス・クロイト(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc)] | ||
録音:1938年4月25日、Victor Records 第2スタジオ、ニューヨーク。米 VICTOR 1884/6, 1492 (Set M-452) 。ジャズ・クラリネットの王者ベニー・グッドマン(1909-1986)が初めてクラシック音楽の録音した記念すべきレコード。ベニー・グッドマンはシカゴ生まれ。クラリネットを習得し11歳でデビュー。1923年にコルネット奏者のビックス・バイダーベックと共演、1925年にベン・ポラック楽団に入った。1928年にニューヨークに移り、1932年に自身の楽団を結成し、NBC放送にレギュラー出演し一躍スターになった。1938年1月にニューヨークのカーネギー・ホールで初のジャズ・コンサートを開き全米を沸かせた。この録音はその3カ月後に行われたも。ブダペスト弦楽四重奏団との共演。ブダペスト弦楽四重奏団は1917年ブダペスト歌劇場のメンバーだった4人によって結成され、1967年に解散した。1932年にリーダーがヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)になりアメリカをベースに活躍し20世紀中期最高の四重奏団として君臨した。グッドマンは1956年7月にモーツァルトのクラリネット協奏曲をシャルル・ミュンシュ指揮ボストンso.(RCA VICTOR LPM 2073) と録音していた。 | ||
アドルフ・ブッシュ〜ベートーヴェン: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61 (カデンツァ:アドルフ・ブッシュ) |
アドルフ・ブッシュ(Vn) フリッツ・ブッシュ指揮 NYP | |
録音:1942年2月9日、ニューヨーク。独 BRUEDER-BUSCH 12 PAL 1902/03 (モノ)。 アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの名ヴァイオリニスト。1912年、20歳の時ウィーンのコンツェルト・フェライン(ウィーンso. )のソロ・ヴァイオリンに抜擢された。1918年ベルリン高等音楽院のヴァイオリン科教授に任命され、弦楽四重奏団も組織した。1936年にアメリカに移住、活動の拠点をこの地に置いた。指揮者のフリッツ・ブッシュ(1890-1951)はアドルフの実兄。北欧やイギリスで活躍した。この録音は第2次世界大戦中にニューヨークで行われた兄の指揮&弟のヴァイオリンとNYPが共演した貴重な物。他に二人の共演盤は存在しない。アドルフ・ブッシュのヴァイオリンはこのシリーズで多数出ている。 | ||
ミッシャ・エルマン・リサイタル ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第4番 ニ長調 Op.1 No.23 J.S.バッハ:G線上のアリア / サンマルティーニ/ナチェス編曲:パッサカリア ヴィターリ/シャイエ編曲:シャコンヌ ミッシャ・エルマン(Vn) ジョゼフ・セイガー(P) | ||
録音:1956年10月15日-18日、NW6 デッカ・スタジオ、ロンドン。 米 LONDON LL1631 (Mono) (英 DECCA LXT5303と同一録音) 。ミッシャ・エルマン(1891-1967)はロシア帝国〔現・ウクライナ〕、キーウ〔キエフ〕のタルノイ生まれ。4歳でヴァイオリンを始め、オデッサの王立音楽学校に入学。その後ペテルブルク音楽院で名教授レオポルド・アウアー(1845-1930)に師事した。1904年にベルリンでデビュー。1905年にはロンドン、1908年にニューヨークのカーネギー・ホールでデビュー、聴衆を沸かせた。1911年に単身アメリカに移住、その後家族を呼び寄せ1923年に市民権を得た。1921年に初来日、その後1937年、1955年に来日した。エルマンは機械式録音時代からSPレコード時代にかけて米VICTORの看板アーティストとして君臨した。これはエルマン65歳のモノLP録音である。往年の名ヴァイオリニストをハイファイ録音で捉えた貴重な物。聴き手を引きつける名手のヴァイオリンの魅力は十分に残っている。なおここに収録のヴィタリの「シャコンヌ」はエルマンの初録音。 | ||
#CDショップ・カデンツァ独自翻訳・編集・製作のため、無断転載・使用は堅くお断り致します ヴァンダ・ランドフスカ〜J.S.バッハ: パルティータ第1番 変ロ長調 BWV.825 / 半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV.903 / 6つの小前奏曲 BWV.933-938 / イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV.971 / 3つの小前奏曲 BWV.924-926 /フゲッタ BWV.961 #CDショップ・カデンツァ独自翻訳・編集・製作のため、無断転載・使用は堅くお断り致します |
ヴァンダ・ ランドフスカ(Cemb) | |
録音:1935年-1936年、パリ。 DISQUE GRAMOPHONE DB 4995-96 (France) / HMV DB 4993-94 (U.K.) / VICTOR 14233-34 (U.S.) 。 ヴァンダ・ランドフスカ(1879-1959) はポーランドのワルシャワ生まれ。20世紀最高のハープシコード奏者。またピアニスト、音楽学者、教授で1900年から13年間パリのスコラ・カントルムで教鞭をとった。二列の鍵盤と七個のペダルを有する自分のハープシコードをパリのプレイエル社に作らせて生涯この楽器を使用した。1940年フランス国籍を得たが、1941年ドイツ軍のフランス侵攻によりアメリカに逃れ、晩年はコネティカット州のレイクヴィルに居住し、75歳の時ニューヨークで演奏会を開いたという記録がある。ランドフスカの録音はこのシリーズで多数出ている。 | ||
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第9番 ハ長調 Op.59 No.3「ラズモフスキー第3番」
ブッシュSQ [アドルフ・ブッシュ(Vn1) ゲスタ・アンドレアソン(Vn2) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)] | ||
録音:1933年11月10日、16日、アビー・ロードEMI第3スタジオ、ロンドン。英 HMV DB 2109-12 。ブッシュ弦楽四重奏団は1919年にアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によって組織され、1930年代に英HMVに多くの録音をしていた。ブッシュはピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とのデュオでも活躍した。ブッシュは1939年に実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに移住、その後四重奏団の二人のメンバーもアメリカに渡り、1941年からアメリカCOLUMBIAで録音を再開した。このシリーズでベートーヴェン:弦楽四重奏曲第1番(78CDR-3638) 、第7番「ラズモフスキー第1番」(78CDR-3287)、第12番(78CDR-3482) 、第14番(78CDR-3633) 、第15番(78CDR-3362) 、第16番(78CDR-3195) が出ている。 | ||
アドルフ・バラー ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」 バラー:「4つの小品のための組曲」〜アンダンテ |
アドルフ・バラー(P) | |
録音:1951年10月、日本ビクター・スタジオ、築地、東京。日本ビクター SD 3029-32 。 アドルフ・バラー(1909-1994) はポーランドのガリシア(現ウクライナ)生まれ。8歳のときウィーンに行きフランツ・リストの弟子の一人に師事し、13歳でウィーン・フィルと共演した。1938年ナチスの迫害を受けアメリカに逃れ、1941年名ヴァイオリニストのユーディ・メニューイン(1916-1999)に出会い伴奏者を務めた。この録音はメニューインが1951年、戦後初の親善使節として来日した際、東京・築地の日本ビクター・スタジオでの録音。おそらく最初期の磁気テープ録音による SP レコードであろう。 | ||
#CDショップ・カデンツァ独自翻訳・編集・製作のため、無断転載・使用は堅くお断り致します シモン・ゴールドベルグ〜モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲集 〔第3番 ト長調 K.216 (カデンツァ:シモン・ゴールドベルグ)/ 第4番 ニ長調 K.218 (カデンツァ: ヨアヒム)〕 #CDショップ・カデンツァ独自翻訳・編集・製作のため、無断転載・使用は堅くお断り致します |
シモン・ゴールドベルグ(Vn) ワルター・ジュスキント指揮 フィルハーモニアo. | |
録音:1951年8月13日-15日、アビー・ロードEMI第1スタジオ、ロンドン。米 DECCA DL 9609 (Mono) (英 PARLOPHONE PMA 1003 と同一録音) 。シモン・ゴールドベルグ(1909-1993) はポーランド生まれ。ベルリンで名教授カール・フレッシュ(1873-1944)に師事し、1929年フルトヴェングラーに招かれてベルリン・フィルのコンサートマスターに就任したが1934年ナチスが政権をとると退団し、ロンドンに移住した。1936年ハンガリー出身の女流ピアニスト、リリー・クラウスと共に来日したこともある。1942年クラウスと共にアジアに演奏旅行中、インドネシアのジャワ島で日本軍に捕らえられ1945年まで抑留生活を強いられた。大戦後はオランダとアメリカで活躍、晩年日本人ピアニスト山根美代子さんと結婚、富山県の立山のホテルで暮らしていた。指揮者のワルター・ジュスキント(1913-1980 はチェコのプラハ生まれ、ベルリンで名指揮者ジョージ・セル(1897-1970)に薫陶を得てアシスタントを務め、後にイギリス国籍を得た。復刻にはWESTREX 10A カートリッジをモノラル接続で使用した。 | ||
ジョゼフ・レヴィーン〜 SP 録音集 ショパン:ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53「英雄」/ 練習曲〔イ短調 Op.25 No.11 「木枯らし」/変ホ長調 Op.10 No.11 / 嬰ト短調 Op.25 No.6 /ロ短調 Op.25 No.22 〕/ 前奏曲〔変イ長調 Op.28 No.17 /変ロ短調 Op.28 No.16 〕 シューマン:トッカータ ハ長調 Op.7 /春の夜 Op.39 No.11 (リスト編曲) ドビュッシー/ラヴェル編曲:祭り(*) ヨハン・シュトラウス II /シュルツ=エヴラー編曲:美しく青きドナウ ジョセフ・レヴィーン(P) ロジーナ・レヴィーン(連弾P;*) | ||
米 CAMDEN CAL 265 (LP, Mono | LP の復刻元: SP ) 。使用原盤に起因するノイズあり。 ジョセフ・レヴィーン(1874-1944) はロシア生まれのユダヤ系ピアニスト。1892年モスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業。同級生にはアレクサンダー・スクリャービン(1872-1915) やセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)がいた。1898年に音楽院の後輩ピアニスト、ロジーナ(1880-1976) と結婚。夫妻は1919年にアメリカに亡命し、ジュリアード音楽院で教鞭をとりながら演奏活動をした。1944年、70歳の誕生日を目前に心臓発作で世を去った。ここに収録した録音はLP時代の初期にCAMDENで発売されたもの。オリジナルの SP レコードは極めて数が少ないために LP からのトランスファーに依った。ブゾーニ、ホロヴィッツ、ルービンシュタインが一目置いた伝説のピアニストが残した貴重な演奏集である。復刻にはWESTREX 10A カートリッジをモノラル接続で使用した。 | ||
ヘルシャー&ナイ〜 シューベルト:アルペジオーネ・ソナタ イ短調 D.821 |
ルートヴィヒ・ヘルシャー(Vc) エリー・ナイ(P) | |
録音:1935年5月2日。日 VICTOR JH 22-23 (独ELECTROLA EH920-21 と同一録音) 。アルペジオーネは1823年にウィーンのシュタウファーが開発した6弦のフレットをもった弦楽器。この曲は今日ではチェロで弾かれる。ルートヴィヒ・ヘルシャー(1907-1996)はドイツのチェリスト。 6歳でチェロを始め、ライプツィヒでユリウス・クレンゲル(1859-1933)、ベルリンでフーゴ・ベッカーに師事し1930年にメンデルスゾーン賞を受賞し、1936年フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの演奏会でソリストとしてデビュー。その後ピアノのエリー・ナイ(1882-1968)とヴァイオリンのマックス・シュトループ(1900-1966)とピアノ三重奏団を組んだ。エリー・ナイはウィーンでレシェティツキやエミール・フォン・ザウアーの薫陶得て、第2次世界大戦中もドイツで活躍した。 | ||
イェフディ・メニューイン メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64 (*) モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第34番 変ロ長調K.378 〜第2楽章(#) イェフディ・メニューイン(Vn;*/#) ジョルジェ・エネスク指揮コロンヌo.(*) ヤルタ・メニューイン(P;#) | ||
録音:1938年5月2日、パリ(*) /1938年、ロンドン(#)。英 HMV DB 8586/10 。イェフディ・メニューイン(1916-1999)はニューヨーク生まれ。サンフランシスコに移り3歳からヴァイオリンを始めた。ジグムンド・アンカー、ルイ・パーシンガー(1872-1966)に師事し、1926年10歳の時アルフレッド・ヘルツ(1872-1942)指揮のサンフランシスコso. とラロのスペイン交響曲でデビューした。その後パリでジョルジュ・エネスコ(1881-1955)、ベルリンでアドルフ・ブッシュ(1891-1952)に手ほどきを受けた。1928年12歳の時初レコード録音を行った。指揮のジョルジェ・エネスクはルーマニア出身。ヴァイオリニスト、ピアニスト、作曲家、指揮者、教育者として活躍した全能音楽家。この録音では弟子のメニューインを全面的にサポートしている。ピアニストのヤルタ・メニューイン(1922-2001)はユーディの義妹(カデンツァ注:正しくは、おそらく「末妹」)。パリ音楽院でマルセル・シャンピ(1891-1980)に、ジュリアード音楽院ではカール・フリードバーグ〔フリートベルク〕に師事した。 | ||
I.ヘンデル&クーベリック〜 ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 Op.26 |
イダ・ヘンデル(Vn) ラファエル・クーベリック指揮 フィルハーモニアo. | |
録音:1948年4月4日、12日、アビー・ロードEMI第1スタジオ、ロンドン。 英 HMV C3802-04 。2016年92歳の現役ヴァイオリニスト、イダ・ヘンデル(1924年生まれ)は1935年ワルシャワで開催されたヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールでジネット・ヌヴー(18歳)、ダヴィド・オイストラフ(27歳)についで第3位に入賞、そのとき11歳だった。ヘンデル一家は1939年に祖国ポーランドからイギリスに移住1940年に市民権を得た。その年に英DECCA と契約し契約期間中に約50枚の録音を残した。これはDECCAとの契約を終了してEMIに移籍後の録音ラファエル・クーベリック(1914-1996)は世界的ヴァイオリニスト、ヤン・クベリーク(1880-1940)の長男として生まれたチェコ出身の指揮者。1937年にチェコ・フィルを指揮してスメタナ「わが祖国」抜粋(HMV C1979-81)でEMIにデビューした。 | ||
トール・マン〜 シベリウス:交響曲第2番 ニ長調 Op.43 |
トール・マン指揮 ストックホルム・コンサート協会o. | |
録音:1942年10月17日。米 CAPITOL P 8107 (LP, Mono | LP の復刻元 SP : 独 TELEFUNKEN SK 3322-26 [SP] ) 。使用原盤に起因するノイズ多し。 スウェーデンの指揮者トール・マン(1894-1974)が残した数少ない名演奏の一つ。マンはイェーテボリso. の首席指揮者を1925年から39年まで務め、その後スウェーデン放送so. の首席指揮者を1959年まで務めた。この録音は第2次世界大戦中にドイツのテレフンケン社に録音された物。戦後LP時代になってテレフンケンと契約があった米 CAPITOL から歴史的名演奏として復刻された。交響曲愛好家には必聴の演奏。 | ||
ロジーナ・レヴィーン〜ショパン:ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11
ロジーナ・レヴィーン(P) ジョン・バーネット指揮 ナショナル・オーケストラ・アソシエーション同窓会員 | ||
録音:1961年11月20日、22日、マンハッタン・センター、ニューヨーク。英 WING WL1064 (Mono/原盤:米 MERCURY ) 。使用原盤に起因するノイズあり。ジュリアード音楽院のピアノ科の名教師ロジーナ・レヴィーン(1880-1976)の81歳の録音。キーウ〔キエフ〕の宝石商の娘として生まれた彼女はモスクワ音楽院に学び1898年に大金メダルを得て卒業。その後まもなく5歳年長のピアニスト、ヨーゼフ・レヴィーン(1874-1944)と結婚した。夫妻は1919年にアメリカに亡命した。1944年に夫のヨーゼフが死去すると、ジュリアードの経営陣は満場一致で夫人のロジーナを夫の後任教授に推薦し、その後32年に渡って数々の俊英を育成した。中でも1958年に冷戦時代のソ連で開催されたチャイコフスキー・コンクールにアメリカ人として初めて優勝したヴァン・クライバーン(1934-2013)や日本人ピアニストの中村紘子(1944-2016)、作曲家のジョン・ウィリアムズ(1932-)、指揮者のジェイムズ・レヴァイン(1942-)等は門下生だった。指揮者のジョン・バーネットは1917年ニューヨーク生まれ。1937-41年にナショナル・オーケストラ・アソシエーションの指揮者を務めたことがある。81歳になったロジーナ・レヴィーンをソリストに指揮者も含めて元ナショナル・オーケストラ・アソシエーションのメンバーだった人達が集まっての記念録音。格調高く威厳のあるピアノが素晴らしい。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2016年リリース分 1月-12月 (末尾 589-648) | ||
ブダペストSQ 〜モーツァルト:弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516
ブダペストSQ [ヨーゼフ・ロイスマン(Vn1) アレクサンダー・シュナイダー(Vn2) ボリス・クロイト(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc)] ミルトン・カティムズ(Va2) | ||
米 COLUMBIA C 15888/91 。 録音:1941年12月2日、リーダークランツ・ホール、ニューヨーク。1941年(昭和16年)日米開戦の6日前の録音。 | ||
ブダペストSQ 〜モーツァルト:弦楽五重奏曲第3番 ハ長調 K.515
ブダペストSQ [ヨーゼフ・ロイスマン(Vn1) エドガー・オルテンベルク(Vn2) ボリス・クロイト(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc)] ミルトン・カティムズ(Va2) | ||
米 COLUMBIA 71692/5-D 。 録音:1945年2月6日、4月23日、コロムビア・スタジオ、ニューヨーク。 ブダペスト弦楽四重奏団は1917年ブダペスト歌劇場のメンバーだった4人によって結成され、1967年に解散した。1932年にリーダーがヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)になり、アメリカをベースに活躍し20世紀中期最高の四重奏団として君臨した。 当2曲の第2ヴァイオリンはアレクサンダー・シュナイダー(在籍:1933-45 、1966-67)とエドガー・オルテンベルク(在籍1944-1949)。後者はA.シュナイダーが抜けた時期にメンバーを務めた。 第2ヴィオラのミルトン・カティムズ(1909-2006)はロシアとオーストリア=ハンガリ-帝国出身の両親の元にブルックリンに生まれ、コロンビア大学で教育を受けた。ベルギー生まれのレオン・バージン(1900-1999)からヴィオラの指導をうけ、1943年ウィリアム・プリムローズ(1903-1962)の後任としてNBCso.の首席奏者として入団し、またNYP 、フィラデルフィアo.、ボストンso.、ロンドン・フィル、クリーヴランドo.を指揮した。ブダペスト弦楽四重奏団とは15年以上に渡って共演した。 | ||
ロートSQ 〜モーツァルト:クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581
シメオン・ベリソン(Cl) ロートSQ [フェリ・ロート(Vn1) イェネー・アンタル(Vn2) フェレンツ・モルナール(Va) ヤーノシュ・ショルツ(Vc)] | ||
米 COLUMBIA 68909/12-D 。 録音:1937年9月29日、コロムビア・スタジオ、ニューヨーク。 ロート弦楽四重奏団はオーストリア=ハンガリー帝国出身のヴァイオリニスト、フェリ・ロート(1899-1967)によって1922年に設立された。ロートはブダペスト王立音楽アカデミーの出身で1919年からブダペスト歌劇場のコンサート・マスター、1921年にはベルリン・フォルクスオーパーのコンサート・マスターをつとめた。1928年にアメリカに渡り、室内楽奏者として活躍した。1929年から1939年の11年間はこの四重奏団の黄金期で全員ハンガリー出身者で構成され、レコード録音の数も多い。代表的なものにJ.S.バッハのフーガの技法がある。クラリネットのシメオン・ベリソン(1881-1953)はモスクワ生まれ。1921年にアメリカ国籍を得た。ベリソンはNYPの第1クラリネット奏者として活躍する傍ら、クラリネット奏者のグループを結成し、メンバーが当初8名だったのが1948年には75名になっていた。ベリソンは他にモーツァルトのコンサート・ロンド、ベートーヴェンのドン・ジョヴァンニ変奏曲の録音があった。 | ||
初CD アイダ・シュトゥツキ〜モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲第7番 ニ長調 K.271a |
アイダ・シュトゥツキ(Vn) グスタフ・ルント指揮 シュトゥットガルト・ トンスタジオo. | |
米 PERIOD SPLP 548 (U.S.) (Mono) 。録音:1951年11月、シュトゥットガルト。アイダ・シュトゥツキ(1921-2011)はエジプト、カイロ生まれでスイスのヴァイオリン奏者。アンネ=ゾフィ・ムター(1963-)の師として知られている。10歳でヴァイオリンを始め最初はヴィンタートゥール/チューリヒ市立オーケストラのコンサート・マスター、エルンスト・ヴォルタースに、続いてハンガリー生まれのヴァイオリン教師シュテフィ・ガイヤー(1888-1956)に、さらにルツェルンで名教授カール・フレッシュ(1873-1944)に師事した。1940年にジュネーヴ国際音楽コンクールで入賞し、1945年から1950年までピアニストのクララ・ハスキル(1895-1960)とデュオを組んだ。1948年からヴィンタートゥール音楽院で教鞭をとり、1992年にはチューリヒ高等芸術院でマスタークラスを開いた。1975年にはヴィンタートゥールの「カール・ハインリッヒ・エルンスト芸術基金賞」を受賞した。この録音は1951年シュトゥツキが30歳の時アメリカのPERIODレーベルにスタジオ録音された物。ヴァイオリン協奏曲第7番はアメリカのDoremi社の復刻CDにも収録されていない貴重な音源。 | ||
ロジーナ・レヴィーン〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467 (カデンツァ:ロベール・カザドシュ) |
ロジーナ・レヴィーン(P) ジャン・モレル指揮 ジュリアードo. | |
米 COLUMBIA MS 6182 (Stereo) 。録音:1960年5月6日、11日、コロムビア・スタジオ、ニューヨーク。 ジュリアード音楽院のピアノ科の名教師ロジーナ・レヴィーン(1880-1976)の80歳記念録音。キーウ〔キエフ〕の宝石商の娘として生まれた彼女はモスクワ音楽院に学び1898年に大金メダルを得て卒業。その後まもなく 5歳年長のピアニスト、ヨーゼフ・レヴィーン(1874-1944)と結婚した。夫妻は1919年にアメリカに亡命した。1944年に夫のヨーゼフが死去すると、ジュリアードの経営陣は満場一致で夫人のロジーナを夫の後任教授に推薦し、その後32年に渡って数々の俊英を育成した。中でも1958年に冷戦時代のソ連で開催されたチャイコフスキー・コンクールにアメリカ人として初めて優勝したヴァン・クライバーン(1934-2013)や日本人ピアニストの中村紘子(1944-2016)、作曲家のジョン・ウィリアムズ(1932-)、指揮者のジェイムズ・レヴァイン(1942-)等は門下生だった。ジャン・モレル(1903-1975)はフランス生まれ。ニューヨーク・シティ・オペラ(1946-1951)、メトロポリタン歌劇場(1956-1971)の指揮者を務めた。ジュリアード音楽院でも後進の指導にあたりヘルベルト・ブロムシュテット(1927-)ジェイムズ・レヴァイン(1942-)、レナード・スラットキン(1944-)は門下生だった。 | ||
レーマン&ワルター〜シューマン: 歌曲集「詩人の恋」 Op.48 (ハイネ詩) |
ロッテ・レーマン(S) ブルーノ・ワルター(P) | |
米 COLUMBIA M 486 (Set/Mono) 。録音:1941年8月13日、 CBS スタジオ、ハリウッド。ロッテ・レーマン(1888-1976)はドイツのソプラノ。ペルレベルクに生まれベルリンで勉強した後、1910年にハンブルク歌劇場でワーグナーの「ローエングリン」でデビューした。1914年にはウィーン宮廷歌劇場に登場し、リヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」、「影のない女」、「インテルメッツォ」、「アラベラ」のウィーン初演に出演した。また「ばらの騎士」のマルシャリン役での録音もある。レーマンはオペラ歌手としてだけではなく歌曲を得意とした。レーマンは1938年ナチス・ドイツのオーストリア併合による迫害を逃れ、アメリカに移住した。この録音はアメリカ時代の物。ピアノを大指揮者ブルーノ・ワルター(1876-1962)が弾いている。ワルターもまた1938年ナチス・ドイツの迫害を逃れ、アメリカに移住した人物だった。レーマンはこのシリーズでシューベルト「冬の旅」(78CDR-3048 & 3049)、「美しき水車屋の娘」(78CDR-3079)、リヒャルト・シュトラウス:歌曲集(78CDR-3348)、シューマン「女の愛と生涯」(78CDR-3363)、ブラームス:歌曲集(78CDR-3393)が出ている。 | ||
エレナ・ゲルハルト・シューベルト・リサイタル 漁夫の歌/漁夫の娘/ひめごと/別れ/眠りの歌/ ミューズの子/ばらの花冠/春に/ ロザムンデのロマンス/万霊節の連祷 |
エレナ・ゲルハルト(Ms) ケンラート・ファン・ボス(P) ポーラ・ヘグナー(P) マジョリー・ヘイウォード(Vn) | |
英 HMV D-1459/62 。録音:1928年5月11日、1928年5月9日、1928年11月9日、1928年2月16日。# HMV 盤特有のノイズあり。ドイツが生んだ大リート歌手エレナ・ゲルハルト(1883-1961)が機械式録音時代に英エオリアン・ヴォカリオンに録音した22曲と1928年に英HMVに録音した12インチSPレコード3枚の「シューベルト歌曲集」の復刻。ゲルハルトの録音は1907年、大指揮者アルトゥール・ニキシュのピアノ伴奏による10インチ盤7枚と12インチ盤1枚から始まった。以降機械式録音時代、電気録音時代に多数残したレコードすべてリートでオペラは1枚もない。ゲルハルトはこのシリーズでシューマン:女の愛と生涯」(78CDR-3631)、「ブラームス、シューベルト、ヴォルフ歌曲集」(78CDR-3496)、シューベルト「冬の旅」抜粋 (78CDR-3566)が出ている。 | ||
ジョー・スタッフォード〜 SP 録音集 ウォーキン・マイ・ベイビー・バック・ホーム/虹の彼方に/わが心のジョージア/イエスタデイズ/ 懐かしのヴァージニア/サムタイムズ・アイム・ハッピー/アローン・トゥゲザー/ザ・ボーイ・ネクスト・ドア ジョー・スタッフォード(Vo) ポール・ウェストン楽団 | ||
米 CAPITOL B-D23 (78rpm Album Set) 。録音:1944年-1945年。ジョー・スタッフォード(1917-2008)はアメリカのポップス・シンガー。1938年男女4人編成のヴォーカル・グループ「パイド・パイパーズ」の一員としてトミー・ドーシー楽団に加わり、その後ソロ・シンガーに抜擢された。1942年にバンドを辞して独立、ヴォーカリストとして新興のCAPITOLに迎えられた。このSPレコード4枚組のアルバムは1946年に発売されたCAPTOLでは2作目のアルバム。ここでは後に結婚した夫君となったポール・ウェストンの指揮する楽団と共演している。スタッフォードはその後COLUMBIAに移籍し、数々の大ヒットを出した。このシリーズで多数出ている。 | ||
ブルースエット〜カーティス・フラー ファイヴ・スポット・アフター・ダーク/アンディサイデッド/ブルースエット/ マイナー・ヴァンプ/ラヴ・ユア・マジック・スペル・イズ・エヴリホエア/12インチ カーティス・フラー(Tb) ベニー・ゴルソン(テナーSax) トミー・フラナガン(P) ジミー・ギャリソン(ベース) アル・ヘアウッド(Dr) | ||
米 SAVOY ST-13006 、ステレオ。録音:1959年5月21日、ルディ・ヴァンゲルダー・スタジオ、ハッケンサック、ニュージャージ州、 US 。ジャズ愛好家でなくても、きっと何処かで耳にしたことがある懐かしいメロディ「ファイヴ・スポット・アフター・ダーク」が収録されたLPの高音質復刻。「ファイヴ・スポット」はニューヨークのハーレムで営業するジャズクラブの名前。夕暮れの物憂い響きが心地いい。カーティス・フラー(1934-)はミシガン州デトロイト出身のトロンボーン奏者。デトロイトの学校時代にポール・チェンバース(1935-)、ドナルド・バード(1932-)と知り合った。このアルバムの共演者のベニー・ゴルソン(1929-)はペンシルヴェニア州フィラデルフィア生まれ。ワシントンのハワード大学卒業後多くのジャズミュージシャンに出会い影響を受けた。 復刻には WESTREX 10A カートリッジとコルグの Nutube (新型直熱3極管)によるフォノイコライザーを使用した。 | ||
カウント・ベイシー&カンザス・シティ・セヴン オー・レイディ・ビー・グッド/シークレッツ/アイ・ウォント・ア・リトル・ガール/シュー・シャイン・ボーイ/ カウンツ・プレイス/セネター・ホワイト・ヘッド/トーリー・ホー・ミスター・ベイシー/ホワッチャ・トーキン? カウント・ベイシー(P/Org) サド・ジョーンズ(Tp) フランク・ウェス(Fl) エリック・ディクソン(テナーSax/Fl) フランク・フォスター(テナーSax) フレディ・グリーン(G) エド・ジョーンズ(ベース) ソニー・ペイン(Dr) | ||
米 IMPULSE! A-15 (カデンツァ注: AS-15? )、ステレオ。録音:1962年3月21日-22日。カウント・ベイシー(1904-1984)はニュージャージー州レッドバンク生まれ。母親の手ほどきでピアノをはじめ1924年にブルース歌手の伴奏とソロでプロ活動を開始した。ある時仕事で訪れたミズーリ州カンザス・シティで多くのジャズミュージシャンと出会った。これは1960年代初頭にステレオ録音されたベイシーの代表盤。 復刻には WESTREX 10A カートリッジとコルグの Nutube (新型直熱3極管)によるフォノイコライザーを使用した。超高分解能のサウンドが楽しめる。 | ||
ブッシュSQ 〜ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調 Op.18 No.1
ブッシュSQ [アドルフ・ブッシュ(Vn1) ゲスタ・アンドレアソン(Vn2) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)] | ||
英 HMV DB2102/04 。録音;1933年11月11日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。 ブッシュ弦楽四重奏団は1919年にアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によって組織され、1930年代には英HMVに多くの録音をしている。ブッシュはまたピアニアストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とのデュオでも活躍した。ブッシュは1939年に実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに移住、その後四重奏団の二人のメンバーもアメリカに渡り、1941年からアメリカCOLUMBIAに録音を再開した。このシリーズではベートーヴェン弦楽四重奏曲第7番 Op.59 No.1「ラズモフフキー第1番」(78CDR-3287)、第12番 Op.127 (78CDR-3482)、第14番作品131 (78CDR-3633)、第15番 Op.132 (78CDR-3362)、第16番 Op.135 (78CDR-3195)が出ている。 | ||
ハイフェッツ&プリムローズ モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲第2番 変ロ長調 K.424 (*) グラズノフ:瞑想曲 Op.32 (#) ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn) ウィリアム・プリムローズ(Va) アールパード・シャーンドル(P) | ||
米 RCA VICTOR 18198/200 。録音:1941年5月22日、8月29日、ニューヨーク(*) /1934年3月、ロンドン(#) 。 ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)はロシア生まれのアメリカのヴァイオリニスト。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1930)に師事し10歳でデビューした。1917年16歳の時に革命を逃れ一家はアメリカに移住し、少年ハイフェッツは一流演奏家として待遇された。その後青年期、壮年期から引退するまで世界最高のヴァイオリン奏者として崇められた。ヴィオラのウィリアム・プリムローズ(1903-1982)はイギリスのグラスゴー生まれ。ロンドンのギルドホール音楽学校に学んだ。1937年渡米アルトゥーロ・トスカニーニ指揮のNBCso. のソロ・ヴィオラ奏者として活躍し、1939年にソリストになり、世界的なヴィオラ奏者として活躍した。 | ||
ロッテ・レーマン、ドイツ歌曲集 モーツァルト:クローエに/ひめごと / シューベルト:いらだち/夕映えの中で シューマン:トランプ占いの女/森のささやき ブラームス:死は冷たい夜/テレーゼ/わたしの恋は緑にもえ ヴォルフ/アナクレオンの墓/私の髪のかげに ロッテ・レーマン(S) エルネー・バログ(P) | ||
英 HMV DA1466/70。録音:1935年10月17日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。HMV盤特有のノイズあり。 ロッテ・レーマン(1888-1976)はドイツのソプラノ。ペルレベルクに生まれベルリンで勉強した後、1910年にハンブルク歌劇場でワーグナーの「ローエングリン」でデビューした。1914年にはウィーン宮廷歌劇場に登場し、リヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」、「影のない女」、「インテルメッツォ」、「アラベラ」のウィーン初演に出演した。また「ばらの騎士」のマルシャリン役での録音もある。レーマンはオペラ歌手としてだけではなく歌曲を得意とした。レーマンは1938年ナチス・ドイツのオーストリア併合による迫害を逃れ、アメリカに移住した。この録音はヨーロッパ時代の物。レーマンはこのシリーズでシューベルト:「冬の旅」(78CDR-3048 & 3049) & 「美しき水車屋の娘」(78CDR-3079)、リヒャルト・シュトラウス:歌曲集(78CDR-3348)、シューマン:「女の愛と生涯」(78CDR-3363)、ブラームス:歌曲集(78CDR-3393)が出ている。 | ||
ドクトル&ライゼンバーグ〜 ブラームス:ヴィオラ・ソナタ 全集 〔第1番 ヘ短調 Op.120 No.1 / 第2番 変ホ長調 Op.120 No.2 〕 |
パウル・ドクトル(Va) ナディア・ライゼンバーグ(P) | |
米 WESTMINSTER W-9503 (Mono) (WESTMINSTER XWN 18114 と同一録音) 。録音:1955年6月、エソテリック・スタジオ、ニューヨーク。 パウル・ドクトル(1919-1989)はオーストリア生まれのアメリカのヴィオラ奏者。父親はブッシュ弦楽四重奏団のヴィオラ奏者だったカール・ドクトル(1885-1949)。父親の手ほどきでヴァイオリンを始め、1938年にウィーン音楽アカデミー卒業。その後ヴィオラに転向した。1942年に開かれたジュネーヴ国際コンクールのヴィオラ部門で第一位。ルツェルンo. のソロ・ヴィオラ奏者をつとめたが1947年にアメリカに移住し、1948年春にワシントン国会図書館でアメリカ・デビュー。ソロ活動の傍らニューヨークのマネス音楽学校の教授を務めた。ピアノのナディア・ライゼンバーグ(1904-1983)はリトアニアのヴィリニュス生まれ。サンクトペテルブルクで学んだ後、ロシア革命を避けてアメリカに移住した。フィラデルフィアのカーティス音楽院で名ピアニスト、ヨーゼフ・ホフマン(1876-1957)に師事した。ライゼンバーグの録音はたいへん少なく、ピアノ録音愛好家が血眼になって探している。これもその一枚。 | ||
ブダペストSQ 〜モーツァルト:弦楽五重奏曲第3番 ハ長調 K.515
ブダペストSQ [ヨーゼフ・ロイスマン、アレクサンダー・シュナイダー(Vn) ボリス・クロイト(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc)] ワルター・トランプラー(Va) | ||
米 COLUMBIA ML 5192 (Mono) 。録音:1957年1月10日、30丁目コロムビア・スタジオ、ニューヨーク。ブダペスト弦楽四重奏団は1917年ブダペスト歌劇場o.の4人のメンバーでスタートしたが、1932年に初代のリーダーだったエミール・ハウザーがロシア出身のヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)に代わり、その後メンバーはロシアとポーランド出身者になり、ハンガリー出身者は居なくなった。この団体はアメリカをベースに活躍し20世紀中期最高の四重奏団として君臨したが、1974年にリーダーのロイスマンの死去で惜しくも解散した。このアルバムはモノLP時代に残されたモーツァルト弦楽五重奏全曲録音の中の一枚。第2ヴィオラのウィリアム・プリムローズ(1915-1997)はドイツ生まれ。1939年アメリカに移住し室内楽奏者として活躍した名手。 | ||
ブッシュ弦楽四重奏団〜 ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 Op.131 ブッシュSQ [アドルフ・ブッシュ(Vn1) ゲスタ・アンドレアソン(Vn2) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)] | ||
英 HMV DB 2810-14 。録音:1936年3月2日、 EMI アビー・ロード第3スタジオ、ロンドン。 ブッシュ弦楽四重奏団は1919年にアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によって組織され、1930年代には英HMVに多くの録音をしている。ブッシュはまたピアニアストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とのデュオ録音でも活躍した。ブッシュは1939年に実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに移住、その後四重奏団の二人のメンバーもアメリカに渡り、1941年からアメリカCOLUMBIAに録音を再開した。このシリーズではベートーヴェン弦楽四重奏曲第7番 Op.59 No.1「ラズモフフキー第1番」(78CDR-3287)、第12番 Op.127 (78CDR-3482)、第15番 Op.132 (78CDR-3362)、第16番 Op.135 (78CDR-3195)が出ている。 | ||
カンポーリ タルティーニ:ヴァイオリン・ソナタ ト短調 Op.6 No.2 「悪魔のトリル」 タルティーニ/ブリッジウォーター編曲:プレスト 変ロ長調 アルフレード・カンポーリ(Vn) エリック・グリットン(P) | ||
英 DECCA AK 2366-67 。録音:1949年5月12日、 DECCA スタジオ、 NW6 、ロンドン。アルフレード・カンポーリ(1906-1991)はイタリア生まれのヴァイオリニスト。5歳の時両親とイギリスに移住し、1923年ロンドンのウィグモア・ホールでデビューした。ネリー・メルバ(1861-1931)やクララ・バット(1872-1936)などの大物歌手とツアーをする一方、自らの名を冠したサロンo.をつくりBBCラジオやレコード録音で活躍した。第2次世界大戦後はクラシックの演奏家に返り咲き、英デッカの看板アーティストになった。1960年と1966年に日本公演を行い、1966年にはキングレコードの第1スタジオで作曲家でピアニストの和田則彦氏と日本歌曲からの編曲2曲を含む11曲のヴァイオリン名曲集を録音した。カンポーリはストラディヴァリウスの名器「ドラゴネッティ」を所有していた。 | ||
エレナ・ゲルハルト〜 シューマン:歌曲集「女の愛と生涯」 |
エレナ・ゲルハルト(Ms) ジェラルド・ムーア(P) | |
英 HMV GS 37-39 。録音:1948年1月14日、EMI アビー・ロード第3スタジオ、ロンドン。 ドイツが生んだ大リート歌手エレナ・ゲルハルト(1883-1961)最後の録音。自費で録音したプライヴェート盤で自身の知人やファンに配られたもの、一般発売はされなかった。録音時ゲルハルトは65歳。ゲルハルトの録音は1907年、大指揮アルトゥール・ニキシュのピアノ伴奏による10インチ盤7枚と12インチ盤1枚から始まった。以降機械式録音時代、電気録音時代に残したレコードはすべてリートでオペラは一枚もない。ゲルハルトは1939年に祖国ドイツを棄てイギリス国籍を得て移住したが、HMVはナチスドイツ国籍だった彼女の正規録音を嫌い、プライヴェート録音扱いにした。プライヴェート盤はこの「女の愛と生涯」以前にも1939年録音の10インチ盤6枚組の「ブラームス、シューベルト、ヴォルフ歌曲集」(78CDR-3496)が出ている。このシリーズでシューベルト「冬の旅」(抜粋) (78CDR-3566)もある。 | ||
ブダペストSQ シベリウス:弦楽四重奏曲 ニ短調 Op.56「親愛の声」 グリーグ:弦楽四重奏曲 ト短調 Op.27 ブダペストSQ [ヨーゼフ・ロイスマン(Vn1) アレクサンダー・シュナイダー(Vn2) ボリス・クロイト(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc) | ||
米 COLUMBIA ML 5202 (Mono) 。録音:1955年9月8日-9日、12日、クーリッジ・オーディトリアム、国会図書館、ワシントン。 ブダペスト弦楽四重奏団は1917年ブダペスト歌劇場o. の4人のメンバーでスタートしたが、1932年に初代のリーダーだったエミール・ハウザーがロシア出身のヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)に代わり、その後メンバーはロシアとポーランド出身者になり、ハンガリー出身者はいなくなった。この団体はアメリカをベースに活躍し20世紀中期最高の四重奏団として君臨したが、1974年にリーダーのロイスマンの死去で惜しくも解散した。このアルバムは北欧の作曲家の作品を集めたもので、両曲共この楽団がSP時代にHMVに録音していた。現在ではあまり聴くことがないが聴き応えのある作品。 | ||
ワルター〜モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626
イルムガルト・ゼーフリート(S) ジェニー・トゥーレル(A) レオポルド・シモノー(T) ウィリアム・ウォーフィールド(B) ブルーノ・ワルター指揮 NYP 、 ジョン・フィンリー・ウィリアムソン合唱指揮ウェストミンスターcho. | ||
米 COLUMBIA ML 5012 (Mono) 。録音:1956年3月10日、12日、カーネギー・ホール、ニューヨーク。 モーツァルト生誕200年記念録音。ワルターが残した唯一のモーツァルト:レクイエム。ソプラノのイルムガルト・ゼーフリート(1919-1988)はドイツ生まれ。ウィーン国立歌劇場でデビューし、ザウリツブルグ音楽祭、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場で活躍、ヴァイオリニストのヴォルフガンク・シュナイダーハン(1915-2002)夫人だった。アルトのジェニー・トゥーレル(1900-1973)はロシア生まれ。ロシア革命後パリに移住し、レナルド・アーン(1875-1947)とアンナ・エル・トゥアに師事した。1946年にアメリカの市民権を得てこの地で活躍、ジュリアード音楽学校でも教鞭をとった。レオポルド・シモノー(1918-2006)はカナダのケベック州生まれ。1949年パリのオペラ・コミークにデビューした。モーツァルトを得意とした。夫人はソプラノのピエレット・アラリー。ウィリアム・ウォーフィールド(1920-2002)は米国アラバマ州出身の黒人歌手ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。1938年ナチス・ドイツのオーストリア併合により、迫害を避けてアメリカに逃れた。 | ||
プルジーホダ〔プシホダ〕〜タルティーニ: ヴァイオリン・ソナタ ト短調 Op.6 No.2 「悪魔のトリル」 |
ヴァーシャ・プシホダ(Vn) オットー・グレーフ(P) | |
独 GRAMMOPHON 57099-100 。録音:1938年8月28日、ベルリン。 ヴァーシャ・プシホダ(1900-1960)はチェコのヴォズナニーに生まれた。11歳でプラハ音楽院に入った。ミラノの演奏会に居合わせた大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)を驚嘆させ「新しいパガニーニ」と称賛されたのがきっかけでヨーロッパ諸国で認められた。1921年にアメリカ・デビュー、1927年にはロンドン公演をした。プシホダは1930年にヴァイオリニストのアルマ・ロゼー(1906-1944)と結婚したが1935年に別れた。アルマ・ロゼーはウィーン・フィルのコンサート・マスターを長年つとめたアルノルト・ロゼー(1863-1946)の娘。プシホダは第2次世界大戦中はザルツブルクのモーツァルテウムで教鞭をとった。大戦後はウィーンを拠点に教鞭と演奏活動をした。このアルバムの第4面でプシホダ自身の豪華絢爛なカデンツァが聴けるのが大きな特長。このシリーズにある「ヴァーシャ・プシホダの芸術」(78CDR-3574)と共にこのヴァイオリニストの名人芸を堪能していただきたい。 | ||
カザルス〜ベートーヴェン: チェロ・ソナタ第3番 イ長調 Op.69 / メヌエット ト長調 |
パブロ・カザルス(Vc) オットー・シュルホフ(P) | |
米 VICTROLA 7568-70 (英 HMV DB1417-19 と同一録音) 。録音:1930年3月6日-7日、HMV スタジオ A 、ヘイズ、ミドルセックス州、イギリス。 パブロ・カザルス(1878-1973)はスペインのカタルーニャ地方の町エル・ベドレルに生まれた偉大なチェロ奏者。バルセロナ音楽院でチェロ、ピアノ、楽理、作曲を学んだ。1890年バルセロナでバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会った。1899年23歳でパリ・デビュー、1904年バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏した。1902年ピアノのコルトー、ヴァイオリンのティボーとトリオを結成。1908年コンセール・ラムルーo. で指揮デビューした。レコード録音は機械式録音時代の1915年から始めバッハの無伴奏チェロ組曲第3番から4曲、G線上のアリアほか小品を18面録音した。ピアノのオットー・シュルホフ(1889-1958)はオーストリア出身。ウィーン音楽院の教授をつとめたほか、パブロ・カザルスとの演奏活動を行った。カザルスはこのシリーズでベートーヴェン:チェロ・ソナタ第1番(78CDR-3221)ほか多数出ている。 | ||
ジネット・ヌヴー、初録音集 (Vol.2) スク:4つの小品〜アパッショナータ ショパン/ロディオノフ編曲:夜想曲第20番 嬰ハ短調 グルック:精霊の踊り パラディース/ドゥシュキン編曲:シチリアーノ |
ジネット・ヌヴー(Vn) ブルーノ・ザイトラー= ヴィンクラー(P) | |
録音:1938年、ベルリン。ヌヴー19歳の初録音SP盤3枚の内の2枚で、もう一枚は78CDR-3148で出ている。 ジネット・ヌヴー(1919-1949)はジョルジュ・エネスコ(1881-1955)にヴァイオリンの手ほどきを受けた後、11歳でパリ音楽院のジュール・ブーシュリ(1877-1962)のクラスに入り8カ月後に一等賞を得た。この8カ月という短期間はヌヴー受賞の50年前にヴィエニャフスキ(1835-1880)が打ち立てた記録と同じだった。ヌヴーはその後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)のもとでさらに研鑽を積んだ。1935年にワルシャワで開かれたヴィエニャフスキ・ヴァイオリン・コンクールに16歳で参加し180人の競争者に勝ち抜き優勝した。その時の第2位はソ連から参加した27歳のダヴィド・オイストラフ(1908-1974)だった。ヌヴーは1949年アメリカに向かう航空機事故で30歳の生涯を閉じた。 | ||
エリーザベト・シューマン、1950年アレグロ録音集 メンデルスゾーン:最初のすみれ/恋人の手紙/ゆりかごのそばで/月/春の歌 フランツ:私の大きな苦しみから/小鳥よどこへ急ぐ/静かな確信/願い/ 恋人はここにいる/母よ安らぎの歌を歌って/おやすみ/献呈 ヴォルフ(#):花のあいさつ/いざ、さすらえマリア/私がユーフラテス川を舟で渡ったとき/ セレナード/世をのがれて/現象/アナクレオンの墓/つきることない愛 エリーザベト・シューマン(S) ジョージ・シック(P;#以外) ジョージ・リーヴス(P;#) | ||
英 アレグロ ALL746 (Mono) 。録音:1950年2月6日、27日、4月3日(#以外) /1950年12月7日-8日、18日(#)、すべて シューマン私邸、ニューヨーク。エリーザベト・シューマン(1885-1952)はドイツの名ソプラノ歌手。1909年ハンブルク歌劇場でデビューした。シューマンはオペラ、オペレッタ、宗教曲、リートと幅広いレパートリーを誇り、1910年代の機械式録音時代からレコード録音で活躍した。この録音はシューマンが65歳の物。マンハッタンの75丁目東に住んでいたシューマン邸で録音された物。当時シューマンはEMIとの録音契約が続いていたが、アレグロ社はEMIと交渉し、この録音を実現させた。大歌手の人生最後の滋味深い歌唱がテープ録音で残された貴重な文化遺産。ピアノのジョージ・シック(1908-1985)はプラハ生まれ。1940年にアメリカに移住し、ピアニスト、指揮者、ヴォーカル・コーチとして活躍した。もう一人のピアニスト、ジョージ・リーヴスは英国生まれ、クレール・クロワザ(1882-1947)のSP録音(78CDR-3341)の伴奏者でもあった。シューマンはこのシリーズで「すみれ・野ばら」(78CDR-3300)とシューマン:女の愛と生涯」(78CDR-3273)が出ている。 | ||
メニューイン、RCA 原盤 ルクー:ヴァイオリン・ソナタ ト長調 ディーリアス:「ハッサン」〜セレナーデ ヘンデル:祈り ニン:「スペイン組曲」〜グラナディーナ ベートーヴェン/ブルメステル編曲:メヌエット リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行 |
イェフディ・メニューイン(Vn) マルセル・ガゼル、 ジェラルド・ムーア(P) | |
米 RCA VICTOR LM2014 (Mono) 。録音:1954年12月2日、1953年6月30日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。イェフディ・メニューイン(1916-1999)はニューヨーク生まれ。サンフランシスコに移り3歳からヴァイオリンを始めた。ジグムンド・アンカー、ルイ・パーシンガー(1872-1966)に師事し、1926年10歳の時アルフレッド・ヘルツ(1872-1942)指揮サンフランシスコso. とラロのスペイン交響曲でデビューした。その後パリでジョルジュ・エネスコ(1881-1955)、ベルリンでアドルフ・ブッシュ(1891-1952)の手ほどきを受けた。1928年に初レコード録音を行った。そのとき12歳だった。メニューインはルクーのソナタを1938年に妹のヘフツィバのピアノでSPに録音していたが、これは第2次世界大戦後の初期LP時代に再録音された物。当時RCAでは重要な録音はロンドンのアビー・ロード・スタジオで録音した。これはその一枚。 | ||
ブダペストSQ 〜ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 Op.130
ブダペストSQ [ヨーゼフ・ロイスマン(Vn1) アレグザンダー・シュナイダー(Vn2) イシュトヴァーン・イポリー(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc)] | ||
独 ELECTROLA DB 2239/43 (英 HMV DB 2239/43 と同一録音) 。録音:1933年8月10日、1934年4月4日-5日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。 | ||
ブダペストSQ 〜ベートーヴェン: 弦楽四重奏曲第8番 ホ短調 Op.59 No.2「ラズモフスキー第2番」 ブダペストSQ [ヨーゼフ・ロイスマン(Vn1) アレグザンダー・シュナイダー(Vn2) イシュトヴァーン・イポリー(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc)] | ||
米 RCA VICTOR 16856/9 (英 HMV DB 2907/10 と同一録音) 。録音:1935年4月24日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。#レコードのキズに起因するパチノイズがあります。 ブダペスト弦楽四重奏団は1917年ブダペスト歌劇場管弦楽団のメンバー 4人によって結成され、1967年に解散した。1932年に初代のリーダーだったエミール・ハウザー(在籍1917-32)からヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)になり、アメリカをベースに活躍し20世紀中期最高の四重奏団として君臨した。アレクサンダー・シュナイダー(在籍1933-45、1955-67)は第2ヴァイオリン奏者で一時期ソリストと自からの四重奏団を結成して活躍していた。ヴィオラのイシュトヴァン・イポリー(在籍1917-36)はボリス・クロイト(在籍1936-67)に代わった。チェロのオリジナル・メンバーであるハリー・ソン(在籍1917-30)はミッシャ・シュナイダー(在籍1936-67)に代わった。この録音はヴィオラがオリジナル・メンバーのイシュトヴァン・イポリーが弾いている。イポリーは4 人の中で唯一のハンガリー人で、他はロシア人。 | ||
モイーズ、ラスキーヌ、A.メルケル〜ドビュッシー: フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(1916) マルセル・モイーズ(Fl) リリー・ラスキーヌ(Hp) アリス・メルケル(Va) | ||
米 RCA VICTOR 13810/11 (仏 V.S.M. L1066/7 と同一録音) 。録音:1938年11月7日、パリ。 フルートのマルセル・モイーズ(1889-1984)はパリ音楽院でポール・タファネル(1844-1908)、アドルフ・エンヌバン、フィリップ・ゴーベール(1879-1941)らに師事し、1906年に一等賞を得て1908年にソロ・デビューした。1913年から32年にオペラ・コミック、1922年から33年にはストララム管弦楽団に席を置いた。1932年から49年にパリ音楽院の教授もつとめた。ハープのリリー・ラスキーヌ(1893-1988)は12歳の時パリ音楽院で一等賞を得た。コンセール・ラムルーのハープ奏者であったが、ソリストとしても活躍した。1948年から58年にかけてパリ音楽院の教授をつとめた。アリス・メルケルはヴァイオリニストのアンリ・メルケル夫人。モイーズとラスキーヌは1928年にフランス・オデオンにこの曲を録音していた(78CDR-3064)が、この10年後の再録音と是非聴き比べをおすすめしたい。 | ||
コルトー〜シューマン: 謝肉祭 Op.9 /交響的練習曲 Op.13 |
アルフレッド・コルトー(P) | |
英 HMV ALP 1142 (Mono) 。録音:1953年5月7日-8日、アビー・ロード第3スタジオ、ロンドン。 アルフレッド・コルトー(1877-1962)は20世紀最高のフランスのピアニスト。スイスのニヨンでフランス人の両親のもとに生まれた。1892年パリ音楽院のルイ・ディエメール(1843-1919)のクラスに入り1893年に一等賞を得た。1902年にヴァイオリンのジャック・ティボー(1880-1953)、チェロのパブロ・カザルス(1876-1973)とピアノ・トリオを結成した。コルトーは1917年にパリ音楽院教授に任命され、1919年パリのエコール・ノルマル(音楽師範学校)を設立した。この録音は1953年、LP時代にコルトーが残した貴重な演奏で録音時コルトーは75歳だった。コルトーはこの録音の前年の1952年、 9月から11月に日本に滞在し公演を行った。その時立ち寄った山口県の川棚村のホテルの窓から見た無人島の厚島に是非住みたいと言って、島の名を「孤留島〔コルトー〕」とすることも討議されたが、帰国後体調を崩し再来日は叶わなかった。 | ||
カンポーリ〜ラロ:スペイン交響曲 Op.21 |
アルフレート・カンポーリ(Vn) エドゥアルト・ ファン・ベイヌム指揮 LPO | |
英 DECCA LXT 2801 (Mono) 。録音:1953年3月3日-4日、キングスウェイ・ホール、ロンドン。 アルフレード・カンポーリ(1906-1991)はイタリア生まれのヴァイオリニスト。5歳の時両親とイギリスに移住し、1923年ロンドンのウィグモア・ホールでデビューした。ネリー・メルバ(1861-1931)やクララ・バット(1872-1936)などの大物歌手とツアーをする一方、自らの名を冠したサロン・オーケストラをつくりBBCラジオやレコード録音で活躍した。第2次世界大戦後はクラシックの演奏家に返り咲き、英デッカの看板アーティストになった。指揮者のエドゥアルト・ファン・ベイヌム(1901-1959)はオランダ生まれ。1929年にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団にデビュー、1931年メンゲルベルグの招きで次席指揮者に、1938年からはメンゲルベルクと共に首席指揮者として活躍した。1945年メンゲルベルクの後をついでコンセルトヘボウ管弦楽団の音楽監督となった。また1949年から51年にかけてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者もつとめた。1959年コンセルトヘボウ管弦楽団とのリハーサル中に心臓発作で急逝した。享年57歳。 | ||
クーレンカンプ〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」 ゲオルク・クーレンカンプ(Vn) ジークフリート・シュルツェ(P) | ||
独 TELEFUNKEN E 3108/11 。録音:1940年6月4日-5日、ベルリン。# トラック4の途中にコツコツ・ノイズがあります。 ゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)はドイツのヴァイオリニスト。第2次世界大戦中はドイツを代表する演奏家だった。またベルリン高等音楽院のヴァイオリン科教授も務めた。クーレンカンプは1944年にスイスのルツェルン音楽院教授になり、ピアノのエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)、チェロのエンリコ・マイナルディ(1897-1976)とトリオでも活躍した。ピアノのジークフリート・シュルツェは経歴不明。ポーランド出身の大ヴァイオリニスト、ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)と多くの録音をしていた。クーレンカンプの「クロイツェル・ソナタ」はピアノのケンプと入れた1935年録音がこのシリーズで出ている(78CDR-3547)。またこの「クロイツェル」と同時期にTELEFUNKENに録音した「スプリング・ソナタ」(78CDR-3217)もこれと対になる名演奏。 | ||
シュナーベル親子 + ボールト シューベルト:3つの軍隊行進曲 Op.51, D 733 /行進曲 ト短調 Op.40 No.2, D 819 No.2 モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365 (316a) (#) アルトゥール・シュナーベル、カール・ウルリヒ・シュナーベル(P) エイドリアン・ボールト指揮 LSO (#) | ||
英HMV DB 3527/8 (#以外), DB 3033/5 (#) 。録音:1937年10月24日、29日(#以外)、1936年10月28日(#) 、 EMI アビー・ロード・スタジオ、ロンドン。# HMV 盤特有のノイズがあります。 15歳で英DECCAに初録音したイダ・ヘンデル(1924年12月15日生まれ)はポーランド生まれのヴァイオリニスト。1935年ワルシャワで開かれたヴィエニアフスキ国際20世紀を代表する大ピアニスト、アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)と長男のカール・ウルリヒ・シュナーベル(1909-2001)の共演盤。父親のアルトゥールはウィーン音楽院で名教授テオードール・レシェティツキ(1830-1913)に師事した。1901年ベルリンでデビューし、1933年までこの地を本拠にした。カール・ウルリヒはベルリン生まれ。ベルリン高等音楽院でレオニード・クロイツァー(1884-1952)とパウル・ユオン(1872-1940)に師事した。後年ニューヨークのマンハッタン音楽院でピーター・ゼルキン(1947-)やマレイ・ペライア(1947-)を指導したことでも知られている。サー・エイドリアン・ボールト(1889-1983)はイギリスの指揮者。1930年にBBC交響楽団の初代指揮者に就任した。 | ||
未発売録音あり、イダ・ヘンデル ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調 より〔第1楽章/第2楽章〕(*) シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第3番 ト短調 Op.137 No.3, D 408 シューベルト/クライスラー編曲:「ロザムンデ」〜バレエ音楽 イダ・ヘンデル(Vn) アデラ・コトフスカ(P) | ||
英 DECCA AR 10622/3 〔白レーベル/テスト・プレス盤〕(*), K 1704/5 (*以外) 。録音:1946年9月(*)、1941年4月2日(*以外) 、 NW6 デッカ・スタジオ、ロンドン。(*)はおそらく初市販&ヘンデルの音盤初レパートリー。 15歳で英DECCAに初録音したイダ・ヘンデル(1924年12月15日生まれ)はポーランド生まれのヴァイオリニスト。1935年ワルシャワで開かれたヴィエニアフスキ国際ヴァイオリン・コンクールでジネット・ヌヴー(18歳)、ダヴィド・オイストラフ(27歳)についで第3位に入賞、そのとき11歳だった。ヘンデル一家は1939年に祖国ポーランドを離れロンドンに移住し1940年に市民権を得た。その年に英DECCAと契約し初録音を行った。第2次世界大戦中であったにもかかわらず50枚近い録音を行ってDECCA社の看板ヴァイオリニストになった。このドビュッシーは戦後の1946年9月に録音されたもので、全曲録音されたどうか不明。ヘンデルは生涯ドビュッシーは録音していないので、資料的に重要と考え発売することにした。 | ||
シルルニク〜ベートーヴェン: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61(カデンツァ:クライスラー) シャルル・シルルニク(Vn) ピエール・デルヴォー指揮コンセール・コロンヌo. | ||
英 WORLD RECORD CLUB T310 (Mono) (仏 DUCRETET-THOMSON CC506 と同一録音) 。録音:1962年3月2日、サル・ワグラム、パリ。 シャルル・シルルニク(1923-2003)はパリ生まれのフランスのヴァイオリニスト。パリ音楽院ではジュール・ブーシュリ(1877-1962)とマルセル・シャイエ(1881-1936)のクラスで学び1939年に一等賞を得た。師ブーシュリゆずりの清楚で気品のある奏法はこのベートーヴェンを高貴に仕上げている。指揮のピエール・デルヴォー(1917-1992)はフランスの名指揮者。1958年から死去する1992年まで名門コンセール・コロンヌの首席指揮者をつとめ、1986年までエコール・ノルマル音楽院の教授でもあった。わが国の女流指揮者松尾葉子の師でもあった。レジオンドヌールを授与された。 | ||
フェラス〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 Op.24「春」 クリスチャン・フェラス(Vn) ピエール・バルビゼ(P) | ||
独 TELEFUNKEN TW 30011 (Mono) 。録音:1953年5月15日、ハンブルク。 クリスチャン・フェラス(1933-1982)は49歳の若さで世を去ったフランスの名ヴァイオリニスト。父親の手ほどきで7歳からヴァイオリンを始め、1941年にニース音楽院に入学、1943年に一等賞を得た後、1944年にパリ音楽院に入りヴァイオリンをルネ・ベネデッティ(1901-1975)に、室内楽をジョゼフ・カルヴェ(1897-1984)に師事し1946年に一等賞を得た。1948年オランダのスケフェニンヘンで開かれた国際ヴァイオリン・コンクールで優勝、その後ジョルジュ・エネスコ(1881-1955)について更なる研鑽を積んだ。1949年のロン=ティボー国際コンクールでは1位なしの2位入賞だったが、ここでピアニストのピエール・バルビゼ(1922-1990)と出会い以降ずっとデュオを組んだ。やがてフェラスはDECCA、EMI、DEUTCHE GRAMMOPHONに大量の録音を残していくが、この独TELEFUNKEN録音は20歳の時のもので、みずみずしい音色と高い音楽性で既に大家の風格を備えている。この時ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番も録音していた。 | ||
エリー・ナイ〜モーツァルト: モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331 (300i)「トルコ行進曲つき」 |
エリー・ナイ(P) | |
独 POLYDOR, 67596/8 。録音:1940年9月23日、ベルリン。 エリー・ナイ(1882-1968)はドイツの女流ピアニスト。初録音は1906年にウェルテ・ミニョン社のピアノ・ロール。ウィーンでレシェティツキーやフォン・ザウアーの薫陶を得た。1911年にオランダの指揮者ウィレム・ファン・ホーフストラーテン(1884-1964)と結婚。1921年から夫君とニューヨークに暮らす。だが1927年に離婚。ドイツに戻りヒトラー政権下で演奏活動を続けた。戦後の名誉回復後も演奏活動を続けたが、一流レコード会社には録音できずマイナーレーベルに録音していた。ナイはこのシリーズにモーツァルト:ピアノ協奏曲第15番 K.450 (ホーフストラーテン指揮) (78CDR-3237)が出ている。 | ||
コリッシュSQ 〜シューベルト:弦楽四重奏曲集 〔第13番 イ短調 Op.29 D.804「ロザムンデ」/第12番 ハ短調 D.703「断章」〕 コリッシュSQ [ルドルフ・コリッシュ(Vn1) フェリクス・クーナー(Vn2) オイゲン・レーナー(Va) ベルナール・ハイフェッツ(Vc)] | ||
日本コロムビア, J 8413/6 (英 COLUMBIA, LX-286/9 と同一録音) 。録音:1934年1月8日-9日、アビー・ロードEMI第2スタジオ、ロンドン。コリッシュ〔コーリッシュ〕弦楽四重奏団は新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲を演奏する目的でルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)によって1921年に結成された。結成当時は作曲家シェーンベルクの指導のもとでウィーン弦楽四重奏団と名乗っていたが、後にコーリッシュ弦楽四重奏団に改称し、現代音楽だけではなく古典レパートリーの演奏にも取り組んだ。コーリッシュは子供の頃左手に怪我をしたため右手でヴァイリンを持ち、左手弓を持って弾いた。このシリーズでモーツァルト:弦楽四重奏第21番「プロシャ王第1番(78CDR-3298)、第22番「プロシャ王第2番(78CDR-3197)、音楽の冗談 K.522 (78CDR-3250)、シューマン:ピアノ四重奏曲作品47 (78CDR-3242)が出ている。 | ||
ワルター& VPO 〜モーツァルト: 交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」 |
ブルーノ・ワルター指揮 VPO | |
米 VICTOR, 12471/4S (HMV, DB3428/31と同一録音) 。録音:1938年1月11日、ムジークフェライン大ホール、ウィーン。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、その後指揮者に転向した。1894年ケルン市立歌劇場でデビュー、1896年ハンブルク歌劇場へ移った。そこで音楽監督だったグスタフ・マーラー(1880-1911)と出会い交友を深めた。ワルターは以降ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo. 等のの楽長、音楽監督を歴任し、VPO や BPO も指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると、迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。この録音はウィーンを去る直前の物。このシリーズでワルターは数多く出ているが、中でも自身でピアノを弾きながらVPOを指揮をしたモーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 K.466 (78CDR-3219)は超名演。 | ||
ミッシャ・エルマン〜モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲集(カデンツァ:ヨアヒム) 〔第4番 ニ長調 K.218 /第5番 イ長調 K.219 〕 |
ミッシャ・エルマン(Vn) ヨーゼフ・クリップス指揮 ロンドン新so. | |
米 LONDON, LL 1271 (Mono) (英 DECCA, LXT 5078 と同一録音) 。#チリ、パチ・ノイズあり。録音:1955年5月3日-5日、キングズウェイ・ホール、ロンドン。ミッシャ・エルマン(1891-1967)はウクライナ出身のヴァイオリニスト。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1930)に師事し、1904年にベルリンにデビューした。1908年、17歳でカーネギー・ホールでアメリカ・デビュー。機械式吹き込み、電気録音のSP時代のアメリカ・ヴィクターの看板ヴァイオリニストとなり、日本でも絶大な人気を博した。1950年代になって英DECCAに録音を再開した。これはその中の一枚。指揮者のヨーゼフ・クリップス(1902-1974)はウィーン生まれ。1921年名指揮者フェリックス・ヴァインガルトナー(1863-1942)の助手兼合唱指揮者としてウィーン・フォルクスオーパーに入り、1933にはウィーン国立歌劇場の指揮者に就任した。戦後はLSO、コヴェント・ガーデン王立歌劇場などの指揮者をつとめた。英DECCAに録音が多かった。復刻にはウェストレックス10Aカートリッジをモノ接続にて使用した。 | ||
カンポーリ サン=サーンス: ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調 Op.61 パガニーニ/クライスラー編曲: ヴァイオリン協奏曲第1番(単一楽章のための) |
アルフレード・カンポーリ(Vn) ピエリーノ・ガンバ指揮 LSO | |
米 LONDON, LL 1624 (Mono) (英 DECCA, LXT 5298 と同一録音) 。録音:1956年10月22日-23日、キングズウェイ・ホール、ロンドン。 アルフレード・カンポーリ(1906-1991)はイタリア生まれのヴァイオリニスト。 5歳の時、両親とイギリスに移住し、1923年にロンドンのウィグモア・ホールでデビューした。ネリー・メルバ(1861-1931)やクララ・バット(1872-1936)などの大物歌手とツアーをする一方、自らの名前を冠したサロンo. を作りBBCラジオやレコード録音で活躍した。第2次世界大戦後はクラシックの演奏家に返り咲き、英デッカの看板アーティストになった。指揮者のピエリーノ・ガンバ(1936-)はローマ生まれ。11歳で指揮者としてデビューした神童。LP初期に英デッカに録音をしていた。その後欧米各地のオーケストラを指揮して活躍し、現在ニューヨークで後進の指導にあたっている。カンポーリはこのシリーズで「クライスラー作品集」(33CDR-3563)、「カンポーリ・アンコール!」(33CDR-3577)、J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番(78CDR-3414)が出ている。復刻にはウェストレックス10Aカートリッジをモノ接続にて使用した。 | ||
シュナーベル戦後録音〜ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58 |
アルトゥール・シュナーベル(P) イサイ・ドブローウェン指揮 フィルハーモニアo. | |
英 HMV DB9032/5 。録音:1946年6月5日、7日、アビー・ロード EMI 第1スタジオ、ロンドン。 アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はシレジアのリプニク生まれ、1899年7歳でウィーン音楽院に入り、1891年から97年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1913)に師事した。1901年ベルリンでデビューし、1933年までこの地を本拠にした。その後イギリス、イタリアに、1939年にはアメリカに移住した。この録音は大戦後のもので、シュナーベルのベートーヴェン協奏曲中第2回目の物。1930年代の第1回のものと較べて、音質が圧倒的に優っている。指揮のイッサイ・ドブローウェン(1891-1953)はロシア帝国に生まれ、1921年ソビエトを離れノルウェーに定住しオスロ・フィルハーモニーの指揮者になった。フィルハーモニアo. を指揮してシュナーベルと共演したベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番(78CDR-3601)がこのシリーズで出ている。またウィーン・フィルハーモニーを指揮してブロニスワフ・フーベルマンと共演したJ.S.バッハの協奏曲第1番(78CDR-3228)と第2番(78CDR-3595)も出ている。 | ||
ハイフェッツ〜ブラームス: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77 (カデンツァ: Auer / Heifetz ) |
ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn) セルゲイ・クーセヴィツキ指揮 ボストンso. | |
米 VICTOR 15531/5S 。録音:1939年4月11日、ボストン。 ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)はロシア生まれのアメリカのヴァイオリニスト。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1930)に師事し10歳でデビューした。1917年16歳の時に革命を逃れ一家はアメリカに移住し、少年ハイフェッツは一流演奏家として待遇された。その後青年期、壮年期から引退するまで世界最高のヴァイオリン奏者として崇められた。セルゲイ・クーセヴィツキ(1874-1951)はロシア生まれの指揮者。ロシア革命後パリに移住、1924年から1949年の24年にわたってボストンso. 常任指揮者をつとめ、このオーケストラを世界的水準に育てあげた。アメリカVICTORに数多くの録音を残したが、復刻盤の数は少ない。今後このシリーズで順次紹介する予定。 | ||
コルトー第3回&最著名録音〜 シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54 |
アルフレッド・コルトー(P) ランドン・ロナルド指揮 LPO | |
米 VICTOR 8317/20 (英 HMV DB2181/4 と同一録音) 。録音:1934年3月12日、アビー・ロード EMI 第1スタジオ、ロンドン。 アルフレッド・コルトー(1877-1962)は20世紀最高のフランスのピアニスト。スイスのニヨンでフランス人の両親のもとに生まれた。1892年パリ音楽院のルイ・ディエメ(1843-1919)のクラスに入り1893年に一等賞を得た。1902年にヴァイオリンのジャック・ティボー(1880-1953)、チェロのパブロ・カザルス(1876-1973)とピアノ・トリオを結成した。コルトーは1917年にパリ音楽院教授に任命され、1919年にパリのエコール・ノルマル(音楽師範学校)を設立した。指揮者のサー・ランドン・ロナルド(1873-1938)はロンドン生まれ。レコード黎明期からロンドンのコヴェント・ガーデン・オペラに出演した大歌手たちにレコード録音をすすめた功労者。ピアニスト出身で1909年ロイヤル・アルバート・ホールo. の指揮者にになり多くの録音を残した。電気録音になってからはコルトーやクライスラー(1875-1962)の協奏曲の指揮者をつとめた。コルトーとロナルドの顔合わせでフランク:交響的変奏曲(78CDR-3130)がこのシリーズで出ている。 | ||
エリーザベト・ヘンゲン〜シューマン&ベートーヴェン シューマン:歌曲集「女の愛と生涯」 Op.42 (*) ベートーヴェン:歌曲集「ゲレルトの詩による6つの歌」 Op.48 (#) エリーザベト・ヘンゲン(A) フェルディナント・ライトナー(P;*) ミヒャエル・ラウハイゼン(P;#) | ||
独 GRAMMOPHON LPEM 19068 (Mono) 。録音:1951年2月17日、ベルリン。 エリーザベト・ヘンゲン(1906-1997)はドイツ生まれ、1933年ヴッパータール歌劇場でデビュー。デュッセルドルフ歌劇場(1935-1939)、ドレスデン歌劇場(1940-1943)を経てウィーン国立歌劇場に登場した。ヘンゲンは1951年に開催されたバイロイト音楽祭でフルトヴェングラー指揮のベートーヴェン:第九交響曲に出演していた。(*)のフェルディナント・ライトナー(1912-1996)はベルリン生まれ。後に指揮者として活躍するがピアニストとしてスタート、ドイツ・グラモフォンに300タイトル以上の録音を残した。(#)のピアニスト、ミヒャエル・ラウハイゼン(1889-1984)はドイツ生まれ。歌曲伴奏者として名声を上げた。1933年からドイツ語歌曲のすべてをレコードに録音することを企画し、そのため1940年からベルリン帝国放送局の声楽・室内楽部長に就任。戦後このことがナチス協力に問われ、数年間の活動禁止を命じられた。ラウハイゼンはこのシリーズでワーグナー:ヴェーゼンドンク歌曲集ほか(ティアナ・レムニッツSop)が出ている(78CDR-3428)。 | ||
エルナ・ベルガー〜モーツァルト: モテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」K.165 (158a) / オッフェルトリウム「神に祝福あれ」K.117 (66a) / ヴェスペレ「証聖者の荘厳な晩祷」K.339 エルナ・ベルガー(S) マルガ・ヘフゲン(A) ホルスト・ヴィルヘルム(T) フェルディナント・フランツ(B) カール・フォルスター指揮 BPO、ベルリン聖ヘトヴィヒ聖堂cho. | ||
英 HMV ALP 1496 。録音:1956年1月31日-2月2日、ヴィンテルガルテン、ベルリン。 ソプラノのエルナ・ベルガー(1900-1990)はドレスデン生まれ、17歳でドレスデン王立歌劇場の合唱団に入った。一時家族と共に南米パラグアイに移住したが、1923年ドレスデンに戻り、1925年にバイロイトに出演した。その後各地の一流オペラハウスに出演、世界的に名前が知られるようになった。1955年に現役引退後は大学で後継の指導にあたった。コントラルトのマルガ・ヘフゲン(1921-)は1952年にベルリン・デビューした。バスのフェルディナント・フランツ(1906-1959)はドイツのカッセル生まれた。ヨーロッパ各地のオペラで活躍した。指揮のカール・フォルスター(1904-1963)はドイツの合唱指揮者で教会音楽の専門家。ベルリン聖ヘトヴィヒ聖堂の楽長を1934年から務めた。 | ||
オスカー・フリート〜ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ長調 Op.125「合唱」
ロッテ・レオナルト(S) イェニー・ゾネンベルク(A) オイゲン・トランスキー(T) ヴィルヘルム・グットマン(B) オスカー・フリート指揮ベルリン国立歌劇場o.、ブルーノ・キッテルcho. | ||
日 POLYDOR 60073/9 (独 POLYDOR 66657/63 と同一録音) 。録音:1928年、ベルリン。# 初期SPレコードのためノイズが多くある オスカー・フリート(1871-1941)はベルリン生まれのドイツの指揮者。最初ホルン奏者だったが、フランクフルトで作曲家のフンパーディンクに作曲の薫陶を得、さらにベルリンでシャルヴェンカに師事した。1924年8月、独POLYDORにベルリン国立歌劇場o. を指揮してマーラー:交響曲第2番「復活」を録音した。SPレコード11枚組のこの曲のラッパ吹き込みによる世界初録音だった。この「第九」は電気吹き込みの初期の1928年に録音された物。ドイツ語歌唱による初の電気録音だった。以前は電気録音による世界初録音の「第九」とされてきたが、海外盤のヴァインガルトナー指揮ロンドン響とアルバート・コーツ指揮の共に1926年録音の「第九」が先行していた。フリートはユダヤ人で、自身社会主義者でもあったため、ナチスの迫害をさけ、それまで度々訪れていたソビエトに亡命し(1934年)その地で没した。この「第九」は今から約90年前のものだがけっして古さを感じさせない感動的な演奏。 | ||
ハイフェッツ&トスカニーニ〜ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61 (カデンツァ: Auer/Heifetz 、Joachim/Heifetz 、Joachim/Auer/Heifetz) ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn) アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBCso. | ||
米 VICTOR 17451/5 。録音:1940年3月11日、ニューヨーク。注:オーケストラの強音で音割れするところがある。ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)はロシア生まれのアメリカのヴァイオリニスト。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1930)に師事し10歳でデビューした。1917年16歳の時に革命を逃れ一家はアメリカに移住し、少年ハイフェッツは一流演奏家として待遇された。その後青年期、壮年期から引退するまで世界最高のヴァイオリン奏者として崇められたアルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)はイタリアのパルマ生まれの指揮者。1937年NBCso. の創立時に首席指揮者に迎えられた。この録音は二人の巨匠が顔を合わせた放送録音の貴重な音源。SPレコードの盤面の切り替わり時が唐突にカットされているが、NBC放送局の8Hスタジオの残響の少ない音が特徴。これまでの復刻盤では人工的な残響を加えているので演奏の本質が伝わって来なかった。 | ||
シュナーベル&ドブロウェン〜ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.19 (カデンツァ:アルトゥール・シュナーベル) アルトゥール・シュナーベル(P) イサイ・ドブロウェン指揮フィルハーモニアo. | ||
英 HMV DB9099/102 。録音:1946年6月6日、ロンドン、EMI第1スタジオ。アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はシレジアのリプニク生まれ、1899年7歳でウィーン音楽院に入り、1891年から97年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1913)に師事した。1901ベルリンでデビューし、1933年までこの地を本拠にした。その後イギリス、イタリアに、1939年にはアメリカに移住した。この録音は大戦後のもので、シュナーベルのベートーヴェン協奏曲の第2回目の中の物。1930年代の第1回のものと較べて、音質が圧倒的に優っている。指揮者のイッサイ・ドブローウェン(1891-1953)はロシア帝国に生まれ、1921年ソビエトを離れノルウェーに定住しオスロ・フィルハーモニーの指揮者になった。EMIから録音用の指揮者として起用され、このフィルハーモニアo. のほか、戦前には VPO を指揮して、ブロニスワフ・フーベルマンと共演したJ.S.バッハの協奏曲第1番(78CDR-3228)と第2番(78CDR-3595)がこのシリーズで出ている。 | ||
フランチェスカッティ、カサドシュ、ギレSQ 〜ショーソン: ピアノ、ヴァイオリンと弦楽四重奏のための協奏曲 Op.21 ジノ・フランチェスカッティ(Vn) ロベール・カザドシュ(P) ギレSQ [ダニエル・ギレ(Vn1) バーナード・ロビンス(Vn2) エマヌエル・ヴァルディ(Va) ビーナー・ハイフェッツ(Vc)] | ||
米 COLUMBIA ML4998 (Mono) 。録音:1954年12月1日、ニューヨーク、30丁目コロンビア・スタジオ。ヴァイオリンのジノ・フランチェスカッティ(1902-1991)はマルセイユ生まれ。5歳でリサイタルを開き、10歳で公開演奏会を開いた。1924年にパリ・デビューし、その後ジャック・ティボー(1880-1953)の薫陶を得た。1939年アメリカにデビューしそのままニューヨークに定住した。ピアノのロベール・カザドシュ(1899-1972)はパリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)に師事し、1913年に一等賞を得た。第2次世界大戦中にアメリカに移住した。弦楽四重奏団のリーダー、ダニエル・ギレ(1899-1990)はロシア生まれ。パリ音楽院でジョルジュ・エネスコに師事し、卒業後カルヴェ弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者を務めた後1941年にアメリカに移住、1951年にトスカニーニ指揮のNBCso.のコンサート・マスターになった。その後ボザール三重奏団や自己の弦楽四重奏団を結成して活躍した。 | ||
オシー・レナルディ〜フランク&ラヴェル フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 / ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ オシー・レナルディ(Vn) ユージン・リスト(P) | ||
米 REMINGTON R-199-148 (Mono) 。録音:1953年。オシー・レナルディ(1920-1953)はウィーン生まれのヴァイオリニスト。1932年13歳でウィーンでデビュー。1937年アメリカに移住した。1941年米国陸軍に入隊、2年後に除隊してステージに立った。レナルディが最も評判をとったのがカーネギー・ホールの演奏会で弾いたパガニーニの「24の奇想曲」だった。だが将来を嘱望されたこのヴァイオリニストは1953年12月にニューメキシコでのコンサート後に自動車事故で33歳の命を落とした。ピアノのユージン・リスト(1918-1985)はフィラデルフィア生まれ。16歳の時レオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィアo. とショスタコーヴィチのピアノ協奏曲のアメリカ初演を行った。レナルディはこのシリーズでブラームス:ヴァイオリン協奏曲(シャルル・ミュンシュ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウo./78CDR-3141)とJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番と第3番(33CDR-3598)が出ている。 | ||
オシー・レナルディ〜J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 〔第1番 ト短調 BWV1001 (*) /第3番 ハ長調 BWV 1005 (#) 〕 オシー・レナルディ(Vn) | ||
米 LONDON LPS 423 (*) (Mono) / 英 DECCA LM 4536 (#) (Mono) 。録音:1950年5月25日-26日(#)、1951年6月6日-7日(*) 、 ロンドン NW6 デッカ・スタジオ。オシー・レナルディ(1920-1953)はウィーン生まれのヴァイオリニスト。1932年13歳の時にウィーンでデビュー。1937年にアメリカに移住した。1941年米国陸軍に入隊、2年後に除隊しステージに立った。レナルディが最も評判をとったのがカーネギー・ホールの演奏会で弾いたパガニーニの「奇想曲」だった。レナルディは英デッカにブラームスのヴァイオリン協奏曲をシャルル・ミュンシュ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウo. と1948年に録音した(78CDR-3141)。レナルディは将来を嘱望されたアーティストだったが1953年自動車事故で世を去った。享年33歳。 | ||
ギ・ファロ、モニク・ファロ オネゲル:チェロ・ソナタ ドビュッシー:チェロ・ソナタ コダーイ:無伴奏チェロ・ソナタ |
ギ・ファロ(Vc) モニク・ファロ(P) | |
仏 VEGA C30 A310 (Mono) 。録音:1961年5月、パリ。#全体にノイズあり。ギ・ファロ(1927-)はフランスのチェロ奏者。ナンシーに生まれ。 9歳でスイスのローザンヌ音楽院に入り、14歳の時妹のモニークと共にジュネーヴのコンクールのソナタ部門で一等賞を得た。1946年パリ音楽院に入りポール・バズレール(1886-1958)教授のクラスで一等賞を得た。バズレールはピエール・フルニエ(1906-1986)の師としても知られている。1970年左腕の故障で演奏活動中止を余儀なくされたが、その後世界中でピアニストのリタ・ロッサと共に演奏活動をしながら、スイスのジュネーヴとローザンヌの音楽院で後進の指導にあたった。これはギ・ファロが全盛期に残した数少ない録音の一枚で、20世紀のチェロ・ソナタの名作3曲が一枚に収録された貴重な名盤の復刻。 | ||
カヤヌス〜シベリウス: 交響曲第2番 ニ長調 Op.43 / カレリア組曲 Op.11 〜間奏曲 |
ロベルト・カヤヌス指揮 管弦楽団 | |
米COLUMBIA 67833/7-D (英COLUMBIA LX50/4 と同一録音) 。録音:1930年5月27日-8日。ロベルト・カヤヌス(1856-1933)はフィンランドの作曲家で指揮者。同国の作曲家シベリウス(1865-1957)の先輩にあたり、英国コロンビアに入れたシベリウスの交響曲第1番と第2番はこれら曲の世界初録音だった。これはその中の一曲。カヤヌスは1930年代になって英HMVが企画した「シベリウス協会」全6巻(SPレコード105枚組)の第1巻と第2巻で交響曲第3番、第5番と第7番に加え、交響詩「ポヒヨラの娘」と「タピオラ」をLSOを指揮して録音(SP14枚)したが、以降の巻はカヤヌスの死去によって他の指揮者に代わった。この「シベリウス協会」を推進した中心人物はロベルト・カヤヌスに他ならなかったと思う。シベリウスの交響曲第2番という名曲の原点にあたる演奏を本シリーズに加えた。 | ||
フーベルマン〜J.S.バッハ: ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 BWV1042 |
ブロニスワフ・ フーベルマン(Vn) イサイ・ドブローウェン指揮 VPO | |
米COLUMBIA 68376/8-D (英COLUMBIA LX407/9と同一録音) 。録音:1934年6月13日、ウィーン。#オーケストラ・パートに音割れあり。ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)はポーランド生まれ。ヴァイオリンを自在に操り、聴き手を自らの世界に引き込んでいく魔術的な演奏は1895年にブラームスのヴァイオリン協奏曲を作曲家の前で弾いて作曲者を唸らせた。フーベルマンは1892年10歳の時に大ヴァイリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)の指揮でベルリンにデビューした。活動拠点をウィーンに置いていたが、ナチスの台頭後パレスチナに移り、ドイツを追われたユダヤ系の音楽家のためにオーケストラを組織した。それが現在のイスラエル・フィル。フーベルマンはこのシリーズでJ.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲第1番(78CDR-3228)、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3128)と「クロイツェル・ソナタ」(78CDR-3006)、ラロ:スペイン交響曲(78CDR-3040)、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3077)、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番(78CDR-3021)、他が出ている。 | ||
シュナイダーハンSQ 〜ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番 ヘ長調 Op.95「セリオーソ」
シュナイダーハンSQ [ヴォルフガング・シュナイダーハン(Vn1) オットー・シュトラッサー(Vn2) エルンスト・モラヴェッツ(Va)リヒャルト・クロチャック(Vc)] | ||
英 COLUMBIA LX8727/8 。録音:1949年2月22日、24日、&3月7日、ウィーン。ヴォルフガング・シュナイダーハン(1915-2002)はウィーン生まれのヴァイオリニスト。ウィーン音楽院でオタカール・シェヴチーク(1852-1934)に、ついでユリウス・ヴィンクラーに師事した。1937年にVPO管弦楽団に入団、1938年にアルノルト・ロゼー(1863-1946)の後任としてコンサート・マスターに就任した。1937年にVPOの楽員と共に自らの名前を冠した弦楽四重奏団を組織し、1951年にソリストとして独立するまで活躍した。この四重奏団はシュナイダーハンからワルター・バリリ(1921-)に引き継がれバリリ四重奏団として活躍した。 | ||
カミーユ・モラーヌ〜フォーレ:歌曲集 漁夫の歌(T.ゴーティエ詞)/夢のあとに(R.ビュッシーヌ詞)/この世で(A.シュリー=プリュドム詞)/ ネル(C.M.ルコント・ドリール詞)/秋(A.シルヴェストル詞)/ある日の詩(C.グランジャン詞)/ めぐりあい/いつの日も/さらば/ゆりかご(A.シュリー=プリュドム詞)/ひめごと(A.シルヴェストル詞)/ イスパハンのばら(C.M.ルコント・ドリール詞)/夜明け(A.シルヴェストル詞)/ 贈り物(V.ド・リール=アダン詞)/涙(J.リシュパン詞)/墓地にて(J.リシュパン詞)/ ばら(C.M.ルコント・ドリール詞)/消え去らぬ香り(C.M.ルコント・ドリール詞)/ アルページュ(A.サメン詞)/牢獄(P.ヴェルレーヌ詞)/夕べ(A.サメン詞)/ もっとも心地よい道(A.シルヴェストル詞)/九月の森の中で(C.マンデス詞) カミーユ・モラーヌ(歌) ピエール・マイヤール=ヴェルジェ(P) | ||
仏 Le Club Francais de Disques 191 (Mono)。録音:1959年4月7日。全体にLP特有のノイズあり。カミーユ・モラーヌ(1911-2010)はフランスのバリトン・レジェ(バリトンとテノールの中間の声域)。生地ルーアンの音楽学校で学んだ後、パリ音楽院でクレール・クロワザ(1882-1946)に師事した。1940年オペラ・コミックでデビュー。ペレアス役でフルネ指揮(ジャニーヌ・ミショー:メリザンド)、アンセルメ指揮(エルナ・スポーレンベルク:メリザンド)、アンゲンルブレシュト指揮(スザンヌ!・ダンコ:メリザンド)の三種の録音を残している。このフォーレ歌曲集はフランスの「レコード・クラブ」に録音されたもので、同時期にエラート社に入れたモラーヌのフォーレ歌曲集と曲目が重複していない。ピエール・マイヤール=ヴェルジェ(1910-1968)はフランスの作曲家でピアニスト。パリ音楽院でポール・デュカ(1863-1935)に師事し、1939年にカンタータ"La farce du Mari fondu" でローマ賞を得た。カミーユ・モラーヌの伴奏他いくつかの録音を残している。 | ||
アルフレッド・レーヴェングート〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」 アルフレッド・レーヴェングート(Vn) フランソワーズ・ドロー(P) | ||
独 OPERA 1147 (Mono)。録音:1964年。アルフレッド・レーヴェングート(1911-1983)はフランスのヴァイオリニスト。16歳でパリ音楽院に入りヴァイオリン、室内楽、ソルフェージュを学んだ。1929年18歳で弦楽四重奏団を組織しそのリーダーとなり、1983年レーヴェングートの死で解散した。ヴァイオリンの師はカペー弦楽四重奏団の第2ヴァイオリンだったアンドレ・トゥーレ(1903-1909在籍)で、カペーの考案した運弓法を見事に体得している。レーヴェングートのソロ録音はこの「クロイツェル・ソナタ」以外にはないと思われる。ピアノのフランソワーズ・ドロー(1910-2011)はパリ音楽院でマルグリット・ロン(1874-1966)に師事した。レーヴェングートのピアニストとして長年活躍した。 | ||
ブランシュ・セルヴァ〜セヴラック: 祭りの農家を目指して/ リビアのキリスト像の前のラバひきたち/ 日向で水浴びする女たち |
ブランシュ・セルヴァ(P) | |
日COLUMBIA J 8099/8101 (仏COLUMBIA D15140/43と同一録音)。録音:1929年1月7日-11日。ブランシュ・セヴルヴァ(1884-1942)はパリ音楽院でピアノを学び1895年に11歳で一等賞を得た。13歳でコンサート・デビューした後スコラ・カントルム音楽院でヴァンサン・ダンディ(1851-1931)に作曲を学び、1902年から同校で教鞭をとるようになった。1904年にJ.S.バッハのクラヴィーア曲全曲をピアノで演奏しパリ音楽界を驚かせた。セルヴァは1930年11月のコンサート中に卒中に襲われステージ活動から離れた。セルヴァはこのシリーズでJ.S.バッハ:パルティータ第1番 BWV.825 (78CDR-3191)、フランク:前奏曲、コラールとフーガ(78CDR-3310)、カタルーニャ出身の女流ヴァイオリニスト、ジョアン・マッシアと共演したフランク:ヴァイオリン・ソナタ(78CDR-3012)、ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(78CDR-3028)が出ている。 | ||
ベーム& VPO 〜 シューベルト:交響曲第8番 ロ短調「未完成」 |
カール・ベーム指揮 VPO | |
独 ELECTROLA DB 5588/90。録音:1940年4月、ベルリン。カール・ベーム(1894-1981)はオーストリアの指揮者。グラーツ大学で法学博士の学位を得た。個人教授で音楽を学んだ後、1917年グラーツ市立歌劇場でデビューブルーノ・ワルター(1876-1962)の知己を得て、1921年からバイエルン国立歌劇場、1927年ダルムシュタット市立歌劇場、1931年からハンブルク国立歌劇場、1934年からドレスデン国立歌劇場の指揮者を歴任、1943年にはウィーン国立歌劇場総監督に就任した。この録音はウィーンではなく、ベルリンで行われたもので、おそらくベームとVPOとの初録音ではないかと思う。当時46歳だったベームの若き日の記録として残したい名演奏。大戦中の録音のためベーム・ファンでもあまり知られていなかった物。 | ||
シュナーベル&サージェント〜ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73「皇帝」 |
アルトゥール・シュナーベル(P) マルコム・サージェント指揮 LSO | |
英 HMV DB1685/9。録音:1932年3月24日、アビー・ロードEMI第1スタジオ、ロンドン。アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はシレジアのリプニクに生まれた。1889年7歳でウィーン音楽院に入り、1891年から1897年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1913)に師事した。1901年ベルリンでデビュー、1933年までこの地を本拠にした。その後ロンドンに居を構え、1939年にアメリカに移住した。この録音はシュナーベルの初協奏曲録音で、開発間もないEMIのMC型レコード録音機による物。オーケストラの音にきつさがあるのはこのせい。原盤番号の後の卍記号はその録音機を使用した印で、その後卍は□に変更された。シュナーベルはこのシリーズでモーツァルト:ピアノ協奏曲第21番 K.467 (78CDR-3387)、シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番D.959 (78CDR-3550)、フルニエと共演したベートーヴェン:チェロ・ソナタ第5番(78CDR-3292)が出ている。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2015年リリース分 1月-12月 (末尾 529-588) | ||
モーリン・オハラ〜アイルランド愛唱歌集 ケリーの雌牛/ギヴ・ヒム・トゥ・ミー/あの金満男が死んだ/ウィ・ヒュイー/ ジョニー、あなたをほとんど知らないのよ/一人の老婦人がいた/ダニー・ボーイ/ 一人の老人がいた/彼は祭りの中を通っていった/結婚相手は誰かしら/ あの夜を覚えているかい、愛しい人よ/あの男達よりあの女達が悪いのはほんとう/ こんどの市の日/ノラ・リー〜いちど一人の少年を愛した/日曜日に嫁にいくの/エリンに帰れ モーリン・オハラ(Vo) | ||
米 COLUMBIA CS 8550 (Stereo)。録音::1961年。2015年10月24日に95歳で逝去した名女優モーリン・オハラ(1920-2015)はアイルランドのダブリン出身。第2次世界大戦中から戦後にかけて活躍した。このアルバムは彼女がアメリカ・コロンビアに録音したヴォーカル・アンバム。母親がオペラ歌手だった彼女は、幼少の頃から声楽の指導を受て以来、女優として活躍中もずっと声楽のトレーニングを続けていた。ダイナ・ショアのTVショーに出演したのが歌い手としてのデビューだったとアルバムの中で述べている。それをきっかけにペリー・コモ・ショー、ボブ・ホープ・ショー、ゲイリー・ムーア・ショー等にシンガーとして出演し、1960年にはブロードウェイのミュージカル「クリスティーヌ」に華々しくデビューして批評家や聴衆から喝采をあびた。これは米コロンビアのオリジナルキャスト・アルバム(OL5520/OS2016)で発売された。このアルバムに収録されたアイルランドの歌は、「ダニー・ボーイ」「ノラ・リー」(ラヴ・ミー・テンダーの原曲)の他は日本ではあまり知られていないが、彼女の圧倒的な歌唱を是非知って頂きたくこのシリーズに組み込んだ。この LP 復刻には世界的に希少な WESTERN ELECTRIC 製 MODEL 10A カートリッジを使用した。 | ||
ジャノリ、バドゥラ=スコダ、シェルヘン〜モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲集 〔変ホ長調 K.365 /ヘ長調 K.242 (原曲:3台のピアノのための)〕 レーヌ・ジャノリ〔ジャノーリ〕、パウル・バドゥラ=スコダ(P) ヘルマン・シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場o. | ||
米 WESTMINSTER WL5095 (Mono)。録音:1951年6月、コンツェルトハウス、ウィーン。レーヌ・ジャノーリ(1915-1979)はパリ生まれ。エコール・ノルマルでアルフレッド・コルトー(1887-1962)に、パリ音楽院でイヴ・ナット(1890-1956)に師事した。さらにルツェルンでエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)に学び、フィッシャーと共に2台、3台のピアノ演奏を数多く行った。パウル・バドゥラ=スコダ(1927-)はウィーン生まれ。ウィーン音楽院に学び1947年オーストリア音楽コンクールに優勝し、エトヴィン・フィッシャーの薫陶を得た。ヘルマン・シェルヘン(1891-1966)はベルリン生まれ、現代音楽の推進者と知られた指揮者。LP時代に登場したレコード会社 WESTMINSTER と契約し、ウィーンで数多くの録音を残した。レーヌ・ジャノーリはこのシリーズでベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番(78CDR-3258)が出ている。 | ||
ゲルハルト・タシュナー〜J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004 〜シャコンヌ ゲルハルト・タシュナー(Vn) | ||
独 ODEON O-8764/5。録音:1941年11月25日、28日。ゲルハルト・タシュナー(1922-1976)はチェコ生まれのヴァイオリニスト。ブダペストでイエノ・フバイ(1858-1937)に、ウィーンでブロニスワフ・フーベルマン(1882-1942)に師事した。ヒトラー政権下のドイツでユダヤ系ヴァイオリニストが払底した中で、フルトヴェングラーが率いるBPOのコンサートマスターのオーディションに「シャコンヌ」を弾いて採用され、1941年から1945年までその地位にあった。この録音は丁度その時期にあたり日米開戦直前の物。録音当時タシュナーは19歳だった。 | ||
ベル・エポックの寵児レナルド・アーンの想い出 「村の占い師」のエール/もしお前が望むなら、かわいい人よ/哀れな農夫/ 我が歌に翼ありせば/いみじき時/見放された女/リデ/悲しい風景/最高の贈り物/牢獄より レナルド・アーン(Br/P) ニノン・ヴァラン(S) ギ・フェラン(T) ロジェ・ブルダン(Br) | ||
Odeon 188.635 (KI 2172-2)。録音:1929年1月25日。レナルド・アーン(1875-1947)はベネズエラのカラカス生まれ。3歳の時に両親と共にパリに移住した。6歳の時に神童として、ナポレオン3世に従妹マティルドのサロンにデビュー、ボーイソプラノのピアノの弾き語りでサロンの寵児となり、作曲家ジュール・マスネ(1842-1912)の推薦を得て10歳でパリ音楽院に入学した。長じて美声と数カ国語をあやつる巧みな話術、豊かな教養で各界の名士、貴婦人たちと交友を築き、またパリ・オペラ座の指揮者として活躍、ザルツブルク音楽祭でもモーツァルト指揮者として名声をあげた。また作曲家として声楽曲の作品が多数あるが、親交のあった音楽家のために作曲した器楽作品もある。ここではアーンの弾き語りと当時の名歌手たちが歌う自作品にピアノ伴奏をした貴重な音源を集めた。ニノン・ヴァラン(1886-1961)はオペラ、オペレッタ、フランス歌曲で評判だった。78CDR-3299で聴ける。ギ・フェラン(?-1963)は1920年代から俳優とオペラで活躍した。ロジェ・ブルダン(1900-1973)はフランス国内中心に活躍したバリトン。 | ||
ミケル・カンデラ〜サン=サーンス: ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調 Op.61 |
ミケル・カンデラ(Vn) フィリップ・ゴーベール指揮 パリ音楽院o. | |
仏 COLUMBIA D15209/12。録音:1928年2月13日、20日-21日。ミケル・カンデラ [Vincent Michel Candela] (1877-1957)はパリ音楽院o. やオペラ座のヴァイオリニストを長くつとめた人物で、よく息子のミゲル・カンデラ [Miguel Candela] (1914-2000)と混同される。息子は1926年11月にパリ音楽院のジュール・ブーシュリ教授(1877-1962)のクラスに入り、翌1927年に一等賞を得た。ということは、この録音が行われた時わずか14歳だったから、この録音は父親のミケルが弾いたとするのが妥当と思う(カデンツァ注:ソース盤のレーベル印刷は未確認だが、当時の SP には上記父子どちらの表記とも異なる "Miquel Candela" と印刷されているものが複数確認できる)。これはこの名曲の世界初録音だった。指揮者のフィリップ・ゴーベール(1879-1941)はポール・タファネル(1844-1908)の父親にフルートの手ほどきを受け、引き続きタファネル自身から指導を受けた。1894年パリ音楽院のフルート科で一等賞を得て、パリ音楽院o.、パリ・オペラ座の首席フルート奏者を務めた後、パリ・オペラ座の指揮者・音楽監督としても活躍した。弟子にフルート奏者のマルセル・モイーズ(1899-1984)等がいる。 | ||
すみれ、野ばら〜エルナ・ベルガー・リサイタル モーツァルト:すみれ(ゲーテ詞)/寂しい森の中で(ド・ラ・モット詞)/いましめ/ 魔術師(ヴァイセ詞)/夕べの思い(カンペ詞) シューベルト:野ばら(ゲーテ詞) エルナ・ベルガー(S) ジョージ・シック(P) | ||
RCA VICTOR LM133 (U.S.) (Mono) 。録音:1951年、ニューヨーク。# 初期 LP 特有のノイズあり。エルナ・ベルガー(1900-1990)はドイツのコロラトゥーラ・ソプラノ。ドレスデンに生まれ、5歳の頃には「魔弾の射手」(ウェーバー)のアリアを歌いこなしたという。17歳の時にエリーザベト・レートベルクのすすめで、ドレスデン王立歌劇場の合唱団に入った。第1次世界大戦(1914-1918)後に家族は南米のパラグアイに移住したが、父親が死亡し、ウルグアイのモンテビデオで働きながらピアノと声楽をつづけた。1923年ドレスデンに戻り、銀行員をしながら声楽の勉強をして、1925年にはバイロイトに出演している。その後ベルリン市立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、ザルツブルク音楽祭、コヴェント・ガーデン歌劇場、メトロポリタン歌劇場に出演、1955年に引退を表明、1960年から1971年ハンブルク音楽大学で教鞭をとった。SP時代から録音も多く、特に1937年「魔笛」の世界初の全曲録音(トーマス・ビーチャム指揮)の夜の女王役で世界的に知られるようになった。このシリーズで シューマン:女の愛と生涯」他(33CDR-3478)が出ている。 | ||
シェリング、ティボー指揮〜 ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61 |
ヘンリク・シェリング(Vn) ジャック・ティボー指揮 パリ音楽院o. | |
仏 ODEON XOC804 (Mono)。録音:1953年1月12日、パリ。ヘンリク・シェリング(1818-1988)はポーランド生まれ。同郷の大ヴァイオリン奏者フーベルマン(1882-1947)のすすめでベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)について研鑽を積み、その後パリ音楽院でジュール・ブーシュリ(1877-1962)とガブリエル・ブイヨン(1896-1986)に師事し1937年に一等賞を得た。第2次世界大戦の勃発でポーランド政府はシェリングが8カ国語を流暢に話すことに目をつけ、亡命先を探していたヴラディスワフ・シコルスキ将軍の通訳としてメキシコを訪れたのが縁で、自身も1945年にメキシコ国籍を取得し首都の音楽院で教鞭をとる。1952年12月にブイヨン指揮パドルーo. でJ.S.バッハのヴァイオリン協奏曲第1番と第2番(33CDR-3540)を録音した。このジャック・ティボー(1880-1953)指揮のベートーヴェンは翌月の1953年1月の録音で、ティボーはこの年の9月に日本に向かう航空機の墜落事故で命を落とした。 | ||
シュナーベル&プロ・アルテ SQ 団員〜モーツァルト: ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 K.478 (*) / ピアノ・ソナタ第16番 変ロ長調 K.570 (#) /ロンド イ短調 K.511 (+) アルトゥール・シュナーベル(P) プロ・アルテSQ 団員(*) [アルフォンス・オンヌー(Vn) ジェルマン・プレヴォ(Va) ロベール・マース(Vc)] | ||
英 HMV 2155/8 (*)、英 HMV 6839/40 (#)、英 HMV 6298 (+)。録音:1934年1月31日(*)、1948年6月16日(#)、1946年6月4日(+)、ロンドン、アビー・ロード EMI 第3スタジオ。アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はポーランドのリプニク(旧オーストリア領)に生まれた。1889年7歳でウィーン音楽院に入り、1891年から1897年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1915)に師事した。1901年ベルリンにデビュー、1933年までこの地を本拠にした。その後1933年にロンドンに居を構え、1939年にアメリカに移住した。シュナーベルのモーツァルトはこのシリーズでピアノ協奏曲第21番K.467 (78CDR-3387)が出ている。 | ||
シューリヒト&パリ音楽院管「運命」 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」 |
カール・シューリヒト指揮 パリ音楽院o. | |
英 DECCA AK2253/6 (ffrr Recording) 。録音:1949年6月10日-12日、パリ、ラ・メゾン・ド・ラ・ミュチュアリテ。カール・シューリヒト(1880-1967)はドイツの指揮者。1912年から1944年までヴィスバーデン歌劇場の音楽監督をつとめると同時にBPOやVPOを指揮した。シューリヒトのベートーヴェン交響曲第1番から第9番はLP時代のパリ音楽院o. を指揮したEMI録音がよく知られているが、この録音は大戦後間もなく英デッカに録音された物。颯爽と直進する若々しさが横溢している名演奏。復刻 LP にはない鮮やかなサウンドが素晴らしい。シューリヒトのベートーヴェン交響曲はこのシリーズでスイス・ロマンドo. との第2番(78CDR-3115)とベルリン市立o. を振った第4番(78CDR-3127)が出ている。 | ||
ベニー・グッドマン六重奏団〜フィーチャリング・チャーリー・クリスティアン ローズ・ルーム/エア・メイル・スペシャル/フライング・ホーム/いい娘を見つけた/ プア・バタフライ/グランド・スラム/ワン・ワン・ブルーズ/アズ・ロング・アズ・アイ・リヴ ベニー・グッドマン、チャーリー・クリスティアン、アーサー・バーンスタイン、 フレッチャー・ヘンダーソン、カウント・ベイシー、ライオネル・ハンプトン/他 | ||
米 COLUMBIA C-102 Set 。録音:1939年-1942年。ベニー・グッドマン(1909-1986)はシカゴ生まれ、クラリネットを習得し11歳でデビュー。1923年にコルネット奏者のビックス・バイダーベックと共演、1925年にベン・ポラック楽団に入った。1928年にニューヨークに移り、1932年に自身の楽団を結成し、NBC放送にレギュラー出演し一躍スターになった。1938年にカーネギー・ホールで初のジャズ・コンサートを開きキング・オブ・スウィングと呼ばれた。これは米COLUMBIAに録音した30曲以上の六重奏団による演奏の中からグッドマン自身の選曲による名演奏集で、25歳で世を去った天才ギタリストのチャーリー・クリスティアン(1925-1942)が在籍した時代の名演が収録されている。SPレコード特有の迫力のある演奏が楽しめる。ベニー・グッドマンはこのシリーズで他にペギー・リーとの共演(78CDR-3538)が出ている。 | ||
バッカウアー〜 ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」 |
ジーナ・バッカウアー(P) | |
英 HMV DLP 1154 (Mono)。録音:1956年6月6日-7日。ジーナ・バッカウアー(1913-1978)はギリシャのアテネ生まれ。アテネ音楽院で学ぶかたわらパリのエコール・ノルマル音楽校でアルフレッド・コルトー(1877-1962)にも師事した。さらにラフマニノフ(1873-1943)の最後の弟子のひとりでもあった。1935年にアテネでミトロプーロスの指揮でデビュー、第2次世界大戦中はエジプトに赴き、外人部隊の兵士に通算600回以上の慰問コンサートを開いた。戦後の1947年にロンドン・デビュー、1950年にはカーネギー・ホールに登場した。力強い男性的なタッチは師コルトーの面影を感じさせる。このシリーズでモーツァルトのピアノ協奏曲第24番K.491 (33CDR-3568)が出ている。 | ||
カンポーリ〜アンコール メンデルスゾーン/アクロン編曲:歌の翼に / ドリゴ/アウアー編曲:火花のワルツ エルガー:気まぐれな女 / ガードナー:ケーンブレークから ハイフェッツ編曲:深い河 / ドビュッシー:吟遊詩人 フォスター/クライスラー編曲:故郷の人々 / フィビフ:詩曲 / ポンセ:小さな星 ドルドラ:思い出 / フィオッコ:アレグロ / フランソワ・シューベルト:蜜蜂 アルベニス:タンゴ / ホイベルガー:真夜中の鐘 アルフレード・カンポーリ(Vn) エリック・グリットン(P) | ||
米 LONDON LL1461 (Mono)。録音:1956年1月18日、ロンドン、NW6 デッカ・スタジオ。アルフレード・カンポーリ(1906-1991)はイタリア生まれ。5歳の時両親と共にイギリスに移住し、1923年にロンドンのウィグモア・ホールでデビューした。ソプラノのネリー・メルバ(1861-1931)やコントラルトのクララ・バット(1872-1936)などの大物歌手とツァーする一方、自らの名前を冠したサロンo. を組織しBBC放送やレコード録音で活躍した。第2次世界大戦後はクラシックの演奏家にかえりざき、英デッカの看板アーティストになった。1960年と1966年に日本公演を行い、1966年にはキングレコードの第1スタジオで作曲家でピアニストの和田則彦氏と日本歌曲からの編曲2曲を含む11曲のヴァイオリン名曲集を録音した。カンポーリはストラディヴァリウスの名器「ドラゴネッティ」を所有していた。このシリーズで「カンポーリ/クライスラーに捧げる」(33CDR-3563)とJ.S.バッハの無伴奏パルティータ第2番BWV1004 (78CDR-3414)が出ている。 | ||
イダ・ヘンデル〜チャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35 |
イダ・ヘンデル(Vn) ベイジル・キャメロン指揮 ナショナルso. | |
英 DECCA K 1444/7。録音:1945年4月26日、1946年2月6日、ロンドン、キングズウェイ・ホール。 イダ・ヘンデル19歳の時の録音。イダ・ヘンデル(1924-)はポーランド生まれ。1935年ワルシャワ音楽院で金メダルとフーベルマン賞を得た。同年開かれたヴィエニャフスキ国際コンクールでジネット・ヌヴー(16歳)、ダヴィド・オイストラフ(27歳)に次いで第3位に入賞、そのとき11歳だった。ヘンデル一家は1939年に祖国ポーランドを離れロンドンに移住し、1940年に市民権を得た。その年に英デッカと契約し初録音を行った。第2次世界大戦中であったにもかかわらず50枚近い録音をしてデッカ社の看板アーティストになった。これは彼女がデッカへの初協奏曲録音。ベイジル・キャメロン(1884-1975)はイギリスの指揮者。サンフラシスコso. やシアトルso. の指揮者をつとめた後、プロムスでサー・ヘンリー・ウッド(1869-1944)のもとで活躍、1957年にCBEに叙勲された。 | ||
クライスラー&ラフマニノフ〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第8番 ト長調 Op.30 No.3 |
フリッツ・クライスラー(Vn) セルゲイ・ラフマニノフ(P) | |
英 HMV DB 1463/4 (米 VICTOR 8163/4と同一録音)。録音:1928年3月22日、アメリカ、ニュージャージー州キャムデン。大ヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラー(1875-1962)が大ピアニストのセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)と顔を合わせた歴史的録音。クライスラーとラフマノノフは第1次世界大戦後、同じマネージャーだったことからこの録音が実現したと言われる。これは電気録音初期のもので録音時クライスラーは53歳、ラフマニノフは55歳だった。二人の巨匠が顔を合わせて時間をかけて音楽を作りあげてたことがマトリクス(原盤)番号の末尾にあるテイク番号が示している。第1楽章ではテイク数が8で、これは8回の録音後にOKテイクが出来たことを示している。第3楽章もテイク数が7と非常に多い。4面の録音を完成するためになんと24枚の原盤を使ったという記録的録音だった。このクライスラーの演奏を後の1936年の再録音(78CDR-3014)と是非聴き比べていただきたい。 | ||
ヴァーシャ・プシホダ〔プルジーホダ〕の芸術 パガニーニ/プシホダ編曲:「ネル・コル・ピウ」の主題による変奏曲 サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン Op.20 / パガニーニ:魔女たちの踊り Op.8 ヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ短調 Op.22 ヴァーシャ・プシホダ(Vn) オットー・グレーフ、 シャルル・セルネ(P) 管弦楽伴奏 | ||
独 POLYDOR 35091 (録音:1938年3月)、独 POLYDOR 66222 (録音:1926年)、独 POLYDOR 66481 (録音:1926年)、独 POLYDOR 68998/9 (録音:1925年)。ヴァーシャ・プシホダ(1900-1960)はチェコのヴォズナニーに生まれたヴァイオリニスト。11歳でプラハ音楽院に入った。ミラノの演奏会に居合わせた大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)を驚嘆させ、「新しいパガニーニ」と称賛されたのがきっかけでヨーロッパ諸国で認められた。1921年にアメリカ・デビュー、1927年にはロンドン公演をした。プシホダは1930年にヴァイオリニストのアルマ・ロゼー(1906-1944)と結婚したが1935年に別れた。アルマ・ロゼーはVPOのコンサートマスターを長年つとめたアルノルト・ロゼー(1863-1946)の娘。プシホダは第2次世界大戦中はザルツブルクのモーツァルテウムで教鞭をとった、大戦後はウィーンを拠点に教鞭と演奏活動をした。このアルバムは電気録音完成期(1938年)のものと、電気録音最初期の"ライトレイ方式"録音(1926年)、機械式録音(1925年)を集めた。ここに録音の変遷史を聴くことができる。 | ||
オークレール&ジョワ〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 Op.24「春」 |
ミシェル・オークレール(Vn) ジュヌヴィエーヴ・ジョワ(P) | |
仏 MUSIQUE et CULTURE MC 3003 (Stereo)。録音:1964年頃、パリ。 この録音は北ランスのストラスブールに本拠を置く MUSIQUE et CULTURE レーベルに録音された物。ミシェル・オークレール(1924-2005)はフランスの女流ヴァイオリン奏者。パリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリ(1877-1962)に師事し一等賞を得て卒業。1943年19歳の時ロン=ティボー国際コンクールで優勝し、ティボーの指揮でハイドン:ヴァイオリン協奏曲第1番 ハ長調でレコード・デビューした(78CDR-3011)。オークレールは1960年代の半ばに左手の故障で現役を引退したが母校パリ音楽院で教鞭をとり、さらに日本の桐朋学園の招聘でマスタークラス(1977年)を開いた。ピアノのジュヌヴィエーヴ・ジョワ(1919-2009)は1932年12歳でパリ音楽院入学、1945にジャクリーヌ・ロバン(1917-2007)とピアノ・デュオを組み1990年まで45年に渡り活動した。1946年に作曲家アンリ・デュティユー(1916-2013)と結婚して生涯良き伴侶だった。 | ||
ダルレ + フーレスティエ〜サン=サーンス: ピアノ協奏曲集〔第2番 ト長調 Op.22 / 第4番 ハ長調 Op.44 |
ジャンヌ=マリー・ダルレ(P) ルイ・フーレスティエ指揮 フランス国立放送o. | |
仏 PATHE DTX 176 (Mono)。録音:1955年4月28日-29日、パリ、メゾン・ド・ラ・ミュチュアリテ。ジャンヌ=マリー・ダルレ(1905-1999)はフランスの女流ピアニスト。10歳でパリ音楽院に入りマルグリット・ロン(1874-1966)とイジドール・フィリップ(1863-1958)に師事し、1919年に一等賞を得て翌年パリでデビューした。1923年にはポール・パレー(1886-1979)指揮のラムルーo. とオーケストラ初共演、1958年にパリ音楽院教授に任命された。このシリーズの78CDR-3189でダレの弾くサン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番のSP録音(ポール・パレー指揮コロンヌo.)が出ているので、聴きくらべをおすすめする。指揮者のルイ・フーレスティエ(1892-1976)はフランスの指揮者。パリ音楽院に学び、和声学、対位法で一等賞を得た後1925年にローマ賞を受賞した。フランス各地のオーケストラの指揮者をつとめた後パリ音楽院の指揮科教授に任命され1945年から1962年にその地位にあった。 | ||
カルヴェSQ 〜ハイドン:弦楽四重奏曲第67番 ニ長調 Op.64 No.5, Hob.III: 62「ひばり」
カルヴェSQ [ジョゼフ・カルヴェ(Vn1) ダニエル・ギレヴィチ〔ギレ〕(Vn2) レオン・パスカル(Va) ポール・マ(Vc)] | ||
独 TELEFUNKEN A 2243/5。録音:1937年5月4日、ベルリン。リーダーのジョゼフ・カルヴェ(1897-1984)はパリ音楽院でギヨーム・レミに師事、1919年に一等賞を得た。1928年にナディア・ブーランジェの発意でベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をフランスで開いた。リーダーのカルヴェは1935年にパリ音楽院の教授に任命され、四重奏団の活動と同時に後進の指導にあたった。第2ヴァイオリンのダニエル・ギレヴィッチは1941年米国に移住したダニエル・ギレ(1899-1990)でアルトゥーロ・トスカニーニ指揮のNBCso.に入り1951年にコンサートマスターになった。またギレ弦楽四重奏団を結成、1954年にはボザール・トリオを作った。ヴィオラのレオン・パスカルは1941年にパスカル弦楽四重団を結成しフランスを代表する弦楽四重奏団として名声を博した。 | ||
コンチータ・スペルビア ファリャ:7つのスペイン民謡(*) グラナドス:昔風のスペインの歌曲集 〔トナディリャス〕(#) |
コンチータ・スペルビア(歌) フランク・マーシャル(P;*) フェルナンド・ペリケ(P;#) | |
英 PARLOPHONE PO153/5 (U.K.) (*) 、英 PARLOPHONE PO161/2 (U.K.) (#)。録音:1930年3月10日(*)、1932年11月1日(#)、バルセロナ。コンチータ・スペルビア(1895-1936)はスペインのバルセロナ生まれのメゾ・ソプラノ歌手。12歳で生地のリセウ音楽院に入り、15歳でアルゼンチンの首都ブエノスアイレスのコロン劇場でデビューした。1912年出身地のバルセロナでビゼーの「カルメン」歌った。第1次世界大戦中にアメリカデビュー。大戦終了後ローマに招かれ、そこでは19世紀後半から慣例的にコロラチューラ・ソプラノによって歌われていたロッシーニのオペラのヒロイン役を、ロッシーニのオリジナル通りメゾソプラノ・レッジェーロの音域で歌ったことで一躍注目された。1930年からはロンドンでも活躍した。1936年出産のためロンドン市内の病院に入院したが、新生児を死産後、自らも死亡した。スペルビアはSPレコードに200面以上の録音を残した。 | ||
ハインツ・シュタンスケ〜J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 BWV1004〜シャコンヌ ハインツ・シュタンスケ(Vn) | ||
独 POLYDOR 69891/2。録音:1942年。ハインツ・シュタンスケ(1914-1996)はベルリン生まれのドイツのヴァイオリニスト。8歳でデビュー、カール・フレッシュ(1873-1944)に師事し、1937年のウィーン・コンクールで金賞を受賞した。第2次世界大戦中にドイツのポリドールに録音をしていた。大戦後はコンサート活動と同時に後進の指導にあたり、女流ヴァイオリニスト、エディト・パイネマン(1939-)は弟子の一人だった。シュタンスケはこのシリーズでモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番 K.218 (78CDR-3211)と特に名録音と評判のブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番(78CDR-3319)が出ている。 | ||
バッカウアー夫妻〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491(カデンツァ:マシューズ) ジーナ・バッカウアー(P) アレック・シャーマン指揮ロンドンo. | ||
蘭 HMV, GHLP 1001 (英 HMV, DLP 1124 と同一録音)。録音:1955年8月19日-20日、アビー・ロードEMI第1スタジオ、ロンドン。ジーナ・バッカウアー(1913-1976)はギリシャのアテネ生まれ。アテネ音楽院で学ぶかたわらパリのエコール・ノルマル音楽校でアルフレッド・コルトー(1877-1962)にも師事した。さらにラフマニノフ(1873-1943)の最後の弟子のひとりでもあった。1935年にアテネでミトロプーロスの指揮でデビュー、第2次大戦中はエジプトに赴き、外人部隊の兵士に通算600回以上の慰問コンサートを開いた。戦後の1947年ロンドンにデビュー、1950年にはカーネギー・ホールに登場した。同年指揮者のアレック・シャーマン(1907-2008)と結婚した。シャーマンはリトルo.・オブ・ロンドンという名称の室内オーケストラを組織し、HMVやCOLUMBIAに録音していた。バッカウアーは米マーキュリーにステレオでベートーヴェンのピアノ協奏曲他を録音していた。強い男性的なタッチは師コルトーの面影を感じさせる。コルトーのモーツァルト録音は残っていないが、バッカウアーの演奏からそれが聴き取れる。 | ||
バルヒェット〜モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲集 〔第4番 ニ長調 K.218 (カデンツァ:ヨアヒム)(*) /第6番 変ホ長調 K.268 (#) 〕 ラインホルト・バルヒェット(Vn) ヴィルヘルム・ゼーゲルケン指揮(*) ロルフ・ラインハルト指揮(#) シュトゥットガルト・プロムジカo.(*/#) | ||
英 VOX, PL7220 (Mono) 。録音:1951年夏、シュトゥットガルト。ラインホルト・バルヒェット(1920-1962)はシュトゥットガルト生まれのドイツのヴァイオリニスト。ヴュルツブルク音楽院で学び、1943年リンツ・ブルックナーo.に入団したが、大戦後は故郷に戻りカール・ミュンヒンガーが主宰するシュトゥットガルト室内o.コンサート・マスターに就任、1952年までその地位にあった。この録音はその時代の物。またDECCAにヴィヴァルディの「四季」(モノ・ヴァージョン)を録音していた。1962年にドイツ・バッハ・ゾリステンのメンバーとして来日したが、帰国直後自動車事故によってシュトゥットガルトで急逝した。享年42歳。ロルフ・ラインハルト(1927-2006)はピアニストで指揮者。初期のVOXにヴィヴァルディの協奏曲集などを録音していた。 | ||
エレナ・ゲルハルト〜シューベルト: 歌曲集「冬の旅」 Op.89, D.911 (抜粋) 〔おやすみ/菩提樹/あふれる涙/春の夢/ 郵便馬車/からす/道しるべ/辻音楽師〕 |
エレナ・ゲルハルト(Ms) ケンラート・ファン・ボス(P) | |
英 HMV, D1262/4, E460 。録音:1927年3月9日、11日、24日、イギリス。HMV盤特有のノイズがある。ドイツが生んだ大リート歌手エレナ・ゲルハルト(1883-1961)が電気録音初期の1927年に録音した「冬の旅」からの録音。ゲルハルトは1902年ライプツィヒ音楽院の学生で、学長に就任したアルトゥール・ニキシュ(1855-1922)が彼女がライプツィヒの公衆の前で歌うことを特別に認めた。1903年音楽院を卒業すると多くの演奏会契約が待っていた。レコード録音は、ニキシュのピアノで1907年からはじまった。以降機械式録音時代、電気録音時代と多数ある。その中の最高傑作がこの「冬の旅」からの8曲。録音時彼女は44歳だった。ゲルハルトは正規録音の他に1939年に6枚組のアルバム「ブラームス、シューベルト、ヴォルフを歌う」(78CDR-3496)を、さらに大戦後の1947年-1948年にシューマン:女の愛と生涯(12インチ盤3枚組)をプライヴェート盤として制作し、自身の知人やファンに配り一般販売はされなかった。 | ||
ワルター& NYP 「英雄」 1941 〜ベートーヴェン: 交響曲第3番 変ホ長調 Op.55「英雄」 |
ブルーノ・ワルター指揮 NYP | |
米 COLUMBIA, 11536/41-D, MM-499 (Set)。録音:1941年1月20日、ニューヨーク。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。1938年、当時VPOの指揮者をつとめていたワルターはナチス・ドイツのオーストリアのオーストリア併合によるユダヤ人迫害を避けてアメリカに逃れた。この「英雄」はアメリカに渡ったワルターの初めての録音にあたる。1941年(昭和16年)日米開戦の年に日本コロムビアに供給された最後のアメリカ原盤によって日本国内でも発売された。ワルターは同じNYPとLP初期の1949年に再録音している。さらに1958年にはステレオでコロンビアso. と録音した。これは33CDR-3349で聴ける。 | ||
ウィーン八重奏団〜シューベルト:八重奏曲 ヘ長調 Op.166, D.803
ウィーン八重奏団[ヴィリ・ボスコフスキー、フィリップ・マタイス、ギュンター・ブライテンバッハ、 ニコラウス・ヒュブナー、ヨハン・クルンプ、アルフレッド・ボスコフスキー、 ヨーゼフ・ヴェレバ、ルドルフ・ハンツル] | ||
英 DECCA, AK 2060/65 (U.K.), ffrr Recording 。録音:1948年7月、ウィーン。ウィーン八重奏団はVPOのコンサート・マスターを1936年から1979までつとめたヴィリ・ボスコフスキー(1909-1991)がリーダーだったボスコフスキー弦楽四重奏団にコントラバス、管楽器奏者が加わって結成された。この録音はSPレコード時代のこのグループ第1回の物。ウィーンの香りが漂う高貴な名演奏がffrr録音によって見事にとらえられている。ウィーン八重奏団は1958年にステレオで同じ曲を再録音している。両者の比較試聴は楽しい。 | ||
カンポーリ〜クライスラーに捧げる プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ/愛の悲しみ/愛の喜び/道化役者/ 美しきロスマリン/ウィーン奇想曲/中国の太鼓/パデレフスキのメヌエット ト長調/ カプリス 変ホ長調/カプリス イ短調/ベートーヴェンの主題によるロンディーノ/ 狩り/ジプシーの女/スペイン舞曲/コレッリの主題による変奏曲 アルフレード・カンポーリ(Vn) エリック・グリットン(P) | ||
英 DECCA LXT 5012 (Mono) 。録音:1954年10月4日-5日、デッカ・スタジオ、ロンドン NW6 。アルフレード・カンポーリ(1906-1991)はイタリア生まれ。5歳の時、両親と共にイギリスに移住し、1923年にロンドンのウィグモア・ホールでデビューした。ネリー・メルバ(1861-1931)やクララ・バット(1872-1936)などの大物歌手とツァーをする一方、自分の名前を冠したサロンo. を作りBBC放送やレコード録音で活躍した。第2次世界大戦後はクラシックの演奏家に返り咲き、英デッカの看板アーティストになった。1960年と1966年に日本公演を行い、66年にはキングレコードの第1スタジオで作曲家でピアニストの和田則彦氏と日本歌曲からの編曲2曲を含む11曲のヴァイオリン名曲集を録音し、1971年にイギリスでも発売された。カンポーリはストラディヴァリウスの名器「ドラゴネッティ」を所有していた。このシリーズで他にJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004 (78CDR-3414)が出ている。 | ||
カユザック&自演〜ヒンデミット: クラリネット協奏曲/組曲「気高い幻想」 |
ルイ・カユザック(Cl) パウル・ヒンデミット指揮 フィルハーモニアo. | |
英 COLUMBIA 33CX 1533 (Mono) 。録音:1956年11月22日、EMI アビー・ロード第1スタジオ、ロンドン。ルイ・カユザック(1880-1960)はフランスのクラリネット奏者、作曲家。トゥールーズ音楽院フェリッス・パジェに、パリ音楽院でシリユ・ローズ(1830-1902)に師事した。1901年にパリ・オペラ座o. に入り、1920年までコロンヌo. の首席奏者をつとめた。1920年以後はソリストとして活躍した。この録音時カユザックは76歳だった。自己の作品を指揮するパウル・ヒンデミット(1895-1963)は20世紀ドイツを代表する作曲家。1920年に結成したアマール弦楽四重奏団ではヴィオラを担当、自身の作曲した「弦楽四重奏曲第2番」の初演を行っている。ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク、チェロのエマヌエル・フォイアマンと三重奏団を組み自身の「弦楽三重奏曲第2番」(78CDR-3523)ほかベートーヴェン:セレナード作品8 (78CDR-3252)の録音を残した。ヒンデミットは生涯に600曲以上の作品を残した。 | ||
プーレ親子〜モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 K.218(カデンツァ:ヘルマン) ジェラール・プーレ(Vn) ガストン・プーレ指揮オーストリアso. | ||
米 REMINGTON R-199-125 (Mono) 。録音:1952年9月26日、ウィーン。ジェラール・プーレ(1938-)は1949年11歳でパリ音楽院に入学、アンドレ・アスランに師事し、2年後の1951年に一等賞を得た。この録音はその翌年の14歳の時の物。18歳の時に、イタリアのジェノヴァで開催されたパガニーニ国際コンクールで優勝した。指揮は父親のガストン・プーレ(1892-1974)。ガストン・プーレは1904年にパリ音楽院に入り、ルフォール教授とジャン・ユレのもとで研鑽を積み1910年に一等賞を得た。1917年にドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを作曲家自身のピアノで初演した。その後華々しい活躍でフランスのもっとも重要な音楽家として尊敬された。 | ||
オークレール&ジョワ〜シューベルト:ヴァイオリンとピアノのための作品全集 Vol.2 ソナチネ第2番 イ短調 Op.137 No.2, D.385 /ソナタ イ長調「デュオ」 Op.162, D.574 / ソナチネ第1番 ニ長調 Op.137 No.1, D.384 ミシェル・オークレール(Vn) ジュヌヴィエーヴ・ジョワ(P) | ||
仏 ERATO STE 50137(ステレオ)。録音:1962年11月、スタジオ・オシュ、パリ。 | ||
オークレール&ジョワ〜シューベルト:ヴァイオリンとピアノのための作品全集 Vol.1 幻想曲 ハ長調 Op.159, D.934 /華麗なロンド ロ短調 Op.70, D.895 / ソナチネ第3番 ト短調 Op.137 No.3, D.408 ミシェル・オークレール(Vn) ジュヌヴィエーヴ・ジョワ(P) | ||
仏 ERATO STE 50136(ステレオ)。録音:1962年11月、スタジオ・オシュ、パリ。ミシェル・オークレール(1924-2005)はフランスの女流ヴァイオリン奏者。パリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリ(1877-1962)に師事し一等賞を得て卒業。1943年19歳の時ロン=ティボー国際コンクールで優勝し、ティボーの指揮でハイドン:ヴァイオリン協奏曲第1番 ハ長調でレコード・デビューした(78CDR-3011)。これはステレオ時代になってフランスのエラート社に行われた録音。オークレールは1960年代の半ばに左手の故障で現役を引退したが母校パリ音楽院で教鞭をとり、さらに日本の桐朋学園の招聘でマスタークラス(1977年)を開いた。ピアノのジュヌヴィエーヴ・ジョワ(1919-2009)は1932年12歳でパリ音楽院入学、1945にジャクリーヌ・ロバン(1917-2007)とピアノ・デュオを組み1990年まで45年に渡り活動した。1946年に作曲家アンリ・デュティユー(1916-2013)と結婚して生涯良き伴侶だった。 | ||
ジョー・スタッフォード〜スコットランドの歌(詩:ロバート・バーンズ/曲:アルトン・リンカー) わたしの心はハイランドにある/ジョン・アンダーソン私の好きな人/アフトン川/ドゥーンの川岸/ モーリズ・ミーク、モーリズ・スウィート/故郷の空(ライ麦畑を通ってきて)/真っ赤な真っ赤なバラ/ 緑にのびゆく灯心草/アニー・ローリー/私のジーン/遠くのいとしい若者/蛍の光(遙かな遠い昔) ジョー・スタッフォード(Vo) ポール・ウェストン楽団 | ||
米 COLUMBIA CL 1043 (Mono)。録音:1953年3月17日、7月10日、1956年5月3日。スコットランドの国民詩人ロバート・バーンズ(1759-1796)の詩を歌った心あたたまるアルバム。バーンズはモーツァルト(1756-1791)とほぼ同年代に生き37歳で世を去った。一方モーツァルトは35歳で死去し、二人とも没後200年以上経った現在でも多くのファンをもっている。古くから歌いつがれている「故郷の空」「アニー・ローリー」「蛍の光」の3曲以外はアルトン・リンカー(1907-1982)が作曲した。リンカーはハイスクール時代にビング・クロスビー(1903-1977)とバンドを結成した。ヴォーカリストのジョー・スタッフォード(1917-2008)は格調の高い歌唱で知られている。夫君はバンドリーダーで作曲家、アレンジャーのポール・ウェストン(1912-1996)。このアルバムの3曲でミッチ・ミラー(1911-2010)のオーボエが聴ける。ジョー・スタッフォードとポール・ウェストンはこのシリーズで「テネシー・ワルツ」(78CDR-3280)、「リパブリック讃歌」(78CDR-3399)、「JO+JAZZ」(33CDR-3459)、「クリスマス・ソング集」(78CDR-3468)、「ハッピー・ホリデイ」(33CDR-3524)が出ている。 | ||
マカノヴィツキー&リー〜 ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」 |
ポール・マカノヴィツキー(Vn) ノエル・リー(P) | |
仏 LUMEN LD 3.416 (Mono)。録音:1957年、パリ。録音技師:アンドレ・シャルラン。ヴァイオリンのマカノヴィツキー(1920-1998)はストックホルムでロシア人の両親のもとに生まれた。4歳でパリのロシア音楽院で名教授イヴァン・ガラミアン(1902-1981)に師事し1929年にガヴォー音楽堂でデビューした。ガラミアンはリュシアン・カペー(1873-1928)の弟子で、1927年から37年にロシア音楽院で教鞭をとっていた。マカノヴィツキーはジャック・ティボー(1880-1953)にもついた。1966年にジュリアード音楽院で教えはじめ、フィラデルフィアのカーティス音楽院やミシガン大学でも教鞭をとった。1954年にピアニストのノエル・リー(1924-2013)に出会いデュオを組んだ。リーは中国の南京生まれ、アメリカ、インディアナ州のラファイエットで育った。第2次世界大戦後フランスに渡り、パリでナディア・ブーランジェの教えを受けた。1955年からレコード録音を開始、現在まで185点のアルバムがある。マカノヴィツキーとのベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタは全曲録音があり、これはその中の一枚。 | ||
ダーメン&ベーム〜モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 K.219 (カデンツァ:ヨアヒム) |
ヤン・ダーメン(Vn) カール・ベーム指揮 ザクセン国立o. | |
独 ELECTROLA DB 4578/81。録音:1938年6月25日、28日。ヴァイオリンのヤン・ダーメン(1898-1957)はオランダのヴァイオリニスト。オランダのブレダに生まれ、ハーグ王立音楽院を卒業後、ベルリンで名教師カール・フレッシュ(1873-1944)について研鑽を積んだ。1920年から22年までBPOのコンサートマスター、1924年からはザクセン国立o. (シュターツカペレ・ドレスデン)のコンサートマスターだった。1949年からは指揮者エドゥアルト・ファン・バイヌムのもとでアムステルダム・コンセルトヘボウo. のコンサートマスターを務めた。カール・ベーム(1894-1981)はオーストリアの大指揮者。1934年からドレスデン国立歌劇場総監督をつとめた。この録音はその時代の物。 | ||
シゲティ、オーマンディ〜ブラームス: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77 (カデンツァ:ヨアヒム) |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィアo. | |
英 COLUMBIA LX 983/987 (U.K.) (米 COLUMBIA 12281/5Dと同一録音)。録音:1945年2月23日、フィラデルフィア。シゲティによるこの曲の2回目の録音。第1回録音は1928年のハミルトン・ハーティ指揮だった(78CDR-3220)。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリーのブダペスト生まれ。ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1850-1937)に師事した。1905年、13歳でベルリン・デビュー、大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)に認められた。1917年から24年にスイスのジュネーヴ音楽院で教え、1940年にアメリカに移住した。この録音は第2次大戦末期の物。指揮者は同郷のユージン・オーマンディ(1899-1985)。オーマンディもまたフバイの弟子でヴァイオリニスト出身だった。 | ||
ワルター& VPO 〜ハイドン: 交響曲第100番 ト長調「軍隊」 |
ブルーノ・ワルター指揮 VPO | |
英 HMV DB 8445/7。録音:1938年1月10日、ムジークフェライン大ホール、ウィーン。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1894年ハンブルク歌劇場の指揮者をしていた時、音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo. などの楽長、音楽監督を歴任、またVPOやベルリン・フィルハーモニーも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると、迫害を避けてアメリカに逃れた。この録音はウィーンのムジークフェライン大ホールで録音されたもので、美しい残響を伴ったオーケストラの音色が名演奏に花を添えている。 | ||
ジュリアン・オレフスキー〜ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ集 Op.1(抜粋) 〔第4番 ニ長調 Op.1 No.13 /第5番 イ長調 Op.1 No.14 /第3番 ヘ長調 Op.1 No.12 / 第6番 ホ長調 Op.1 No.15 /第1番 イ長調 Op.1 No.3 /第2番 ト短調 Op.1 No.10 〕 ジュリアン・オレフスキー(Vn) フェルナンド・ヴァレンティ(Cemb) マーティン・オーマンディ(Vc) | ||
米 WESTMINSTER XWN18872/4。録音:1958年10月、1959年2月。ヴァイオリンのジュリアン・オレフスキー(1926-1985)はドイツ生まれ。1935年に家族と共にアルゼンチンのブエノスアイレスに移住、ヴァイオリニストとしての研鑽を積んだ。1947年にアメリカに移り、1949年にニューヨークのタウンホールでデビュー、1950年にカーネギー・ホールで4回のリサイタルを行った。1959年に来日したこともある。演奏家として活躍すると同時にマサチューセッツ大学で後進の指導にあたった。59歳の時に心臓麻痺で他界した。フェルナンド・ヴァレンティは1950年にプラドのカザルスフェスティヴァルに出演したチェンバロ奏者。マーティン・オーマンディはブダペスト王立アカデミー出身のチェロ奏者。録音当時NYPのメンバーだった。このアルバムはヘンデルの作品1の15曲のソナタ集からヴァイオリンのために書かれた6曲を収録した物。オレフスキーはこのシリーズでブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調(33CDR-3312)が出ている。 | ||
モーリス・マレシャル アンリ・カザドシュ/伝・クリスティアン・バッハ:チェロ協奏曲 ハ短調(*) ヴィヴァルディ/マレシャル編曲:チェロ協奏曲 ニ長調 Op.3 No.9 (#) ショパン/ポッパー編曲:ノクターン 変ホ長調 Op.9 No.2 (+) リスト/マレシャル編曲:愛の夢(+) モーリス・マレシャル(Vc) ウジェーヌ・ビゴー指揮(*/#) ラムルーo. (*/#) モーリス・フォール(P) | ||
仏 COLUMBIA LFX774/5、LFX62、LFX319。録音:1948年1月27日(*)、1929年6月28日(#)、1933年5月(+)。ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)のチェロ協奏曲は後に編曲者のアンリ・カザドシュ(1879-1947)による贋作であることが判明した。ピアニスト、ロベール・カザドシュ(1899-1972)はアンリ・カザドシュの甥にあたる。モーリス・マレシャル(1892-1964)はフランスの名チェリスト。パリ音楽院に学び1911年に一等賞を得た。1919年にコンセール・ラムルーにソリストとしてデビュー、以来世界中を楽旅し、日本にも来訪した。指揮者のウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)はパリ音楽院出身。パリの名オーケストラの指揮者をつとめて活躍した。 | ||
リパッティ〜モーツァルト: ピアノ・ソナタ第8番 イ短調 K.310 (300d) |
ディヌ・リパッティ(P) | |
英 COLUMBIA LX8788/9。録音:1950年7月9日、スイス、ジュネーヴ放送局第2スタジオ。ディヌ・リパッティ(1917-1950)はルーマニアのブカレスト生まれ。母親はピアニスト、父親はサラサーテ(1844-1908)やカール・フレッシュ(1873-1944)に学んだヴァイオリニストで、洗礼立会人は大ヴァイオリニストのジョルジュ・エネスコ(1881-1955)だった。ブカレスト音楽学校で学費免除の特待生で入学が許された。1934年のウィーン国際コンクールで2等賞になったが、この時、審査席にいたアルフレッド・コルトー(1877-1962)は結果に異議を申し立て審査員を辞職した。その後リパッティはパリでコルトーとイヴォンヌ・ルフェビュール(1898-1986)に師事シャルル・ミュンシュ(1891-1968)は指揮法を教えた。また作曲をナディア・ブーランジェ(1887-1979)とイーゴル・ストラヴィンスキー(1882-1971)に学んだ。リパッティは1950年12月2日、ジュネーヴで悪性リンパ腫のため33歳で没した。このシリーズでショパン:ワルツ集(全14曲) (78CDR-3375)が出ている。 | ||
シュナーベル〜シューベルト: ピアノ・ソナタ第20番 イ長調 D.959 |
アルトゥール・シュナーベル(P) | |
英 HMV DB8322/6。録音:1937年1月14日-15日、アビー・ロードEMI第3スタジオ、ロンドン。アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はポーランドのリプニク(旧オーストリア領)に生まれた。1889年7歳でウィーン音楽院に入り、1891年から1897年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1915)に師事した。1901年にベルリンにデビュー、1933年までこの地を本拠にした。その間演奏活動の傍らベルリン高等音楽院で教え、弟子にクリフォード・カーゾン(1907-1982)、ペーテル・フランクル(1935-)などがいる。またカール・フレッシュ(1873-1944)、パブロ・カザルス(1876-1973)、エマヌエル・フォイアマン(1902-1942)、パウル・ヒンデミット(1895-1963)、ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)との室内楽演奏はベルリンの呼び物だった。その後1932年から34年にはロンドンに居を構え、1939年にアメリカに移住した。大戦後はスイスに住んで演奏会や録音に活躍した。シュナーベルはこのシリーズでモーツァルト:ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467 (78CDR-3387)が出ている。 | ||
ロベール・ロルタ〜 ショパン:24の前奏曲集 Op.28 |
ロベール・ロルタ(P) | |
英 COLUMBIA 9568/71。録音:1928年5月5日、パリ。ロベール・ロルタ(1885-1938)はフランスのピアニスト。パリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)に師事し1901年に一等賞を得た。同門のピアニストにエドゥアール・リスレル(1873-1929)、アルフレッド・コルトー(1877-1952)、ロベール・カザドシュ(1899-1972)などがいる。ロルタはショパンとフォーレの作品を得意とし、特にショパンは1912年にエコセーズ、ロンド、遺作のマズルカとポロネーズ数曲を除く全作品を6回のリサイタルで演奏した記録がある。ロルタの録音は1928年にこの「24の前奏曲」「ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調」と1931年の「前奏曲作品10& 25」を残したのみで忘れられた存在。そのSPレコードは稀少盤になっている。コルトーのショパンと聴きくらべると違ったフランスの香りが楽しめる。 | ||
ダイナとデート〜ダイナ・ショア あなたはしっかり私のもの/デキシー/愛さないではいられない/ケリー・ダンス/ スリル・イズ・ゴーン/アフター・アイ・セイ・アイム・ソーリー/ ゼアル・ビー・サム・チェンジズ・メイド/ゼイ・ディドント・ビリーブ・ミー ダイナ・ショア [DINAH SHORE](Vo) モーリス・ストロフ楽団&cho. [Orchestra and Chorus under the direction of MORRIS STOLOFF] | ||
米 COLUMBIA, C 125 (Set)。録音:1946年。ダイナ・ショア(1916-1994)はアメリカのポップス・シンガー。テネシー州ウィンチェスターの生まれ。大学時代に地元のラジオ局に歌手として出演していた。大学卒業後ニューヨークに出てプロの歌手を目指し、WNEW局にフランク・シナトラと出演したこともある。BLUEBIRDレーベルにザヴィア・クガート楽団と「そよ風と私」を録音して歌手としての第1歩を踏み出した。これは1946年にCOLUMBIAから発売された4枚組のアルバム・セット。美声でエレガントな歌い回しが聴き手を魅了する。このシリーズでボタンとリボン〜ダイナ・ショア SP 録音集(78CDR-3400)が出ている。 | ||
ヴェンツィンガー〜J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 Vol.2 〔第4番 変ホ長調 BWV1010 (#) /第5番 ハ短調 BWV1011 /第6番 ニ長調 BWV1012 〕 アウグスト・ヴェンツィンガー(Vc) | ||
ヴェンツィンガー〜J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 Vol.1 〔第1番 ト長調 BWV1007 /第2番 ニ短調 BWV1008 /第3番 ハ長調 BWV1009 (#) 〕 アウグスト・ヴェンツィンガー(Vc) | ||
独 BARENREITER-MUSICAPHON, BM 30 L 1057-9 (となっているが、おそらく BM 30 L 1507-9 )。録音:1960年9月(無印)、1961年6月(#)、ハンブルク。既出 CD-R : FORGOTTEN RECORDS, fr-755/6 。アウグスト・ヴェンツィンガー(1905-1996)はスイス出身のチェロ、ヴィオラ・ダ・ガンパ奏者、指揮者。バーゼルに生まれ、生地の音楽院で音楽理論をベルリンで大チェリスト、エマヌエル・フォイアマン(1902-1942)の個人レッスンを受けた。1929年から1934年までブレーメンのオーケストラの首席をつとめた。また1925年からヴィオラ・ダ・ガンパの研究を始め、1930年にフルート奏者のグスタフ・シェックとピリオド楽器の演奏団体を結成、また1933年にはカペル・カンマームジークという名のピリオド楽器集団を立ち上げたが、政治的な圧力で解散、スイスに帰りバーゼル・スコラ・カントルムのヴィオラ・ダ・ガンパ教授をつとめた。指揮者としても活躍し、1958年から1966年までハノーファーで定期的にバロック・オペラの上演を手掛けていた。このバッハの無伴奏チェロ組曲全6曲は、自身が校訂した出版譜(ベーレンライター版)に合わせて録音されたもので、楽譜は現在でも流布しているが、この録音はまったく忘れ去られていたもの。 | ||
ホルショフスキ〜ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調 Op.106 「ハンマークラヴィーア」 |
ミエツィスワフ・ ホルショフスキ(P) | |
英 VOX, PL 6750。録音:1950年7月5日-6日。ミエツィスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)はポーランド生まれ、99歳までコンサート・ステージで活躍していた。母親はショパンの直弟子カール・ミクリ(1819-1897)に学んだピアニスト。4歳の頃から神童といわれ、1899年にウィーンに移り住み、名教師テオドール・レシェティツキ(1830-1915)の指導を受けた。1930年代にカザルスがHMVに録音したベートーヴェン:チェロ・ソナタ集(第3番は除く)のピアニストをつとめた。第2次世界大戦中にアメリカに移住、フィラデルフィアのカーティス音楽院で後進の指導にあたる一方、室内楽奏者としての録音が多い。このシリーズではカザルスとのベートーヴェン:チェロ・ソナタ第1番(78CDR-3221)、第2番(78CDR-3034)、ショパン:ピアノ協奏曲第1番(33CDR-3372)、ベートーヴェン:ディアベッリ変奏曲(33CDR-3535)が出ている。 | ||
オークレール + ロイブナー〜ブルッフ: ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 Op.26 /コル・ニドライ(ヘブライの旋律) Op.47 ミシェル・オークレール(Vn) ヴィルヘルム・ロイブナー指揮オーストリアso. | ||
米 REMINGTON, R-199-127。録音:1952年11月11日-12日、ウィーン。#第3楽章58秒から1分3秒に音がかすれる部分がある。ミシェル・オークレール(1924-2005)はフランスの女流ヴァイオリン奏者。パリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリ(1887-1962)に師事し一等賞を得て卒業。1943年19歳の時にロン=ティボー国際コンクールで優勝し、ティボーの指揮でハイドン:ヴァイオリン協奏曲第1番 ハ長調でレコード・デビューした(78CDR-3011)。1950年代初頭に新興レコード会社米REMINGTONに数枚のLP録音を残した。ステレオ時代にはエラートやフィリップスに珠玉の名録音がある。オークレールは1960年代の半ばに左手の故障で現役を引退したが母校のパリ音楽院で教鞭をとり、また日本の桐朋学園の招聘でマスタークラス(1977年)を開いた。指揮者のヴィルヘルム・ロイブナー(1909-1971)はウィーン生まれ。1957年-1959年にNHKso.の常任指揮者をつとめた。オーストリアso.の実体はウィーン・トーンキュンストラーo.。 | ||
シゲティ&フォルデス〜ドビュッシー: ヴァイオリン・ソナタ ト短調/ 月の光(ローレンス編曲) |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) アンドール・フォルデス(P) | |
米 COLUMBIA, 71592/3 (Set X-MX-242)。録音:1941年11月26日。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はブダペスト生まれ。ブダペスト音楽アカデミーでイェノ・フバイ(1858-1937)に師事し、13歳でデビューした。1907年から1913年に英国に住み、ピアニストのマイラ・ヘス(1890-1965)やフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)らとのソナタ演奏から大きな音楽的影響を受け、その後ヨーロッパ大陸に戻り、1917年から1924年スイスのジュネーヴ音楽院で教えた。第2次世界大戦前の1932年と翌1933年に来日した。アンドール・フォルデス(1913-1992)はハンガリー出身のピアニスト。フランツ・リスト音楽院でエルンスト・フォン・ドホナーニ(1877-1960)の薫陶をうけ1933年にリスト国際音楽コンクールでリスト賞を得たが、第2次世界大戦の影響でアメリカに亡命した。 | ||
ブライロフスキー 1928 〜ショパン:ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11
アレクサンダー・ブライロフスキー(P) ユリウス・プリューヴァー指揮 BPO | ||
独 POLYDOR, 66753/6。録音:1928年、ベルリン高等音楽院。アレクサンダー・ブライロフスキー(1896-1976)はウクライナのキーウ〔キエフ〕生まれ、8歳でピアノをはじめ18歳でキーウ〔キエフ〕音楽院に入り、1911年ゴールド・メダルを得て卒業。その後ウィーンでテオドール・レシェティツキ(1830-1915)についてさらに研鑽を積んだ。さらにチューリヒでフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)に、最後にフランスでフランシス・プランテ(1839-1934)についた。1926年にフランスの市民権を得た。ブライロフスキーはショパンの全160のピアノ作品を6回のコンサートで演奏する歴史上初の快挙をうちたて、その一部では作曲者ショパンの所持したピアノを演奏した。この協奏曲録音はブライロフスキーの初録音の一つ(他にリスト:ピアノ協奏曲第1番がある)で、輝かしい豪快な指さばきは師のブゾーニやプランテを思わせるもので、後年の録音とは一線を画す見事な物。ユリウス・プリューヴァー(1874-1943)はドイツの指揮者。ドイツ・ポリドールにシューベルト:交響曲第8番「未完成」ほかシュトラウス:ワルツ集などがあった。 | ||
ケントナー&ビーチャム〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第12番 イ長調 K.414 |
ルイス・ケントナー(P) トマス・ビーチャム指揮 LPO | |
米 COLUMBIA, 71495/7 (英COLUMBIA, LX 894/6 と同一録音)。録音:1940年1月12日、3月26日、5月10日、アビー・ロードEMI第1スタジオ、ロンドン。ルイス・ケントナー(1905-1987)はシレジアのカルウィン(現チェコ共和国カルヴィーナ)にハンガリー国籍の両親のもとに生まれた。1911-1922年にブダペスト音楽アカデミーでピアノをアントン・セーケイ、室内楽をレオー・ヴェイネル、作曲をゾルターン・コダーイに学んだ。15歳でコンサート・ピアニストとして活躍を始め、1935年にイギリス国籍を得た。1933年にバルトークのピアノ協奏曲第2番を作曲者の要請でオットー・クレンペラーの指揮のもとで初演。ピアノ協奏曲第3番をエイドリアン・ボールトの指揮でヨーロッパ初演をロンドンで行った。また義兄にあたるイェフディ・メニューイン(1916-1999)とウォルトン(1902-1983)のヴァイオリン・ソナタを1949年9月30日にチューリヒで初演した。指揮者のサー・トマス・ビーチャム(1879-1961)は英国で最も尊敬された指揮者。1932年にロンドンpo.を組織し、1947年にはロイヤルpo.を作った。ビーチャムの指揮するモーツァルトはSP時代最も権威あるものとして欧米では受け入れられた。 | ||
ランパル、ワグネル、リステンパルト〜モーツァルト: フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299 (*) / ディヴェルティメント第11番 ニ長調 K.251 ジャン=ピエール・ランパル(Fl;*) ドーラ・ワグネル(Hp;*) カール・リテンパルト指揮ザール室内o. | ||
仏 DISCOPHILES FRANCAIS, DF 134。録音:1954年11月。ジャン=ピエール・ランパル(1922-2000)はフランスのマルセイユ生まれ、音楽院教授だった父親にフルートの手ほどき受けた。医学ををめざしたが大戦のため1943年にパリ音楽院のフルート科に入りわずか5カ月で一等賞を得た。音楽院ではガストン・クリュネルに師事した。1946年にヴィシー・オペラo.のメンバーになり、1947年にジュネーヴ国際コンクールで優勝しソロ活動を開始した。1956年からパリ・オペラ座o.の首席奏者となり、1962年退団後はフランス最高のフルート奏者として活躍した。このフルートとハープのための協奏曲はランパルにとって記念すべきこの曲の初録音で、それまで存在があまり知られていなかった物。指揮者のカール・リステンパルト(1900-1967)はドイツのキール生まれ。1954年から1967年の間に手兵のザール室内o.と169枚のLP録音をした。この盤はその最初期の一枚。 | ||
ローラ・ボベスコ〜ヴァイオリンの黄金時代(ステレオ録音) ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第4番 ニ長調 Op.1 No.13 ルクレール:ヴァイオリン・ソナタ ニ長調 Op.9 No.3 ヴェラチーニ:ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 Op.2 No.8 タルティーニ:ヴァイオリン・ソナタ ト短調 Op.1 No.10「捨てられたディドーネ」 ローラ・ボベスコ(Vn) ジャック・ジャンティ(P) | ||
ベルギー ALPHA CL 4008 (Stereo)。録音:1965年。ローラ・ボベスコ(1921-2003)はルーマニア出身の女流ヴィオリン奏者。パリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリ(1877-1962)のクラスに入り、1934年13歳で一等賞を得、同年ポール・パレー指揮コンロンヌo. でデビューした。1937年ブリュッセルのイザイ国際コンクールで入賞し、以降ソリストとして活躍する一方ブリュッセル音楽院の教授もつとめた。レコード録音は21歳の1942年にラロ:スペイン交響曲(78CDR-3139)が最初。この録音はステレオ時代になってからものでボベスコの名を日本に広めたレコードだった。ピアノのジャック・ジャンティはパリ音楽院出身。1948年にボベスコと結婚(後に離婚)、伴奏者として活躍した。1981年9月にボベスコとジャンティは日本のフィリップスに LP 5枚を録音し、世界の注目を集めた。 | ||
ベニー・グッドマン&ペギー・リー サニー・サイド(*) /いつかどこかで(*) /今宵の君は(*) / ウィンター・ウェザー(#) /サムバディ・ノーバディ・ラヴズ/ マイ・リトル・カズン/ノット・マイン/レッツ・ドゥ・イット |
ペギー・リー(Vo) アート・ロンドン(Vo;#) ベニー・グッドマン六重奏団(*) ベニー・グッドマン楽団(*以外) | |
米 COLUMBIA C170 (Set) 。録音:1941年-1942年。ペギー・リー(1920-2002)の初録音はこのベニー・グッドマン(1909-1986)との共演だった。21-22歳の時。ペギー・リーはノースダコタ州の出身。1941年にベニー・グッドマン楽団に歌手として入団し、2年間つとめた。1944年に新興のキャピトル・レコードに移り、1952-56年にはデッカで活躍したが、またキャピトルに戻った。ベニー・グッドマンはシカゴ生まれ、クラリネットを習得し11歳でデビュー。1923年にコルネット奏者のビックス・バイダーベックと共演、1925年にベン・ポラック楽団に入った。1928にニューヨークに移り、1932年に自身の楽団を結成し、NBC放送にレギュラー出演し一躍スターになった。1938年にカーネギー・ホールで初のジャズ・コンサートを開きキング・オブ・スウィングと呼ばれた。ビッグバンドの他に、小編成のトリオ、カルテット、セクスッテットでも活動した。またクラシックのクラリネット奏者としても録音を残している。 | ||
モーリス・エヴィット〜モーツァルト:セレナード 第12番 ハ短調 K.388「夜曲」(8本の管楽器のための) |
モーリス・エヴィット指揮 管楽アンサンブル | |
モーリス・エヴィット〜モーツァルト:セレナード 第11番 変ホ長調 K.375 (*)(8本の管楽器のための) |
モーリス・エヴィット指揮 管楽アンサンブル | |
仏 DISCOPHILE FRANCAIS 45-48A (*), 48B-50 。録音:1946年2月20日-22日、パリ。指揮者のモーリス・エヴィット(1884-1971)はカペー弦楽四重奏団の第2ヴァイオリンをつとめた人。パリ音楽院の室内楽科を卒業後1904年にトゥーレ四重奏団に入り、さらにサイレ四重奏団、ドルソン四重奏団のメンバーを経て、1909にカペー弦楽四重奏団に第2ヴァイオリン奏者として入団、1914-1919年の5年間を除き1928年まで在籍した。1928年リーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)の急死でエヴィット四重奏団(1828-30)の名前で引き継いだ。その後アメリカに渡りクリーヴランド四重奏団を結成した(1930-34)。フランスに戻り新エヴィット四重奏団(1935-39、1946-49)を作った。エヴィットは1934年にフォンテーヌブローのアメリカ音楽院の室内楽科教授に就任、1942-55年にはパリ音楽院の室内楽科の教授もつとめた。1939年にエヴィット室内o. をつくりコンサートやレコーディングで活躍した。 このシリーズでJ.S.バッハ:管弦楽組曲全曲(33CDR-3509/10)が出ている。 | ||
ホルショフスキ〜ベートーヴェン: ディアベッリ変奏曲 Op.120 |
ミエチスワフ・ ホルショフスキ(P) | |
英 VOX PL7730。録音:1952年5月13日。ミエチスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)はポーランド生まれのピアニスト。99歳までコンサート・ステージで活躍していた。母親はショパンの直弟子カール・ミクリ(1819-1897)に学んだピアニスト。4歳の頃から神童といわれ、1899年にウィーンに移り住み、名教師レシェティツキの指導を受けた。1930年代にカザルスがHMVに録音したベートーヴェン:チェロ・ソナタ集(第3番は除く)のピアニストをつとめた。第2次世界大戦中にアメリカに移住、フィラデルフィアのカーティス音楽院で後進の指導にあたる一方、室内楽奏者としての録音が多い。このシリーズでカザルスとのベートーヴェン:チェロ・ソナタ第1番(78CDR-3221)、第2番(78CDR-3084)とショパン:ピアノ協奏曲第1番 Op.11 (33CDR-3372)が出ている。 | ||
フックス兄妹〜モーツァルト:協奏交響曲 変ホ長調 K.364
ジョセフ・フックス(Vn) リリアン・フックス(Va) ジンブラー・シンフォニエッタ | ||
英 BRUNSWICK AXTL1018 (Mono) (DG LPE17124 と同一録音) 。録音:1951年12月5日。ヴァイオリンのジョセフ・フックス(1899-1997)はニューヨーク生まれ、ジュリアード音楽院の前進であるニューヨーク・インスティテュート・オブ・ミュージカル・アートでルーマニア出身のヴァイオリニストで弦楽四重奏団のリーダー、フランツ・クナイゼル(1865-1926)に師事した。フックスはクリーヴランドo. のコンサート・マスターを1926-1940年までつとめ、その後ソリストとして活躍、1953-54年にはプラドのカザルス音楽祭にも参加した。1946年にジュリアード音楽院のヴァイオリン科教授に就任、没年まで50年以上その地位にあった。ヴィオラのリリアン・フックス(1901-1995)は実妹。最初ピアノを、後にヴァイオリンを学び1926年にニューヨーク・デビューしたが、師のクナイゼルの勧めでヴィオラに転向し、生涯ソリスト、名教師として活躍した。ジョセフとリリアン兄妹によるモーツァルトの協奏交響曲 K.364の正規録音は3種類あり、これはその最初の物。このシリーズでジョセフ・フックスによるベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全曲(33CDR-3489/91)が出ている。 | ||
レナーSQ 〜モーツァルト: セレナード第13番 ト長調 K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(*) / 弦楽四重奏曲第23番 ヘ長調 K.590「プロシャ王第3番」(#) レナーSQ [イェノ・レナー(Vn1) ヨーゼフ・スミロヴィッツ(Vn2) シャーンドル・ロート(Va) イムレ・ハルトマン(Vc)] | ||
英 COLUMBIA L1729/30 (*)、英 COLUMBIA LX808/10 (#)。録音:1926年2月19日、1927年3月3日(*)、1939年2月8日(#)。レナー弦楽四重奏団は1918年ハンガリーのブダペストで結成された。メンバー全員がブダペスト音楽院出身で、レナー(1894-1948)、スミロヴィッツ、ロートがイェノ・フバイ(1858-1937)の弟子、チェロのハルトマンがダヴィド・ポッパー(1843-1913)に師事した。4人はブダペスト・オペラの楽員だったが、1918年に起こったハンガリー革命を機に弦楽四重奏団を結成した。2年に渡って田舎の村にこもって練習を積んだ後、1920年にウィーンでデビューした。そこに居合わせた作曲家のラヴェル(1875-1937)が演奏に感動し、彼らをパリに招いた。公演はセンセーショナルな成功を収めた。その後1922年にロンドン、1929年にはアメリカにデビューした。レコードは機械式録音時代の1922年に、イギリス・コロンビアに録音したのが最初。1927年のベートーヴェン没後100年では、16曲の弦楽四重奏曲中11曲(SPレコード40枚)を録音した。 なお Track 3 (K.525第2楽章 Part 2-第3楽章)は1926年2月19日、録音(80回転)の原盤が破損したため1927年3月3日、録音(78回転)の原盤にさしかえられた。ピッチと音質の偏差が聴き取れるが、ご容赦願いたい。 | ||
ゼルキン&ブッシュ〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第14番 変ホ長調 K.449 (カデンツァ:モーツァルト) |
ルドルフ・ゼルキン(P) アドルフ・ブッシュ指揮 ブッシュ室内プレイヤーズ | |
米 RCA VICTOR 15912/4 (英HMV DB3690/2と同一録音)。録音:1938年10月11日、ロンドン、アビー・ロードEMI第1スタジオ。ルドルフ・ゼルキン(1903-1991)はボヘミア出身のピアニスト。幼少の頃ウィーンに移りピアノと作曲を学んだ。1920年、17歳でヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュ(1891-1952)のピアニストになり、ヨーロッパ各地で演奏活動を行った。この縁でブッシュの娘イレーネと結婚した。1939年ゼルキンはナチスのユダヤ人迫害を避けてアメリカに移住した。この録音はヨーロッパ時代の最後の物。 | ||
ソリアノ&ブーシュリ〜未発表テイクによる モーツァルト:ヴァイリン協奏曲第3番 ト長調 K.216(カデンツァ:エネスク) 〔第1楽章(Part 1) (*) /第1楽章(Part 2) /第2楽章/第3楽章〕/ ・ボーナス・トラック(未発表テイク [UNPUBLISHED TAKES] ) 〔第2楽章(Part 2) /第3楽章〕 ドニーズ・ソリアノ(Vn) ジュール・ブーシュリ指揮o. | ||
仏 PATHE PAT127/9。録音:1937年6月3日-4日、パリ。(*)は市販盤と同テイクのようだが、他は未発売テイク(ボーナス・トラックのみ新発見?)だとの事。詳細マトリックス No.等は、現時点では不明。 78CDR-3031で発売されたこの曲の未発売原盤発見! トラック(1)以外はすべて未発売原盤によった。さらにトラック(6)と(7)は別の未発売テイクを収録した。この原盤は片面の白レーベル、テストプレス盤で録音後演奏者に聴かせてどのテイクを発売するかを決めてもらう目的で製作されたレコード。録音後77年を経て発見されたのは奇跡と言える。是非78CDR-3031と聴き比べでいだきたい。 | ||
ギャビー・カザドシュ〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K.453 |
ギャビー・カザドシュ(P) ウジェーヌ・ビゴー指揮 プロ・ムジカo. | |
米 VOX PL 6720。録音:1950年10月16日、パリ。ピアノのギャビー・カザドシュ(1901-1999)はマルセイユ生まれ、旧姓ガブリエル・ロート。パリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)とマルグリット・ロン(1874-1966)に師事、16歳で一等賞を得た。1921年にピアニスト、ロベール・カザドシュ(1977-1972)と結婚しデュオでの演奏会やレコード録音も多かった。指揮者のウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)はパリ音楽院出身。シャンゼリゼ劇場の指揮者を経て、パリ音楽院o.、ラムルーo.、フランス国立放送o.、オペラ・コミックの指揮者を歴任、母校パリ音楽院の指揮科の教授もつとめた。ギャビー・カザドシュとウジェーヌ・ビゴーはこのシリーズでモーツァルト:ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K.503 (33CDR-3445)が出ている。 | ||
パスキエ弦楽三重奏団〜モーツァルト:6つの前奏曲アダージョとフーガ(K.404a) アダージョ第1番 ニ短調/ フーガ第1番 ニ短調(J.S.バッハ:平均律クラヴィーアBWV853の弦楽三重奏のための編曲)/ アダージョ第2番 ト短調/ フーガ第2番 ト短調(J.S.バッハ:平均律クラヴィーアBWV883の弦楽三重奏のための編曲)/ アダージョ第3番 ヘ長調/ フーガ第3番 ヘ長調(J.S.バッハ:平均律クラヴィーアBWV882の弦楽三重奏のための編曲)/ アダージョ第6番 ヘ短調/ フーガ第6番 ヘ短調(W.F.バッハ:フーガ第8番の弦楽三重奏のための編曲) パスキエ弦楽三重奏団 [ジャン・パスキエ(Vn) ピエール・パスキエ(Va) エティエンヌ・パスキエ(Vc)] | ||
米 HAYDN SOCIETY HSL-108 (XTV21762-1A) (Mono)。録音:1951年、パリ。パスキエ弦楽三重奏団は1927年パスキエ三兄弟によって結成された。長兄ピエール・パスキエ(1902-1986)はパリ音楽院でヴィオラをモーリス・ヴュー(1884-1951)に師事し一等賞を得た。次兄ジャン・パスキエ(1903-)と末弟エティエンヌ・パスキエ(1905-1997)による三重奏団のために、数多くのフランスの作曲家が作品を書いた。このバッハの作品による6つのアダージョとフーガはJ.S.バッハ、W.F.バッハの作品の編曲。パスキエ三重奏団はこのシリーズでモーツァルト:ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 (78CDR-3487)とヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 K.423 & K.424 (78CDR-3512)が出ている。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2014年リリース分 (末尾 469-528) | ||
レーヴェングートSQ 〜ベートーヴェン&バッハ ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 Op.135 J.S.バッハ/クレム&ヴァイマル編曲:コラール ト長調 レーヴェングートSQ [アルフレッド・レーヴェングート(Vn1) モーリス・フューリ(Vn2) ロジェ・ロシュ(Va) ピエール・バッスー(Vc)] | ||
英 HMV, C 7714-17。録音:1946年9月18日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。レーヴェングート弦楽四重奏団は1929年に結成された。リーダーのアルフレッド・レヴェングート(1911年生まれ)はパリ音楽院でカペー弦楽四重奏団に在籍したことがあるアンドレ・トゥーレに師事した。その後室内楽をジャン・ロジェ=デュカス(1973-1954)について完成度を高めた。この録音は第2次世界大戦直後の録音で、フランスの香り高い名演をくりひろげている。 | ||
パンゼラ夫妻〜フォーレ: 優しい歌 Op.61 (*) /幻想の地平線 Op.113 (#) |
シャルル・パンゼラ(Br) マドレーヌ・ パンゼラ=バイヨー(P) | |
米 RCA VICTOR, 16303-07 (英 HMV, DB 5020-22 & DB 5009 と同一録音)。録音:1935年9月30日-10月1日(*)、1936年11月17日(#)、アルベール・スタジオ、パリ。シャルル・パンゼラ(1896-1976)はスイスのジュネーヴ生まれのバリトンで、1919年オペラ・コミックでマスネの歌劇「ウェルテル」のアルベール役でデビューした。パリ音楽院在学中に当時音楽院長だったガブリエル・フォーレとピアニストのマドレーヌ・バイヨーと出会い、フォーレは1921年8月に作曲した「幻想の地平線」(ジャン・ド・ラ・ミルモン詞)を贈られ、翌年の初演で大成功を収めた。バイヨーは生涯パンゼラの伴奏者をつとめただけではなく、結婚してパンゼラ夫人となった。パンゼラは生涯「幻想の地平線」を3度録音した。これはその最後の物。 | ||
パンゼラ&コルトー〜 シューマン:歌曲集「詩人の恋」 Op.48 |
シャルル・パンゼラ(Br) アルフレッド・コルトー(P) | |
仏 DISQUE GRAMOPHONE, DB 4987-79。録音:1935年6月17日-18日、パリ。シャルル・パンゼラ(1896-1976)はスイスのジュネーヴ生まれのバリトンで、1919年オペラ・コミックでマスネの歌劇「ウェルテル」のアルベール役でデビューした。マスネの「マノン」のレスコー役、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」役はあたり役として評判を呼んだ。パンゼラは芸術歌曲の分野でも、才能を発揮しフランス歌曲だけではなく、ドイツ歌曲をも得意とした。ピアノのアルフレッド・コルトー(1877-1962)は20世紀最高のフランスのピアニスト。1892年パリ音楽院のルイ・ディエメール(1843-1919)のクラスに入り1896年一等賞を得て卒業した。1917年にパリ音楽院教授、1919年にパリにエコール・ノルマル音楽学校を設立した。この「詩人の恋」は戦前からわが国でも評判をとった名盤で、「ダイレクト・トランスファー」の本領を発揮した高音質で聴ける。 | ||
シゲティ、1954 コロムビア・モノラル LP 録音集、稀少なヘンデルを含む J.S.バッハ/シュレック編曲:ヴァイオリン協奏曲 ト短調(*) 15 (原曲:クラヴィーア協奏曲第5番 ヘ短調 BWV.1056) ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第4番 ニ長調 Op.1 No.13 (#) 23 タルティーニ:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 D.45 (カデンツァ:シゲティ) (*) 13 / ヴァイオリン・ソナタ ト長調(#) 22 ヨーゼフ・シゲティ(Vn) ジョージ・セル指揮コロムビアso.(*) カルロ・ブソッティ(P;#) | ||
録音:1954年1月13日13、15日15、2月22日22、23日23、すべてコロムビア30丁目通りスタジオ、ニューヨーク、モノラル。原盤: COLUMBIA (US) 。シゲティのモノLPからの復刻。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリー生まれ、ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。1940年からアメリカに居を移し活躍、晩年はスイスで後進の指導にあたった。ジョージ・セル(1897-1970)はハンガリー出身。チェコ・フィル(1930-36)、メトロポリタン歌劇場(1942-46)、クリーヴランドo. (1946-70)の指揮者をつとめた。カルロ・ブソッティ(1922-2002)はイタリアのフィレンツェ生まれ。大戦後アメリカで活躍した。シゲティのヘンデルは1937年の SP 録音(ピアノ:マガロフ)はよく知られているが、この LP 録音は早期に廃盤になったためほとんど知られていなかった。 | ||
ジョー・スタッフォード〜ハッピー・ホリデイ(クリスマス・アルバム) ハッピー・ホリデイ/ウィンター・ウェザー/クリスマス・ソング/雪よ降れ降れ!/おもちゃの国/ おもちゃの行進/ジングル・ベル/ウィンター・ワンダーランド/クリスマス前夜のこと/ アイ・ワンダー・アズ・アイ・ワンダー/ベツレヘムの小さな町/聖しこの夜/ハッピー・ホリデイ ジョー・スタッフォード(Vo) スターライターズ(cho.) ティモシー・ウェストン(Vo) ポール・ウェストン楽団 | ||
米 COLUMBIA, CL 691 (Mono) 。録音:1955年。ジョー・スタッフォード(1917-2008)がアメリカ・コロンビアに録音したクリスマス・アルバム。曲はクリスマスのベル(鐘)でつながれているメドレー構成のためA,B面以外のトラックは入れていない。豪華な編成の編曲をバックに歌うジョーの声は輝きに満ちていて、聴く者の心を豊かにしてくれる。ウェストン家の長男ティム(当時3歳)の声も聞ける。ジョー・スタッフォード・ファンは必携盤。このシリーズで他にテネシー・ワルツ(78CDR-3280)、リパブリック讃歌(78CDR-3399)、JO+JAZZ (33CDR-3459)、ジョースタッフォード&ゴードン・マックレエ/クリスマス・ソング(78CDR-3468)が出ている。 | ||
ゴールドベルク、ヒンデミット、フォイアマン〜ヒンデミット:弦楽三重奏曲第2番(1933)
シモン・ゴールトベルク(Vn) パウル・ヒンデミット(Va) エマヌエル・フォイアマン(Vc) | ||
英 COLUMBIA LX 311/3。録音:1934年1月21日、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)はポーランド出身。ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)に師事し16歳でドレスデン・フィルのコンサート・マスターに就任した。20歳の時フルトヴェングラーの招きでBPOのコンサート・マスターになった。1930年にヴィオラ奏者で作曲家のパウル・ヒンデミット(1895-1963)とチェロのエマヌエル・フォイアマン(1902-1942)と弦楽三重奏団を結成した。これは既にこのシリーズで出ているベートーヴェン:セレナード作品8 (78CDR-3252)と共にこの三重奏団が残した貴重な録音。 | ||
レーヴェングートSQ 〜モーツァルト:弦楽四重奏曲第19番 ハ長調 K.465「不協和音」
レーヴェングートSQ [アルフレッド・レーヴェングート(Vn1) モーリス・フューリ(Vn2) ロジェ・ロシュ(Va) ピエール・バッスー(Vc)] | ||
仏 DISQUES GRAMOPHONE DB 11120/2。録音:1946年5月28日-29日、アルベール・スタジオ、パリ。レーヴェングート弦楽四重奏団は1929年に結成された。リーダーのアルフレッド・レーヴェングート(1911年生まれ)はパリ音楽院でカペー弦楽四重奏団に在籍したことがあるアンドレ・トゥーレに師事した。その後室内楽をジャン・ロジェ=デュカス(1973-1954)について完成度を高めた。この録音は第2次世界大戦直後の録音で、フランスの香り高い名演をくりひろげている。希少SPレコードからの復刻。 | ||
フルトヴェングラー 1937年「運命」&1950年「未完成」、独&墺盤 SP からの復刻 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」(*) シューベルト:交響曲第8番 ロ短調「未完成」(#) ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 BPO (*)、VPO (#) | ||
ソース:独 ELECTROLA DB 3328/32S (英 HMV DB 3328/32S と同一録音) (*) |墺 HMV DB 21131/3 (#) 。録音:1937年10月8日、11月3日、ベートーヴェンザール、ベルリン (*) /1950年1月19日-21日、ムジークフェライン大ホール、ウィーン(#)。 ご注意:ノイズカットや編集は一切行っていませんので、SP盤特有の針音等のノイズが入ります。盤面ごとのつなぎ編集も行っておりませんので、SP盤1面ごとに音楽再生が途切れます。#未完成はプレス盤 78CD-3001 が初登場となる復刻で、CD-R, DSD [DVD-R] 盤へは収録されておりません。 「運命」は大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)の英 HMV への初めての録音。録音はベルリンのベートーヴェンザールから電話線でエレクトローラの原盤カットルームに中継され、そこで原盤が作成された。フルトヴェングラーは 1926 年にもベルリン・フィルを指揮して独 GRAMMOPHON に同曲を録音していたが、音質に遜色があったブランズウィック社開発の光学式録音だったために早期に廃盤になっていた。「未完成」は第 2 次世界大戦後の1950 年にウィーン・フィルを指揮して HMV に録音したもの。録音方式は磁気テープ録音と思われる。SP レコード時代の最末期のものでたいへん珍しい。復刻に使用した原盤に起因する雑音が冒頭にある。 | ||
ワルツ・フォー・デビイ〜ビル・エヴァンズ・トリオ〔モノ録音〕 マイ・フーリッシュ・ハート/ワルツ・フォー・デビイ/デトゥーア・アヘッド/ マイ・ロマンス/サム・アザー・タイム/マイルストーンズ ビル・エヴァンズ(P) スコット・ラファロ(ベース) ポール・モチアン(Dr) | ||
米 RIVERSIDE RM 399 (Mono) 。録音:1961年6月25日、ヴィレッジ・ヴァンガード、ニューヨーク、ライヴ。ジャズの名録音「ワルツ・フォー・デビイ」のオリジナル Mono LPからの復刻。音の密度の点からステレオ盤よりモノ盤が優れていることは、聴いた人でなければ判らないが、ここに聴くスコット・ラファロのベースの音はそのことを証明している。ラファロはこの録音の11日後に交通事故で他界した。享年35歳だった。復刻にあたってはウェストレックス Model 10A カートリッジをモノ接続にしている。 | ||
テイク・ファイヴ〜デイヴ・ブルーベック・クァルテット テイク・ファイヴ/スリー・トゥ・ゲット・レディ/キャシーズ・ワルツ/ トルコ風ブルー・ロンド/ストレンジ・メドウ・ラーク デイヴ・ブルーベック・クァルテット[デイヴ・ブルーベック(P) ポール・デスモンド(アルトSax) ユージン・ライト(ベース) ジョー・モレロ(Dr)] | ||
日本コロムビア 45PX-3 (米 COLUMBIA CS 8192 から5曲抜粋)。録音:1959年6月25日、7月1日、8月18日。ジャズの名アルバム「タイム・アウト」(米 COLUMBIA CS 8192) が1967年7月に日本コロムビアから発売された 30cm 45回転 LP 45PX-3-C からの復刻。オリジナルLPから5曲を選び45回転盤にしたことでマスターテープの音を100%音ミゾに収めたと評判だったが、販売権が日本コロムビアからCBSソニーに移行したために幻のオーディオ・ファイル盤になってしまった。日本コロムビアの原盤カットはウェストレックス3Dカッターが使用された。復刻にあたっては白レーベルのテストプレス盤とウェストレックス Model 10A カートリッジを使用した。 | ||
E.クライバー〜チャイコフスキー: 交響曲第4番 ヘ短調 Op.36 |
エーリヒ・クライバー指揮 パリ音楽院o. | |
英 DECCA, AK2272/6 (ffrr録音)。録音:1949年6月4日-6日、サル・ド・ラ・ミュチュアリテ、パリ。エーリヒ・クライバー(1890-1956)はウィーン出身の20世紀前半を代表する指揮者の一人。指揮者のカルロス・クライバー(1930-2004)は息子。プラハ大学で歴史と哲学を学んだが、一方で指揮者への道を目指すようになった。プラハ音楽院で指揮法を学び、1911年に指揮者デビュー。1923年にベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任した。ナチスの台頭でベルリンの職を辞し、1935年に妻と当時5歳のカルロスらとアルゼンチンに移住した。1939年に市民権を取得し、ブエノスアイレスのテアトロ・コロンの首席指揮者に就任した。大戦後ヨーロッパに戻り、イギリス・デッカの専属となり各地の客演指揮者として活躍した。この録音はパリ音楽院o. を指揮したもので、フランスのオーケストラをこれほどみごとに統率しているのは類例がない。ffrr録音も冴えていてSP録音ならではの輝かしいサウンドが聴ける。大指揮者の隠れた名演。 | ||
カミラ・ウィックス〜 ファッテイン・ヴァーレン(1887-1952): ヴァイオリン協奏曲 Op.37 |
カミラ・ウィックス(Vn) エイフィン・フィエルスタート指揮 オスロpo. | |
ノルウェー HMV, DB 11908-09。録音:1949年。カミラ・ウィックス(1928-)はカリフォルニア州ロング・ビーチに生まれた。父親はノルウェー生まれの優れたヴァイオリニスト、教師で、母親は作曲家クサヴィエル・シャルヴェンンカに学んだピアニストだった。神童ぶりを発揮し7歳でモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番をロング・ビーチ市民公会堂で弾いてソロデビューした。その後ジュリアード音楽学校でルイ・パーシンガー(1887-1966)に師事した。卒業後有名指揮者と共演して名声をあげ、ヨーロッパ公演を行い特にスカンジナヴィア諸国で名前が知られるようになった。フィンランドの作曲家シベリウスが彼女を称賛し1952年にヴァイオリン協奏曲を CAPITOL レーベルに録音した。ウィックスは北欧の作曲家の作品擁護者で、ここではノルウェーの作曲家ヴァーレンの作品を取り上げている。指揮者のエイフィン・フィエルスタート(1903-1983)はオスロ生まれ、地元の音楽院とライプツィヒでヴァイオリンを専攻し、ベルリンでクレメンス・クラウス(1893-1954)に指揮法を学んだ。グリーグの「ペール・ギュント」組曲がデッカから出ていた。 | ||
ランパル&ヴェイロン=ラクロワ J.S.バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタ第5番 ホ短調 BWV.1034 (*) ルクレール:フルート・ソナタ ホ短調 / ルイ・クープラン/ラクロワ校訂:幻想曲 ジャン=ピエール・ランパル(Fl) ロベール・ヴェイロン=ラクロワ(Cemb) ジャン・ユショー(Vc;*) | ||
仏 BAM, 52/3 (*), 91/2 (無印) 。録音:1948年4月12日(*)、1950年2月7日(無印)、 共に パリ。フルートのジャン=ピエール・ランパル(1922-2000)はフランスのフルート奏者。マルセイユに生まれ父親に手ほどきをうけた。18歳で医科大学に進んだが、第2次世界大戦のさなかの1943年にパリ音楽院に入り、ガストン・クリュネルに師事しわずか5ヶ月で一等賞を得た。1946年ヴィシー歌劇場のメンバーになり、1947年ジュネーヴ国際コンクールで優勝しソロ活動を始めた。1956年にパリ・オペラ座の首席奏者となり1962退団後は世界最高のフルート奏者として君臨した。ロベール・ヴェイロン=ラクロワ(1922-1991)はフランスのチェンバロ奏者。パリ音楽院でイヴ・ナット(1890-1956)に師事した。ランパルとは40年間にわたって演奏活動をした。1967年から1988年まで母校で教鞭をとった。 | ||
ラファエル・ドルイアン〜シューベルト: 幻想曲 ハ長調 Op.159 D.934 / ヴァイオリン・ソナタ イ長調 Op.162「デュオ」 |
ラファエル・ドルイアン(Vn) ジョン・シムス(P) | |
米 MERCURY, MG 50120 (Mono) 。録音:1956年7月30日-31日、ファイン・スタジオ、ニューヨーク。ラファエル・ドルイアン(1922-2002)はロシア生まれのヴァイオリン奏者。幼少の頃両親はキューバのハバナの移り住んだ。ハバナ・フィルハーモニーの指揮者でヴァイオリニストだったアマデオ・ロルダン(1900-1939)に最初の手ほどきを受け、後にフィラデルフィアのカーティス音楽学校でエフレム・ジンバリスト(1889-1985)のもとで研鑽を積んだ。1947年ダラスso. の音楽監督だったアンタル・ドラティ(1906-1988)からコンサートマスターに指名され、1949年にドラティがミネソタso. に移った時一緒にコンサートマスターとして移籍した。1960年にジョージ・セル(1897-1970)に乞われクリーヴランドo. のコンサートマスターになり、セルの指揮でモーツァルトの交響協奏曲 K.364やセルのピアノでモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集の録音を残した。ピアノのジョン・シムスはカーティス音楽院出身。デイヴィッド・サパートン(1889-1970)とミエツィスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)に師事した。 | ||
ジャック・ゲステム&ラウル・ゴラ〜ヴァイオリン小品集 ショパン:別れの曲 / ドヴォルジャーク:ユモレスク / ブラームス:子守歌 ボッケリーニ:メヌエット / ヘンデル:ラルゴ / シューベルト:アヴェ・マリア マルティーニ:愛の喜び / シューマン:トロイメライ / メンデルスゾーン:春の歌 イラディエル:ラ・パロマ / ブラームス:ハンガリー舞曲第5番 ルービンシテイン:ヘ調のメロディ / リムスキー・コルサコフ:インドの歌 モーツァルト:メヌエット / グノー:アヴェ・マリア / シューベルト:セレナード グリーグ:ソルヴェイグの歌 / ショパン:ノクターン第2番 リュリ:メヌエット / ブラームス:ワルツ ジャック・ゲステム(Vn) ラウル・ゴラ(P) | ||
仏 PHILIPS, P 76161R & P 76172 (Mono)。録音:1958年、Paris 。ジャック・ゲステムはフランスのヴァイオリニスト。リヨンの音楽院で学んだ後、パリ音楽院で研鑽を積んだ。1970年から1980年にパレナン弦楽四重奏団の第2ヴァイオリンをつとめた。フランスのPHILIPSに25cmLP3枚のヴァイオリン小品集"REVERIES"(夢)を録音したほか、ADES社にミヨーの七重奏曲やストラヴィンスキーの弦楽四重奏のための三つの小品を録音していた。 | ||
メニューイン&ケントナー〜J.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ集 〔第1番 ロ短調 BWV1014 (*) /第2番 イ長調 BWV1015 (#) 〕 イェフディ・メニューイン(Vn) ルイス・ケントナー(P) | ||
英 HMV DB9607/8 (*)、英 HMV DB9638/9 (#)。録音:1951年1月22日、ロンドン、アビー・ロードEMI第3スタジオ。イェフディ・メニューイン(1916-1999)はニューヨーク生まれ。サンフランシスコに移り3歳からヴァイオリンを始めた。ジグムンド・アンカー、ルイ・パーシンガー(1872-1966)に師事した。1926年10歳の時アルフレッド・ヘルツ(1872-1942)指揮サンフランシスコso. とラロのスペイン交響曲でデビュー、神童として評判を呼んだ。その後パリでジュルジュ・エネスコ(1881-1955)、ベルリンでアドルフ・ブッシュ(1891-1952)の手ほどきを受けた。1928年には12歳で初レコード録音を行った。メニューインのJ.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第3番(ワンダ・ランドフスカ:チェンバロ)(78CDR-3238)がこのシリーズで出ている。 | ||
パスキエ兄弟〜モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲集 〔第1番 ト長調 K.423 /第2番 変ロ長調 K.424 〕 ジャン・パスキエ(Vn) ピエール・パスキエ(Va) | ||
仏 DISCOPHILES FRANCAIS 21-24。録音:1942年4月21日、パリ。パスキエ弦楽三重奏団の三兄弟の中のピエール・パスキエ(1902-1986)とジャン・パスキエ(1903-1992)のデュオによるモーツァルト。1927年に兄弟で弦楽三重奏団を結成した長兄のピエールはパリ音楽院でヴィオラをモーリス・ヴュー(1884-1951)に師事し一等賞を得た。パスキエ弦楽三重奏団によるモーツァルト:デヴェルティメント 変ホ長調 K.563がこのシリーズ(78CDR-3487)で出ている。 | ||
カサド&ハーティ〜シューベルト/カサド編曲: アルペジオーネ・ソナタ イ短調(管弦楽伴奏版) |
ガスパル・カサド(Vc) ハミルトン・ハーティ指揮o. | |
英 COLUMBIA LX-1/3。録音:1929年3月5日、ロンドン。ガスパル・カサド(1897-1966)は20世紀前半に活躍したチェロ奏者。スペインのバルセロナにに生まれ、7歳でチェロを始め、9歳で公開演奏会で弾いた。その時聴衆の中にパブロ・カザルス(1876-1953)がいた縁で、カザルスの指導を受けるようになった。演奏家としての活動は第1次世界大戦中にはじまった。1959年に日本人ピアニスト原智恵子(1914-2001)と結婚し話題になった。このシューベルトのアルペジオーネ・ソナタをカサドがオーケストラ版に編曲したユニークな作品。原楽譜は智恵子夫人により玉川大学教育博物館の寄贈された。指揮者のハミルトン・ハーティ(1879-1941)はアイルランド出身。教会のオルガン奏者だった父親の指導を受け12歳で教会のオルガニストになった。1901年ロンドンに出て大アーティスト達のピアノ伴奏者をつとめ、1920年にハレo. の指揮者となり1933年までつとめた。ハーティは1925年に叙勲され、作曲家、編曲者としても活躍した。 | ||
エウィット管〜J.S.バッハ:管弦楽組曲 全集 Vol.2 (#) 〔第3番 ニ長調 BWV.1068 /第4番 ニ長調 BWV.1069 〕 エヴィットo. | ||
エウィット管 + ランパル〜J.S.バッハ:管弦楽組曲 全集 Vol.1 (*) 〔第1番 ハ長調 BWV.1066 /第2番 ロ短調 BWV.1067 〕 ジャン=ピエール・ランパル(Fl) エヴィットo. | ||
以上 2点、仏 DISCOPHILES FRANCAIS DF 22 (*), DF 23 (#) 。録音:1952年、パリ。ジャン=ピエール・ランパル(1922-2000)はフランスのフルート奏者。マルセイユに生まれ父親に手ほどきをうけた。18歳で医科大学に進んだが、第2次世界大戦のさなかの1943年にパリ音楽院に入り、ガストン・クリュネルに師事しわずか5ヶ月で一等賞を得た。1946年ヴィシー歌劇場のメンバーになり、1947年ジュネーヴ国際コンクールで優勝しソロ活動を始めた。1956年にパリ・オペラ座の首席奏者となり1962退団後は世界最高のフルート奏者として君臨した。モーリス・エヴィット(1884-1971)はカペー弦楽四重奏団の第2ヴァイオリンをつとめた人。パリ音楽院の室内楽科を卒業後1904年にトゥーレ四重奏団に入り、さらにサイレ四重奏団、ドルソン四重奏団のメンバーを経て、1909年にカペー弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者として入団、1914年から1919年の5年間を除き1928年まで在籍した。1928年リーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)の急死でエヴィット四重奏団(1928-30)の名前で引き継いだ。その後アメリカに渡りクリーヴランド四重奏団を結成した(1930-34)。フランスに戻り新エヴィット四重奏団(1935-39、1946-49)を作った。エヴィットは1934年にフォンテーヌブローのアメリカ音楽院の室内楽科教授に就任、1942年から55年にはパリ音楽院の室内楽科の教授もつとめた。1939年にエヴィット室内o. をつくりコンサートやレコーディングで活躍した。 | ||
ミルシテイン〜J.S.バッハ:伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.2 パルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004 /ソナタ第3番 ハ長調 BWV.1005 /パルティータ第3番 ホ長調 BWV.1006 ナタン・ミルシテイン(Vn) | ||
ミルシテイン〜J.S.バッハ:伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.1 ソナタ第1番 ト短調 BWV.1001 /パルティータ第1番 ロ短調 BWV.1002 /ソナタ第2番 イ短調 BWV.1003 ナタン・ミルシテイン(Vn) | ||
以上2点とも、ソース: 米 CAPITOL, PCR-8370。録音:1954年3月26日、31日、キャピトル・スタジオA、46丁目、ニューヨーク。ナタン・ミルシテイン(1904-1992)はロシアのオデッサに生まれ、11歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学、名教師レオポルド・アウアー(1845-1930)に師事した。1929年にアメリカにデビュー、1942にアメリカの市民権を得た。ミルシテインは1935年、アメリカ・コロンビアのSPレコードに「無伴奏パルティータ第2番」(78CDR-3080)を録音していた、 LP 時代になってからのソナタとパルティータ全6曲の第一回目の録音。このシリーズでは全6曲の LP 録音は1948年のジョルジュ・エネスコ(33CDR-3384/5)、1949年録音のアレクサンダー・シュナイダー(33CDR-3307/8)、1952年録音の彎曲弓を使ったロルフ・シュレーダー(33CDR-3412/3)、1955年録音のヘンリク・シェリングの第一回録音(33CDR-3464/5)、1955-6年録音のヨーゼフ・シゲティ(33CDR-3484/5)が出ていてる。聴き較べに興味をそそられる。 | ||
クライスラー未発表録音集、彼のピアノ演奏あり ラヴェル:ハバネラ形式の小曲[録音:1929年12月16日] / クライスラー:ハバネラ[録音:1928年11月30日] チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35〜カンツォネッタ(*)[録音:1924年1月24日] ドヴォルジャーク:ユモレスク(#)[録音:1914年3月31日] フリッツ・クライスラー(Vn;#以外/P;#) カール・ラムソン(P;#以外) | ||
ソース: 米 VICTOR テスト・プレス(白レーベル)。フリッツ・クライスラー(1875-1962)がRCA VICTORに録音した未発売演奏を集めた物。録音年代はさまざまで1928年と1929年は電気録音、他の2曲はラッパ吹き込み。珍しいのは「ユモレスク」でクライスラーがピアノを弾いている。ファンは必聴。 | ||
フランチェスカッティ + オーマンディ、SP 復刻〜 ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61 (カデンツァ:クライスラー) |
ジノ・ フランチェスカッティ(Vn) ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィアo. | |
ソース: 米 COLUMBIA 13140/44-D (Set: MM 985) 。録音:1950年11月5日、フィラデルフィア、アカデミー・オブ・ミュージック。『この演奏は LP 時代に行われたため SP レコードの存在がほとんど知られていなかった。』との事。ジノ・フランチェスカッィ(1902-1991)はフランスの名ヴァイオリニスト。マルセイユに生まれ、ヴァイオリニストの父親とその門下生だった母親の手ほどきを受けて研鑽を積み、5歳でリサイタルを開き10歳でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を公開演奏した。一時法律家を志したが父親の早逝でヴァイオリニストになる決意をし、1924年にパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番でパリ・デビュー、その後ジャック・ティボー(1880-1953)の薫陶を得た。1939年アメリカにデビュー、そのままニューヨークに定住した。指揮者のユージン・オーマンディ(1899-1985)はブダペスト生まれ。ブダペスト音楽院で名ヴァイオリニスト、イェネ・フバイ(1858-1937)に師事した。ヴァイオリニストとして活動を始めたが、その後指揮者に転向し、1938年、レオポルド・ストコフスキー(1882-1977)の後任としてフィラデルフィアo. の音楽監督に就任した。クライスラー=ブレッヒのこの曲(78CDR-3090)に比肩する名演で、LPでは聴けなかった輝かしいヴァイオリンは見事。 | ||
メニューイン + フルトヴェングラー、SP 復刻〜ブラームス: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77(カデンツァ:クライスラー) イェフディ・メニューイン(Vn) ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ルツェルン祝祭o. | ||
ソース:英 HMV DB 9444S/8 [DB 94448/S?] 。録音:1949年8月29日-31日、ルツェルン、クンストハウス。『この演奏は LP でも発売されていたため SP レコードの存在がほとんど知られていなかったが、今回の復刻で SP レコードならではの感動的な音楽が蘇った。』との事。大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)は1945年のドイツ敗戦後、戦時中のナチス協力を疑われ、1947年4月まで演奏活動が禁止されたが、1947年8月にルツェルン音楽祭に登場した。以降亡くなる1954年まで毎年来演した。ソリストのイェフディ・メニューイン(1916-1999)はフルトヴェングラーのナチス協力疑惑を晴らす証言で、大指揮者の弁護にあたった。このシリーズで同じ顔合わせのベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(1947年録音)が出ている(78CDR-3136)。 | ||
ベーム& VPO 1947 〜モーツァルト: 交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」/ 歌劇「劇場支配人」序曲 K.486 |
カール・ベーム指揮 VPO | |
ソース:英 HMV, C 3884-87。録音:1947年3月15日、ウィーン。カール・ベーム(1894-1981)はオーストリアの指揮者。生地のグラーツ大学で法律博士の学位を得る一方、フランツ・シャルクの紹介でブラームスの親友だったオイゼビウス・メンディチェフスキに個人教授で音楽を学んだ。1917年グラーツ市立歌劇場でデビュー、1920年に主任指揮者になった。1921年、ブルーノ・ワルターの招きでバイエルン国立歌劇場に迎えられた。1927年ダルムシュタット市立歌劇場音楽監督、1931年にハンブルク国立歌劇場音楽監督、1934にドレスデン国立歌劇場総監督に就任。さらに大戦中の1943年ウィーン国立歌劇場の総監督に就任した。1945年ドイツ・オーストリアの敗戦により連合軍から演奏活動禁止命令を受けたが、1947年に解除された。その解除直後にHMVがVPOを起用して録音したのが、この「ジュピター」。 | ||
ビーチャム& LPO 1937 〜モーツァルト: 交響曲第40番 ト短調 K.550 |
トーマス・ビーチャム指揮 LPO | |
ソース:米 COLUMBIA, 69103-05-D (英 COLUMBIA, LX 656-58 と同一録音)。録音:1937年2月4日、9月2日、7日、ロンドン。サー・トーマス・ビーチャム(1879-1961)はイギリスの指揮者。裕福な家庭に生まれ音楽はほとんど独学だった。1910年家族の財産を背景にコヴェント・ガーデンのメネージメント権を得て、ワーグナーの「ニュルンベルクの名歌手」、R.シュトラウスの「エレクトラ」と「サロメ」の英国初演を自らの指揮で行った。1932年にLPOを組織、また戦後の1947年にはロイヤルpo /を組織した。ビーチャムの指揮するモーツァルトはSPレコード時代最も権威のあるものとして欧米では受け入れられた。このシリーズでも多くの協奏曲を指揮しているが、交響曲は初登場。録音はビーチャムがモーツァルトの「魔笛」をベルリンで指揮した時期にあたる。 | ||
ワルター& BBC 1934 〜モーツァルト: 交響曲第39番 変ホ長調 K.543 |
ブルーノ・ワルター指揮 BBCso. | |
ソース:英 HMV, DB 2258-60。録音:1934年5月21日-22日、ロンドン。ブルーノ・ワルター(1876-1962)は生涯に交響曲第39番 K.543を3回正規録音したが、これは最初の物。ドイツ出身の大指揮者ワルターはベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1896年ハンブルク歌劇場で、当時音楽監督だったグースタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo /の楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されと迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。この録音はワルターがVPOとレコード・デビューする(1934年10月)する直前イギリスのBBCso. を指揮した物。同時にブラームス交響曲第4番も録音された。SP レコードだが演奏は連続して途切れなく、2台の録音機を交互に回して収録されたことがわかる。上記のブラームスも同様。おそらくBBCso.の公開演奏会を収録したものと思われる。SPレコード一面ごとに演奏をストップする事がないため指揮者は何のプレッシャーもなく演奏に没頭している様が窺える名演奏。ここでは SP レコードの各面は収録通りで編集していない。 | ||
アンセルメ& SRO 1947 〜モーツァルト: 交響曲第38番 ニ長調 K.504「プラハ」 |
エルネスト・アンセルメ指揮 スイス・ロマンドo. | |
ソース:英 DECCA, AK 1812-14 (ffrr 録音)。録音:1947年7月4日、ジュネーヴ放送局スタジオ。エルネスト・アンセルメ(1883-1969)はスイスのヴヴェイ生まれ。数学者を志したが、1910年指揮者としてデビュー、1915年にジュネーヴso /の指揮者になり、1923年までディアギレフが率いるロシア・バレエ団の指揮者を務めた。1918年にジュネーヴにスイス・ロマンドo /を設立、1967年まで首席指揮者の地位にあった。アンセルメは近代フランス音楽、ロシア音楽の解釈者として名声をあげ、特にドビュッシーやストラヴィンスキーの作品を得意とした。アンセルメはイギリス・デッカのアーティストとして有名だが、デッカ創立以前にオデオン社の SP レコードにモーツァルトの交響曲第40番と第41番「ジュピター」(オーケストラはいずれもスイス・ロマンドo.)を録音していた。デッカ時代にアンセルメが録音したモーツァルトは、この交響曲第38番「プラハ」のSP録音だけだった。明晰で透き通るようなモーツァルトは他の指揮者では聴けない貴重な演奏。 | ||
ブレッヒ&ベルリン国立歌劇場管〜 モーツァルト:交響曲第34番 ハ長調 K.338 |
レオ・ブレッヒ指揮 ベルリン国立歌劇場o. | |
ソース:日 VICTOR, JD 157-58 (独 ELECTROLA, EJ 607-08 と同一録音)。録音:1930年9月30日、ベルリン。レオ・ブレッヒ(1971-1958)はドイツのユダヤ系指揮者。ベルリン高等音楽院でピアノと作曲を修めた後、1893年にアーヘン市立歌劇場の指揮者の地位についた。1899年にプラハ・ドイツ歌劇場に転出、オイゲン・ダルベールの歌劇「低地」を初演した。1906年にベルリン宮廷歌劇場(現ベルリン国立歌劇場)の指揮者に任命され、1913年に総監督に昇進、以降シャルロッテンブルク歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ)、ベルリン・フォルクスオーパー、ウィーン・フォルクスオーパーの指揮者を歴任。その後ベルリン国立歌劇場に復帰し、1937年までに2846回の公演を指揮した。1937にラトヴィアのリガ国立歌劇場の音楽監督に転出、1940年にラトヴィアがソヴィエト連邦に占拠されると、モスクワやレニングラードに客演して大成功を収め、モスクワ音楽院の院長の地位を要請された。ブレッヒはこれを断りリガに戻ったが、1941年にドイツ軍がリガに侵攻したとき、親しかったナチスの文芸部員の仲介で秘密裡にスウェーデンに亡命、かねてから要請されていたストックホルム王立歌劇場の楽長に就任した。戦後の1949年ドイツに帰国、シャルロッテンブルク歌劇場の音楽総監督に就任した。ブレッヒは1926-7年にフリッツ・クライスラー(1875-1962)と競演したベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の録音で名前が知られているが、その波瀾の生涯はほとんど知られていなかった。 | ||
フルニエ + クーベリック〜ハイドン: チェロ協奏曲 ニ長調 Op.101 Hob.VIIb: 2 (カデンツァ:フルニエ) |
ピエール・フルニエ(Vc) ラファエル・クーベリック指揮 フィルハーモニアo. | |
ソース: 蘭 HMV, DB 9743-45 。録音:1951年5月26日、アビー・ロード、EMI第1スタジオ、ロンドン。ピエール・フルニエ(1906-1986)はパリ生まれのチェリスト。最初ピアノを習ったが9歳のとき小児麻痺による右足障害のためチェロに転向した。1923年パリ音楽院で一等賞を得て楽壇にデビュー、ヴァイオリンのガブリエル・ブイヨン、ピアノのヴラド・ペルルミュテルとのトリオで注目された。1937年エコール・ノルマル教授、1941から1949年までパリ音楽院教授をつとめた。1942年にヴァイオリンのシゲティ、ピアノのシュナーベルとのピアノ・トリオ、ヴィオラのプリムローズを加えてピアノ四重奏で活動、さらに1945年にはカザルスの抜けたカザルス・トリオに加わり、ヴァイオリンのティボー、ピアノのコルトーと演奏活動した。1954年に初来日。その後何度も日本を訪れた。指揮者のラファエル・クーベリック(1914-1996)はチェコの大ヴァイオリニスト、ヤン・クベリーク(1880-1940)の長男として生まれた。1942年チェコ・フィルの首席指揮者になったが、1948年イギリスに亡命した。1951年シカゴso. の音楽監督に就任した。HMV盤特有のノイズと原盤のキズがあるが、フルニエの典雅な芸術は他に代えがたい。 | ||
イゾルデ・メンゲス〜ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第4番 ニ長調 Op.1 No.13
イゾルデ・メンゲス(Vn) ピアノ伴奏〔アイリーン・ビーティ(P)〕 | ||
ソース: 英 HMV, E 279-80 。録音:1921年11月21日、1922年1月11日、イギリス、機械式録音盤〔電気式以前〕。この曲の世界初録音。イゾルデ・メンゲス(1892-1976)は20世紀の前半に活躍したイギリスのヴァイオリン奏者。1910年17歳で名ヴァイオリン教授レオポルド・アウアー(1845-1930)に師事するためにロシアのザンクトペテルブルクに向かった。アウアーの元には3年間逗留し教授の最もお気に入りの弟子になった。1913年20歳でロンドンにデビューした。その時のプログラムはチャイコフスキーの協奏曲、ラロのスペイン交響曲に加えて、ベートーヴェンとブラームスのヴァイオリン協奏曲の縮小版だった。1916年から1919年には北米公演を行いアメリカのメジャー・オーケストラのほとんどと共演し名声を高めた。レコード録音は機械式録音時代に、世界最初の録音になるベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲、バッハの「シャコンヌ」、電気録音初期のベートーヴェン:「クロイツェル・ソナタ」、ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第2番及び第3番がHMVにあった。 | ||
エレナ・ゲルハルト、ブラームス、シューベルト、ヴォルフを歌う ブラームス:ジプシーの歌/死は冷たい夜(ハイネ詩)/恋人をたずねて(ボヘミア民謡詞)/テレーゼ(ケラー詩) シューベルト:「白鳥の歌」〜街(ハイネ詩)/バッカス讃歌(シラー詩)/ 子守歌(ザイドル詩)/エレンの歌第2(スコット詩) ヴォルフ(ハイゼ詩):月は嘆きながら神様に/イタリア歌曲集〜第17番「恋人の死を見たいなら」 エレナ・ゲルハルト(Ms) ジェラルド・ムーア(P) | ||
ソース:英 HMV, GR 16-21 (プライヴェート録音/未市販盤)。録音:1939年10月-11月、アビー・ロード EMI 第3スタジオ、ロンドン。ドイツが生んだ大リート歌手エレナ・ゲルハルト(1883-1961)が第2次世界大戦勃発期に、自費で録音したプライヴェート盤の復刻。録音当時ゲルハルトは祖国ドイツを捨ててイギリス国籍を得た直後だった。ゲルハルトは1902年ライプツィヒ音楽院の学生で、学長に就任したアルトゥール・ニキシュ(1855-1922)が彼女がライプツィヒの公衆の前で歌うことを認めた。1903年音楽院を卒業すると多くの演奏会契約が待っていた。レコード録音は1907年、ニキシュのピアノで10インチ盤x7枚、12インチ盤x1枚からはじまった。以降レコード録音は機械式録音時代、電気録音時代と多数ある。そのすべてがリートでオペラは歌っていない。ゲルハルトの正規録音は1932年のフーゴ・ヴォルフ協会第1巻の12インチ盤x9枚(19曲)が最後になった。それから7年後の1939年にこの10インチ盤x6枚組のアルバムを、さらに大戦後の1947-1948年に「シューマン:女の愛と生涯」(12インチ盤3枚組)を同様のプライヴェート盤として制作し、自身の知人やファンに配り、販売はされなかった。HMV の白レーベルでアルバムの表紙裏には自筆署名のシールが貼られていた。ピアノのジェラルド・ムーアの起用もあって、56歳のゲルハルトは素晴らしい歌唱を披露している。HMV 盤特有のノイズと共に原盤のキズがあるが、声もピアノもゲルハルトの録音中最高。 | ||
古澤淑子&A.コラール〜ドビュッシー:歌曲集 ビリティスの三つの歌(P.ルイス詩)〔パンの笛/髪/ナイアードの墓〕/ 忘れられた小歌(ヴェルレーヌ詩)〔やるせない夢ごこち/巷に雨の降るごとく/木陰にて〕 古澤淑子(S) アンドレ・コラール(P) | ||
ソース: 仏 デュクレテ・トムソン, LLP 8718 (17cm LP) 。録音:1952年、パリ。ソプラノの古澤淑子は1916年満州の大連に生まれた。ソプラノの荻野綾子に師事して本格的声楽を習い、1937年にパリに留学した。パリでは大歌手でパリ音楽院教授だったクレール・クロワザ(1882-1946)ついて研鑽を積んだ。彼女は大戦勃発で帰国勧告をうけたが、パリに留まった。1944年ついに敵国人としてフランスを強制退去を命じられドイツを経てスイスに移り終戦を迎えた。戦後はスイス、フランスで活躍し1952年に帰国した。帰国後はフランス歌曲を紹介する「フランス歌曲研究会」主宰した他、後進の指導にも力をそそいだ。1975年に再びパリに移住し晩年をその地で過ごした。この録音は1952年の帰国直前にパリで録音された。17cmLPという短時間収録だが、SP 時代に活躍したクロワザやジャーヌ・バトリ(1877-1970)の名唱と比肩する優れたフランスの香り高い歌唱がきける。フランスのレコード会社がフランス歌曲の録音に日本人の古澤淑子を起用したことは、いかに彼女が高い芸術境地に達していたかの証。一部使用原盤に起因する音のヒズミと雑音がある。 | ||
ギトリス28歳のデビュー録音〜パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 Op.6
イヴリー・ギトリス(Vn) クルト・ヴェス指揮オーストリアso. | ||
ソース: 米 REMINGTON, RLP-149-20。録音:1950年9月26日-28日、ウィーン。ギトリス28歳のデビュー録音! イヴリー・ギトリス(1922-)はイスラエルのハイファに生まれた。両親はユダヤ系ロシア人。5歳からヴァイオリンを始め、10歳で最初のコンサートを開いた。大ヴァイオリニスト、ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)がギトリスの演奏を聴いてパリ音楽院に入学をすすめた。音楽院では教授のジュール・ブーシュリ(1877-1962)とマルセル・シャイエ(1881-1936)に師事して13歳で一等賞を得た。卒業後ジョルジェ・エネスクやジャック・ティボーにも指導をうけた。1939年、第2次大戦の勃発でイギリスに渡り、軍需工場で勤務していたが、後に軍の慰問部隊でヴァイオリンを弾いた。1951年にパリでソロ・デビューした。これは米レミントン社最初期の10インチLPに録音されたギトリスの初ソロ・アルバム。指揮者のクルト・ヴェス(1914-1987)はオーストリアの指揮者。1946年-1951年までウィーン・トーンキュンストラーo. の首席指揮者を、1951年-1954年までNHKso. の首席指揮者をつとめた。この録音のオーストリアso. の実体はウィーン・トーンキュンストラーo. だと思われる。ギトリスは90歳を越した2014年現在でも精力的に活動を続け、定期的に来日公演をしている。その記念すべき初録音がこのシリーズに加わる意義は大きい。 | ||
アルフレッド・デュボワ ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調 ラッベ:アリア=シャッス=メヌエット |
アルフレッド・デュボワ(Vn) マルセル・マース(P) | |
ソース:日 COLUMBIA, JW26/7 (ベルギー COLUMBIA, DFX198/9 と同一録音)。録音:1934年9月25日、ベルギー。アルフレッド・デュボワ(1898-1948)はアルテュール・グリュミオー(1921-1975)の師として知られている。ブリュッセル音楽院出身のデュボワは卒業後ウジェーヌ・イザイ(1858-1931)にも師事し、1920年にヴュータン賞を得た。1927年に母校のブリュッセル音楽院教授に就任し、一方ソリストとしても活躍した。ピアニスト、マルセル・マースとのデュオは評判をとった。このシリーズでデュオではフランク:ヴァイオリン・ソナタ(78CDR-3201)、バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第4番、第5番、第6番(78CDR-3451)が、協奏曲ではヴュータン:ヴァイオリン協奏曲第5番(78CDR-3013)とモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第6番 K.268 (78CDR-3054)が出ている。この第4面に収録されたラッベ(1727-1803)はフランスの作曲家でヴァイオリニスト。正確には「ジョセフ=バルナベ・サン=セヴァン・ディト・ラッベ2世 [Joseph-Barnabé Saint-Sevin dit L'Abbé le fils] 」と言い、忘れられた音楽家。 | ||
ヴィテク夫妻〜J.S.バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV.1043
アルマ・ローゼン=ヴィテク、アントン・ヴィテク(Vn) バイロイト祝祭劇場弦楽o. | ||
日 COLUMBIA, J 7435/6 (英 COLUMBIA, 9681/2 と同一録音)。録音:1928年7月、バイロイト祝祭劇場。アントン・ヴィテク(1872-1933)はオーストリアのザーツ生まれ。プラハ音楽院でアントニーン・ベネヴィッツ(1833-1926)に師事した。ベネヴィッツの弟子にはフランツ・レハール(1870-1948)やヨセフ・スーク(1874-1935)等がいる。ヴィテクは1884年から1909年までBPOのコンサート・マスターを務め、1903年には夫人でピアニストのアヴィータ・ヴィテク、後にボストンso /の首席チェロ奏者になったジョセフ・マルキンとピアノ三重奏団を結成した。ウィテクはその後ボストンに移住し、1910年10月に当時の首席指揮者だったマックス・フィドラー(1859-1939)の下でコンサート・マスターに就任した。1918年にオーケストラを退団し、ソリスト、教師として活躍した。この録音は後妻のアルマ・ローゼンとの共演。1928年バイロイト祝祭劇場にて楽劇「トリスタンとイゾルデ」(カール・エルメンドルフ指揮)の際に英コロンビアの録音スタッフによって録音された物。 | ||
フックス&バルサム〜ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全集 Vol.3 〔第8番 ト長調 Op.30 No.3 /第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」/第10番 ト長調 Op.96 〕 ジョセフ・フックス(Vn) アルトゥール・バルサム(P) | ||
フックス&バルサム〜ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全集 Vol.2 〔第5番 ヘ長調 Op.24「春」/第6番 イ長調 Op.30 No.1 /第7番 ハ短調 Op.30 No.2 〕 ジョセフ・フックス(Vn) アルトゥール・バルサム(P) | ||
フックス&バルサム〜ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全集 Vol.1 〔第1番 ニ長調 Op.12 No.1 /第2番 イ長調 Op.12 No.2 /第3番 変ホ長調 Op.12 No.3 /第4番 イ短調 Op.23 〕 ジョセフ・フックス(Vn) アルトゥール・バルサム(P) | ||
以上3点とも、ソース:米 DECCA, DX150 (Set) 。録音:1952年4月-6月、ピシアン・テンプル、ニューヨーク。ジョセフ・フックス(1899-1997)はニューヨーク生まれ、ジュリアード音楽院の前進であるニューヨーク・インスティテュート・オブ・ミュージカル・アートでルーマニア出身のヴァイオリニストで弦楽四重奏団のリーダー、フランツ・クナイゼル(1865-1926)に師事した。フックスはクリーヴランドo /のコンサート・マスターを1926-1940年までつとめ、その後ソリストとして活躍、1953-54年にはプラドのカザルス音楽祭にも参加した。1946年にジュリアード音楽院のヴァイオリン科教授に就任、没年まで50年以上その地位にあった。ピアニストのアルトュール・バルサム(1906-1994)はポーランド生まれ。ベルリン高等音楽院でアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)に師事し、1930年にメンデルスゾーン賞を得た。1932年にヴァイオリンのイェフディ・メニューインとアメリカ公演を行い、ナチの台頭でアメリカに移住した。バルサムは名伴奏者であると共にソリストとしても活躍。モーツァルトのピアノ曲全集、ハイドンのピアノ曲全集などを残した。後年はイーストマン音楽院、ボストン大学、マンハッタン音楽院で指導にあたり、エマニュエル・アックス、マレイ・ペライア等を輩出した。 | ||
浅野千鶴子〜ドビュッシー: 忘れられた小歌/やるせない夢ごこち/ 巷に雨の降るごとく/木陰にて/木馬/緑/憂鬱 |
浅野千鶴子(S) 野邊地瓜丸(P) | |
ソース: 日 COLUMBIA, B 177/9。録音:1950年。浅野千鶴子(1904-1991)は東京音楽学校で永井郁子に師事し、ネトケ=レーヴェ、長坂好子の指導も受けた。1927年在学中に師の永井郁子と二重唱で「庭の千草」をニッポノフォン(日本コロムビアの前身)に録音した。1930年にデビュー、1937年から4年間イタリアに留学した。イタリア歌曲を得意としたが、それ以上にフランス歌曲を得意とし、東京音楽学校で教えるかたわらその普及に努めた。この当時フランス歌曲を原語で録音したことは画期的なことだったが、当時の日本のクラシック・ファンがジャーヌ・バトリ(1877-1970)やクレール・クロワザ(1882-1946)、ニノン・ヴァラン(1886-1961)のSPレコードでフランス歌曲に親しんでいた傍証とも言える。このシリーズにあるクロワザ(78CDR-3341)、ヴァラン(78CDR-3299)と聴きくらべてほしい。浅野千鶴子と野邊地瓜丸がいかに優れたフランス音楽の演奏者だったかがわかる。 | ||
パスキエ弦楽三重奏団〜モーツァルト: ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 |
パスキエ弦楽三重奏団 [ジャン・パスキエ(Vn) ピエール・パスキエ(Va) エティエンヌ・パスキエ(Vc)] | |
ソース: 仏 PATHE, PAT 33/4, PAT 40/42。録音:1935年6月26日-27日、パリ。1927年パスキエ三兄弟によって結成された弦楽三重奏団。数多くのフランスの作曲家がこの三重奏団のために作品を書いた。代表作はジャン・フランセ:弦楽三重奏曲(1934)、ボフスラフ・マルティヌー:弦楽三重奏曲(1935)、アンドレ・ジョリヴェ:弦楽三重奏曲(1938)、ダリユス・ミヨー:弦楽三重奏曲(1947)、フロラン・シュミット:弦楽三重奏曲(1944)、ガブリエル・ピエルネ:弦楽三重奏曲「ジャン=ピエール=エティエンヌ」がある。またマルグリット・ロンやジャン=ピエール・ランパル等の著名なソリストと多く共演した。1974年に解散したが、1970年にピエールの二人の息子ブルーノとレジ、チェロのロラン・ピドゥによって新パスキエ三重奏団が出来た。この録音はSP時代に日本コロムビアから発売されていて、名演と評価が高かった。 | ||
巌本真理〜ルクー: ヴァイオリン・ソナタ ト長調 |
巌本真理(Vn) 野邊地瓜丸(P) | |
ソース: 日 COLUMBIA, G 33/6 。録音:1949年頃。巌本真理(1926-1979)は東京生まれ。6歳からヴァイオリンを始め、優れた教師であった小野アンナ(1898-1979)に師事した。1937年12歳の時、第6回日本音楽コンクールで第1位。1939年にデビュー・リサイタルを開いた。1946年から5年間東京音楽学校教授を務めた後1951年に渡米、ジュリアード音楽院でルイ・パーシンガー(1887-1967)、ジョルジュ・エネスコ(1881-1955)に師事し、ニューヨークのタウンホールでリサイタルを開いた。帰国後ソロ奏者として活躍する一方、1964年に巌本真理弦楽四重奏団を結成し活躍した。ピアノの野邊地 瓜丸(1910-1966) (1954年 野邊地 勝久に改名)は1925年15歳でパリに留学、エコル・ノルマルでラザール・レヴィ(1882-1964)に師事し、アルフレッド・コルトー(1877-1963)にも多大な影響を受けた。帰国後ソリストとして活躍、ショパンやフランスの作品を得意とした。1950年代に巌本真理とのリサイタルを多く開いた。この録音は大戦後間もなくの録音で、同時期に巌本真理はJ.S.バッハの「シャコンヌ」(78CDR-3200)も録音していた。戦後の物資が不足していた時代のSPレコードで、雑音が著しく多いが、この二人の名演は雑音を打ち破って聴き手を感動させる。 | ||
シゲティ〜J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.2 パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004 (*) /ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005 (#) /パルティータ第3番 ホ長調 BWV1006 (+) ヨーゼフ・シゲティ(Vn) | ||
ソース: 米 BACH GUILD (VANGUARD), BG-628B/29 (Set: BC-627/9) 。録音:1955年10月18日-20日(*)、1956年2月9日&3月1日(#)、1956年3月2日(+)、コロムビア30丁目スタジオ、ニューヨーク。 | ||
シゲティ〜J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.1 ソナタ第1番 ト短調 BWV1001 (*) /パルティータ第1番 ロ短調 BWV1002 (#) /ソナタ第2番 イ短調 BWV1003 (+) ヨーゼフ・シゲティ(Vn) | ||
ソース: 米 BACH GUILD (VANGUARD), BG-627/28A (Set: BC-627/9) 。録音:1955年10月17日-18日(*)、10月6日-7日(#)、1956年3月1日(+)、コロムビア30丁目スタジオ、ニューヨーク。レコード史上に輝くシゲティのJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲録音。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリー生まれ。ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。1905年にベルリンで大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)に認められ、1917年から24年スイスのジュネーヴ音楽院で教え、1940年にアメリカに移住した。この全曲録音以前、SP レコード時代のシゲティは、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調(78CDR-3225)と無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調(78CDR-3041)を録音していた。 | ||
ザイトラー=ヴィンクラーの「運命」 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」 |
ブルーノ・ ザイトラー=ヴィンクラー指揮 ベルリン新so. | |
ソース:独 POLYDOR, 69638-41。録音:1923年、春、ベルリン。#機械式録音盤(電気式録音以前)の復刻音源。電気を使用しない機械式録音時代最後期の録音。指揮者のブルーノ・ザイトラー=ヴィンクラー(1880-1960)はベルリン生まれ、ピアノの神童と言われた。1907年にポリドールに入社、録音プロデューサーに加えて作曲、編曲、オーケストラ指揮、ピアノ伴奏のすべてをこなした多才な音楽家。この「運命」交響曲や交響曲第9番「合唱」を機械式録音時代にプロデューサー自らが指揮をしてレコードを残した。1935年にエレクトーラ社に移り、指揮者、ピアニスト、プロデュサーとして多くの名演を残している。その中で1937年に録音されたモーツァルト:歌劇「魔笛」の世界初録音では指揮者のトーマス・ビーチャムを補佐し、ビーチャムがイギリス本国に帰国中に指揮棒をとって一部録音したと伝えられる。またこのシリーズにあるジネット・ヌヴーの1938年録音の小品集(78CDR-3148)ではピアニストも務めている。この、復刻から約90年前のドイツでのベートーヴェン演奏の響きに耳を傾けていただきたい。 | ||
ブッシュSQ 〜ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 変ホ長調 Op.127
ブッシュSQ [アドルフ・ブッシュ(Vn1) ゲスタ・アンドレアソン(Vn2) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)] | ||
ソース: 米 VICTOR, 15092-96 (U.S.) (英 HMV BD3044/8 と同一録音)。録音:1936年10月16日-17日、11月2日、ロンドン。ブッシュ弦楽四重奏団は1919年にアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によって組織された。当時ブッシュはベルリン高等音楽院教授の地位にあった。ブッシュ四重奏団は何回かのメンバー交代があったが、1930年にこのメンバーになり、1939年にアメリカに移住した後も同じメンバーで活躍した。ブッシュ弦楽四重奏団のベートーヴェン四重奏曲はこのシリーズで第7番「ラズモフスキー第1番」(78CDR-3287)、第15番(78CDR-3362)、第16番(78CDR-3195)が出ている。 | ||
ラ・フォリア&悪魔のトリル〜メニューイン・リサイタル コレッリ:ラ・フォリア / タルティーニ/クライスラー編曲:ヴァイオリン・ソナタ「悪魔のトリル」 クライスラー:レチタティーヴォとスケルツォ=カプリース Op.6 イェフディ・メニューイン(Vn)フーベルト・ギーセン、アルトゥール・バルサム(P) | ||
ソース:英 HIS MASTER'S VOICE, DB1786-87。録音:1930年12月11日、1932年5月20日、1932年7月17日。イェフディ・メニューイン(1916-1999)はニューヨーク生まれ、サンフランシスコに移り3歳からヴァイオリンを始め、シグムンド・アンカー、ルイ・パーシンガー(1877-1966)に師事した。1926年6歳の時アルフレッド・ヘルツ(1872-1942)指揮サンフランシスコso. とラロのスペイン交響曲でデビュー、神童として評判を呼んだ。その後パリでジュルジュ・エネスコ(1881-1955)、ベルリンでアドルフ・ブッシュ(1891-1952)の手ほどきを受けた。1928年には12歳で初レコード録音を行った。ここに収録された演奏は14歳から16歳の録音で初々しい演奏が特長。「ラ・フォリア」は師のエネスコの演奏(78CDR-3088)と是非聴き較べをされたい。メニューインの天才ぶりが聴きとれる。 | ||
ウーブラドゥ〜ストラヴィンスキー/C.F.ラミューズ詞:兵士の物語
ミシェル・オークレール(兵士) マルセル・エラン(悪魔) ジャン・マルシャ(語り手) フェルナン・ウーブラドゥ指揮器楽合奏団 [ピエール・ルフェーヴル(Cl) ポール・オンニュ(Fg) ロジェ・デルモット(コルネット) マルセル・ガリエグ(Tb) ルネ・アニコ(太鼓) ジョルジュ・アレ(Vn)] | ||
ソース: 米 VOX, PL7960 (仏 PATHE, 33DTX 124 と同一録音。録音:1952年6月30日-7月1日、シャンゼリゼ劇場、パリ。1953年フランス・ディスク大賞受賞盤。朗読入りの初レコードとして登場したこの盤は、3人の人気俳優を起用している。兵士役のミシェル・オークレール(1922-1988)はジャン・コクトーの映画「美女と野獣」で兄役、「海の牙」「情婦マノン」で知られた名優。悪魔役のマルセル・エラン(1879-1953)は映画「悪魔が夜来る」で悪魔役を演じた。この録音当時73歳で、翌年没した。語り手のジャン・マルシャ(1902-1966)もフランス演劇界の重鎮で、映画でもドランノワの「ボンカラル」や「曳船」で知られていた。指揮者のフェルナン・ウーブラドゥ(1903-1986)はパリ音楽院に1916年から1923年の間に在籍、ソルフェージュ、ピアノ、指揮法、ファゴットを学び、1922年にファゴットで一等賞を得た。パリ音楽院o.、パリ・オペラ座o. の首席奏者を務めた後1939年にフェルナン・ウーブラドゥ室内o.を設立。モーツァルトのファゴット協奏曲K.191のSP録音もあった。1932年録音のストラヴィンスキー指揮による「兵士の物語」(七重奏曲版)もこのシリーズ(78CDR-3278)で出ている。聴き較べも楽しい。 | ||
巌本真理〜ベートーヴェンのロマンス ベートーヴェン:ロマンス(*)〔ヘ長調 Op.50 /ト長調 Op.40 〕 ドルドラ:思い出(#) / ヘンデル:ラルゴ(+) 巌本真理(Vn) 上田 仁指揮東京so. (*) 鷲見五郎(P;#/エレクトーン;+) | ||
録音:1960年頃、ステレオ。貴重な巌本真理のステレオ録音集。巌本真理(1926-1979)は東京生まれ。6歳からヴァイオリンを始め、優れた教師であった小野アンナ(1898-1979)に師事した。1937年12歳の時、第6回日本音楽コンクールで第1位。1939年にデビューリサイタルを開いた。1946年から5年間東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の教授を務めた後1951年に渡米、ジュリアード音楽院でルイ・パーシンガー(1887-1967)、ジョルジュ・エネスコに師事し、ニューヨークのタウンホールでリサイタルを開いた。1952年に帰国後、ソロ奏者として精力的に活躍する一方、1964年から巌本真理弦楽四重奏団を結成して活躍した。この録音は日本国内で始まったステレオ録音の最初期のもので、ほんとんど忘れられてしまっていたものを掘り出した。「G線上のアリア-巌本真理」(33CDR-3469)と「アヴェ・マリア-巌本真理」(33CDR-3470)がこのシリーズで出ている。 | ||
エルナ・ベルガー〜シューマン&メンデルスゾーン シューマン:歌曲集「女の愛と生涯」 メンデルスゾーン:歌の翼に/誰も知るまじ/月/新しき恋/そのかみ、かの人の眼差しより/ 眠られぬ眼は輝きて/魔女の歌/好きな場所/挨拶 エルナ・ベルガー(S) エルンスト=ギュンター・シェルツァー(P) | ||
ソース: ANGEL RECORDS, HA-5098 (Japan) (MatrIx: 2XRA 417/8) (Mono)。録音:1956年9月18日-21日、ベルリン=ツェーレンドルフ。エルナ・ベルガー(1900-1990)はドイツのコロラトゥーラ・ソプラノ。ドレスデンに生まれ、5歳の頃には「魔弾の射手」(ウェーバー)のアリアを歌いこなしたという。17歳の時にエリーザベト・レートベルクのすすめで、ドレスデン王立歌劇場の合唱団に入った。第1次世界大戦(1914-18)後に家族は南米パラグアイに移住したが、父親が死亡し、ウルグアイのモンテビデオで働きながらピアノと声楽をつづけた。1923年にドレスデンに戻り、銀行員をしながら声楽の勉強をして、1925年にドレスデン国立歌劇場で「魔笛」(モーツァルト)の童子役でデビューした。1929年から1933年にはバイロイト音楽祭に出演している。その後ベルリン市立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、ザルツブルク音楽祭、コヴェント・ガーデン歌劇場、メトロポリタン歌劇場に出演、1955年に引退表明、1960年から1971年ハンブルク音楽大学で教鞭をとった。録音の数も多く、特に1937年の「魔笛」の世界初の全曲録音(トーマス・ビーチャム指揮)の夜の女王役で世界的に知られるようになった。1952年に来日し日本ビクターに録音を行った。 | ||
ティボーのショーソン&G.カサドシュのフォーレ、VOX 録音 ショーソン:詩曲 Op.25 (*) / フォーレ:ピアノと管弦楽のためのバラード Op.19 (#) ジャック・ティボー(Vn;*) ギャビー・カザドシュ(P;#) ウジェーヌ・ビゴー指揮(*) マニュエル・ロザンタール指揮(#) ラムルーo. (*/#) | ||
ソース:米 VOX PL6450 (Mono)。録音:1947年12月、1947年10月29日、サル・プレイエル、パリ。ジャック・ティボー(1880-1953)は20世紀フランス最高のヴァイオリニスト。ボルドー出身で1893年からパリ音楽院でマルタン・マルシック(1848-1924)教授に師事し1896年16歳で一等賞を得た。生活のためにカフェのコンセール・ルージュで弾いていたところを指揮者のエドゥアール・コロンヌ(1838-1910)に見いだされて楽員に採用された。その時ティボーの親友で後にパリ音楽院の教授になったジュール・ブーシュリ(1877-1962)もコロンヌの楽員になった。1905年にピアノのコルトー、チェロのカザルスとトリオを結成、1930年頃まで活躍した。ティボーは1953年3度目の来日のときエール・フランス機がアルプスの支峰スメ山に激突して死亡した。享年72歳。フォーレを弾くピアノのギャビー・カザドシュ(1901-1999)はマルセイユ生まれ、旧姓ガブリエル・ロート。パリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)とマルグリット・ロン(1874-1966)に師事し16歳で一等賞を得た。1921年にロベール・カザドシュと結婚しデュオでも活躍した。この録音はSPレコード末期のもので、SPは盤質が粗悪なため、初期のLPから復刻した。ティボーの「詩曲」はエネスコの「詩曲」(78CDR-3018)と比較して劣るように言われてきたが、今回の復刻で初めて真価が問われるであろう。 | ||
プロ・アルテ〔アルト〕SQ 〜モーツァルト:弦楽五重奏曲第3番 ハ長調 K.515
プロ・アルテ〔アルト〕SQ [アルフォンス・オンヌー(Vn1) ローラン・アルー(Vn2) ジェルマン・プレヴォ(Va) ロベール・マース(Vc)] アルフレッド・ホブデイ(Va2) | ||
ソース:英 HIS MASTER'S VOICE DB7808/11 (DB2383/6 と同一録音)。録音:1934年11月3日、ロンドン、アビー・ロードEMI第3スタジオ。プロ・アルト弦楽四重奏団は1912年アルフォンス・オンヌーをリーダーにベルギーのブリュッセルで結成された。1926年アメリカに初公演、ワシントンの国会図書館ホールの開館式で演奏した。1932年にベルギーの宮廷四重奏団の称号を得た。1941年にアメリカのウィスコンシン大学からの要請で各メンバーが教授に就任。1944年にコーリッシュ弦楽四重奏団が解散したとき、リーダーだったルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)がプロ・アルトの第1ヴァイオリンに就任した。プロ・アルト弦楽四重奏団はこのシリーズでモーツァルト弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516 (78CDR-3251)が出ている。 | ||
メニューイン、無伴奏パルティータ第2番 1934〜 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004 イェフディ・メニューイン(Vn) | ||
ソース:英 HIS MASTER'S VOICE DB2287/90。録音:1934年5月23日、パリ、アルベール・スタジオ。イェフディ・メニューイン(1916-1999)はニューヨーク生まれ。4歳からヴァイオリンの手ほどきを受け、7歳でサンフランシスコso. との共演でデビューした。その後パリでジョルジュ・エネスコ(1881-1955)、ベルリンでアドルフ・ブッシュ(1891-1952)に師事した。これはメニューインが18歳のパリ録音で、師のエネスコの指導が反映している見事な演奏。後年の演奏には見られない輝きと、18歳とは思えない深い思慮が感じられる。このシリーズでは他に13歳の時の録音である「無伴奏ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005」(78CDR-3227)が出ている。 | ||
メンゲルベルグの「田園」〜 ベートーヴェン:交響曲第6番 ヘ長調 Op.68「田園」 |
ウィレム・メンゲルベルグ指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウo. | |
ソース:独 TELEFUNKEN SK 2424/8。録音:1937年12月22日-23日、アムステルダム、コンセルトヘボウ。ウィレム・メンゲルベルグ(1871-1951)はオランダの大指揮者。1895年、24歳でアムステルダム・コンセルトヘボウo. の首席指揮者に就任した。さらに1921年〜30年にはNYPso. の首席指揮者を兼任、レコード録音は機械式録音時代と電気録音初期は米ヴィクター、電気初期のコンセルトヘボウとの録音は英コロンビアと独オデオンに、電気録音の完成期には独テレフンケンに行った。またコンセルトヘボウとのライヴ放送録音はLP時代になってフィリップスから発売された。この「田園」はテレフンケンへの録音で、生々しい演奏が録られているが残念なことにはハム音が入っていること。ハム音を除去すると演奏の迫力が半減してしまうため、ここでは電気処理をしていない。メンゲルベルグの「運命」(78CDR-3370)もこのシリーズで出ている。 | ||
リリア・ダルボーレ (Vol.2) フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 ヴェラチーニ:ヴァイオリン・ソナタ第6番 イ長調 Op.2 No.6 〜第2楽章 ドヴォルジャーク:ヴァイオリンのためのソナチネ ト長調 Op.100 〜第2楽章 リリア・ダルボーレ(Vn) フーベルト・ギーゼン(P) | ||
独 POLYDOR, 68002/5 &67681。録音:1942年、1941年。 | ||
リリア・ダルボーレ ブラームス: ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 Op.108 ピッツェッティ:カント第2番 |
リリア・ダルボーレ(Vn) ゲザ・フリッド(P) | |
独 GRAMMOPHON, LVM72053/4 (78回転長時間レコードVG盤) 。録音:1951年11月1日。リリア・ダルボーレ(1914-?)はイタリア生まれの女性ヴァイリン奏者で、第2次大戦中から大戦後にドイツで活躍したこと以外は詳細不明。ブラームス (78CDR-3472) は戦後の1951年、LP出現前夜にドイツ・グラモフォンが開発した78回転長時間レコードVG盤で発売された物。マスターはテープ録音と思われる。これ以前にドイツのポリドールにはドヴォルジャークのソナチネから第2楽章(クライスラー編曲のインディアン・ラメントとしても知られている)、ヴェラチーニのヴァイオリン・ソナタ第6番 Op.2 No.6から第2楽章、フランクのヴァイオリン・ソナタ(1942年録音)、グルックの妖精の踊り (以上3曲は78CDR-3473に収録)、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ ハ長調 K.404、シューベルトのソナチネ第1番 Op.137、シモネッティのマドリガルがあり、またライヴ録音で、チェリビダッケ指揮のモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番 K.219もあった。 | ||
アレクサンドル・モギレフスキー、日本録音 1939 ヴェラチーニ:ヴァイオリン・ソナタ第8番 ホ短調 Op.2 No.8 ドビュッシー/ローランス編曲:月の光 / メラルティン:エレジー アレクサンドル・モギレフスキー(Vn) アレクシス・アバサ(P) | ||
日 COLUMBIA, JW 635/6 (01-04), JW 553 (05-06) 。録音:1939年頃、東京。アレクサンドル・モギレフスキー(1885-1953)はロシア〔現・ウクライナ〕のオデッサ生まれ。7歳でヴァイオリンを始めロストフの音楽学校で学んだ後、モスクワでイワン・グルジマリ〔ヤン・フジマリー〕に師事した。モスクワで弦楽四重奏団を組織したり、教員生活を送った後、1922年にパリに移住、リュシアン・カペー(1873-1928)とも親交をもち、ロシア系の豊麗な音色に加えてフランス風の洗練された独特の音色を身につけた。1926年11月に初来日、1930年に再来日してから1953年亡くなるまで、演奏家として、優れた教師として日本の音楽界に多大な貢献をした。 | ||
巌本真理〜アヴェ・マリア J.S.バッハ=グノー:アヴェ・マリア シューベルト/エルマン編曲:シューベルトの子守歌 / ブラガ:天使のセレナード リムスキー=コルサコフ:印度の歌 / ブラームス:ワルツ Op.39 ドヴォルジャーク/クライスラー編曲:インディアン・ラメント マルティーニ:愛の喜び / マスネ:エレジー / リスト:愛の夢 巌本真理(Vn) 坪田昭三(P) | ||
日 TOSHIBA RECORDS, JCO 1046 (Mono) 。録音:1960年頃。巌本真理の小品集復刻 Vol.2。忘れ去られていたこれらのヴァイオリン小品集は、創立間もない東芝電気のレコード部門で録音されたもの。モノーラル録音ながら高音質で、ヴァイオリン音楽ファンの必聴盤。巌本真理(1926-1979)は東京生まれ、6歳からヴァイオリンを始め、優れた教師であった小野アンナ(1898-1979)に師事した。1937年12歳の時、第6回日本音楽コンクールで第1位。1939年にデビューリサイタルを開いた。1946年から5年間東京音楽学校の教授を務めた後1951年に渡米、ジュリアード音楽院でルイス・パーシンガー(1887-1967)、ジョルジェ・エネスクに師事し、ニューヨークのタウンホールでリサイタルを開いた。翌年帰国後ソロ奏者として精力的に活躍する一方、1964年から巌本真理弦楽四重奏団を結成し活躍した。 | ||
巌本真理〜G線上のアリア ラフ:カヴァティーナ / J.S.バッハ/ヴィルヘルミ編曲:G線上のアリア シューマン:トロイメライ / クライスラー:愛の悲しみ 民謡/クライスラー編曲:ロンドンデリー・エア / マスネ:タイスの瞑想曲 フォーレ:夢の後に / ベートーヴェン:ト調のメヌエット ラフマニノフ:ヴォカリーズ / シューベルト/ヴィルヘルミ編曲:アヴェ・マリア 巌本真理(Vn) 鷲見五郎(P) | ||
日 TOSHIBA RECORDS, JCO 1007 (Mono) 。録音:1958年頃。巌本真理の小品集復刻 Vol.1 。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2013年リリース分 (末尾 409-468) | ||
ジョー・スタッフォード&ゴードン・マックレエ、クリスマス・ソング [JO STAFFORD & GORDON MacRAE SINGS CHRISTMAS SONGS] あめには栄え [HARK-THE HERALD ANGELS SING (Cho) ] /牧人羊を [THE FIRST NOEL (JS) ] / 神の御子は今宵しも [O COME ALL YE FAITHFUL (GM) ] /ひいらぎかざろう [DECK THE HALLS (Cho) ] / 久しく待ちにし主よとく来りて [O COME, O COME EMMANUEL (JS & GM) / もろびとこぞりて [JOY TO THE WORLD (Cho) ] /天なる神にはみ栄えあり [IT CAME UPON A MIDNIGHT CLEAR (GM) ] / ああベツレヘムよ [O LITTLE TOWN OF BETHLEHEM (JS) ] / ゴッド・レスト・イー・メリー・ジェントルメン [GOD REST YE MERRRY GENTLEMEN (Cho) ] / 聖しこの夜 [SILENT NIGHT (JS & GM) ] /ホワイト・クリスマス [WHITE CHRISTMAS (I. Berlin) (JS) ] (+) / 聖しこの夜 [SILENT NIGHT (Gruber-Mohr) (JS) ] (+) ジョー・スタッフォード [JO STAFFORD] 、ゴードン・マックレエ [GORDON MacRAE] (Vo) リン・マーレイ・シンガーズ [LYN MURRAY SINGERS] (+) ポール・ウェストン楽団&cho. [ORCHESTRA & CHOIR under the direction of PAUL WESTON] | ||
米 CAPITOL 79-90032 [ 79-90032A (4726-2D-6), 79-90032A (4727-2D-7) ] (Mono) (+以外) / 319 [ 319A (1225-3R), 319B (999-5L) ] (Mono) (+) 。録音:1950年(+以外) /1946年9月19日(+) 。誰もが耳にしたことがあるクリスマス・ソング集。ジョー・スタッフォードの第1期キャピトル時代(1943-1951)に SP レコードに録音されたクリスマス・ソングが CD フォーマット初登場。ジョー・スタッフォード(1917-2008)はカリフォルニア州コーリンガの生まれ。1938年男女4人のヴォーカル・グループ"パイド・パイパーズ" の一員としてトミー・ドーシー楽団に加わり、その後ソロシンガーに抜擢された。1942年バンドを辞してソロヴォーカリストとして歩み初め、新興のキャピトル・レコードの専属になった。ゴードン・マックレエ(1921-1986)はミュージカル映画「オクラホマ」(1955)や「回転木馬」(1956)に登場した映画俳優・シンガー。歌手としてキャピトル・レコードの専属となり、ジョー・スタッフォードとの二重唱「希望のささやき」Whispering Hopeが1949年にミリオンセラーを記録した。 | ||
ティボー&コルトー〜フォーレ: ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 Op.13 |
ジャック・ティボー(Vn) アルフレッド・コルトー(P) | |
米ヴィクトローラ8086/8 (英 HMV DB1080/2 と同一録音)。録音:1927年6月23日、ロンドン。ジャック・ティボー(1880-1953)は20世紀前半に活躍したフランスの大ヴァイオリニスト。ボルドー出身で1893年からパリ音楽院のマルタン・マルシック(1848-1924)に師事し、1896年16歳で一等賞を得た。生活のためにカフェのコンセール・ルージュで弾いていたところを指揮者のエドゥアール・コロンヌ(1838-1910)に見いだされ楽員に採用された。そのときティボーの親友で後にパリ音楽院の教授になったジュール・ブーシュリ(1877-1962)もコロンヌの楽員になった。1905年にピアノのアルフレッド・コルトー(1877-1962)、チェロのパブロ・カザルス(1876-1973)とトリオを結成し1930年頃まで活動した。ティボーは1923年と1936年に来日、1953年の3度目の来日の途中、乗っていたエール・フランス機がアルプスの支峰スメ山に激突して死亡した。享年72歳。 | ||
シモン・ゴールドベルグ〜ハイドン: ヴァイオリン協奏曲第1番 Hob.VIIa: 1(カデンツァ:カール・フレッシュ) シモン・ゴールドベルグ(Vn) ワルター・ジュスキント指揮フィルハーモニアo. | ||
英 PARLOPHONE PXO 1045/7。録音:1947年4月19日、ロンドン。シモン・ゴールドベルグ(1909-1993)はポーランド生まれのヴァイオリニスト。ベルリンで名教授カール・フレッシュ(1873-1944)に師事し、1929年にフルトヴェングラーに招かれてBPOのコンサート・マスターに就任した。1934ドイツがナチス政権になった時に退団ロンドンに移住した。1936年ハンガリー出身の女流ピアニスト、リリー・クラウスと共に来日したこともある。1942年クラウスと共にアジア演奏旅行中、インドネシアのジャワ島で日本軍に捕らえられ1945年まで抑留生活を強いられた。大戦後はオランダとアメリカで活躍、晩年日本のピアニスト山根美代子さんと結婚、立山で暮らしていた。この録音は戦後の1947年のもの、録音時ゴールトベルグは38歳だった。指揮者のワルター・ジュスキント(1913-1980)はチェコのプラハ生まれ、ベルリンで名指揮者のジョージ・セル(1897-1970)に薫陶を得てアシスタントを務め、後に英国国籍を得た。 | ||
シェリング第1回録音〜J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.2 パルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004 /ソナタ第3番 ハ長調 BWV.1005 /パルティータ第3番 ホ長調 BWV.1006 ヘンリク・シェリング(Vn) | ||
仏 ODEON ODX-123B/124。録音:1955年、パリ。 | ||
シェリング第1回録音〜J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.1 ソナタ第1番 ト短調 BWV.1001 /パルティータ第1番 ロ短調 BWV.1002 /ソナタ第2番 イ短調 BWV.1003 ヘンリク・シェリング(Vn) | ||
仏 ODEON ODX-122/123A。録音:1955年、パリ。ヘンリク・シェリング(1918-1988)はポーランド生まれ、同国生まれの巨匠ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)の目にとまり、ベルリンで名教師カール・フレッシュ(1873-1944)の下に研鑽を積んだ(1929-32)。その後パリ音楽院に入り作曲をナディア・ブーランジェ(1887-1979)、ヴァイオリンをガブリエル・ブイヨン(1896-1984)に師事し1937年に一等賞を得た。第2次世界大戦が勃発すると、ポーランド政府はシェリングが8カ国語を流暢に話すことに目を付け、亡命先を探していたポーランドのヴラディスワフ・シコルスキ将軍の通訳としてメキシコを訪れたのが縁で、自身も1945年にメキシコ国籍を取得し首都の音楽院で教鞭をとる。1952年12月にパリで師のガブリエル・ブイヨン指揮パドルーo.でJ.S.バッハのヴァイオリン協奏曲第1番、第2番(33CDR-3450)、続いて1953年1月にはジャック・ティボー(1880-1953)指揮パリ音楽院o.でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を録音し演奏家活動を開始した。このバッハはそれにつづく第3作目のパリ録音でこの曲の第1回録音。2回目のステレオ録音(1967)に較べて圧倒的に優れている。 | ||
シゲティ&ワルター〜ベートーヴェン: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61 (カデンツァ:ヨアヒム) |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) ブルーノ・ワルター指揮 NYP | |
ソース:米 COLUMBIA, ML 4012 。録音:1947年4月5日、ニューヨーク。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリーのブダペスト生まれ。ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。1905年にベルリンでデビュー、大ヴァイオリニスト、ヨアヒム(1831-1907)に認められた。1917年から24年にスイスのジュネーヴ音楽院で教鞭をとり、1940年アメリカに移住した。シゲティは1931年の初来日以来何度も日本を訪れた。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ヨーロッパで活躍していたが、1838年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてアメリカ逃れた。この録音は同じ顔合わせの2回目のもので、第1回の1932年録音もこのシリーズ(78CDR-3138)で出ている。この録音は最初78回転SPで発売されたが、1948年に登場したLPの第1回発売に組み込まれた。 LPからの復刻。 | ||
ワルター&NYP 〜ブラームス:交響曲全集 Vol.2 〔第3番 ヘ長調 Op.90 (*) /第4番 ホ短調 Op.98 〕 |
ブルーノ・ワルター指揮 NYP | |
ソース:米 COLUMBIA, SL 200 (U.S.) (Set) 。録音:1953年12月21日(*)、1951年2月12日(無印)、ニューヨーク30丁目コロムビア・スタジオ。 | ||
ワルター&NYP 〜ブラームス:交響曲全集 Vol.1 〔第1番 ハ短調 Op.68 (*) /第2番 ニ長調 Op.73 〕 |
ブルーノ・ワルター指揮 NYP | |
ソース:米 COLUMBIA, SL 200 (U.S.) (Set) 。録音:1953年12月30日(*)、1953年12月28日(無印)、ニューヨーク30丁目コロムビア・スタジオ。 ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルンを卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1896年ハンブルク歌劇場で指揮をしたとき、音楽監督をつとめていたグスタフ・マーラー(1860-1911)に出会い交友を深めた。その後ワルターはバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、ウィーン国立歌劇場などの楽長、音楽監督を歴任した。1938オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカの逃れた。この録音はLP時代の初期にニューヨークで録音された。ワルターはステレオでもブラームス交響曲全集を録音しているが、このモノ録音が圧倒的に優れている。このシリーズでモーツァルト交響曲第40番&第35番「ハフナー」(33CDR-3402)、交響曲第41番「ジュピター」と第39番(33CDR-3449)交響曲第36番「リンツ」&第29番(33CDR-3454)が出ている。 | ||
ローズマリー・クルーニー〜讃美歌集 (1)千歳の岩 / (2)さびしきみそのに / (3)日暮れて四方はくらく / (4)イット・イズ・ノー・シークレット (5)静けき祈りの時はいと楽し / (6)丘の上に十字架たつ / (7)九十九匹の羊 / (8)村の小さな教会 (9)主われを愛す / (10)主よみもとに近づかん / (11)いつくしみ深き (12)イエスのために生き / (13)ソフトリー・アンド・テンダリー / (14)見よや十字架の旗高し ローズマリー・クルーニー [ROSEMARY CLOONEY] (Vo) | ||
ソース:米 MGM RECORDS, SE 3782 (Stereo) 。録音:1959年。ローズマリー・クルーニー(1928-2002)はケンタッキー州メイズヴィルの生まれ。2歳下の妹ベティとクルーニー・シスターズを組み歌手デビューした。1949年ニューヨークに出てコロンビアと契約。「カモナ・マイ・ハウス」の大ヒット(1951)で人気歌手になった。その後コロンビアで数々のヒット・シングルを出し、アルバムでは「ブルー・ローズ」(デューク・エリントン楽団)他がある。1958年コロンビアを離れMGM、RCA、CORAL 等レーベルに録音、その後10年程の空白期の後CONCORDレーベルに復帰し多くの名作アルバムを残した。このアルバムはコロンビアを離れた直後のもので、クルーニーのアルバムでは最もレア。シンプルな編成をバックにしみじみと歌うクルーニーの最高傑作の歌曲アルバムである。 | ||
JO + JAZZ 〜ジョー・スタッフォード (1)ジャスト・スクイーズ・ミー / (2)フォー・ユー / (3)ミッドナイト・サン (4)ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ (5)ザ・フォークス・フー・リヴ・オン・ザ・ヒル / (6)アイ・ディドント・ノウ・アバウト・ユー (7)ホワット・キャナイ・セイ / (8)ドリーム・オブ・ユー / (9)イマジネーション (10)スポージン / (11)デイ・ドリーム / (12)アイヴ・ガット・ザ・ワールド・オンナ・ストリング ジョー・スタッフォード(Vo) | ||
ソース: 米 COLUMBIA, CS 8361 (U.S) (Stereo) 。録音:1960年7月15日、8月1日&10日、ロスアンジェルス。ジョー・スタッフォード(1917-2008)はカリフォルニア州のコーリンガの生まれ。1938年男女4人編成のヴォーカル・グループ "パイド・パイパーズ" の一員としてトミー・ドーシー楽団に加わり、その後ソロシンガーに抜擢された。1942年バンドを辞してソロヴォーカリストとして歩みはじめた。1950年にコロンビアの専属となり、夫君のピアニスト=アレンジャーのポール・ウェストンと二人三脚でスター歌手の地位を築いた。このアルバムはデューク・エリントン楽団のメンバーとウェスト・コーストで活躍するジャズメンの混成隊によるものでコロンビアでのジョーの最後のアルバムである。エリントン楽団とドーシー楽団の曲を中心に歌うジョー会心の作品。 | ||
ガブリエル・ブイヨンSQ〜ラヴェル:弦楽四重奏曲 ヘ長調
ガブリエル・ブイヨンSQ [ガブリエル・ブイヨン、アベール・ロカテッリ(Vn) アンリ・ブノワ(Va) カミーユ・ドローベル(Vc)] | ||
仏 DISQUE GRAMOPHON DB5154/6 (France) 。録音:1941年3月17日、パリ。ガブリエル・ブイヨン(1896-1984)はフランスのモンペリエ生まれ。1910年パリ音楽院に入りリュシアン・カペー(1873-1928)に師事し一等賞を得た。卒業後ウジェーヌ・イザイ(1858-1931)、ジョルジュ・エネスコ(1881-1955)、ジャック・ティボー(1880-1953)について研鑽をつみ、ソリストとして活躍する一方1943年からパリ音楽院教授をつとめた。門下生にヘンリク・シェリング(1918-1988)がいる。ブイヨン四重奏団は1940年にカペー弦楽四重奏団のメンバーを引き継いだモーリス・エヴィットが指揮者として転出した後をつぎ、1940年に結成された。ヴィオラとチェロはカペー四重奏団の最後のメンバー。 | ||
クーレンカンプ&ケンプ〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」 |
ゲオルク・クーレンカンプ(Vn) ヴィルヘルム・ケンプ(P) | |
英 DECCA CA 8207/10 (独 POLYDOR 67062/5 と同一録音)。録音:1935年、ベルリン。ゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)はドイツのブレーメンに生まれ、第2次大戦中ソリストとして活躍する傍らベルリン高等音楽院教授を1943年まで務めた。1944年にスイスのルツェルン音楽院教授となり、ピアノのエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)、チェロのエンリコ・マイナルディ(1897-1976)とのトリオでも活躍したが、1948年50歳を迎えて間もなく急逝した。このシリーズでブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番(シューリヒト指揮)(78CDR-3123)とベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(78CDR-3127)、ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番(78CDR-3452)が出ている。ヴィルヘルム・ケンプ(1895-1991)はドイツのピアニスト。ベルリン音楽大学でロベルト・カーンに作曲をカール・ハインリヒ・バルトにピアノを師事し、1917年ピアノ組曲の作曲でメンデスゾーン賞を受賞した。その後ピアニストとして活躍し、1936年ドイツ文化使節として来日したことがある。SPレコード時代から録音が多くわが国でも親しまれていた。 このシリーズではベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(78CDR-3320)、第4番(78CDR-3120)、第3番(78CDR-3112)、ピアノ・ソナタ「悲愴」(78CDR-3133)、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番(78-3153)が出ている。 | ||
シュナイダーハン&ケンペン〜ブラームス: ヴァイオン協奏曲 ニ長調 Op.77 (カデンツァ:ヴィンクラー) |
ウォルフガンク・ シュナイダーハン(Vn) パウル・ファン・ケンペン指揮 BPO | |
独 GRAMMOPHON 04857/52 (78回転 VG 盤)。録音:1953年5月17日-21日、ベルリン、ダーレム、イエス・キリスト教会。ヴォルフガング・シュナイダーハン(1915-2002)はウィーン生まれ。1933年から37年までウィーンso.のコンサートマスターをつとめ、1937年に VPO に入団、1938年、当時のコンサートマスターだったアルノルト・ロゼー(1863-1946)がロンドンへ亡命した時、第1コンサートマスターに就任した。1949年ソリストとして独立するために VPO を退団した。指揮者のパウル・ファン・ケンペン(1893-1955)はオランダの指揮者。戦中戦後を通じてドイツで活躍したが、大戦中に祖国を離れ、敵国ドイツで活動したことを糾弾され、戦後ボイコット運動が起こり不遇のうちに世を去った。このレコードはSPレコード末期にドイツグラモフォンが開発した長時間収録の SP 盤 (VG 盤) にカットされた放送局用のレコードで一般発売はされなかかった。演奏は LP (Heliodor 89519) と同じ。 | ||
ル・ロワ、ショルツ、バログ、ギレ SQ 〜ウェーバー&メンデルスゾーン ウェーバー:フルート、チェロとピアノのための三重奏曲 ト短調 Op.63 [ルネ・ル・ロワ(Fl) ヤーノシュ・ショルツ(Vc) エルネー・バログ〔エルノ・バロー〕(P)] メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 Op.44 No.1[ギレSQ] | ||
米 VOX VL 6390 (VLP 6390?) 。録音:1949年秋。変ったカップリングだが、これが LP オリジナルの模様。ルネ・ル・ロワ(1898-1985)はフランスのフルート奏者。幼少時からフルート奏者だった父親に手ほどきをうけ、1916年パリ音楽院に入り1920年に卒業した。1922年にパリ器楽五重奏団(フルート、ハープ、弦楽トリオ)を結成、オーケストラ活動をせずソロや室内楽奏者として、ヨーロッパ各地、アメリカを演奏旅行した。フォンテーヌブローのアメリカ音楽院、カナダのモントリオール音楽院、パリ音楽院(1952-1968)の教授をつとめた。チェロのヤーノシュ・ショルツ(1903-)はハンガリー出身のチェリスト。1933年アメリカに移住し市民権を得た。ロート弦楽四重奏団のチェリストと活躍した。ピアノのエルノ・バロー(1897-1989)もブダペスト音楽院出身。卒業後ベルリンでレオニード・クロイツァー(1884-1953)に師事、1924年にアメリカに移住、ピアニスト、教師として活躍した。ギレ弦楽四重奏団のリーダー、ダニエル・ギレ(1899-1990)はロシア生まれ。パリ音楽院でジョルジュ・エネスコとギヨーム・レミに師事し、オペラ・コミックのコンサート・マスター、カルヴェ弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者を務めた後、1941年にアメリカに移住、ギレ弦楽四重奏団を組織、1944年にトスカニーニ指揮のNBCso.に入団、1951年にコンサート・マスターになった。ギレ弦楽四重奏団は結成当時からメンバーが何回か替わっていて、他のメンバーの名前は記載されていない。 | ||
ワルター&コロムビア響 〜モーツァルト:交響曲集 〔第36番 ハ長調 K.425「リンツ」(*) / 第29番 イ長調 K.201 (#) 〕 |
ブルーノ・ワルター指揮 コロンビアso. | |
録音:1955年4月26日、28日(*)、1954年12月29日-30日(#)、コロムビア30丁目スタジオ、ニューヨーク。米 COLUMBIA ML 5375 。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルンを卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1896年ハンブルク歌劇場で指揮をしたとき、音楽監督をつとめていたグスタフ・マーラー(1860-1911)に出会い交友を深めた。その後ワルターはバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.、ウィーン国立歌劇場などの楽長、音楽監督を歴任した。1938オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカの逃れた。この録音はLP時代の初期にニューヨークで録音された。ワルターはステレオでもこの2曲を録音しているが、このモノ録音が圧倒的に優れている。このシリーズで交響曲第40番&第35番「ハフナー」(33CDR-3402)と交響曲第41番「ジュピター」と第39番(33CDR-3449)が出ている。 | ||
ポーランド出身のヴァイオリニスト、チェルウォンキの「シャコンヌ」「タイスの瞑想曲」 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004〜シャコンヌ マスネ:タイスの瞑想曲 リヒャルト・チェルウォンキ(Vn) | ||
仏 TRIERGON, 4001/2 (独 Christschall, 146/7 と同一録音)。録音:1931年頃。リヒャルト・チェルウォンキ [Richard Czerwonky] (1886-1949)はポーランドに生まれ、ドイツで研鑽を積み、その後アメリカに渡り1907-08にボストンso.の副コンサートマスターをつとめ、1910年にBPOにデビューした。1910-19にはミネアポリスso.のコンサートマスター、1930年代にはシカゴ・オペラのコンサートマスターをつとめた。録音はエジソンの蝋管&縦振動レコードと独クリストシャルに数枚あった。 | ||
クーレンカンプ&ショルティ〜ブラームス: ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 Op.78「雨の歌」 |
ゲオルク・クーレンカンプ(Vn) ゲオルク・ショルティ(P) | |
英 DECCA, K 1705/7 (ffrr録音)。録音:1947年1月28日、スイス、チューリヒ放送局。ゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)はドイツのブレーメン生まれ、第2次大戦中ソリストとして活躍する傍らベルリン高等音楽院教授を1943年まで務めた。1944年にスイスのルツェルン音楽院教授となり、ピアノのエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)、チェロのエンリコ・マイナルディ(1897-1976)とのトリオでも活躍したが、1948年50歳を迎えて間もなく急逝した。ゲオルク・ショルティ(1912-1997)は1930年ブダペストのリスト音楽院を卒業後、国立歌劇場の歌手たちの稽古のためのピアニスト(コレペティトール)をつとめた。1936年ザルツブルク音楽祭でトスカニーニの目にとまり、音楽祭で助手をつとめた。1938年ブダペスト歌劇場で指揮者デビュー。1947年ピアニストとして英デッカと契約をむすんだ。クーンカンプとはブラームスのヴァイオリン・ソナタ全3曲の録音がこの時期にある。 | ||
デュボワ&マース〜J.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ集 〔第4番 ハ短調 BWV1017 /第5番 ヘ短調 BWV1018 /第6番 ト長調 BWV1019 / 第2番 イ長調 BWV1015 〜第2楽章「アンダンテ」〕 アルフレッド・デュボワ(Vn) マルセル・マース(P) | ||
英 COLUMBIA, LFX 267/73。録音:1932年6月-7月、ブリュッセル。既出CD: BIDDULPH, BID-80171(復刻:ウォード・マーストン)。アルフレッド・デュボワ(1898-1948)はブリュッセル音楽院出身。卒業後ヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858-1931)にも師事し、1920年にヴュータン賞を得た。1927年に母校の音楽院の教授に就任し、弟子にはアルテュール・グリュミオー(1921-1975)がいる。ピアニストのマルセル・マース(1897-1950)はこのバッハ以外にもフランク:ヴァイオリン・ソナタ(78CDR-3201)で共演している。デュボワはこのシリーズでヴュータン:ヴァイオリン協奏曲第5番(78CDR-3013)、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第6番K.268(78CDR-3054)が出ている。 | ||
シェリング〜J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲集 〔第1番 イ短調 BWV1041 /第2番 ホ長調 BWV1042 〕 |
ヘンリク・シェリング(Vn) ガブリエル・ブイヨン指揮 コンセール・パドルーo. ドニーズ・グアルヌ(Cemb) | |
仏 ODEON, XCO 809 (Mono)。録音:1952年12月。既出CD: EINSATZ RECORDS, EZCD-017 。ヴァイオリンのヘンリク・シェリング(1918-1988)はポーランド生まれ。同郷の大ヴァイオリン奏者フーベルマン(1882-1947)のすすめでベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)に師事し、その後パリ音楽院でガブリエル・ブイヨン(1896-1988)にヴァイオリンをナディア・ブーランジェ(1877-1979)に作曲を学び1937年に一等賞を得た。第2次大戦中、ポーランド亡命政府の外交員(7カ国語の読み書きができた)として活躍、ポーランド難民をメキシコ政府が受け入れてくれたことに感謝し、大戦後メキシコを活動の拠点とし国籍も取得した。この録音は大戦後パリで師のブイヨンの指揮で行われた物。以降数回正規録音したバッハの協奏曲の最初の物。 | ||
ワルター& NYP 〜モーツァルト:交響曲集 〔第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」(*) / 第39番 変ホ長調 K.543 (#) 〕 |
ブルーノ・ワルター指揮 NYP | |
米 COLUMBIA, ML 5014。録音:1953年12月21日(#)、1956年3月5日(*)、ニューヨーク30丁目コロンビア・スタジオ録音。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルンを卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1896年ハンブルク歌劇場で指揮をしたとき、音楽監督をつとめていたグスタフ・マーラー(1860-1911)に出会い交友を深めた。その後ワルターはバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.、ウィーン国立歌劇場などの楽長、音楽監督を歴任した。1938オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカの逃れた。この録音はLP時代の初期にニューヨークで録音された。ワルターはステレオでもこの2曲を録音しているが、このモノ録音が圧倒的に優れている。このシリーズで交響曲第40番&第35番「ハフナー」(33CDR-3402)で出ている。 | ||
作曲家エックハルト=グラマッテによるヴァイオリニストとしての幻の録音!〜 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV 1004〜シャコンヌ ゾフィー=カルメン・グラマッテ(Vn) | ||
録音:1935年11月22日&27日。ソース: 米 DECCA, G-25820-21 (独 ODEON, 0-6977/8 と同一録音)。"幻のレコード" の登場。ヴァイオリンのゾフィー=カルメン・〔エックハルト=〕グラマッテ(1899-1974)はモスクワ生まれ、ロシア革命で祖国を離れ、パリ音楽院に入りアルフレド・ブリュンとギヨーム・レミにヴァイオリンを、ゾフィ・シュネー(1847-c.1934)にピアノを、ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)とカミーユ・シュヴィヤール(1859-1923)に作曲を学んだ。卒業後演奏家として活動、1925年にはピアニストのエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)と楽旅した記録がある。1920年に画家のヴァルター・グラマッテと結婚したが、1929年に夫と死別した。1934年に芸術史家でジャーナリストのフェルディナント・エックハルトと再婚、ウィーンに住み、やがて演奏家としての活動をやめ作曲に専念した。1953年二人はカナダのウィニペッグに移住した。グラマッテは1974年に旅行先のシュトットガルトで事故死。享年72歳。没後にエックハルト=グラマッテ・ファウンデーションが設立された。作曲家として多数の作品を残し、6曲のピアノ・ソナタはピアニストのマルカンドレ〔マルク=アンドレ〕・アムランによって全曲録音された。現在ではヴァイオリニストとしてのレコード録音があることは忘れ去られてしまった。他に自作自演のヴァイオリン協奏曲 イ短調(独ODEON 0973/6)の SP があった。 | ||
デ・ヴィート〔ヴィトー〕〜ヘンデル: ヴァイオリン・ソナタ第4番 ニ長調 Op.1 No.13 |
ジョコンダ・デ・ヴィトー(Vn) ジョージ・マルコム(Cemb) | |
録音:1951年8月30日。ソース:英 HMV, DB9676-77。ヴァイオリンのジョコンダ・デ・ヴィトー(1907-1994)はイタリアの女流奏者。11歳でペサロ音楽院に入り、レミ・プリンチーペ(1899-1977)に師事した。1932年にウィーン国際ヴァイオリン・コンクールで一等賞をとった。1935年にイタリアPARLOPHONEにバッハのブランデンブルク協奏曲第5番を録音したのが初レコーディング(78CDR-3275)。1941年にベルリンでブラームスのヴァイオリン協奏曲をドイツPOLYDOR に録音した(78CDR-3174)。第2次大戦後の1948年ロンドンにデビューしEMI のアーティストになった。EMIの初録音はバッハのシャコンヌ(78CDR-3019)で、他にもSPレコードではヴィターリのシャコンヌ(78CDR-3241)、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番(78CDR-3113)、バッハのヴァイオリン協奏曲第2番(78CDR-3052)がある。チェンバロのジョージ・マルコム(1917-1997)はイギリスの奏者。オックスフォード大学とロンドンの王立音楽アカデミーで学び、ウェストミンスター寺院の音楽司祭をつとめたこともある。レコード録音も多い。 | ||
K.ロング&ベイヌム〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491 (カデンツァ:J.N.フンメル) |
キャスリーン・ロング(P) エドゥアルト・ ファン・ベイヌム指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウo. | |
録音:1948年9月20日-21日、コンセルトヘボウ大ホール、アムステルダム。ソース: 英 DECCA, AK2075/8 (ffrr録音) 。キャスリーン・ロング(1896-1968)はロンドン郊外に生まれたイギリスのピアニスト。神童として名を馳せ8歳で公開演奏会で弾いた。1915年にロンドンのエオリアン・ホールでデビューし、1920年から1964年まで母校のロンドン王立アカデミー音楽院で教鞭をとった。指揮者のエドゥアルト・ファン・ベイヌム(1901-1959)はオランダの指揮者。アムステルダム音楽院出身。1931年にウィレム・メンゲルベルク(1871-1951)の招きでアムステルダム・コンセルトヘボウo.の次席指揮者となり、1938年からメンゲルベルクと共に首席指揮者、1945年からメンゲルベルクの後をついで音楽監督兼終身指揮者に就任した。1959年に心臓発作で倒れ、57歳の若さで急逝した。デッカとフィリップスに多くの名演がある。トラック(4)で聴けるカデンツァを作曲したフンメル(1778-1837)はハンガリー出身、ウィーンでモーツァルト家に2年間住み込んでピアノを学んだ。1787年ピアニストとしてデビュー、ヨーロッパ各地を演奏旅行した。ハイドン、サリエリ、ベートーヴェンとも親交があった。作品はピアノ協奏曲を含むピアノ曲、室内楽曲、ピアノ教則本もあらわした。 | ||
G.カサドシュ〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K.503 (カデンツァ:R.カザドシュ) |
ギャビー・カザドシュ(P) ウジェーヌ・ビゴ指揮 ラムルーo. | |
録音:1949年8月24日、プレイエル音楽堂、パリ。ソース: 米 POLYDOR - VOX, PL 6520 (仏 POLYDOR 566341/7 と同一録音)。初期LP 特有のノイズあり。ピアノのギャビー・カザドシュ(1901-1999)は、マルセイユ生まれ、旧姓ガブリエル・ロート。パリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)とマルグリット・ロン(1874-1966)に師事、16歳で一等賞を得た。1921年にローベル・カザドシュと結婚し、デュオでの演奏会や録音も多かった。これは SP レコード最末期のフランス POLYDOR 録音で、LP はアメリカだけで発売された。他の録音にピアノ協奏曲第9番 K.271「ジュノム」があった。指揮者のウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)はパリ音楽院出身。シャンゼリゼ劇場の指揮者を経て、パリ音楽院o.、ラムルーo.、フランス国立放送o.、オペラ・コミックの指揮者を歴任、母校の指揮科の教授もつとめた。SP レコードに多く聴ける。 | ||
R.カサドシュ〜モーツァルト:ピアノ協奏曲集 〔第21番 ハ長調 K.467(カデンツァ:R.カザドシュ)(*) / 第27番 変ロ長調 K.595(カデンツァ:モーツァルト)(#) 〕 |
ロベール・カザドシュ(P) シャルル・ミュンシュ指揮(*) ジョン・バルビローリ指揮(#) NYP (*/#) | |
録音:1948年12月20日(*) /1941年11月3日(#)。ソース: 米 COLUMBIA, ML 4791 (*/#)。ピアノのロベール・カザドシュ(1899-1972)はパリの音楽一族に生まれ、パリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)に師事し、1913年に音楽院の一等賞、1920年にディエメール賞を得た。1921年にピアニストのガブリエル・ロートと結婚、二人は四手、2台ピアノでしばしば共演した。1935年からフォンテーヌブローのアメリカ音楽院で教鞭をとり、同年トスカニーニの指揮でアメリカにデビューした。1940年にアメリカに移住し、カーネギー・ホールでリサイタルを開いた。ヴァイオリニストのジノ・フランチェスカッティ(1902-1991)とのデュオは評判を呼んだ。戦後にヨーロッパに戻り再びフォンテーヌブローのアメリカ音楽院で教鞭をとった。ここに収録した第27番 K.595はカザドシュのアメリカでの初録音。以降多くの録音をCOLUMBIAに残した。指揮者のシャルル・ミュンシュ(1891-1968)はパリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)にヴァイオリンを学び、1928年-32年ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.のソロ第一ヴァイオリンをつとめ、同時に指揮法を身につけた。1938年に母校の指揮科の教授に就任、1949年にボストンso.の正指揮者となり62年までつとめた。指揮者のジョン・バルビローリ(1899-1970)はイギリス生まれ、1936年から43年にNYPの首席指揮者をつとめた。この録音はその時代の物。 | ||
バルビローリのチェロ独奏録音〜J.S.バッハ: チェロとピアノのためのソナタ ト長調 BWV.1027 |
ジョン・バルビローリ(Vc) エセル・バートレット(P) | |
英 NGS 133/4。録音:1929年11月。原曲はヴィオラ・ダ・ガンバのために書かれたソナタ。後に指揮者になったジョン・バルビローリ(1899-1970) 28歳のチェロによる録音。バルビローリは1916年ヘンリー・ウッドの率いるクエーネス・ホールo.にチェリストとして入団し活動を始めた。1921年にエルガーのチェロ協奏曲を演奏し、1925年には室内o.を組織して自ら指揮台に立った。1936年から43年に NYP の首席指揮者をつとめた。1943年イギリスに戻りハレo.の音楽監督となり1958までその地位にあった。ヒューストンso.の常任指揮者(1961-1967)をつとめたこともある。SPレコード時代はクライスラーやシュナーベルらの巨匠との録音がある。晩年EMIの看板指揮者になり名演奏を数多く残している。最近忘れられたハレo.時代の録音も発掘されて発売されている。 | ||
ル・ロワ&パスキエ兄弟、他〜モーツァルト:フルート四重奏曲集 〔第1番 ニ長調 K.285 (*) /第4番 イ長調 K.298 (#) 〕 ルネ・ル・ロワ(Fl) インターナショナルSQ 団員(*) [アンドレ・マンジョー(Vn) フランク・ハワード(Va) ハーバート・ウィザース(Vc)] パスキエ三重奏団(#) [ジャン・パスキエ(Vn) ピエール・パスキエ(Va) エティエンヌ・パスキエ(Vc)] | ||
英 NGS 112/3、録音:1928年7月12日、ロンドン(*) /英 HIS MASTER'S VOICE DB3365、録音:1937年10月8日(#)。ルネ・ル・ロワ(1898-1985)はフランスのフルート奏者。幼少時からフルート奏者だった父親に手ほどきをうけ、1916年パリ音楽院に入り1920年に卒業した。その後もフィリップ・ゴーベールの指導を受けた。1922年にパリ器楽五重奏団(フルート、ハープ、弦楽トリオ)を結成、オーケストラ活動をせずソロや室内楽奏者として、ヨーロッパ各地、アメリカを演奏旅行した。フォンテーヌブローのアメリカ音楽院(1932-1950)、カナダのモントリオール音楽院(1943-1950)、パリ音楽院(1952-1968)の教授をつとめた。インターナショナル弦楽四重奏団は1919年にパリ音楽院出身のヴァイオリニスト、アンドレ・マンジョーによってロンドンで結成された。このシリーズでコルトーとのフランク:ピアノ五重奏曲(78CDR-3125)が出ている。パスキエ三重奏団は1927年にヴィオラ奏者のピエールによって三兄弟で組織されたフランスを代表する弦楽三重奏団。多くの録音がある。 | ||
アンリ・メルケル〜フォーレ:ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 Op.15
アンリ・メルケル(Vn) アリス・メルケル(Va) ガストン・マルケジーニ(Vc) エリアーヌ・ズリュフリュ=タンロック(P) | ||
英 HIS MASTER7S VOICE D2106/9 (仏 DISQUE GRAMOPHON L973/5 と同一録音)。録音:1933年11月29日-30日、パリ。この名曲のおそらく世界最初の録音と思われる。ピアニストのエリアーヌ・ズリュフリュ=タンロックは1900年生まれでパリ音楽院出身。このフォーレ以外にラヴェルのピアノ三重奏曲を録音していた。他にバラキレフの「イスラメイ」、ラヴェルの「道化師の朝の歌」の録音もあった。ヴァイオリンのアンリ・メルケル(1897-1969)は1914年にパリ音楽院のヴァイオリン科で一等賞を得た。パリ・オペラ座o.、コンセール・ラムルーo.のヴァイオリン奏者をつとめた後、1929年からパリ音楽院のコンサート・マスターになり、その後ソリスト、室内楽奏者として活躍した。メルケルはこのシリーズにベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3020)、ラロ:スペイン交響曲(78CDR-3107)、サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番(78CDR-3166)が出ている。 | ||
ヴィヴァルディ:合奏協奏曲集「調和の幻想」 Op.3, Vol.2 〔第7番 ニ短調(4つのヴァイオリンとチェロのための)/第8番 イ短調(2つのヴァイオリンのための)/ 第9番 ニ長調(ヴァイオリンのための)/第10番 ロ短調(4つのヴァイオリンのための)/ 第11番 ニ短調(2つのヴァイオリンとチェロのための)/第12番 ホ長調(ヴァイオリンのための)〕 ヤン・トマソウ、ヴィリー・ボスコフスキー、フィリップ・マタイス、 ヴァルター・ヘンテルマイアー(ソロVn) リヒャルト・ハンラント(ソロVc) マリオ・ロッシ指揮ウィーン国立歌劇場室内合奏団 ヘルマン・ノルトベルク(Cemb) | ||
米 VANGUARD [BACH GUILD], BS-573b/4 (U.S.) (Mono) 。録音:1956年。 | ||
ヴィヴァルディ:合奏協奏曲集「調和の幻想」 Op.3, Vol.1 〔第1番 ニ長調(4つのバイオリンとチェロのための)/ 第2番 ト短調(2つのヴァイオリンとチェロのための)/ 第3番 ト長調(ヴァイオリンのための)/協奏曲第4番 ホ短調(4つのヴァイオリンのための)/ 第5番 イ長調(2つのヴァイオリンのための)/協奏曲第6番 イ短調(ヴァイオリンのための)〕 ヤン・トマソウ、ヴィリー・ボスコフスキー、フィリップ・マタイス、 ヴァルター・ヘンテルマイアー(ソロVn) リヒャルト・ハンラント(ソロVc) マリオ・ロッシ指揮ウィーン国立歌劇場室内合奏団 ヘルマン・ノルトベルク(Cemb) | ||
米 VANGUARD [BACH GUILD], BS-572/3a (U.S.) (Mono) 。録音:1956年。アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)は司祭の職でヴェネツィア女子孤児院の音楽学校で指導にあたり、その作品は女子の合奏団のために作曲された。「調和の幻想」作品3は12曲からなる合奏協奏曲集で、このタイトルに惹かれたJ.S.バッハ(1685-1750)は第2番、第3番、第9番、第12番をチェンバロ協奏曲に、第6番、第11番をオルガン協奏曲に、第10番をチェンバロと弦楽・通奏低音用に編曲した。 指揮者のマリオ・ロッシ(1902-1992)はローマ生まれ、聖チェチーリア音楽院で作曲をレスピーギに、指揮法をジャコモ・セタッチョリに学んだ。音楽院卒業後指揮者のベルナディーノ・モリナーリの助手をつとめ、聖チェチーリア音楽院o.の副指揮者を、さらに1936年からフィレンツェ五月音楽祭の常任指揮者をつとめた。1946年からトリノ・イタリア放送so.の首席指揮者をつとめる一方、イタリア各地およびヨーロッパの主要オーケストラに客演した。1953年にシェーンベルク賞、1960年にはヴィオッティ金メダルを授与された。 ヴァイオリンのヤン・トマソウ(1914-1961)はアルゼンチン生まれ。カール・フレッシュ(1873-1944)とヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)に師事した。ワシントン・ナショナルso.やボルティモアso.のコンサートマスターを歴任し、トーマス・シャーマンのリトルo.・ソサイエティのソリスト、ヨーロッパの主要オーケストラのソリストとして活躍した。録音は米ヴァンガードに多くある。ヴィリー・ボスコフスキー(1909-1991)はオーストリアのヴァイオリニスト。1933年VPOに入団、1939年にコンサートマスターになり、1949年第1コンサートマスターだったヴォルフガング・シュナイダーハンの退団で、第1コンサートマスターに就任し1970年までつとめた。一方1955年から1979年までVPOのニューイヤー・コンサートの指揮者をつとめた。何度も来日している。フィリップ・マタイスは録音当時VPOのアシスタント・コンサートマスターだった。ヴァルター・ヘンテルマイアーとチェロのリヒャルト・ハンラントはウィーン・フォルクスオーパーo.のコンサートマスターをつとめていた。 | ||
パスカルSQ 〜モーツァルト:弦楽四重奏曲第22番 変ロ長調 K.589「プロシャ王第2番」
パスカルSQ [ジャック・デュモン(Vn1) モーリス・クリュ(Vn2) レオン・パスカル(Va) ロベール・サル(Vc)] | ||
ソース: 仏 BAM 83-85 /録音:1949年10月29日。パスカル弦楽四重奏団は1941年、カルヴェ弦楽四重奏団のヴィオラ奏者だったレオン・パスカル(1899-1969)によって南仏マルセイユで結成された。ドイツ占領下のヴィシー政権の影響が直接及ばない地を選んだものと想像する。フランス国立放送o.に所属してからORTF弦楽四重奏団と呼ばれた時期もある。第1ヴァイオリンのジャック・デュモン(1913-)はパリ音楽院でジュール・ブーシュリ(1877-1962)に師事し、1934年に一等賞を得た。1973年デュモンが引退して解散した。フランスの弦楽四重奏団で初めてベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲録音をした。 LP 時代にアメリカのコンサート・ホール・ソサイエティに大量の録音をしていた。 | ||
カルヴェSQ 〜ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 Op.95
カルヴェSQ [ジョゼフ・カルヴェ(Vn1) ダニエル・ギレヴィチ〔ギレ〕(Vn2) レオン・パスカル(Va) ポール・マ(Vc)] | ||
ソース: 独 TELEFUNKEN, E 2960-62 /録音:1938年10月17日。カルヴェ弦楽四重奏団はジョゼフ・カルヴェ(1897-1984)によって1919年に結成された。1928年にナディア・ブーランジェの発意でベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をフランスで開いた。この録音は創立メンバーによる物。リーダーのカルヴェ以外のメンバーは3人は1940年に離籍した。カルヴェは1935年にパリ音楽院教授になり、四重奏団の活動と同時に後進の指導にあたった。第2ヴァイオリンのダニエル・ギレヴィチは1941年に米国に移住したダニエル・ギレ(1899-1990)で、トスカニーニ指揮のNBCso.に入り1951年にコンーサート・マスターになった。またギレ弦楽四重奏団を結成、1954年にはボザール・トリオを結成した。ヴィオラのレオン・パスカルは1941年にパスカル弦楽四重奏団を結成しフランスを代表する弦楽四重奏団として名声を博した。 | ||
ブダペストSQ 〜ハイドン&ディッタースドルフ:弦楽四重奏曲集 1926 ハイドン:弦楽四重奏曲第75番 ト長調 Op.76 No.1 Hob.III-75 「エルデディ」 ディッタースドルフ:弦楽四重奏曲第1番 ニ長調〜アレグロ ブダペストSQ [エミル・ハウザー(Vn1) イムレ・ポガニー(Vn2) イシュトヴァーン・イポリ(Va) ハリー・ソン(Vc)] | ||
ソース: 英 HIS MASTER'S VOICE, D 1075-77 /録音:1926年1月28日、2月4日&11日。ブダペスト弦楽四重奏団オリジナル・メンバー(第2ヴァイオリンは2代目)による電気録音最初期の物。1930年代にリーダーはロシア生まれのヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)になり、他の奏者も全員ロシア出身の音楽家に代わり、20世紀半ばには世界最高の弦楽四重奏団になった。その団体の原点にあたるオリジナル・ブダペスト弦楽四重奏団は同じハンガリー出身のレナー弦楽四重奏団を追ってHMVに登場した軽やかな足取りの爽やかな演奏スタイルが、後年のロイスマン時代のものと異なる。この同時代の演奏でドヴォルジャーク「アメリカ」(78CDR-3376)が出ている。 | ||
ブダペストSQ 〜ハイドン:弦楽四重奏曲集 1947 〔第67番 ニ長調 Op.64 No.5, Hob.III-63 「ひばり」/ 第78番 変ロ長調 Op.76 No.4 Hob.III-78 「日の出」〕 ブダペストSQ [ヨーゼフ・ロイスマン(Vn1) エドガー・オルテンベルグ(Vn2) ボリス・クロイト(Va) ミッシャ・シュナイダー(Vc)] | ||
ソース: 米 COLUMBIA, ML 4216 (Mono) [米 COLUMBIA, 72836-38-D (78s) と同一録音 ] /録音:1947年5月2日、リーダークランツ・ホール、ニューヨーク。ブダペスト弦楽四重奏団は1917年ブダペスト歌劇場o.のメンバーによって結成され、1967年に解散した。1930年にリーダーがロシア生まれのヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)になり、アメリカをベースに活動し20世紀中期最高の四重奏団として君臨した。この録音は SP レコードの末期の1947年に録音され、それまで第2ヴァイオリンだったアレクサンダー・シュナイダー(1908-1993)が抜けて、エドガー・オルテンベルグ(1900-1996)が入った時期の物。ヴィオラのボリス・クロイト(1897-1969)は1936年からメンバーになったロシア生まれの奏者。チェロのミッシャ・シュナイダー(1904-1985)は1930年から加わった。シュナイダーもロシア生まれ、ライプツィヒでユリウス・クレンゲル(1859-1933)に師事した。ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダーの弟。 | ||
ギレSQ 〜モーツァルト:弦楽四重奏曲集 〔第19番 ハ長調 K.465「不協和音」/第21番 ニ長調 K.575「プロシャ王第1番」〕 ギレSQ [ダニエル・ギレ(Vn1) ヘンリー・シーグル(Vn2) ウィリアム・シェン(Va) デイヴィッド・ソイヤー(Vc)] | ||
ソース:米 CONCERT HALL SOCIETY, CHS 1130 /録音:1951年。リーダーのダニエル・ギレ(1899-1990)はロシア生まれ。パリ音楽院でジョルジュ・エネスコとギヨーム・レミに師事し、オペラ・コミックのコンサート・マスター、カルヴェ弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者を務めた後、1941年にアメリカに移住、ギレ弦楽四重奏団を組織、1944年にトスカニーニ指揮のNBCso.に入団、1951年にコンサート・マスターになった。1954年にはピアニストのメナヘム・プレスラーとチェロのバーナード・グリーンハウスと共にボザール三重奏団を結成した。1969年に引退し、イシドア・コーエンがそのポジションを引き継いだ。ギレ弦楽四重奏団は結成当時からメンバーが何回か替わっている。このシリーズでは1947年録音のバルトーク:弦楽四重奏曲第4番(78CDR-3335)がギレ以外は別のメンバーの演奏で出ている。 | ||
クレンペラー&パリ・プロ・ムジカ〜 モーツァルト:交響曲第36番 ハ長調 K.425「リンツ」 |
オットー・クレンペラー指揮 パリ・プロムジカ室内o. | |
仏 POLYDOR A6329/31。録音:1950年1月30日、パリ、サル・ショパン。CDは、以前 VOX から2度発売されたが、既に入手困難となっている。オットー・クレンペラー(1885-1973)はドイツ生まれ、1910年からドイツ各地のオペラハウスでキャリアを積んだ。1927年-31年にはベルリンのクロール・オペラの指揮者をつとめた。ユダヤ人の彼は1937年ナチスの迫害を逃れてアメリカに移住、市民権を得てロサンゼルス・フィルハーモニーの音楽監督のポジション得た。だがカリフォルニアの土地になじめずその地位を離れた。第2次世界大戦が終わるとヨーロッパ楽壇に復帰した。この録音はヨーロッパ復帰直後のパリで行われた。プロムジカ室内o.は実体はラムルーo.。この録音はSPレコード末期のもので日本ではほとんど知られていなかった。大指揮者の颯爽とし名演奏を、晩年の演奏と比較しながら聴かれることをおすすめする。 | ||
カルヴェSQ 〜ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 Op.131
カルヴェSQ [ジョゼフ・カルヴェ(Vn1) ダニエル・ギレヴィチ〔ギレ〕(Vn2) レオン・パスカル(Va) ポール・マ(Vc)] | ||
独 TELEFUNKEN E 2590/4。録音:1938年1月17日、19日。カルヴェ弦楽四重奏団はリーダーのジョゼフ・カルヴェ(1897-1984)によって1919年に結成された。1928年にナディア・ブーランジェの発意でベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をフランスで開いた。この録音は創立メンバーによる物。リーダーのカルヴェ以外のメンバー3人は1940年に離籍した。カルヴェは1935年にパリ音楽院教授になり、四重奏団の活動と同時に後進の指導にあたった。第2ヴァイオリンのダニエル・ギレヴィチは1941年に米国に移住したダニエル・ギレ(1899-1990)で、トスカニーニー指揮のNBCso.に入り1951年にコンーサート・マスターになった。またギレ弦楽四重奏団を結成、1954年にはボザール・トリオを結成した。ヴィオラのレオン・パスカルは1941年にパスカル弦楽四重奏団を結成しフランスを代表する弦楽四重奏団として名声を博した。 | ||
ゴールドベルク&クラウス〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 Op.24「春」 |
シモン・ゴールドベルク(Vn) リリー・クラウス(P) | |
仏 ODEON 123839/41 (日本コロムビア J 8531/3 と同一録音)。録音:1936年、東京。( M55128/33 は日本コロムビアの Matrix 番号) 。第1面でテイク7の原盤が使われている。ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)とピアノのリリー・クラウス(1903-1986)による1936年日本公演の際の日本コロムビアでのスタジオ録音。これはフランスで発売されたODEON盤のSPレコードからのダイレクト・トランスファー。ポーランド生まれのゴールドベルクは8歳の時ベルリンで名教師カール・フレッシュ(1873-1944)に師事し、12歳でワルシャワでデビューした。1916年16歳でドレスデンpo.のコンサートマスターに任命され、1929年20歳の時フルトヴェングラー(1886-1954)の招きでベルリン・フィルハーモニーのコンサートマスターに就任した。1934年ドイツで政権を得たナチスによってBPOのコンサート・マスターの地位を追われ、ニューヨークでデビュー。戦後アメリカ国籍を得て、演奏活動と後進の指導に活躍した。1990年から没年まで新日本フィルハーモニーの指揮者をつとめ、富山県の立山のホテルにて死去した。ピアノのリリー・クラウスはハンガリー生まれ、ブダペスト音楽院でゾルターン・コダーイ(1882-1967)やベラ・バルトーク(1881-1945)に師事した。さらにウィーンでアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)の薫陶をえた。1942年シモン・ゴールドベルクとアジア楽旅の時、ジャワ島で日本軍に捕らえられ、家族共々1945年まで抑留生活を送った。戦後はイギリス国籍を取得し活発な演奏活動を行った。 | ||
リッチ&ビゴ〜サン=サーンス&ラヴェル サン=サーンス: ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調 Op.61 ラヴェル:ツィガーヌ |
ルッジェーロ・リッチ(Vn) ウジェーヌ・ビゴ〔ビゴー〕指揮 ラムルーo. | |
米 VOX VLP6240 (Mono) (原録音:仏 POLYDOR 566245/8, 78rpm) 。録音:1947年12月16日-17日、パリ。ルッジェーロ・リッチ(1918-2012)はアメリカのヴァイオリニスト。メニューインの師でもあったルイ・パーシンガー(1887-1966)に師事し、16歳でサンフランシスコでデビューした。1930年代にベルリンでゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)の門下に入った。1942年から1945年まで米軍籍で慰問演奏に携わった。この録音は大戦後間もなくの1947年パリで行われた。リッチの初協奏曲録音として記念すべき物。フランスではSPレコードでの発売だったが、アメリカではこのLPのみの発売だった。ウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)はフランスの指揮者。1935年から1950年まで名門ラムルーo.の首席をつとめ、 SP レコードの録音も数多かった。録音当時29歳だったリッチをフルサポートして名演奏を実現したのもビゴーの力によるものと思う。音は良くないが、知られざる名演奏の発掘としてヴァイオリンの愛好家に聴いて頂きたくこのシリーズに組み込んだ。 | ||
シゲティ、ホルショフスキ、フォルデス〜ベートーヴェン&シューベルト ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ニ長調 Op.12 No.1 (*) シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第1番 ニ長調 D.384, Op.137 No.1 (#) ヨーゼフ・シゲティ(Vn) ミエツィスワフ・ホルショフスキ(P;*) アンドール・フォルデス(P;#) | ||
米 COLUMBIA ML4133 (Mono)。録音:1946年5月20日、コロンビア・スタジオ(*)、1941年11月25日、1942年4月17日、リーダークランツ・ホール(#)、ともにニューヨーク。初期LP特有のノイズあり。ヴァイオリンのヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリー生まれ、ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。1905年ベルリンで大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)に認められ、1917年から24年にはスイスのジュネーヴ音楽院で教えた。1940年にアメリカに移住した。ピアノのミエツィスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)はポーランド生まれ、99歳までコンサート・ステージに登場していた。4歳の頃から神童といわれ、1899年にウィーンに移り住み、名教師レシェティツキの指導を受けた。第2次大戦中にアメリカに移住、カーティス音楽院で後進の指導にあたる一方、室内楽奏者として活躍、録音も多い。アンドール・フォルデス(1913-1992)はブダペスト生まれ、後にアメリカ国籍を得た。 この録音はマスターがテープではなくディスク録音で最初は SP で発売された。当復刻は SP レコードからではなく、マスターディスクから直接トランスファーされた LP をソースとしている。 | ||
ティアナ・レムニッツ ワーグナー:ヴェーゼンドンク歌曲集 シューベルト:アンセルモの墓にて Op.6 No.3, D.504 |
ティアナ・レムニッツ(S) ミヒャエル・ラウハイゼン(P) | |
英 DECCA LY 6141-2 & CA 8253, 独 POLYDOR 57084-5 & 57028と同一録音。録音:1936年4月6日、1937年4月10日、4月12日、4月24日。ティアナ・レムニッツ(1897-1994)ドイツのソプラノ。ハイルブロン歌劇場でデビューし、その後アーヘン(1922-28)、ハノーヴァー(1928-34)、ドレスデン(1928-34)などの歌劇場に出演した。1934年にベルリン国立歌劇場のメンバーに抜擢され1957年まで在籍した。その間ミュンヘン州立歌劇場やウィーン国立歌劇場、ザルツブルク音楽祭にも出演した。また1936年にはロンドンのコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ、ブエノス・アイレスのテアトロ・コロンにも出た。メトロポリタン歌劇場には1938年に出演している。ピアノのミヒャエル・ラウハイゼン(1899-1984)はドイツのピアニスト、伴奏者としてエルナ・ベルガー(1900-1990)、エリーザベト・シュヴァルツコプフ(1915-2006)ほか幾多の名歌手の伴奏者をつとめた。1933年からドイツ語歌曲のすべてをレコードに録音することを企画し、そのため1940年にベルリンのドイツ帝国放送局の声楽・室内楽部の部長に就任。戦後これがナチス協力に問われ、数年間の活動禁止を命じられた。レムニッツはオーケストラ伴奏(ローベルト・ヘーガー指揮)の同曲がLPで出ていた(米 URANIA 7019)。 | ||
A.モギレフスキー〜ファリャ/コハニスキ編曲:スペイン民謡組曲 〔ムーア人の衣装/子守歌[J 5632 A (JTW 178) ]/歌/ポロ[J 5632 B (JTW 179) ]/ アストゥリア地方の歌[J 5633 A (JTW 180) ]/ホタ[J 5633 B (JTW 181) ]〕 アレクサンダー・モギレフスキー(Vn) ナディーネ・ロイヒテンベルグ(P) | ||
日 COLUMBIA J 5632-3。録音:1939年、東京。アレクサンダー・モギレフスキー(1885-1953)はロシアのオデッサ(現ウクライナ)生まれ。7歳でヴァイオリンを始めロストフの音楽学校で学んだ後、モスクワでヤン・グルジマリに師事した。モスクワで弦楽四重奏団を組織したり、教員生活を送った後、1922年にパリに移住、リュシアン・カペー(1873-1928)とも親交をもち、ロシア系の豊麗な音色に加えてフランス風の洗練された独特の音色を身につけた。1926年11月に初来日、1930年に再来日してから1953年亡くなるまで、演奏家として、優れた教師として日本の音楽界に多大な貢献をした。ピアノのロイヒテンベルグはモギレフスキー夫人。伴奏者として活躍した。 | ||
カユザック&コペルSQ 〜モーツァルト:クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581
ルイ・カユザック(Cl) コペルSQ [エルゼ・マリー・ブルーン(Vn1) アンドレアス・シレホッド(Vn2) ユリウス・コペル(Va) トルベン・アントン・スヴェンセン(Vc)] | ||
デンマーク COLUMBIA LDX 7003-5。録音:1948年10月31日、11月1日。ルイ・カユザック(1880-1960)はフランスのクラリネット奏者、作曲家。トゥールーズ音楽院でフェリッス・パジェに、パリ音楽院でシリユ・ローズ(1830-1902)に師事した。1901年にパリ・オペラ座o.に入り、1920年までコロンヌo.の首席奏者をつとめた。1920年以後はソリストとして活躍した。カユザックはこのシリーズでニルセンのクラリネット協奏曲作品57(78CDR-3411)が出ている。コペル弦楽四重奏団は1945年にユリウス・コペル(1910-2007)と夫人のエルゼ・マリー・ブルーン(1911-2007)によって組織された。二人はデンマーク王立o.のメンバーだった。デンマーク室内楽の中核をなす団体だった。 | ||
フランチェスカッティ&カサドシュ、モノラル録音〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」 ジノ・フランチェスカッティ(Vn) ロベール・カザドシュ(P) | ||
米 COLUMBIA ML4327 (Mono)。録音:1949年12月28日。ジノ・フランチェスカッティ(1902-1991)はフランスの名ヴァイオリニスト。マルセイユに生まれヴァイオリニストだった父親とその門下生だった母親の手ほどきを受けて研鑽を積み、5歳でリサイタルを開き10歳でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を公開演奏した。一時法律家を志したが父親の早逝でヴァイオリニストになる決意をし、1924年にパガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番でパリ・デビューし、その後ジャック・ティボー(1880-1953)の薫陶を得た。1939年にソリストとしてアメリカにデビュー、そのままニューヨークに定住した。ピアノのロベール・カザドシュ(1899-1972)はパリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)に師事し、1913年に一等賞を1920年にディエメール賞を得た。1921年にギャビー夫人と結婚しデュオ演奏もしている。第2次大戦中にアメリカに移住した。この「クロイツェル」ソナタはティボーとコルトーの名演奏(78CDR-3015)の丁度20年後に登場したフランスの名手による録音で後年のステレオ録音に比べて圧倒的に優れている。 | ||
シャイエ=リシェ、フェラス、ランパル、エネスク〜J.S.バッハ: ブランデンブルク協奏曲第5番 ニ長調 BWV.1050 / ピアノ、ヴァイオリンとフルートのための協奏曲 イ短調 BWV.1044 セリニー・シャイエ=リシェ(P) クリスティアン・フェラス(Vn) ジャン=ピエール・ランパル(Fl) ジョルジェ・エネスク指揮パリ室内楽協会o. | ||
仏 DECCA FAT 133530 (Mono)。録音:1952年。エネスコ最晩年の超希少盤。ジョルジュ・エネスコ〔ジョルジェ・エネスク〕(1881-1955)は20世紀前半に活躍したルーマニア出身の大音楽家。7歳でウィーン音楽大学に入学を許され、1893年12歳で音楽院の最高メダルを得た。引き続きパリ音楽院で学び1899年にヴァイオリンで一等賞を得た。ヴァイオリニスト、ピアニスト、指揮者、作曲家として活躍し、このシリーズではヴァイオリニストとしての主要録音はすべて聴ける。ピアノのセリニー・シャイエ=リシェ(1884-1973)はパリ音楽院でラウル・ピュニョ(1852-1914)に師事し、1896に14歳で一等賞を得た。彼女は1926年にエネスコに出会い以後何度も共演している。ヴァイオリンのクリスティアン・フェラス(1933-1982)はパリ音楽院出身、1946年に一等賞、1948年にオランダのスヘフェニンヘン国際コンクールに優勝、1949年にエネスコの指導を得て、ロン=ティボー国際コンクールで 2位に入賞した。その後ソリストとして目ざましい活躍をしたが、1982年50歳の誕生日を迎える直前に死去した。フルートのジャン=ピエール・ランパル(1922-2000)は医学をめざしたが大戦のためパリ音楽院でフルート科に入りわずか5ヶ月で一等賞を得た。音楽院ではガストン・クリュネルに師事した。1947年にジュネーヴ国際コンクールに優勝しソロ活動を始めた。フェラスが19歳、ランパルが30歳の時の録音。 | ||
アイリーン・ジョイス〜モーツァルト: ピアノ・ソナタ第17番 ニ長調 K.576 (*) / ピアノ・ソナタ第12番 ヘ長調 K.332 (#) / ロマンス 変イ長調 K.Anh.205 (+) |
アイリーン・ジョイス(P) | |
英 COLUMBIA DX 1011/2(*)、DX 1034/5(#/+)。録音:1941年5月6日(*)、8月29日(#)、9月8日(+)。アイリーン・ジョイス(1908-1991)はオーストラリア生まれのイギリスのピアニスト。オーストラリア西部に楽旅したヴィルヘルム・バックハウスがジョイスの演奏を聴きライプツィヒ音楽院を薦めた。その後ロンドンの王立アカデミーに入りトバイアス・マッセイに師事した。1930年にロンドンのヘンリー・ウッド・プロムナードコンサートでプロ・デビューし、翌年ソロ・リサイタルも開いている。その後順調に進み1930年代から1940年代には人気が絶頂に達1947年のBPOと共演したとき、ドイツの高名な評論家は彼女をクララ・シューマン、ゾフィー・メンテル、テレサ・カレーニョになぞらえた。また1950年のアメリカ公演ではアーヴィング・コロディンは彼女を世界最高の知られざる演奏家だとほめた。1950年代になって名前を知られるようになり、映画「逢いびき」のサウンドトラックでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾いていたのは彼女だった。その他の映画にもにも出演した。この70年前のレコーディングは聴き手を不思議な世界に誘ってくれる。ピアノ愛好家の必聴盤。 | ||
K.ロング&ボイド・ニール〜 モーツァルト:ピアノ協奏曲第15番 変ロ長調 K.450 (カデンツァ:モーツァルト) |
キャスリーン・ロング(P) ボイド・ニール指揮 ナショナルso. | |
録音:1944年12月14日、ロンドン、キングズウェイ・ホール。キャスリーン・ロング(1896-1968)はロンドン郊外のベントフォードに生まれたイギリスのピアニスト。神童として名を馳せ8歳で公開演奏会で弾いた。1915にロンドンのエオリアン・ホールでデビューした。1920年から1964年まで母校の王立音楽カレッジで教鞭をとった。モーツァルト、ハイドン、ハッハなどの作品を得意とし、英DECCA にレコードを残している。指揮者のボイド・ニール(1905-1981)はイギリス生まれ。外科医師から音楽家に転向し、1932年自らの名を冠した室内オーケストラを指揮してエオリアン・ホールでデビューし、その後DECCAと契約して活躍した。ナショナルso.は指揮者のシドニー・ビーアが創立したオーケストラで、DECCAに多くの録音があった。 このシリーズではDECCAのffrr録音の第1号になったビーア指揮のチャイコフスキー:交響曲第5番(第2楽章のソロホルンがデニス・ブレイン)(1944年6月8日、キングズウェイ・ホール録音)(78CDR-3158)が出ている。 | ||
レナーSQ &ブレイン親子〜モーツァルト:デヴェルティメント第17番 ニ長調 K.334
レナーSQ[レナー、スミロヴィッツ(Vn) ロート(Va) ハルトマン(Vc)] オーブリー・ブレイン、デニス・ブレイン(Hr) | ||
米 COLUMBIA 70034/8-D (Set MM379) 〔英 COLUMBIA LX841/5 と同一録音〕。録音:1939年2月16日。レナー弦楽四重奏団と名ホルン奏者ブレイン親子によるモーツァルト。レナー弦楽四重奏団は1918年にブダペスト音楽院出身の4人によって結成され、1920年にウィーンでデビューした。デビュー前の2年間は田舎の村で共同生活をして1日、12時間の練習を重ねたと伝えられる。1922年にロンドン・デビュー、同時にイギリス・コロンビアの専属アーティストとなった。ホルンのオーブリー・ブレイン(1893-1955)は1911年に王立アカデミーで奨学金を受け、その後新so.の首席に就任。1913年には大指揮者アルトゥール・ニキシュ指揮LSOの北米楽旅に参加した。1923年から王立アデミーで教鞭をとった。デニス・ブレイン(1921-1957)はオーブリーの息子。父親の指導を受けた。デニスは1957年9月1日、エディバラからロンドンに戻る途中。自身が運転するスポーツカー(トライアンフTR2)の事故で命を落とした。享年36歳。 | ||
ジョルジェ・エネスク〜シューマン: ヴァイオリン・ソナタ第2番 ニ短調 Op.121 |
ジョルジェ・エネスク(Vn) セレニ・シャイエ=リシェ(P) | |
米 REMINGTON RLP149-50。録音:1950年。ジョルジェ・エネスク〔ジョルジュ・エネスコ〕(1881-1955)は20世紀前半に活躍したルーマニア出身の大音楽家。7歳でウィーン音楽大学に入学を許され、1893年12歳で最高メダルを得た。1894年にパリ音楽院に入りヴァイオリンをマルタン・マルシック(1848-1924)、和声と作曲をアンドレ・ゲダルジュ(1856-1928)、ジュール・マスネ(1842-1914)、ガブリエル・フォーレ(1845-1924)に師事し、1899年にヴァイオリンで一等賞を得た。1902年にベルリンでデビュー、1910年にはピアニストのエドゥアール・リスレル(1873-1929)とベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの全曲演奏会を開いた。1929年にアメリカ・コロンビアに録音した6枚のSPレコードはレコード史上に輝く最高傑作で、また1949年最初期のLPに録音したJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全6曲(33CDR-3384と33CDR-3385)はエネスコが残した金字塔。ピアノのセリニー・シャイエ=リシェ(1884-1973)はパリ音楽院でラウル・ピュニョ(1852-1914)に師事し、1898年14歳で一等賞を得た。彼女は1932年から1952年の間にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの全曲演奏会を何度も開いた。この録音は大音楽家の遺産として後世に残したいかけがえのない演奏。 | ||
ジャン・シャンペイユ〜J.S.バッハ無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータより ソナタ第1番 ト短調 BWV 1001 より〔アダージョ/ Siciliano〕/ パルティータ第1番 ロ短調 BWV 1002 より〔 Allemande-Double / Sarabande-Double / Bouree 〕/ ソナタ第2番 イ短調 BWV 1003 より〔 Grave /アンダンテ〕/ ソナタ第3番 ハ長調 BWV 1005 より〔アダージョ/ Largo 〕/ パルティータ第2番 ニ短調 BWV 1004 より〔 Sarabande / Gigue / Chaconne]/ パルティータ第3番 ホ長調 BWV 1006 より〔 Prelude / Loure / Gavotte / Menuet 〕 ジャン・シャンペイユ(Vn) | ||
仏 VEGA C30S208 (Mono)。録音:1958年11月4日。ジャン・シャンペイユ(1910-?)はパリ音楽院で Ed.Nadaud とF.Touche に師事し、後にジョルジュ・エネスコについた。ラムルーo.とパリ・オペラ座o.のソロ・ヴァイオリンをつとめた。イザイ国際ヴァイオリン・コンクール(ベルギー、エリザベート女王音楽コンクール)でダヴィド・オイストラフと同時期の入賞者でもあった。ガブリエル・ピエルネ(1863-1937)、ポール・パレー(1886-1979)、ヤッシャ・ホーレンスシュタイン(1898-1973)、ウラディミル・ゴルシュマン(1893-1972)、アルベール・ヴォルフ(1884-1970)等の指揮者と共演した。また1944年から1950年にはカルヴェ弦楽四重奏団でも活躍し、ピアニスト、ニコル・アンリオ(1925-)とのベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタの演奏でも評判をとった。ジャック・ティボー、ジョルジュ・エネスコたちのフランス・ヴァイオリン楽派の後継者。 | ||
グリュミオーによる知られざる録音〜マルセル・キネ(1915-1986): ヴァイオリンと管弦楽のための協奏的スケッチ(*) /管弦楽のための3つの小品(1951) アルテュール・グリュミオー(Vn;*) フェルナン・キネ指揮ベルギー国立o. | ||
白 DECCA 133.198 (Mono)。録音:1952年、ブリュッセル。グリュミオーの知られざる録音。アルテュール・グリュミオー(1921-1986)はベルギーの名ヴァイオリニスト。 6歳で生地のシャルルロワ音楽院にはいり、5年の間にヴァイオリンとピアノで一等賞になり、その後ブリュッセル王立音楽院でアルフレッド・デュボワ(1898-1944)について研鑽をつんだ。さらにパリでジョルジュ・エネスコ(1881-1955)の指導を受けた。1946年にイギリス・コロンビアにバッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲 BWV1043をSPレコード2枚に初録音した(78CDR-3213)。グリュミオーは1953年、当時スタートしたばかりのオランダ・フィリップスに録音を始めた。フィリップスへの全録音はCD化されている。この録音はフィリップス専属になる1年前に、ベルギーの作曲家マルセル・キネ(1915-1986)の協奏的スケッチにソリストで登場した物。 マルセル・キネはブリュッセル音楽院で作曲を学び、1945年にベルギーのローマ賞を得た。その作風はパウル・ヒンデミット(1895-1963)に似ていると言われる。指揮者のフェルナン・キネ(1898-1971)はモンスとブリュッセルの音楽院に学び、13歳でブリュッセルのモネ劇場のチェリストとなり、1921年にカンタータ「戦争」の作曲でローマ賞を受賞した。1938年にはリエージュ音楽院の校長に就任した。リエージュで室内オーケストラを組織し、1960年にはリエージュ・フィルになった。 | ||
ジョルジェ・エネスク〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」 ジョルジェ・エネスク(Vn) セレニー・シャイエ=リシェ(P) | ||
仏 COLUMBIA FC1058。録音:1952年、パリ。ジョルジェ・エネスク(1881-1955)は20世紀前半に活躍したルーマニア出身の大音楽家。7歳でウィーン音楽大学に入学を許され、1893年12歳で音楽院の最高メダルを得た。1894年にパリ音楽院に入学、ヴァイオリンをマルタン・マルシック(1848-1924)、和声と作曲をアンドレ・ゲダルジュ(1856-1928)、ジュール・マスネ(1842-1914)、ガブリエル・フォーレ(1845-1924)に師事し、1899年にヴァイオリンで一等賞を得た。1902年にベルリンにデビュー、1910年にはピアニストのエドゥアール・リスレル(1873-1929)とベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの全曲演奏会を開いた。1929年にアメリカ・コロンビアに録音した6枚のSPレコードはレコード史上に輝く最高傑作で、また1949年に最初期のLPに録音したJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全6曲(33CDR-3384と33CDR-3385)はエネスクの残した金字塔。 ピアノのセリニー・シャイエ=リシェ(1884-1973)はパリ音楽院でラウル・ピュニョ(1852-1914)に師事し、1898年に14歳で一等賞を得た。彼女は1926年にエネスクに出会い、1932年から1952年の間にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲の演奏会を何度も開いた。 この「クロイツェル」ソナタはエネスクの引退後にパリで録音された物。エネスクは発売を許可しなかったのだろうか、録音後お蔵入りになっていた。エネスク没後の1956年にフランス・コロンビアから10インチLPで発売された。エネスクの主要録音はこのシリーズでほとんど出ている。 | ||
ロス・アンヘレス〜ファリャ:7つのスペイン民謡 〔ムーア人の衣装/ムルシア地方のセギディーリャ/アストゥリア地方の歌/ホタ/子守歌/歌/ポロ〕 ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス(S) ジェラルド・ムーア(P) | ||
英 HIS MASTER'S VOICE DB9731/2。録音:1951年9月12日、ロンドン、アビー・ロードEMI第3スタジオ。ソプラノのビクトリア・デ・ロス・アンヘレス(1923-2005)はスペインのバルセロナ出身。幼少期より声楽とギターを習い、リセウ音楽院でピアノと声楽を学んだ。1944年にバルセロナでリサイタルを開きプロ・デビュー。1947年のジュネーヴ国際音楽コンクールに優勝し脚光をあびた。1950年にはザルツブルク音楽祭とコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ、ミラノ・スカラ座にデビュー、さらにニューヨークのカーネギー・ホールでリサイタルを開き国際的に知られるようになった。この録音は彼女の初期の録音で、SPレコードの末期に作られた。録音当時彼女は28歳だった。 ジェラルド・ムーア(1899-1987)はイギリスのピアニスト。ハートフォード州ワトフォードに生まれ、カナダのトロントで音楽教育を受けた。著名な歌手の伴奏者として、リサイタルやレコード録音で活躍し、1954年に大英勲章(OEB)を授与された。1967年2月20日に開かれたムーアの引退記念演奏会にはフィッシャー=ディースカウやシュヴァルツコプフと共にロス・アンヘレスも出演した。 | ||
レナーSQ団員、ホブデイ、ドレイパー、 A.ブレイン、ヒンチクリフ〜ベートーヴェン:七重奏曲 Op.20 イェネー・レナー(Vn) シャーンドル・ロート(Va) イムレ・ハルトマン(Vc) クロード・ホブデイ(Cb) チャールズ・ドレイパー(Cl) オーブリー・ブレイン(Hr) アーネスト・W.ヒンチクリフ(Fg) | ||
英 COLUMBIA LX109/113。録音:1930年3月4日。レナー弦楽四重奏団のメンバーに3人にイギリスで活躍していた3人の名管楽器奏者にコントラバスを加えたベートーヴェンの七重奏曲。レナー四重奏団は1918年にブダペスト音楽院出身の4人によって結成された。ヴァイオリンのイェネー・レナー(1894-1948)、ヴィオラのシャーンドル・ロート、チェロのイムレ・ハルトマンは同年代、1920年にウィーンでデビューした。デビュー前の2年間は田舎の村で共同生活をして1日、12時間の練習を重ねたと伝えられる。1922年にロンドン・デビュー、同時にイギリス・コロンビアの専属アーティストに迎えられた。クラリネットのチャールズ・ドレイパー(1869-1952)はイギリスのサマーセットシャーの生まれ、ロイヤル・アカデミーやギルド・ホール音楽校の教授をつとめ、イギリスのクラリネット界の祖父と尊敬された。ホルンのオーブリー・ブレイン(1893-1955)は有名なホルン奏者デニス・ブレイン(1921-1955)の父親。1911年にロイヤル・アカデミーで奨学金を受け、同年新so.の首席に就任。翌1913年には大指揮者アルトゥール・ニキシュ指揮LSOの北米楽旅に参加した。1923年からロイヤル・アカデミーで教鞭をとった。生徒の一人が息子のデニスだった。 | ||
カンポーリ〜J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004 アルフレード・カンポーリ(Vn) | ||
仏 DECCA GAG 1955/7 (英DECCA AK1955/7と同一録音)。録音:1948年6月17日、27日、ロンドンNW6、DECCA スタジオ。アルフレード・カンポーリ(1906-1991)はイタリア生まれ。5歳の時、両親と共にイギリスに移住し、1923年にロンドンのウィグモア・ホールでデビューした。メルバ(1861-1931)やクララ・バット(1872-1936)などの大物歌手とツアーをする一方、自分の名前を冠したサロンo.を作りBBC放送やレコード録音で活躍した。第2次世界大戦後はクラシックの演奏家に返り咲き、英デッカの看板アーティストになった。1960年と1966年に日本公演を行い、66年にはキングレコードの第1スタジオで作曲家でピアニストの和田則彦氏と日本歌曲からの編曲2曲を含む11曲のヴァイオリン名曲集を録音し、1971年にイギリスでも発売された。 このバッハは第2次世界大戦後間もなく録音されたもので、ストラディヴァリウスの名器 "ドラゴネッティ" の音色とカンポーリの歌心が堪能できる。忘れられつつある名演奏家の記録として後世に伝えたい録音としてこのシリーズに組み入れた。 | ||
湾曲弓〔彎曲弓/バッハ弓〕創始者シュレーダーによる無伴奏〜 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.2 パルティータ第2番 ニ短調 BWV 1004 /ソナタ第3番 ハ長調 BWV 1005 /パルティータ第3番 ホ長調 BWV 1006 ロルフ・シュレーダー(Vn) | ||
米 COLUMBIA, ML 4744 B / 5 (Set SL-189) |録音データ等は下記 33CDR/DSD-3412 と同一。 | ||
湾曲弓〔彎曲弓/バッハ弓〕創始者シュレーダーによる無伴奏〜 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.1 ソナタ第1番 ト短調 BWV 1001 /パルティータ第1番 ロ短調 BWV 1002 /ソナタ第2番 イ短調 BWV 1003 ロルフ・シュレーダー(Vn) | ||
録音:1952年9月(1951年秋とする資料があるが、誤りと思われる)、パリッシュ教会、ギュンバッシュ〔ギュンスバッハ〕、アルザス、フランス|録音エンジニア:ロバート・ファイン| 米 COLUMBIA, ML 4743/4 A (Set SL-189) 。なおここに収録されているパルティータ第1番の "Double" は1曲のみで、他の "Double" 3曲は演奏されていない。 アルベルト・シュヴァイツァーが提唱し、当盤の奏者シュレーダーによって初演された湾曲弓は、今日においてはバッハの時代には存在しなかった物だと考えられている(当時も相当な反論が上がったらしい)が、作曲当時の楽器を復元しようとする試みは古楽復興の走りともいえる。 湾曲弓はその後、ハンガリー出身でデンマークで活躍したエミール・テルマーニが、制作者が異なる「 VEGA 弓」(名前は制作者に由来)を使用した無伴奏ソナタ&パルティータを1954年にDECCAへ録音 (TESTAMENT から復刻あり; SBT2-1257)、同年中に発売されたこともあって、こちらの方が有名になってしまった。当シュレーダー盤は、録音は1952年ながら実際に発売されたのはテルマーニ盤と同じ1954年で、これは当盤のエンジニアを務めたロバート・ファインが、MERCURY へアレクザンダー・シュナイダーによる同曲を1949年に録音済で(ダイレクト CD-R での復刻あり; 33CDR-3307, 3308)、近似した名字の奏者による同一曲目の競合を避ける目的があったのではないかという意見もある。 演奏のシュレーダー(「ラルフ・シュレーダー」とカナ書きされていることがあるが、綴りは "Rolph Schroeder" のため、誤り)は、シュヴァイツァーとも親交があったはずだが(欧文資料には「当LPの序文を書いている」というものもある)、カッセルで活躍していたという以外殆ど情報がなく、没年すら定かではないのは不思議な事だ。当 LP はバラで状態の良くないものは1枚数千円と言った値段で見かける事もあるが、状態の良い3枚セットとなると海外でも5万円以上はする模様。 ロルフ・シュレーダー(1901-?) のカーヴド・ボウ〔バッハ・ボウ、彎曲弓とも〕による録音。カーヴド・ボウはアルバート・シュヴァイツァー(1875-1965)が1903年にその著書「ヨハン・セバスティアン・バッハ」の中で提唱した2本、3本、4本の弦を同時に弾くために考案された弓で、1933年にロルフ・シュレーダーの手で組み立てられた。これによってバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータの複数弦を楽譜通り同時に鳴らすことが可能になり、ロルフ・シュレーダーは自らその手本として録音したものがこの2枚のLP。シュレーダーはこのバッハのみで他のヴァイオリン曲の録音は何もなく、詳しい経歴も不詳。 | ||
カユザック〜ニルセン:クラリネット協奏曲 Op.57 (1910)
ルイ・カユザック(Cl) ヨーン・フランセン指揮デンマーク王立歌劇場o. | ||
デンマーク COLUMBIA, LDX 7000/2 。録音:1947年11月3日-4日。ルイ・カユザック(1880-1960)はフランスのクラリネット奏者、作曲家。トゥールーズ音楽院でフェリックス・パジェ、パリ音楽院でシリユ・ローズに師事した。この録音は作曲家ニルセン臨席のもとで行われた。二箇所に登場するカデンツァは作曲家カユザックの面目躍たる演奏をくりひろげている。指揮者のヨーン・フランセン〔当盤表記はフランドセン〕(1918-1996)はコペンハーゲン王立アカデミーで学び、1946年から1980までデンマーク王立歌劇場o.の首席指揮者をつとめた。とくに作曲家ニルセンのスペシャリストとして知られ、1981年に「カール・ニルセン基金賞」を受賞した。 | ||
メンデルスゾーン:弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20
パリ・プロムジカ八重奏団 [アンリ・メルケル、ジョルジュ・アレ、R.ヴォラン、L.ガリ(Vn) P.ラドユイ、A.ルポー(Va) アンドレ・ナヴァラ、M.フレシュヴィユ(Vc)] | ||
仏POLYDOR A. 6280/1。録音:1948年6月11日、サル・ショパン、パリ。この録音は第2次世界大戦後、パリで活躍したプロ・ムジカ室内楽グループによるものでフランスの香り高き名演奏をくり広げている。ヴァイオリンのアンリ・メルケル(1897-1969)、チェロのアンドレ・ナヴァラ(1911-1988)はソリストとして活躍しパリ音楽院教授をつとめていた。このシリーズのベートーヴェン七重奏曲作品20(78CDR-3263)にも二人は参加している。 メルケルはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(78CDR-3020)、ラロのスペイン交響曲(78CDR-3107)、サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番(78CDR-3166)が、ナヴァラはベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番(78CDR-3095)がこのシリーズで出ている。 | ||
ジャック・ティボー、1905年フォノティピア&1916年パテ録音 ダンブロジオ:セレナードOp.4 (*) /告白 [AVEU] Op.38 No.1 (#) /メランコリー(+) フランソワ・シューベルト:蜜蜂 Op.13 No.9 (+) / サン=サーンス:序奏とロンド・カプリツィオーソOp.28 (**) ヴィエニャフスキ:華麗なるポロネーズ第2番 イ長調 Op.21(##) / フォーレ:子守歌 Op.16 (++) ジャック・ティボー(Vn) アルフレッド・ダンブロジオ(P;*/#/+) フランソワ・リュールマン指揮管弦楽団(**) 不明伴奏者(P;##/++) | ||
仏 FONOTIPIA, XPh 770 (*)、771 (#)、768 (+) / 仏 PATHE, 5588/9 (**)、5582 (##)、5580 (++) 。録音:1905年(*/#/+)、1916年(**/##/++)。#機械式録音ですので、その旨御了承下さい。ジャック・ティボー(1880-1953)は20世紀前半に活躍したフランスの大ヴァイオリニスト。ボルドー出身で1893年からパリ音楽院でマルタン・マルシック(1848-1924)に師事し、1896年に一等賞を得た。生活のためにカフェのコンセール・ルージュで弾いていたところを指揮者のエドゥアール・コロンヌ(1838-1910)に見いだされ楽員に採用された。そのときティボーの親友で後にパリ音楽院の教授になったジュール・ブーシュリ(1877-1962)もコロンヌの楽員になった。1905年のフォノティピア録音はティボーの初めてのレコードで、サラサーテ(1844-1908)やヴィルヘルミ(1845-1908)に学んだイタリアのヴァイオリニスト、ダンブロジオの作品を3曲弾いている。レーベルに記述はないがピアノはダンブロジオ自身が弾いているという説が強い。1905年はティボーがピアノのアルフレッド・コルトー(1877-1962)とチェロのパブロ・カザルス(1876-1973)とトリオを成した年でもあった。1916年のパテ録音はこの社の縦振動盤(Hill & Dale)で、サン=サーンスの序奏とロンド・カプリツィオーソはこの時代の録音には珍しいオーケスラ伴奏。指揮者のリュールマン(1868-1948)はベルギー生まれ。1905年からパリのオペラ・コミックの指揮者として活躍した。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2012年リリース分 (末尾 349-408) | ||
イヴォンヌ・ロリオ〜アルベニス:イベリア Vol.2 第3集〔エル・アルバイシン(坂の多い町)/ エル・ポロ/ラバピエス(マドリッドの町の名)〕/ 第4集〔マラガ(舞曲マラゲニャによる)/ヘレス(ソレアレス舞曲の形式による)/ エリタニャ(セビリャ郊外にある料亭)〕 イヴォンヌ・ロリオ(P) | ||
ソース: 仏 VEGA, C 30 A 128 。録音:1956年、パリ。イヴォンヌ・ロリオ(1924-2010)はパリ音楽院でラザール・レヴィ(1882-1964)に師事、大戦で中断後マルセル・シャンピ(1891-1980)のクラスで1943年に一等賞を得た。音楽院ではピアノの他に和声学と楽曲分析を後に結婚した作曲家のオリヴィエ・メシアン(1908-1992)に、作曲をダリユス・ミヨー(1892-1974)に師事した。ロリオは14歳でバッハの平均律クラヴィーア全曲、ベートヴェンの32のピアノ・ソナタ、ショパンの全ピアノ作品とモーツァルトの22曲のソロ・ピアノ協奏曲をレパートリーにしていた。音楽院卒業後作曲家メシアンのピアノ曲はすべてロリオによって初演された。1967年から89年の長期にわたってパリ音楽院の教授をつとめた。レコード録音も多く、12のフランス・ディスク大賞を得た。このアルベニスはその一つである。ロリオはこのシリーズでバッハの「シャコンヌ」(78CDR-3186)が出ている。ロリオが22歳の時のSP録音。 | ||
イヴォンヌ・ロリオ〜アルベニス:イベリア Vol.1 第1集〔喚起(エボカシオン)/港(エル・プエルト)/セビリャの聖体祭〕/ 第2集〔ロンデニャ(ロンダ地方の舞曲)/アルメリア(タランタ舞曲のリズムによる)/ トゥリアナ(セビリャの町はずれ) イヴォンヌ・ロリオ(P) | ||
ソース: 仏 VEGA, C 30 A 127 。録音:1956年、パリ。 | ||
ナヴァラ&バンヴニューティ〜ベートーヴェン: モーツァルト「魔笛」の「娘か女房か」の主題による12の変奏曲 ヘ長調 Op.66 / モーツァルト「魔笛」の「恋を知る男たちは」の主題による7つの変奏曲 変ホ長調 WoO.46 アンドレ・ナヴァラ(Vc) ジョゼフ・バンヴニューティ(P) | ||
ソース: 仏 PATHE, PDT 107/8 。録音:1946年1月15日、パリ。チェロのアンドレ・ナヴァラ(1911-1988)は1920年9歳でトゥールーズ音楽院に入り4年後に一等賞を得て、さらにパリ音楽院で研鑽を積み一等賞を得た。卒業後クレトリー弦楽四重奏団に入り1935年に退団、1937年にウィーン国際コンクールで優勝、ソリストとして活動を開始した。1949年パリ音楽院教授に迎えられ、イタリアのシギアーナ音楽アカデミーの教授もつとめた。1940年代後半からソロよりもむしろ室内楽の分野で活躍した。ピアノのジョゼフ・バンヴニューティ(1908-1987)はパリ音楽院教授を1955年から67年までつとめた。ナヴァラはこのシリーズでベートーヴェン:チェロ・ソナタ第3番(78CDR-3095)が出ている。 | ||
ナヴァラ、ウーヴラドゥ、ミュンシュ他〜ハイドン:協奏交響曲 変ロ長調 Op.84, Hob.I-105
ロラン・シャルミー(Vn) アンドレ・ナヴァラ(Vc) フェルナン・ウーブラドゥ(Fg) ミルティル・モレル(Ob) シャルル・ミュンシュ指揮管弦楽団 | ||
ソース: 仏ロワゾリール, OL 83/5。録音:1939年6月、パリ。フランスの弦と木管の名手4人が活躍する豪華絢爛な協奏交響曲。ヴァイオリンのロラン・シャルミー(1908-1987)はパリ音楽院教授を務めた。チェロのアンドレ・ナヴァラ(1911-1988)はパリ音楽院出身で1937年ウィーン国際コンクールで優勝後ソリストとして活躍した。バスーンのフェルナン・ウーブラドゥ(1903-1986)もパリ音楽院出身の名手。母校の教授をつとめたこともある。指揮のシャルル・ミュンシュ(1891-1968)はストラスブール生まれ。パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)にヴァイオリンを学んだ。1926年から32年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のソロ第1ヴァイオリン奏者をつとめ、ブルーノ・ワルター(1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し指揮法をも身につけた。1938年から45年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者をつとめ、1939年には音楽院の指揮科の教授に任命された。この録音はその当時のもの。 | ||
当曲の世界初録音、サインス・デ・ラ・マーサ&アルヘンタ〜 ロドリーゴ:アランフェス協奏曲 レヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサ(G) アタウルフォ・アルヘンタ指揮スペイン国立o. | ||
ソース:西 COLUMBIA, RG 16066/8。録音:1947-1948年頃。山野楽器と DOREMI がそれぞれCD化していたが、特に前者は原盤の状態が悪く、聴き辛い状態だった。グッディーズさんによると『これまでまともな音質のものが出回っていないようで、話題を呼ぶと思われます』とのことで、音質には期待出来そうだ。この名曲の世界初録音。ギターのレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサ(1986-1981)は作曲者ホアキン・ロドリーゴ(1901-1999)にソリストに選ばれ1940年11月6日に初演した。初演当時デ・ラ・マーサはマドリッド音楽院の教授だった。ロドリーゴは3歳で失明、パリのスコラ・カントルムで作曲家のポール・デュカスに師事した。スペインの民族的感覚をフランス風に洗練した手法で仕上げた。この曲以外にもギターとオーケストラのための協奏曲を数曲書いている。指揮のアタウルフォ・アルヘンタ(1913-1958)はマドリッド音楽院で学び、1947年にスペイン国立管弦楽団の終身首席指揮者に任命されが45歳の若さで世を去った。 | ||
レーヴェングートSQ&エマール〜フランク: ピアノ五重奏曲 ヘ短調/前奏曲、コラールとフーガ ジャクリーヌ・エマール(P) レーヴェングートSQ [アルフレッド・レーヴェングート(Vn1) モーリス・フュエリ(Vn2) ロジェ・ロシュ(Va) ピエール・ベスー(Vc)] | ||
ソース:仏 PHILIPS-A 00381 L(MONO)。録音:1955年5月23日-25日、アムステルダム・コンセルトヘボウ、バッハザール。ジャクリーヌ・エマール(1922-2008)はニースに生まれたフランスの女流ピアニスト。パリ音楽院でイヴ・ナット(1890-1956)に師事した。レーヴェングート四重奏団は1929年アルフレッド・レーヴェングートによって結成され、1983年に解散したフランスの名弦楽四重奏団。半世紀にわたってフランス楽派を代表する四重奏団として君臨した。エマールはこのシリーズでドビュッシー名曲集(33CDR-3382)が出ている。 | ||
ワルター&NYP 〜モーツァルト: 交響曲第40番 ト短調 K.550 (*) / 交響曲第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」(#) |
ブルーノ・ワルター指揮 NYP | |
ソース: 米 COLUMBIA ML 4693 (MONO)。録音:1953年2月23日(*)、1953年1月5日(#)、ニューヨーク30丁目コロンビア・スタジオ。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグスタフ・マーラー(1860-1911)に出会い交友を深めた。その後ワルターはバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.、ウィーン国立歌劇場などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてウィーンからフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。この録音はアメリカ時代の初期にニューヨークで録音された。ワルターはステレオでもこの2曲を録音しているが、このモノ録音は圧倒的に優れている。 | ||
クナ&BPO〜ハイドン: 交響曲第94番 ト長調「驚愕」 |
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 BPO | |
ソース: 独 ELECTROLA DB 5671/3。録音:1941年10月30日、ベルリン、ベートーヴェンザール。ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)は20世紀のなかばに活躍したドイツの指揮者。オランダ国境に近い現在のヴッパータールに生まれた。ボン大学で哲学を修めた後、ケルン音楽学校で指揮法を学んだ。この録音は第2次世界大戦中ヒトラー統制下のベルリンで行われた。他にこの指揮者がBPOを指揮した「英雄」(78CDR-3102)がこのシリーズで出ている。 | ||
ボタンとリボン〜ダイナ・ショア SP 録音集(#はヒットチャートの最高位) ボタンとリボン#1/アニヴァーサリー・ソング#1/二人でお茶を/マイ・ロマンス/ セントルイス・ブルース/スターダスト/捧げるは愛のみ/青いカナリア(3:08) #11 ダイナ・ショア、フランク・シナトラ(Vo) ハッピー・ヴァリー・ボーイズ モリス・ストロフ楽団 アクセル・ストーダール楽団 ソニー・バーク楽団 ポール・ラヴァルとウッドウィンディ10 フレディ・マーティン楽団 ヴィック・シェン楽団 | ||
ダイナ・ショア(1916.02.19-1994.02,24) はアメリカのポップス・シンガー。テネシー州ウィンチェター生まれ。大学時代に地元のラジオ局に歌手として出演した。大学卒業後ニューヨークに出て歌手をを目指し、WNEW局でフランク・シナトラと出演した。BLUEBIRDレーベルにザヴィア・クガート楽団と "そよ風と私" を録音して歌手としての一歩を踏み出した。ここにはCOLUMBIA時代のヒットと、その前後に所属したRCA VICTORへの録音を集めた。美声でエレガントな歌い回しが、聴き手を魅了する。SPレコードの良さを最大限に発揮したヴォーカル集。 | ||
リパブリック讃歌〜ジョー・スタッフォード、SP 録音集 リパブリック讃歌/千歳の岩/日暮れて四方はくらく/ 主よ、みもとに近づかん/みちびきゆかせたまえ/さびしきみそのに ジョー・スタッフォード(Vo) ポール・ウェストン楽団 レイヴンズクロフト四重唱団 | ||
ソース: U.S. CAPITOL CC-9014 (78rpm Album Set)。録音:1950年。ジョー・スタッフォード(1917.11.12-2008.07.16)はアメリカのポップス・シンガー。1938年、男女4人編成のヴォーカル・グループ"パイド・パイパース" の一員としてトミー・ドーシー楽団に加わり、その後ソロ・シンガーに抜擢された。1942年にバンドを辞して独立、ヴォーカリストとして新興のCAPITOLに迎えられた。このSPレコード3枚組のアルバムは1950年に発売になった。ここでは後に結婚して夫君となったポール・ウェストンの指揮する楽団と男性四重唱のバックで歌う。どこかで聞いたことがある懐かしい歌で綴られ、心が洗われる讃美歌集。スタッフォードは、その後COLUMBIAに移籍し、数々の大ヒットを出した。それらはテネシー・ワルツ-ジョー・スタッフォードSP録音集(78CDR-3280)で聴ける。 | ||
カルヴェSQ 〜モーツァルト:弦楽四重奏曲第14番 ト長調 K.378
カルヴェSQ[ジョゼフ・カルヴェ(第1Vn) ダニエル・ギレヴィチ(第2Vn) レオン・パスカル(Va) ポール・マ(Vc)] | ||
独 TELEFUNKEN E 2867/8。録音:1938年10月26日。カルヴェ弦楽四重奏団はリーダーのジョゼフ・カルヴェ(1897-1984)によって1919年に結成された。1928年にナディア・ブーランジェの発意でベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をフランスで開いた。この録音は創立メンバーによる物。リーダーのカルヴェ以外のメンバーは3人は1940年に離籍した。カルヴェは1935年にパリ音楽院教授になり、四重奏団の活動と同時に後進の指導にあたった。第2ヴァイオリンのダニエル・ギレヴィッチは1941年に米国に移住したダニエル・ギレ(1899-1990)で、トスカニーニー指揮のNBCso.に入り1951年にコンーサート・マスターになった。またギレ弦楽四重奏団を結成、1954年にはボザール・トリオを結成した。ヴィオラのレオン・パスカルは1941年にパスカル弦楽四重奏団を結成しフランスを代表する弦楽四重奏団として名声を博した。 | ||
E.フィッシャー指揮〜モーツァルト: セレナード第10番 変ロ長調 K.361(370a)「グラン・パルティータ」(抜粋) エトヴィン・フィッシャー指揮管楽合奏団 | ||
米 VICTOR 17679/81(英 HIS MASTER'S VOICE DB 4693/5 と同一録音)。録音:1939年9月、ベルリン。 上記の通り「弾き振り」を得意とした彼だが、ここではピアノは弾かず指揮者に専念。第2楽章のメヌエットと第5楽章ロマンスが省略された録音。 | ||
E.フィッシャー弾き振り〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466(カデンツァ:E.フィッシャー) エトヴィン・フィッシャー(P)指揮 LPO | ||
独 ELECTROLA DB 2118/21。録音:1933年11月24日、ロンドン、アビー・ロードEMI第1スタジオ。 エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイス生まれで主にドイツで活躍したピアニスト、指揮者、教育者でもあった。ベルリンでリストの最後の弟子だったマルティン・クラウゼ(1853-1918)に師事した。1933年にEMIのアーティストとなり、J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」全曲の世界初録音を行なった(当シリーズの78CDR-1142/6で出ている)。フィッシャーは協奏曲の演奏で独奏と同時に指揮をする「弾き振り」の演奏法を現代に復活させた。このシリーズでハイドン:ピアノ協奏曲 ニ長調Op.21(78CDR-3129)が「弾き振り」で聴ける。またこのピアノ協奏曲第20番はブルーノ・ワルターの「弾き振り」でも発売されている(78CDR-3219)。 | ||
エティエンヌ&エウィット〔エヴィット〕管〜モーツァルト: クラリネット協奏曲 イ長調 K.622(第1楽章終結部に原盤ノイズあり)/ フリーメイソンのための葬送音楽K.477 (479a)(原盤ノイズあり) フランソワ・エティエンヌ(Cl) モーリス・エウィット指揮エウィット室内o. | ||
仏 LES DISCOPHILES FRANCAIS 2。録音:1941年6月、パリ。フランソワ・エティエンヌ(1901-1970)はフランスのトゥーロンに生まれたクラリネット奏者。生地の音楽学校で学んだ後、パリ音楽院でプロスペル・ミマール(1859-1918)に師事し1919年に一等賞を得た。1926年にオペラ座のクラリネット奏者となり1964年まで約40年間ーその地位にあった。その間パリ音楽院o.にも席を置き1933年にソロ・クラリネット奏者に任命された。 この録音は1941年6月に78回転SPレコード4枚に録音されたもので最初期のLPに転写された。再録音は1952年に同じエヴィットo.と行なわれたので混同されている。指揮者のモーリス・エヴィット(1884-1971)は元カペー弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者。1928年リーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)の急逝でエヴィット四重奏団(1928-30)として引き継いだ。その後アメリカでクリーヴランド四重奏団を組織(1930-34)、フランスに戻りエヴィット四重奏団(1935-39,1946-49)を作った。一方でエヴィット室内o.を組織し活躍した。 | ||
ミラベルの庭園にて〜ワルター、モーツァルト管弦楽曲集 セレナード第13番 ト長調 K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」/ メヌエット ヘ長調 K.599/メヌエット ハ長調 K.568/3つのドイツ舞曲 K.605 / フリーメイソンのための葬送音楽K.477 (479a) /歌劇「魔笛」序曲 K.620 / 歌劇「フィガロの結婚」序曲 K.492 /歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」序曲 K.588 / 歌劇「劇場支配人」序曲 K.486 ブルーノ・ワルター指揮コロンビアso. | ||
蘭 PHILIPS-A 01237 L (MONO)。録音:1954年12月28日、30日、ニューヨーク30丁目コロンビア・スタジオ。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860-1911)に出会い交友を深めた。その後ワルターはウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.などの楽長、音楽監督を歴任ーした。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。この録音はアメリカ時代の初期に、得意のモーツァルト作品を集めてLP用に録音した物。コロンビアso.の実体はNYPとされている。これから登場するモノラル時代のワルターの最初の1枚に選んだ。 | ||
ロッテ・レーマン〜ブラームス:歌曲集 ご機嫌いかが、私の女王様Op.32 No.9 /われらはさまよったOp.96 No.2 / 夜鳴きうぐいすに寄すOp.46 No.4 /墓地にてOp.105 No.4 / 美しいおとめよ、私を許して- 谷間に(ドイツ民謡集より) / かわいい恋人よ、素足で来ないで(ドイツ民謡集より) /5月の夜Op.43 No.2 / 日曜日Op.47 No.3 - おお、いとしい頬Op.47 No.4 ロッテ・レーマン(S) パウル・ウラノフスキー(P) | ||
ソース: 米 COLUMBIA 17273/4 & 71059/60D (set M453) /録音:1941年3月19日、コロムビア・レコード B スタジオ、ニューヨーク。ロッテ・レーマン(1888-1976)はドイツのペルレベルク生まれ。ベルリンで勉強した後、1910年にハンブルク歌劇場でワーグナーの「ローエングリン」でデビューした。1914年にはウィーン宮廷歌劇場にデビューし、リヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」、「影のない女」、「インテルメッツォ」、「アラベラ」のウィーン初演に出演した。また「ばらの騎士」のマルシャリン役での録音もある。レーマンはオペラ歌手としてだけではなく歌曲も得意とした。1938年ナチスのオーストリア併合で被害を逃れ、アメリカに移住した。この録音はアメリカ時代の初期のもの。レーマンはこのシリーズでシューベルト「冬の旅」(全曲)(78CDR-3048, 3049、シューベルト「美しき水車屋の娘」(78CDR-3079)、R.シュトラウス: 歌曲集(78CDR-3348)、シューマン「女の愛と生涯」(78CDR-3363)が出ている。 | ||
プルジーホダ&ケンペン〜ドヴォルジャーク: ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op.53 |
ヴァーシャ・プルジーホダ(Vn) パウル・ファン・ケンペン指揮 ベルリン国立歌劇場o. | |
ソース: 独 POLYDOR 68201/5S /録音:1943年6月、ベルリン。ヴァーシャ・プルジーホダ〔プシホダ〕(1900-1960)はチェコのヴォズナニーに生まれたヴァイオリニスト。11歳でプラハ音楽院に入った。ミラノの演奏会に居合わせた大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)を驚嘆させ、「新しいパガニーニ」と称賛したのがきっかけで、ヨーロッパ諸国で認められた。1921年にアメリカ・デビュー、1927年にはロンドン公演をした。プシホダは1930年にヴァイオリニストのアルマ・ロゼー(1906-1944)と結婚したが1935年に別れた。アルマ・ロゼーはウィーン・フィルのコンサートマスターを長年つとめたアルノルト・ロゼー(1863-1946)の娘。プシホダは第2次大戦中はザルツブルクのモーツァルテウムで教鞭をとった。戦後はウィーンを拠点に教鞭と演奏活動した。この録音は大戦中の1943年のものである。パウル・ファン・ケンペンは(1893-1955)はオランダの指揮者。戦中戦後を通じてドイツで活躍しレコード録音も多かった。だが戦時中祖国を離れて敵国ドイツで活動したことをオランダ人は許さず、戦後ボイコット運動が起こり不遇のうちに世を去った。 | ||
クレンペラーの「ブラ1」1927-1928 ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 Op.68 |
オットー・クレンペラー指揮 ベルリン国立歌劇場o. | |
ソース: 英 PARLOPHONE E10807/12 /録音:1927年12月15日、20日、1928年2月3日、 6月26-27日、ベルリン。オットー・クレンペラー(1885-1973)ドイツ生まれ、1910年からドイツ各地のオペラハウスでキャリアを積んだ。1927年-31年にはベルリンのクロール・オペラ の指揮者をつとめた。ユダヤ人の彼は1937年ナチスの迫害を逃れてアメリカに移住、市民権を得てロスアンジェルス・フィルハーモニーの音楽監督のポジションを得た。だがカリフォルニアの土地になじめず、神経症を病み、奇行を重ねたあげくその地位を離れた。第2次世界大戦が終わるとヨーロッパ楽壇に復帰し、1954年にEMIのプロデューサー、ウォルター・レッグが組織したフィルハーモニア管弦楽団の初代首席指揮者に就任した。アメリカ時代に受けた脳腫瘍の手術の後遺症で半身不随になった彼は晩年、車椅子で指揮を続けた。この録音はクロール・オペラ時代のもので、オーケストラと指揮者のスケジュールを調整しながらの録音セッションによって録音完成までに時間をかけている。大指揮者の若い時代の演奏を、晩年の演奏と比較しながら聴かれることをおすすめする。 | ||
イヴ・ナット〜ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ集 〔第32番ハ短調 Op.111 /第30番 ホ長調 Op.109 /第31番 変イ長調 Op.110 〕 イヴ・ナット(P) | ||
ソース: 仏 LES DISCOPHILES FRANCAIS DF 109 (アクセント) /録音:1954年2月17日、サル・エダール、パリ。イヴ・ナット(1890-1956)はフランスのピアニスト。1907年パリ音楽院のルイ・ディエメール(1843-1919)のクラスで一等賞を得てデビューした。1910年代から コンサート・ピアニストとして活躍したが、演奏家としての絶頂期の1934年にパリ音楽院教授に任命され、生涯その地位にあった。録音は音楽院教授就任以 前に録音したシューマン:ピアノ協奏曲(78CDR-3352)など僅かにあるが、晩年の1952年から56年のLP時代に多い。ベートーヴェン:ピアノ・ソナタの全曲録音もある。ここに収録されたピアノ・ソナタ第32番作品111と第30番作品110は中でも最高傑作と目されているもので、初期LPのモノラルながら、録音も優れている。ナットの門下生にはユーリ・ブーコフ、イエルク・デムス、レーヌ・ジャノーリ、ジュヌヴィエーヴ・ジョワ、ジャック・ルーシェ、ジャン・ヌヴー、ロベール=ヴェイロン・ラクロワなどがいる。 | ||
カザルス、1960年の「いわく付き」ドヴォコン ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調Op.104 |
パブロ・カザルス(Vc) アレクサンダー・シュナイダー指揮 1960年プエルト・リコ・ カザルス・フェスティヴァルo. | |
ソース: 米 EVEREST LPBR 6083 (Mono) /録音:1960年6月14日、プエルト・リコ大学。パブロ・カザルス(1876-1973)はスペインのカタルーニャ地方の町エル・ペドレルに生まれた。バルセロナ音楽院でチェロ、ピアノ、楽理、作曲を学び、1890年バルセロナでバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会い1904年に公開演奏した。1905年ピアノのコルトー、ヴァイオリンのティボーとトリオを結成した。この録音は1960年、83歳のカザルスが居を構えていたカリブ海の島国プエルト・リコ(面積は四国の約半分)で行なわれたカザルス音楽祭でのライブ録音。指揮者のアレクサンダー・シュナイダー(1908-1993)はリトアニア生まれ。ブダペスト弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、シュナイダー弦楽四重奏団のリーダー、独奏者、指揮者として活躍した。1950年、隠遁生活中のカザルスを説得してプラド音楽祭を実現させた。このLPは発売直後に廃盤となったもので、多くのファンから再発売が望まれていた。 | ||
パウル・バウムガルトナー〜シューベルト: 幻想曲 ハ長調「さすらい人幻想曲」Op.15、D.760 |
パウル・バウムガルトナー(P) | |
英 HIS MASTER'S VOICE C4879/81。録音:1949年2月3日、ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ。 パウル・バウムガルトナー(1903-1976)はスイスのアルステッテン生まれ、ミュンヘンの高等音楽・演劇学校でヴァルター・ブラウンフェルス(1882-1954)に師事しピアノと作曲を学んだ。さらにケルン音楽アカデミーでエドゥアルト・エルトマン(1896-1958)に師事した後、そこでピアノを教えるようになった。ナチスの台頭でスイスに戻りバーゼルに居を構え、バーゼル音楽院の教授に任命された。バウムガルトナーは第1回カザルス音楽祭のピアニストとして活躍。弟子にアルフレッド・ブレンデル(1931-)、カール・エンゲル(1923-2006)や指揮者のギュンター・ヴァント(1912-2002)などがいる。1962年にセント・ガレン市の芸術栄誉賞を授与された。 この録音はHMV録音だがスイスだけで発売された。 | ||
アルトゥール・シュナーベル〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第21番 ハ短調 K.467 |
アルトゥール・シュナーベル(P) マルコム・サージェント指揮LSO | |
録音:1937年1月12日、ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ。カデンツンァ:シュナーベル。 アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)はポーランドのリプニク(旧オーストリア領)に生まれた。1889年7歳でウィーン音楽院に入り、1891年から1897年に名教授テオドール・レシェティツキ(1830-1915)に師事した。1901年にベルリンにデビュー、1933年までこの地を本拠にした。その間演奏活動の傍らベルリン高等音楽院で教え、弟子にクリフォード・カーゾン(1907-1982)、ペーテル・フランクル(1935-)などがいる。またカール・フレッシュ(1873-1944)、パブロ・カザルス(1876-1973)、エマヌエル・フォイアマン(1902-1942)、パウル・ヒンデミット(1895-1963)、ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)との室内楽演奏はベルリンの呼び物だった。その後1932年から34年にロンドンに居を構え、1939年にアメリカに移住した。 シュナーベルはSP時代HMVにベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全曲、ピアノ協奏曲全曲(2回)を録音した。他に室内楽の録音も多い。シュナーベルのモーツァルトはピアノ四重奏曲 K.478、協奏曲第19番 K.459、第27番 K.595、ピアノ・ソナタ第8番 K.310、第12番 K.332、第16番 K.570がある。 | ||
ブレイン、グリラー/他〜モーツァルト: ホルン、ヴァイオリン、2つのヴィオラとチェロのための五重奏曲 変ホ長調 K.407 (386c) デニス・ブレイン(Hr) シドニー・グリラー(Vn) フリップ・バートン、マックス・ギルバート(Va) コリン・ハンプトン(Vc) | ||
英 DECCA K.1138/9。録音:1945年3月9日、ロンドンNW6、デッカ・スタジオ。 夭折の天才ホルン奏者デニス・ブレイン(1921-1957)とグリラー弦楽四重奏団のメンバーにヴィオラのマックス・ギルバートが加わった五重奏。デニス・ブレインは父親のオーブリー・ブレイン(1893-1955)の指導を受けた。初レコード録音は1943年、モーツァルト:ホルン協奏曲第4番 K.495(78CDR-3291)で22歳だった。デニスは1957年9月1日、エディンバラからロンドンに戻る途中、自身の運転するスポーツカー(トライアンフTR2)の事故で命を落とした。 グリラー弦楽四重奏団は1931年の結成されたイギリスの有数の四重奏団。SPレコード時代から主にデッカに多くの録音を残した。デッカのデニス・ブレインは1944年録音のチャイコフスキー:交響曲第5番第2楽章のホルンソロがシドニー・ビーア指揮ナショナルso.(78CDR-3158)で聴ける。 | ||
エネスク〔エネスコ〕の「無伴奏」、遂に当レーベルから登場〜 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ Vol.2 (#) パルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004 /ソナタ第3番 ハ長調 BWV.1005 /パルティータ第3番 ホ長調 BWV.1006 ジョルジュ・エネスク(Vn) | ||
エネスク〔エネスコ〕の「無伴奏」、遂に当レーベルから登場〜 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ Vol.1 (*) ソナタ第1番 ト短調 BWV.1001 /パルティータ第1番 ロ短調 BWV.1002 /ソナタ第2番 イ短調 BWV.1003 ジョルジュ・エネスク(Vn) | ||
米 CONTINENTAL CLP-104/5A (*)、CLP-105B/6 (#) [CLP-104/6] 。録音:1949年、ニューヨーク。 ジョルジュ・エネスク(1881-1955)はルーマニアに生まれ、4歳でヴァイオリンを、5歳で作曲を始めた。7歳でウィーン音楽大学に入学を許され、1893年12歳で音楽院の最高メダルを得た。1894年にパリ音楽院に入学、ヴァイオリンをマルシック(1848-1924)、和声学と作曲をアンドレ・ゲダルジュ(1856-1928)、ガブリエル・フォーレ(1845-1924)、ジュール・マスネ(1842-1914)に師事し、1899年にヴァイオリンで一等賞を得た。1902年にベルリンでデビュー、1903年にはロンドンを訪問した。1910年にはピアニストのエドゥアール・リスレル(1873-1929)とベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの全曲演奏会を開いた。1917年には祖国ルーマニアの首都ブカレストにエネスクの名を冠したオーケストラを作った。 エネスクは1923年に初のアメリカ楽旅をしその後生涯14回この地を訪れた。エネスクのレコード録音は1924年アメリカ・コロンビアの機械式録音(78CDR-3066)に始まる。1929年のアメリカ・コロンビアへの6枚の電気録音はレコード史上に輝く最高傑作とされている(78CDR-3018、78CDR-3035、78CDR-3088)。 このJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全6曲はJ.S.バッハの没後200年にあたる1950年にアメリカのマイナーレーベルCONTINETALから発売された。豪華な3枚組アルバム入りのセットは、エネスク最晩年の心血を注いだ演奏で、演奏家や心あるレコード愛好家が絶賛したが数年でカタログから消えてしまい、クラシックLP最高のコレクター・アイテムになった。これまでの復刻とは一線を画し、オリジナル盤に秘められたエネスクの芸術の全貌が真の姿で蘇ったと確信する。 | ||
ジネット・ヌヴー〜ドビュッシー: ヴァイオリン・ソナタ ト短調 |
ジネット・ヌヴー(Vn) ジャン・ヌヴー(P) | |
英 HIS MASTER'S VOICE HLM 7178 (Mono)。録音:1948年3月18日、アビー・ロード、EMI第3スタジオ。ジネット・ヌヴー(1919-1949)はアメリカへの演奏旅行に向かう航空機の事故で1949年10月28日に30歳の生涯を終えた。彼女が残した最後のスタジオ録音。 ヌヴーはジョルジュ・エネスコ(1881-1955)に手ほどきを受けた後、11歳でパリ音楽院でジュール・ブーシュリ(1878-1962)のクラスに入り8カ月後に一等賞を得た。その後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)のもとで研鑽を積んだ。1935年にワルシャワで開催されたヴィエニャフスキ・ヴァイオリン・コンクールに16歳で参加し180人の競争者に勝ち優勝した。第2位はソ連から参加したダヴィド・オイストラフ(1908-74)、第3位はスコットランド出身でパリ音楽院でブーシュリに師事したアンリ・テミアンカ(1906-92)だった。 この録音は1948年に78回転SPレコード3面に収録されたが、SP時代には発売されなかった。1957年にLPで初めて発売された(英HIS MASTER'S VOICE ALP 1520)。ダイレクト・トランスファーでは2012年のドビュッシー生誕150年を記念してドビュッシーだけを収録した。ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタはジャック・ティボーのヴァイオリンとアルフレッド・コルトーのピアノによる1929年の録音がこのシリーズで出ている(78CDR-3044)。 | ||
ドビュッシー:ピアノ名曲集 アラベスク第1番 ホ長調/雨の庭/沈める寺/ 吟遊詩人/アナカプリの丘/ ゴリウォッグのケークウォーク/月の光/喜びの島 |
ジャクリーヌ・エマール(P) | |
仏 LE CHANT DU MONDE LD-S-8169 (Mono)。録音:1954年、パリ。初期LP特有のノイズあり。ジャクリーヌ・エマール(1922-2008)はニースに生まれたフランスの女流ピアニスト。パリ音楽院でイヴ・ナット(1890-1956)に師事した。メジャー・レーベルの録音はフランク:ピアノ五重奏曲(レーヴェングート四重奏団と共演)がフランス・フィリップスにあった。この録音はフランスのシャン・デュ・モンドの10インチ盤に残された物。有名曲揃いで楽しめる。 | ||
クラウス&ゴールドベルク〜モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ集 Vol.2 〔第34番 変ロ長調 K.378 (317d) (*) /第36番 変ホ長調 K.380 (374f) (#) /第33番 ヘ長調 K.377 (374e) (+) 〕 リリー・クラウス(P) シモン・ゴールドベルク(Vn) | ||
英 PARLOPHONE SW8007/12。録音:1937年4月20日(*)、1937年4月20日-21日(#)、1937年4月15日(+)。 ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)とピアノのリリー・クラウス(1903-1986)によるモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ選集2。ピアノのリリー・クラウスはハンガリー生まれ、ブダペスト音楽院でゾルターン・コダーイ(1882-1967)やベラ・バルトーク(1881-1945)に師事した。さらにウィーンでアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)の指導をえた。1942年シモン・ゴールドベルクとアジア楽旅の時、ジャワ島で日本軍に捕らえられ、家族共々1945年まで抑留生活を送った。戦後はイギリス国籍を取得し活発な演奏活動を行った。(シモン・ゴールドベルクについては3380を参照) | ||
クラウス&ゴールドベルク〜モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ集 Vol.1 〔第24番 ハ長調 K.296 (*) /第35番 ト長調 K.379 (373a) (#) /第41番 変ホ長調 K.481 (+) 〕 リリー・クラウス(P) シモン・ゴールドベルク(Vn) | ||
英 PARLOPHONE SW8000/6。録音:1935年11月5日-6日(*)、1935年5月25日、11月6日(#)、1936年2月(+)。 ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)とピアノのリリー・クラウス(1903-1986)によるモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ選集1。ポーランド生まれのゴールドベルクは8歳の時ベルリンで名教師カール・フレッシュ(1873-1944)に師事し、12歳でワルシャワでデビューした。1916年16歳でドレスデンpo.のコンサートマスターに任命され、1929年20歳の時フルトヴェングラー(1886-1954)の招きでベルリン・フィルハーモニーのコンサートマスターに就任した。1934年ドイツで政権を得たナチスによってBPOのコンサート・マスターの地位を追われ、ニューヨークでデビュー後、1942年からアジア楽旅を行った時日本軍により1945年までジャワ島での抑留生活を強いられた。戦後アメリカ国籍を得て、演奏活動と後進の指導に活躍、1990年から没年まで新日本フィルハーモニーの指揮者に就任し、富山県の立山のホテルにて死去した。(リリー・クラウスは78CDR-3381参照) | ||
パガニーニSQ ドビュッシー:弦楽四重奏曲 ト短調 Op.10 ハイドン:弦楽四重奏曲 ニ長調 Op.64 No.5「ひばり」〜第4楽章 パガニーニSQ[アンリ・テミアンカ(第1Vn) ギュスタヴ・ロッセール(第2Vn) ロベール・クルト(Va) ロベール・マース(Vc)] | ||
米 RCA VICTOR 12-0259/62 (Set M-1213)。録音:1947年1月22日-23日。 パガニーニ弦楽四重奏団は1946年、アンリ・テミアンカ(1906-1992)によって結成された。結成の前年テミアンカは元プロアルト弦楽四重奏団のチェリスト、ロベール・マースに会った。マースは新しい四重奏団のためのスポンサーになる人物がいることを話し、またニューヨークの楽器店で売り出されていたパガニーニ(1782-1840)が所有した4本のアントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)製の楽器を同じスポンサーが購入して貸与されることで四重奏団はスタートした。1946-47年のシーズンにオール・ベートーヴェンのプログラムをワシントンの国会図書館で演奏し大成功を収め、すぐにRCAヴィクター社が契約した。 リーダーのテミアンカはスコットランドでポーランド・ユダヤ系の両親の元に生まれた。ヴァイオリンはロッテルダム、ベルリン、パリ、フィラデルフィアで学んだ。パリ音楽院では名教授ジュール・ブーシュリ(1877-1962)に師事し、フィラデルフィアのカーティス音楽院ではカール・フレッシュ(1873-1944)に師事した。1935年のヴィエニャフスキ・ヴァイオリン・コンクールでは3位に入賞した。この時の1位はジネット・ヌヴー(1919-1948)、2位はダヴィド・オイストラフ(1908-1974)だった。パガニーニ四重奏団が1966年に解散した後、スポンサーの意向で楽器は分散することなくワシントンのコーコラン・アート・ギャラリーに戻された。楽器は1992年にクリーヴランド四重奏団に貸与され、1994年から日本音楽財団の所有となり、東京クァルテットによって使用された。 | ||
ヨゼフ・シゲティ ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ / ヒンデミット:ヴァイオリン・ソナタ第3番 ホ調 プロコフィエフ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ ニ長調 Op.115 / ヴァイオリンとピアノのための5つの小品 Op.35a ヨーゼフ・シゲティ(Vn) カルロ・ブソッティ(P) | ||
米 COLUMBIA ML5178 (初期LP特有のノイズあり)。録音:1953年11月12日-13日、12月3日、1954年1月12日、4月1日、コロムビア30丁目スタジオ、ニューヨーク。 ヴァイオリンのヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリー生まれ、ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。1905年ベルリンで大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)に認められた。1917年から24年にスイスのジュネーヴ音楽院で教え、1940年にアメリカに移住した。ピアノのカルロ・ブソッティ(1922-2002)はイアリアのフィレンツェ生まれ。13歳でケルビーニ音楽院を卒業、第2次大戦中はイタリア軍に従軍、戦後はコンサート・アーティスト、レコーディグ・アーティストとしてアメリカで活躍した。LP初期にあったハイドン協会レーベルにソロ録音がある。晩年はサンフランシスコ大学で教鞭をとっていた。 | ||
アンドラード〜 ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77 |
ジャニーヌ・アンドラード(Vn) ハンス・ユルゲン・ヴァルター指揮 ハンブルク・プロムジカso. | |
仏 VEGA 30MT 10.121 。録音:1954年。 ヴァイオリンのジャニーヌ・アンドラード(1918-1997)はフランスのブザンソン生まれ。パリ音楽院で名教授ジュール・ブーシュリ(1877-1962)に師事し12歳で一等賞を得た。パリ音楽院ではは同年代のドニーズ・ソリアノ(1916-2006)、ローラ・ボベスコ(1919-2003)、ジネット・ヌヴー(1919-1949)らがブーシュリ教授の下で研鑽を積んでいた。アンドラードは作曲家でパリ音楽院の学長をつとめたクロード・デルヴァンクール(1888-1964)の「古い舞曲」を作曲者のピアノ伴奏で1943年にフランス・コロンビアにSP録音した(「ジュール・ブーシュリとその弟子たち」グリーンドアGD-2030に抜粋収録)。また1950年代にはスプラフォンに小品集を録音した(DENONからCD発売)。さらに1968年にはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第2番K.211 と第6番K.268 をクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo. とステレオ録音した(CDはBERLIN CLASSICS 0181422BC)。このブラームスと共にいずれもパリ音楽院楽派のヴァイオリンの香りの高い名演奏を繰り広げている。なお後半生は教師になったと言われていたが、近年になって1972年、54歳と言う若さで重い脳卒中に倒れ、右半身不随と失語症を患い演奏&教授活動共に行えなくなっていた事が判明した。25年を失意の内に病床で過ごし、1997年に亡くなったという。 | ||
ブダペストSQ 1926〜ドヴォルジャーク:弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調 Op.96「アメリカ」
ブダペストSQ [エミル・ハウザー(Vn1) イムレ・ポガニー(Vn2) イシュトヴァーン・イポリ(Va) ハリー・ソン(Vc)] | ||
米 VICTOROLA 9069/71 (英 HMV D1124/6と同一録音) 。録音:1926年2月2日、ロンドン。※復刻はオリジナルの回転数のままで行なわれています。ブダペスト弦楽四重奏団は1917年、ブダペスト歌劇場o. のメンバーによって結成された。そのオリジナル・メンバー(第2ヴァイオリンだけは2代目)による電気録音最初期の物。1930年代になってからリーダーはロシア人のヨーゼフ・ロイスマン(1900-1974)になり、他の奏者も全員ロシア出身の音楽家に代り、20世紀半ばに活躍した偉大なる弦楽四重奏団になった。その団体の原点にあたるオリジナル・ブダペスト弦楽四重奏団は同じハンガリー出身のレナー弦楽四重奏団を追ってHMVレーベルに登場。軽やかな足取りの爽やかな演奏スタイルが、後年のロイスマン時代とは異なる。希少な室内楽録音の登場。 | ||
リパッティ〜ショパン:ワルツ集(全14曲) | ディヌ・リパッティ(P) | |
仏 COLUMBIA LFX959/964 (英COLUMBIA LX1341/6 と同一録音) 。録音:ジュネーヴ放送第2スタジオ、スイス/磁気テープから78回転マスターを製作した日付〔一般的に録音日とされている〕:1950年7月3日-12日。 ディヌ・リパッティ(1917-1950)はルーマニアのブカレスト生まれ。母親はピアニスト、父親はサラサーテ(1844-1908)やカール・フレッシュ(1873-1944)に学んだヴァイオリニストで、洗礼立会人は大ヴァイオリニストのジョルジュ・エネスコ(1881-1955)だった。ブカレスト音楽学校で学費免除の特待生で入学が許された。1934年のウィーン国際コンクールで2等賞になったが、この時の審査席にいたアルフレッド・コルトー(1877-1962)は結果に異議を申し立て審査員を辞職した。リパッティはパリでコルトーとイヴォンヌ・ルフェビュール(1898-1986)に師事、シャルル・ミュンシュ(1891-1968)は指揮法を教えた。また作曲をナディア・ブーランジェ(1887-1979)とイーゴル・ストラヴィンスキー(1882-1971)に学んだ。リパッティは1950年12月2日、スイスのジュネーヴで悪性リンパ腫のため33歳で没した。このワルツ集は死の年の夏、EMIの手配したテープ録音機を乗せたトラックがジュネーヴに赴き録音した物。ヨーロッパではまだSPレコードが主流だったため、ロンドンのアビー・ロードのEMIスタジオでテープから78回転マスターがカットされた。LPで聴くリパッティよりはるかに輝かしいSPからのダイレクト・トランスファー。 | ||
クナッパーツブッシュ 1929 〜 ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 Op.92 |
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 ベルリン国立歌劇場o. | |
仏 ODEON 170.120/24 (独 ODEON O-6775/9 と同一録音) 。録音:1929年11月19日、ベルリン。 ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)は20世紀の半ばに活躍したドイツの指揮者。オランダ国境に近い現在のウッパータールに生まれた。ボン大学で哲学を修めた後ケルン音楽学校で指揮法を学んだ。この録音は電気録音初期のオデオンへの録音。同時期にポリドールにも録音していた。クナッパーツブッシュはSP時代にベートーヴェンはこの第7番と第3番「英雄」の2曲のスタジオ録音がある。放送録音の多いこの指揮者の交響曲のスタジオ録音はたいへん貴重。このシリーズではBPOを指揮した「英雄」(78CDR-3102)が出ている。「英雄」は第2次世界大戦末期の1943年にエレクトローラが録音したドイツでの戦前最後の商業録音であった。 | ||
シゲティ&ホルショフスキ〜ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ集 〔第5番 ヘ長調 Op.24「春」(*) /第6番 イ長調 Op.30 No.1 (#) 〕 ヨーゼフ・シゲティ(Vn) ミエツィスワフ・ホルショフスキ(P) | ||
米 COLUMBIA ML4870。録音:1953年11月27日(*)、1953年12月1日(#)、ニューヨーク30丁目コロンビア・スタジオ。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリーのブダペスト生まれの名ヴァイオリニスト。ヨーロッパで名声を確立した後、1940にアメリカに移住した。この録音はLP時代になってからの物。 ピアノのミエツィスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)はポーランド生まれのピアニスト。1930年代にカザルスがHMVに録音したベートーヴェン:チェロ・ソナタ集(第3番は除く)のピアニストを務めた。このシリーズで第1番(78CDR-3221)、第2番(78CDR-3084)が出ている。第2次世界大戦中にアメリカに移住。ブダペスト弦楽四重奏団との共演やシゲティとの録音も多い。1961年11月13日にケネディ大統領に招待されたホワイトハウスコンサートでもチェロのカザルス、ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダーと共に出演した。1987年、95歳の時に初来日、東京のカザルス・ホールのオープニングで演奏。1993年101歳で死去した。 | ||
ホルショフスキ〜ショパン: ピアノ協奏曲第1番 ホ長調 Op.11/ 即興曲 全曲 〔第1番 変イ長調 Op.29 /第2番 嬰ヘ長調 Op.36 / 第3番 変ト長調 Op.51 /幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66 〕 |
ミエツィスワフ・ ホルショフスキ(P) ハンス・スワロフスキー指揮 ウィーン市立フィルハーモニア | |
英 VOX PL 7870。録音:1953年(初期LP特有の雑音が出ます)。ミエツィスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)はポーランド生まれのピアニスト。99歳までコンサート・ステージに登場していた。母親はショパンの直弟子カール・ミクリ(1819-1897)に学んだピアニスト。4歳の頃から神童といわれ、1899年にウィーンに移り住み、名教師レシェティツキの指導を受けた。1930年代にカザルスがHMVに録音したベートーヴェン:チェロ・ソナタ集(第3番は除く)のピアニストをつとめた。このシリーズで第1番(78CDR-3221)、第2番(78CDR-3084)が出ている。 第2次世界大戦中にアメリカに移住、フィラデルフィアのカーティス音楽院で後進の指導にあたる一方、室内楽奏者としての録音が多い。指揮者のハンス・スワロフスキー(1899-1975)はブダペスト生まれ。ウィーンで活躍した。 | ||
ワルター&VPOの「田園」〜ベートーヴェン: 交響曲第6番 ヘ長調 Op.68「田園」 |
ブルーノ・ワルター指揮 VPO | |
仏 LA VOIX DE SON MAITRE DB 3051/5(英 HIS MASTER'S VOICE DB 3051/5 と同一録音)。録音:1936年12月5日、ウィーン、ムジークフェライン大ホール。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、後に指揮者に転向した。1894年ハンブルク歌劇場の指揮者をしていた時、音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。その後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.などの楽長、音楽監督を歴任、またウィーン・フィルハーモニーやベルリン・フィルハーモニーも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると、迫害を避けてアメリカに逃れた。この録音はウィーンのムジークフェライン大ホールで録音されたもので、美しい残響を伴ったオーケストラの音色が名演奏に花を添えている。 ワルターとウィーン・フィルの録音はワルター自身がピアノを弾いたモーツァルト:ピアノ協奏曲第20番(78CDR-3219)がこのシリーズで出ている。 | ||
メンゲルベルク1937年の「運命」〜ベートーヴェン: 交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」 |
ウィレム・メンゲルベルグ指揮 アムステルダム・ コンセルトヘボウo. | |
独 TELEFUNKEN SK 2210/13。録音:1937年5月4日、アムステルダム、コンセルトヘボウ。ウィレム・メンゲルベルグ(1871-1951)はオランダの大指揮者。1895年、24歳でアムステルダム・コンセルトヘボウo.の首席指揮者に就任し、1921年-1930年にはNYPso.の首席指揮者を兼任している。レコード録音は機械式録音時代と電気録音初期に米ヴィクター、電気初期のコンセルトヘボウとの録音は英コロンビアと独オデオンにあり、電気録音の完成期には独テレフンケンに多数ある。またコンセルトヘボウとの放送ライヴ録音はLP時代になってフィリップスから発売された。この「運命」はテレフンケン期のはじめの録音で、実に生々しい演奏が録られているが、残念なのはハム音が入っていること。復刻に際してこのハムを除去すると壮烈な演奏の感動が半減してしまうため、ここでは何も電気処理をしていない。 | ||
フルトヴェングラー&VPOの「英雄」1947〜 ベートーヴェン: 交響曲第3番 変ホ長調 Op.55「英雄」 |
ヴィルヘルム・ フルトヴェングラー指揮 VPO | |
ソース:英 HIS MASTER'S VOICE, DB 9266/9302。録音:1947年11月10日-12日、17日、ウィーン、ムジークフェライン、大ホール。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)はドイツの大指揮者。1937年ベートーヴェンの「運命」をBPOとHMVに録音したのに続き、この「英雄」はベートーヴェンの第二弾録音にあたる。オーケストラはウィーン・フィル。フルトヴェングラーは1952年11月に再度ウィーン・フィルと「英雄」を録音しているので、このSP録音はあまり知られていない。ムジークフェライン大ホールの残響はLP録音よりずっと美しい。これまでの復刻盤にはなかった低音部の動きにも耳を傾けていだきたい。 | ||
A.ブッシュ&R.ゼルキン〜ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 Op.47「クロイツェル」 |
アドルフ・ブッシュ(Vn) ルドルフ・ゼルキン(P) | |
米 COLUMBIA ML4007。録音:1941年12月12日、ニューヨーク。アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツのヴァイオリニスト。ラッパ吹き込み時代のドイツ・ポリドールにもレコードがあった。ブッシュは1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍、1936年にゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚した。二人はナチスのユダヤ人迫害を避けてアメリカに移住し、1939年にはブッシュ自身も弟のチェリスト、ヘルマンと共にドイツを去りアメリカに定住した。この「クロイツェル」はアメリカ・コロンビアの録音で、録音日は日米開戦(1941年12月8日)の4日、後だった。当時アメリカ・コロンビアではマスターとして16インチのアセテート盤に録音していた。このマスターから78回転盤に転写してSPレコードが作られた。LP時代になってからは同じアセテート盤マスターからLPが作られた。ということはこれはSP盤の復刻LPではなく、SPと同一のマスターから作られたLP。この「クロイツェル」は1948年アメリカ・コロンビアのLP第1回発売のラインナップに加えられた。ブッシュとゼルキンのベートーヴェンはヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調「スプリング」(1933年HMV録音)が78CDR-3222で出ている。 | ||
ヨゼフ・シゲティ シューベルト:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 Op.159/ D.934(*) コレッリ/レオナール編曲:ラ・フォリア(#) ドビュッシー/ローラン編曲:「ベルガマスク組曲」〜月の光(+) ラロ/シゲティ編曲:「イスの王」〜オバド(**) チャイコフスキー/グリューンズ編曲:感傷的なワルツOp.51 No.6 (##) ヨゼフ・シゲティ(Vn) ジョゼフ・レヴィーン、 アンドール・フォルデス、ハリー・カウフマン(P) | ||
米 COLUMBIA ML4338。録音:1949年11月21日(*)、1940年6月5日(#)、1941年11月26日(+)、1941年3月21日(**)、1944年12月4日(##)、ニューヨーク。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はブダペスト生まれ。ブダペスト音楽アカデミーでイェノ・フバイ(1858-1937)に師事し、13歳でデビューした。1917年から1924年スイスのジュネーヴ音楽院で教えた。シゲティは1940年にアメリカに移住した。ピアニストのジョゼフ・レヴィーン(1874-1944)はウクライナ出身のユダヤ系ロシア人。1892年モスクワ音楽院のピアノ科を同級のスクリャービンやラフマニノフを抑えて大金メダルを得て卒業した。演奏家として教師として第1次世界大戦前に名声が高かったが反ユダヤ運動にあい1919年にアメリカに移住した。ジュリアード音楽院でのピアノ教育と演奏家活動をした。夫人のロジーナ・レヴィーン(1880-1976)もピアニストで教師としても高名だった。シューベルトはヨーロッパを捨てた二人の巨匠二人の記念碑的録音の初復刻。LPのB面はシゲティ「アンコール集」。この中の「ラ・フォリア」はSP盤からの復刻が78CDR-3236で出ている。この時代のアメリカ・コロンビアは16インチのアセテート盤をマスターに使用していた。LPはアセテート盤から作られたもので、SP盤からの復刻ではない。 | ||
カペーSQ〜モーツァルト:弦楽四重奏曲第19番 ハ長調 K.465
カペーSQ[リュシアン・カペー(第1Vn) モーリス・エヴィット(第2Vn) アンリ・ブノワ(Va) カミーユ・ドローベル(Vc)] | ||
日本COLUMBIA J7786/9(仏COLUMBIA D15110/13と同一録音)。録音:1928年10月11日、パリ。 | ||
カペーSQ〜ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第15番 イ短調 Op.132
カペーSQ[リュシアン・カペー(第1Vn) モーリス・エヴィット(第2Vn) アンリ・ブノワ(Va) カミーユ・ドローベル(Vc)] | ||
英 COLUMBIA L2272/76 (仏 COLUMBIA D15114/8と同一録音)。録音:1928年10月8日-10日、パリ。 | ||
カペーSQ〜ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 Op.74「ハープ」
カペーSQ[リュシアン・カペー(第1Vn) モーリス・エヴィット(第2Vn) アンリ・ブノワ(Va) カミーユ・ドローベル(Vc)] | ||
英 COLUMBIA L2248/51 (仏 COLUMBIA D15061/4と同一録音)。録音:1928年6月21日-22日、パリ。「人類の遺産」の一つに数えられるカペー弦楽四重奏団が1928年にフランス・コロンビアに録音した一曲。リーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)は医師の誤診による腹膜炎で1928年12月18日に急逝した。享年55歳。カペーは1893年パリ音楽院で一等賞を得て、その年に弦楽四重奏団を組織した。1920年頃から毎年ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をパリで開催していた。カペーは1928年6月10日、から10月15日にかけてフランス・コロンビアに12曲51枚の録音をした。まるで自らの死を予期したようなハイペースの録音だった。このシリーズでは12曲の全録音が揃った。最上のSP盤復刻として評判が高い。 | ||
ロッテ・レーマン〜シューマン: 歌曲集「女の愛と生涯」Op.42 |
ロッテ・レーマン(S) 室内楽団 | |
英 PARLOPHONE RO20090/93。録音、1928年11月10日、ベルリン。 ロッテ・レーマン(1888-1976)はドイツのソプラノ。ペルレベルク生まれ。ベルリンで勉強した後、1910年にハンブルク歌劇場でワーグナーの「ローエングリン」でデビュー、1914年にはウィーン宮廷歌劇場にデビューした。彼女はリヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」、「影のない女」、「インテルメツッオ」、「アラベラ」のウィーン初演に出演した。また「ばらの騎士」のマルシャリン役での録音もある。レーマンはオペラ歌手としてだけではなく歌曲を得意とした。ここではピアノ伴奏部を室内オーケストラに編曲してある。これはマイクロフォンを使用しなかった機械式録音のなごり。ピアノだけでは寂しい音だったからだ。レーマンはこの録音時40歳、彼女は1941年にブルーノ・ワルターのピアノでこの曲集を再録音した。 レーマンはこのシリーズでシューベルト:「冬の旅」(全曲)(78CDR-3049&3049)、シューベルト:「美しき水車屋の娘」(全曲)(78CDR-3079)、R.シュトラウス:歌曲集(78CDR-3348)が出ている。 | ||
ブッシュSQ〜ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 イ短調 Op.132
ブッシュSQ[アドルフ・ブッシュ(第1Vn) ゲスタ・アンドレアソン(第2Vn) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)] | ||
英 HIS MASTER'S VOICE DB3375/80S。録音:1937年10月7日、ロンドン、EMI第3スタジオ。# HMV盤特有のノイズあり。 ブッシュ弦楽四重奏団は1919年にアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によって組織され、1930年代には英 HIS MASTER'S VOICEに多くの録音をしている。ブッシュはまたピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とのデュオ録音でも活躍した。ブッシュは1939年に実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに移住、その後四重奏の二人のメンバーもアメリカに渡り、1941年からアメリカCOLUMBIAに録音を再開した。 このシリーズではヨーロッパ時代に録音したベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番Op.135(78CDR-3195)とアメリカに渡ってから録音したベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」(78CDR-3287)が出ている。 | ||
ブルーノ・ワルター〜ベートーヴェン: 交響曲第7番 イ長調 Op.92 (*) / 交響曲第8番 ヘ長調 Op.93 (#) |
ブルーノ・ワルター指揮 コロンビアso. | |
米 COLUMBIA MS-6082(*)、M2S-608(#)。録音:1958年2月1日、3日、12日(*)、1958年1月8日、10日、13日、2月12日(#)、アメリカン・リージョン・オーディトリアム、ハリウッド。 ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、その後指揮者に転向した。1894年ケルン市立歌劇場でデビュー、1896年ハンブルク歌劇場へ移った。そこで音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。以後ワルターはウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。 この録音はステレオ・レコードが開発されたのを期に、既に引退していた巨匠ワルターを起用して録音された物。復刻はLPレコードの持つ音を、ありのままに引き出すことを意図した。 | ||
A.シュナイダー&カークパトリック〜J.S.バッハ: ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集 Vol.2 〔第4番 ハ短調 BWV.1017 /第5番 ヘ短調 BWV.1018 /第6番 ト長調 BWV.1019 〕 アレクサンダー・シュナイダー(Vn) ラルフ・カークパトリック(Cemb) | ||
米 COLUMBIA ML2110/11 (MONO/発売:1950年)。録音:1945年11月26日、1947年1月13日、27日。 | ||
A.シュナイダー&カークパトリック〜J.S.バッハ: ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集 Vol.1 〔第1番 ロ短調 BWV.1014 /第2番 イ長調 BWV.1015 /第3番 ホ長調 BWV.1016 〕 アレクサンダー・シュナイダー(Vn) ラルフ・カークパトリック(Cemb) | ||
米 COLUMBIA ML2109/10 (MONO/発売:1950年)。録音:1945年11月28日、1947年1月13日、27日。ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダー(1908-1993)はリトアニアのヴィルナの生まれ。ブダペスト弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者として活躍、ナチスの迫害を逃れ四重奏団の他のメンバーと共にアメリカに移住した。シュナイダーは1932年から44年、55年から67年に四重奏団に在籍し、それ以外の期間はシュナイダー四重奏団やソリストとして活動した。J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータを1949年に録音した(33CDR-3307、33CDR-3308分売)。 チェンバロのラルフ・カークパトリック(1911-1984)はアメリカの音楽学者、チェンバロ奏者。ハーバード大学卒業後ヨーロッパ各地に留学。パリでナディア・ブーランジェとワンダ・ランドフスカに、ライプツィヒでギュンター・ラミンに師事した。 シュナイダーとのデュオでは他に1950年録音のヘンデル(33CDR-3327)、モーツァルトのソナタを残している。 | ||
オイストラフ&ガウク〜ベートーヴェン: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調Op.61 |
ダヴィド・オイストラフ(Vn) アレクサンドル・ガウク指揮 ソヴィエト国立放送o. | |
ソ連 MK D-01930/41 。録音:1950年。ソ連製SPレコードからの復刻。ダヴィド・オイストラフ(1908-1974)はオデッサに生まれた大ヴァイオリニスト。1937年ブリュッセルのエリーザベト王妃音楽コンクールに優勝した。モスクワ音楽院で後進の指導をしていたが、ソビエトの第2次世界大戦参戦で慰問演奏を行った。その後の活躍はめざましく、20世紀後半に活躍した世界屈指のヴァイオリン奏者であった。オイストラフはベートーヴェンの協奏曲を3回録音しているが、これは第1回目の録音。鉄のカーテンの奥に閉ざされた時代のもので、SP録音ながらソ連の録音技術の高さを感じさせるもの。LP初期にアメリカのマイナーレーベル数社から同一演奏が発売されたことがあったが、このオリジナルSP盤の演奏は別物のように聴こえる。アレクサンドル・ガウク(1893-1963)は指揮者で作曲家、ソ連の音楽界を支えた人物であった。 | ||
ストコフスキー〜ドヴォルザーク: 交響曲第9番 ホ短調Op.95「新世界より」 |
レオポルド・ストコフスキー指揮 交響楽団 | |
米 VICTOR 18-0194/8 (Set DV 25)。録音:1947年12月19日、21日。RCA VICTOR のビニールプレスの78回転SP盤復刻。指揮者のレオポルド・ストコフスキー(1882-1977)はロンドン生まれ。最初教会のオルガニストだったが指揮者になり1912年フィラデルフィア管弦楽団の指揮者に就任し1940年までその地位にあった。その後数多くのオーケストラを指揮し、1965年に来日したこともある。ストコフスキーはレコード録音に積極的で、機械式録音時代の1917年にハンガリー舞曲第5番&第6番をヴィクターに初録音。1925年には電気録音による初のオーケストラ録音をした。また1932年にはベル研究所では世界初のステレオ録音の実験に参加した。この録音は第2次世界大戦後、自ら優秀なミュージシャンを集めて組織した特別オーケストラ(ストコフスキーと彼の交響楽団)によっての録音。第2楽章のイングリッシュ・ホルンはイーストマン音楽学校出身のミッチェル・ミラー(1911-2010)が起用されている。ミラーはミッチ・ミラーの名でクシックの木管奏者から、レコード会社のプロデユーサー/アーティストとして、戦後のアメリカポップス界で大活躍した人物。 | ||
ギュスタヴ・ブレ〜フォーレ:レクイエムOp.48
マルノリ=マルセイヤック(S) ルイ・マルテュリエ(B) ギュスタヴ・ブレ指揮パリ・バッハ協会o.&cho. アレックス・セイエ(Org) | ||
仏 LA VOIX DE SON MAITRE W 1154/8 。録音:1929年3月、パリ。この曲の世界初録音。初CD化。指揮者のギュスタヴ・ブレ(1875-1969)は作曲をウィドール(1844-1937)に学び、オラトリオを残している。また "プレス" 紙に批評を書いていた。ドビュッシーのペレアスとメリザンドに糾弾の炎が上がった時この作品擁護側に立った。1904年にバッハ協会を設立した。セヴェラック(1873-1921)やフォーレ(1845-1924)との親交があった。アレックス・セイエ(1883-1968)は1910年から1969年までパリ・エトワール寺院のオルガン奏者をつとめた。この演奏は作曲者フォーレと同時代の息を吸った音楽家の時代証言とも言えるもので、原盤のノイズなどの悪条件を越えた音楽は、後世の演奏の規範になると考え復刻した。現代演奏にはない不思議な感動がある。このシリーズではリヨンのサン=ジャン大聖堂で1938年に録音されたエルネスト・ブールモーク指揮の同曲(78CDR-3304)も出ている。 | ||
ワルター〜ベートーヴェン: 交響曲第2番 ニ長調Op.36 (*) / 交響曲第4番 変ロ長調 Op.60 (#) |
ブルーノ・ワルター指揮 コロンビアso. | |
米 COLUMBIA MS-6078 (*), MS-6055 (#)。録音:1959年1月5&9日(*)、1958年2月8&10日(#)、アメリカン・リージョン・オーディトリアム、ハリウッド。ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、その後指揮者に転向した。1894年ケルン市立歌劇場でデビュー、1896年ハンブルク歌劇場へ移った。そこで音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。以後ワルターはウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。 この録音はステレオ・レコードが開発されたのを期に、既に引退していた巨匠ワルターを起用して録音されたもの。復刻はLPレコードの持つ音を、ありのままに引き出すことを意図した。 | ||
ケンペ〜メンデルスゾーン: 交響曲第3番 イ短調Op.56「スコットランド」 |
ルドルフ・ケンペ指揮 ドレスデン国立歌劇場o. | |
チェコ SUPRAPHON LPV 213 (MONO)。録音:1952年7月15日。ルドルフ・ケンペ(1910-1976)はドレスデン生まれ、オーボエを学んだ。1929年にライプツィヒ・ゲヴァントハウスのオーボエ奏者となり、当時ブルーノ・ワルター(1876-1962)が首席指揮者、シャルル・ミュンシュ(1891-1966)がコンサートマスターをつとめていた。1950年にドレスデン国立歌劇場の音楽監督に就任した。この録音はチェコ・スプラフォンの録音でドレスデン時代のケンペの貴重な録音。録音の古さを吹き飛ばす圧倒的な感激をもたらす快演。近年再評価の高いこの指揮者の原点を是非聴いていただきたい。 | ||
ティボー〜シューベルト: ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ 〔第3番 ト短調 Op.137 No.3 D408 / 第1番 ト短調 Op.137 No.1 D384〜ロンド〕 |
ジャック・ティボー(Vn) タッソ・ヤノプロ(P) | |
仏 DISQUE GRAMOPHONE DB11103/4。録音:1944年5月28日、パリ、ペルーズ・スタジオ。 第2次世界大戦下のパリでの録音。ジャック・ティボー(1880-1953)は20世紀前半に活躍したフランスの大ヴァイオリニスト。ボルドー出身で1893年からパリ音楽院のマルタン・マルシック(1848-1924)に師事し、1896年16歳で一等賞を得た。生活のためにカフェのコンセール・ルージュで弾いていたところを指揮者のエドゥアール・コロンヌ(1836-1910)に見いだされ楽員に採用された。そのとき、ティボーの親友で後にパリ音楽院の教授になったジュール・ブーシュリ(1877-1962)もコロンヌの楽員になった。1905年にピアノのアルフレッド・コルトー(1877-1962)、チェロのパブロ・カザルス(1876-1973)とトリオを結成し1930年頃まで活動した。ティボーは1923年と1936年に来日、1953年の3度目の来日時、乗っていたエール・フランス機がアルプスの支峰スメ山に激突し死亡した。享年72歳。 この録音と同日に録音されたラヴェルとフォーレの小品2曲は78CDR-3149で出ている。 | ||
ナット&ビゴー〜シューマン: ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54 |
イヴ・ナット(P) ウジェーヌ・ビゴー指揮o. | |
仏 COLUMBIA LFX 320/23。録音:1933年4月25日-26日、パリ。 1933年フランス・ディスク大賞受賞レコード。イヴ・ナット(1890-1956)はフランスノピアニスト。1907年パリ音楽院のルイ・ディエメール(1843-1919)のクラスで一等賞を得てデビュー、1910年代からアメリカ、ヨーロッパ、ロシアとコンサート・ピアニストとして活躍した。演奏家として絶頂期の1934年にパリ音楽院の教授に任命され、生涯その地位にあった。 このシューマンはナットが音楽院教授に就任の前年の物。ナットは1929年にリストのハンガリー狂詩曲第2番が初レコード録音だったが、これは2番目レコード録音。 ナットの門下生にはユリ・ブーコフ、イェルク・デムス、ジャクリーヌ・エマール、レーヌ・ジャノリ、ジュヌヴィエヴ・ジョワ、ジャック・ルーシェ、ジャン・ヌヴー、ロベール・ヴェイロン=ラクロワなどがいる。ウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)は華麗な経歴を持つフランスの指揮者。SPレコード時代に数多くの録音がある。 | ||
ミュンシュ 1949「幻想」、1946「ボレロ」 ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14 (*) ラヴェル:ボレロ(#) |
シャルル・ミュンシュ指揮 フランス国立放送o.(*)、 パリ音楽院o.(#) | |
録音:1949年9月9日、シャンゼリゼ劇場、パリ(*) /1946年10月10日、ウォルサムストウ・アセンブリー・ホール、ロンドン(#) 。仏 COLUMBIA LFX880-85 (*) /英 DECCA K1637-38 (#) 。 ご注意:ノイズカットや編集は一切行っていませんので、SP盤特有の針音等のノイズが入ります。盤面ごとのつなぎ編集も行っておりませんので、CD、CD-R、DVD-R 、すべての商品でSP盤1面(約5分)ごとに音楽再生が途切れます。# 先に発売されていた CD-R, DSD [DVD-R] 盤(品番:3164 (旧・1164), 3351)は1曲づつの収録で、2曲共収録されているのはプレス盤CD (78CD-3003) のみとなります。 『ベルリオーズは1950年フランス・ディスク大賞受賞レコード。数種類あるミュンシュの「幻想」の最初の録音。シャルル・ミュンシュ(1891-1968)はストラスブール生まれ。生家は音楽一家でアルバート・シュヴァイツァー(1875-1965)の甥にあたる。生地の音楽院でオルガンを学んだ後、パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1828)にヴァイオリンを学んだ。その後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)にも師事した。1926年ライプツィヒ音楽院の教授に就任。1928年-32年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ソロ第一ヴァイオリン奏者をつとめ、ブルーノ・ワルター(1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し、指揮法も身につけた。パリに戻って1935年にパリ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者としてデビュー。1938年にはエコル・ノルマルのヴァイオリン科教授に任命された。1938年にはパリ音楽院管弦楽団の指揮者に迎えられ、1939年には同音楽院の指揮科の教授に任命された。1949年にニューヨーク・フィルとさらにボストン交響楽団と全米ツアーをし、クーセヴィツキー(1874-1951)を継いでボストン交響楽団の正指揮者となり1962年までつとめた。これはボストンに出向く直前にパリで録音された貴重なSPレコード。ラヴェルは1946年パリ音楽院管弦楽団とのイギリス公演中の録音でミュンシュの英デッカへの初録音。英デッカのffrr録音が本格的に胎動しはじめた頃の素晴らしい録音で、パリ音楽院の名手たちのこぼれるばかりの妙技が聴ける。』 | ||
ブレンデル〜リスト:クリスマス・ツリー 古いクリスマスの歌/おお聖なる夜/ 飼い葉桶のそばの羊飼いたち/ 誠実な人びとよ来れ(東方の三人の博士聖者の行進)/ スケルツォーソ(クリスマス・ツリーに点火する時)/ グロッケンシュピール/子守歌/ 古いプロヴァンスのクリスマスの歌/ 夕べの鐘/昔むかし/ハンガリー風/ポーランド風 |
アルフレッド・ブレンデル(P) | |
米 SOCIETY OF PARTICIPATING ARTISTS SPA-26(Mono)。録音:1952年春頃。 このピアノ組曲はリストが孫娘のダニエラのために作曲した。ダニエラはコジマとハンス・フォン・ビューローの娘で作曲年代は1874-6年頃とされている。この組曲の中に聴いたことのあるクリスマスキャロルが数曲あって心が和む。他の曲はリストのオリジナル作品。 アルフレッド・ブレンデル(1931-)は北モラヴィアのヴィーゼンベルク生まれ、オーストリアのグラーツ音楽院で学んだ。1949年ブゾーニ国際コンクールで入賞後、ウィーン・デビュー。その後エトヴィン・フッシャーのマスタークラスを受講し多大な影響を受けた。 この録音はブレンデルが20代の半ばにアメリカのSPAレコードに録音したもので、ほとんど知られていない物。ここに既にブレンデルの音楽が聴ける貴重なアルバム。SPAにはもう一枚R.シュトラウスの5つの小品とピアノ・ソナタ(SPA-26)があり、33CDR-3337で出ている。 | ||
ワルター〜ベートーヴェン: 交響曲第3番 変ホ長調 Op.55「英雄」(*)/ 交響曲第1番 ハ長調 Op.21(#) |
ブルーノ・ワルター指揮 コロンビアso. | |
米 COLUMBIA MS-6036(*)、MS-6071(#)。録音:1958年1月20日、23日、25日(*)、1959年1月5日、6日、8日、9日(#)、ハリウッド、アメリカン・リージョン・オーディトリアム、1959 No.1 American Legion Auditorium, Hollywood。 ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、その後指揮者に転向した。1894年ケルン市立歌劇場でデビュー、1896年ハンブルク歌劇場へ移った。そこで音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。以後ワルターはウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。 この録音はステレオ・レコードが開発されたのを期に、既に引退していた巨匠ワルターを起用して録音された物。復刻はLPレコードの持つ音を、ありのままに引き出すことを意図した。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2011年リリース分 (末尾 289-348) | ||
R.シュトラウス:歌曲集 セレナードOp.17 No.2/あすの朝 Op.27 No.4/ 万霊節 Op.10 No.8/献身 Op.10 No.1 |
ロッテ・レーマン(S) パウル・ウラノフスキー(P) | |
米 COLUMBIA 17384/5-D(Set X-270)。録音:1941年7月2日、ハリウッド、CBSスタジオ。 ロッテ・レーマン(1888-1976)はドイツのソプラノ。ペルレベルク生まれ。ベルリンで勉強した後、1910年にハンブルク歌劇場でワーグナーの「ローエングリン」でデビュー。1914年にウィーン宮廷歌劇場にデビューした。リヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」、「影のない女」、「インテルメツッオ」、「アラベラ」のウィーン初演に出演した。また「ばらの騎士」のマルシャリン役での録音もある。レーマンはオペラ歌手としてだけではなく歌曲を得意とた。1938年、ナチス・ドイツのオーストリア併合で迫害を逃れてアメリカに移住した。 この録音はアメリカ時代の初期の物。作曲家リヒャルト・シュトラウスと親交があったレーマンの残した貴重な録音。レーマンはこのシリーズでシューベルトの「冬の旅」(全曲)(78CDR-3049 &3049)、シューベルトの「美しき水車屋の娘」(全曲)(78CDR-3079)が出ている。 | ||
ジネット・ヌヴー ラヴェル:ツィガーヌ(*) ショパン/ロディオノフ編曲:ノクターン第20番 嬰ハ短調(遺作)(*) ラヴェル:ハバネラ形式の小曲(#) / スカルラテスク:バガテル(#) ファリャ/クライスラー編曲:スペイン舞曲(はかなき人生)(+) ディニク/ハイフェッツ編曲:ホラ・スタッカート(+) ジネット・ヌヴー(Vn) ジャン・ヌヴー(P) | ||
録音:1946年3月26日、8月12日-14日、ロンドン、アビー・ロードEMI第3スタジオ。
Eng. HIS MASTER'S VOICE, DB 6907-08 (*), DA 1871 (#), DA 1865 (+) 。 ジネット・ヌヴー(1919-1949)はアメリカへの演奏旅行に向かう航空機事故で30歳の生涯を終えた。ジョルジュ・エネスコ(1881-1955)に手ほどきを受けた後、11歳でパリ音楽院のジュール・ブーシュリ(1878-1962)のクラスに入り、8カ月後に一等賞を得た。8カ月は50年前にヴィエニャフスキ(1835-1880)が打ち立てた記録と同じだった。ヌヴーはその後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)のもとで研鑽を積んだ。1935年ワルシャワで開かれたヴィエニュフスキ・ヴァイオリン・コンクールに16歳で参加し、180人の競争者に勝ち抜き優勝した。その時の第2位はソ連から参加した27歳のダヴィド・オイストラフ(1908-1974)だった。 この録音は第2次世界大戦後のSPレコード録音期末期にロンドンで録音された物。このシリーズでヌヴーのSP録音は最初期のものを除きほとんど出ている。 | ||
ロン&ミュンシュ〜ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73「皇帝」 |
マルグリット・ロン(P) シャルル・ミュンシュ指揮 パリ音楽院o. | |
仏 COLUMBIA LFX 679/83。録音:1944年6月11日、パリ、アルベール・スタジオ。 マルグリット・ロン(1874-1966)は19歳でパリ音楽院の一等賞を得た後コンサートデビュー、ガブリエル・フォーレ(1845-1924)やフィガロ紙の評論家から絶賛された。1906年母校のパリ音楽院教授に就任、1940年まで務めた。1943年ヴァイオリンのジャック・ティボー(1880-1954)と共に、若い優秀な音楽家を発掘するコンクールをパリで創設した。 指揮者のシャルル・ミュンシュ(1891-1968)はストラスブール生まれ。パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)にヴァイオリンを学んだ。1928年-32年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.のソロ第一ヴァイオリン奏者をつとめ、ブルーノ・ワルター(1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し、指揮法も身につけた、1938年-45年にパリ音楽院o.の指揮者をつとめ、1939年には同音楽院の指揮科の教授に任命された。 これは第2次大戦末期のドイツ占領下のパリで録音された物。ロンは当時70歳だった。ロンのSPレコードの中でも最も希少な盤の登場。 | ||
セゴビア&レイ・デ・ラ・トルレ〜ギター・リサイタル *セゴビア、J.S.バッハ作品集(セゴビア編曲;*): 無伴奏チェロ組曲第6番 ニ長調 BWV.1012 〜ガヴォットI&II / リュート組曲 ホ短調 BWV.996 より〔サラバンド/ブーレ〕/前奏曲 ハ短調 BWV.999/ 無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV.1009〜クーラント/ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番 ホ長調 BWV.1006〜ガヴォット/ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004〜シャコンヌ *レイ・デ・ラ・トルレ、ソル作品集(#) モーツァルト「魔笛」の主題による変奏曲 Op.9/メヌエット〔ニ長調 Op.11 No.5/イ長調 Op.11 No.6 〕/ エチュード ロ短調 Op.35 No.22(セゴビア20のエチュード第5番)/月光/エチュード 変ロ長調 Op.29 No.1 (セゴビア20のエチュード第19番)/エチュード イ長調 Op.6 No.6(セゴビア20のエチュード第12番) アンドレス・セゴビア(G;*) レイ・デ・ラ・トルレ(G;#) | ||
1947年12月米MUSICRAFT 発売(*)、1950年米アレグロ 発売(#)、米 ROYALE 1422(1952年発売)。 アンドレス・セゴビア(1893-1987)はスペインのギタリスト。現代クラシック・ギター奏法の父と言われている。ここに収録された録音は第2次世界大戦後の1947年、アメリカのMUSICRAFTのSPレコードに録音されされた物。米デッカ録音に先立つこと数年で貴重な演奏。 レイ・デ・ラ・トルレ(1917-1994)はキューバ生まれ。ハバナで神童として名声を上げた後、スペインのバルセロナで既に引退していた名ギタリスト、ミゲル・リョベト(1878-1938)に師事した。レイ・デ・ラ・トルレは1940年にニューヨークのタウン・ホールでアメリカ・デビュー、以降ギター界の寵児になった。 この録音は1950年米アレグロレーベルで発売され、2年後ROYALEレーベルでセゴビアと組み合わせて再発売された物。セゴビアの編纂したソルのエチュードの貴重な演奏が聴ける。 | ||
ワルター〜ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 Op.125「合唱」
エミリア・クンダリ(S) ネル・ランキン(Ms) アルバート・ダ・コスタ(T) ウィリアム・ウィルダーマン(B) ブルーノ・ワルター指揮コロムビアso. ウォーレン・マーティン合唱指揮ウェストミンスターcho. | ||
米 COLUMBIA M2S-608。録音:1959年1月19日、21日、26日、29日、31日、ハリウッド、アメリカン・リージョン・オーディトリアム(第1-3楽章)、4月6日、15日、ニューヨーク、セント・ジョージ・ホテル、ボールルーム(第4楽章)。 ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、その後指揮者に転向した。1894年ケルン市立歌劇場でデビュー、1896年ハンブルク歌劇場へ移った。そこで音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。以後ワルターはウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。 この録音はステレオ・レコードが開発されたのを期に、既に引退していた巨匠ワルターを起用して録音された物。第1楽章から第3楽章が当時ワルターが住んでいたロサンゼルスで行われ、第4楽章はニューヨークで録音された。録音当時ワルターは82歳だった。復刻はLPレコードの持つ音を、ありのままに引き出すことを意図した。 | ||
シゲティ〜プロコフィエフ: ヴァイオリン・ソナタ第2番 ニ長調 Op.94a |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) レオニード・ハンブロ(P) | |
米 COLUMBIA 71790/92-D。録音:1944年11月29日、ニューヨーク、リーダークランツ・ホール。 ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はブダペスト生まれ。ブダペスト音楽アカデミーでイェノ・フバイ(1858-1937)に師事し、13歳でデビューした。1907年から1913年に英国に住み、ピアニストのマイラ・ヘス(1890-1965)やフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)らとのソナタ演奏から大きな音楽的影響を受け、その後ヨーロッパ大陸に戻り、1917年から1924年スイスのジュネーヴ音楽院で教えた。シゲティは1940年にアメリカに移住した。このヴァイオリン・ソナタ第2番は原曲がフルート・ソナタ(1941-2)として書かれた。1994年にヴァイオリン・ソナタ第2番として、オイストラフのヴァイオリン、オボーリンのピアノで初演され、楽曲はシゲティに献呈された。ピアノのレオニード・ハンブロ(1920-2006)はジュリアード音楽院出身。1946年ニュルベルグ・コンクールで入賞。クック・レコードにも録音していた。 シゲティはプロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番(78CDR-3325)、J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番(78CDR-3225)、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3138)、ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番(78CDR-3159)他がこのシリーズで出ている。 | ||
ランドフスカ〜チェンバロ珠玉集 J.S.バッハ:前奏曲、フーガとアレグロ 変ホ長調/幻想曲 ハ短調 D.スカルラッティ:ソナタ〔ニ長調 L.418 /ニ短調 L.423 〕 シャンボニエール:サラバンド ニ短調 / ラモー:皇太子妃 F.クープラン:神秘的なバリケード/女道化師 / パーセル:グラウンド ハ短調 作曲者不詳:ナイチンゲール / ヘンデル:調子のいい鍛冶屋 モーツァルト:ロンド ニ長調 K.485 /トルコ行進曲 K.331 /メヌエット ニ長調 K.355 ヴィヴァルディ/J.S.バッハ編曲:協奏曲 ニ長調 ワンダ・ランドフスカ(Cemb) | ||
米 RCA VICTOR 12-0002/7。録音:1946年、ニューヨーク、ロータス・クラブ。 ワンダ・ランドフスカ(1879-1959)はポーランドのワルシャワ生まれ。20世紀最高のチェンバロ奏者。パリのスコラ・カントルムの教授もつとめた。二列の鍵盤と七個ペダルを有する自分のチェンバロをパリのプレイエル社に作らせて生涯このこの楽器を使用した。1940年フランス国籍を得たが1941年のドイツ軍のフランス侵攻によりアメリカに逃れた。これはランドスフスカの2回目の「ゴルトベルク変奏曲」(78CDR-3288)に続くアメリカでのSPレコード録音。LPやCDでは聴けない鮮度の高い音でランドフスカの至芸を楽しむことができる。 | ||
悲しい歌〜クレール・クロワザ デュパルク:悲しい歌 [CHANSON TRISTE / Columbia LF 59B (WM 37) ] / 哀歌 [LAMENTO / Fr. Columbia LF 59A (WM 33) ] フォーレ:夢の後に [APRES UN REVE / Fr. Columbia LF 63A (WM 36-1) ] / 夕べ [SOIR / Fr. Columbia LF 63B (WM 31-1) ] クレール・クロワザ(Ms) ジョージ・リーヴス(P) | ||
録音:1930年7月、ロンドン。 クレール・クロワザ(1882-1947)はパリ生まれ。最初にオペラ歌手として名声を確立したが、後に歌曲を専門に活動する。度々ロンドンを訪れて歓迎された。またラヴェル、ルーセル、オネゲル、プーランクなど自からの演奏会にクロワザを招き伴奏を務めた作曲家もいる。1922年からパリのエコール・ノルマルで、1934年からパリ音楽院で後進の指導にあたった。門下生にはジャニーヌ・ミショー、ジャック・ジャンサン、カミーユ・モラーヌ、ジェラール・スゼー、古澤淑子らがいる。この録音はクロワザが48歳の時の物。彼女の最高の名演とされている。 | ||
ピリオド原盤、シュタルケルのコダーイ コダーイ:無伴奏チェロ・ソナタOp.8 |
ヤーノシュ・シュタルケル(Vc) | |
米 PERIOD SPLP 510。録音:1950年。 ヤーノシュ・シュタルケル(1924-)はハンガリーのブダペスト生まれ。7歳でプダペスト音楽院に入学を許され、アドルフ・シッファーに師事した。11歳でソロ・デビュー、1945年に祖国を去りヨーロッパ各地で演奏した。1948年ハンガリー出身の指揮者アンタル・ドラティの招きでダラスso.の首席チェリストに就任した。翌1949年にはフリッツ・ライナーの招きを受けて、メトロポリタン歌劇場o.の首席チェリストに就任、1953年ライナーがシカゴso.に移るのに伴って移籍し1958年まで在籍した。この録音はオーナーがハンガリー出身のレコード会社ピリオドに録音したもので、シュタルケルの名前を世界に広めた記念すべき録音。録音エンジニアは作曲家ベラ・バルトークの次男ピーター・バルトーク。シュタルケルは1958年インディアナ州ブルーミントンに居を構え、インディアナ大学の教授に就任し、ソロ活動や公開レッスン、セミナー、レクチャーをする一方、多くのレコード録音を残している。 | ||
ワルターの「田園」「運命」 ベートーヴェン: 交響曲第6番 ヘ長調 Op.68「田園」(*)/ 交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」(#) |
ブルーノ・ワルター指揮 コロンビアso. | |
U.S. COLUMBIA MS-6012(*)、U.S. COLUMBIA MS-6055(#)。録音:1958年1月13日、15日、17日(*)、1月27日、30日(#)、ハリウッド、アメリカン・リージョン・オーディトリアム。共にステレオ。 ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピアニストとしてデビュー、その後指揮者に転向した。1894年ケルン市立歌劇場でデビュー、1896年ハンブルク歌劇場へ移った。そこで音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。ワルターは以後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.などの楽長、音楽監督を歴任。VPOも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。この録音はステレオ録音が開発されたのを期に引退していたワルターを起用して録音が挙行された物。録音当時ワルターは82歳だった。復刻はLPから最良の音を引き出すことを試みた。 | ||
プロ・アルト〔プロ・アルテ〕SQ〜シェーンベルク:弦楽四重奏曲第3番 Op.30 (1927)
プロ・アルトSQ [ルドルフ・コーリッシュ(第1Vn) アルバート・レイヒア(第2Vn) バーナード・ミロフスキー(Va) エルンスト・フリートランダー(Vc)] | ||
米 DIAL 4(Mono)。録音:1950年1月24日、ニューヨーク、WORスタジオ。リーダーのルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)は作曲家シェーンベルク(1874-1951)の指導を受け1921年に弦楽四重奏団を組織した。最初はウィーン弦楽四重奏団と名乗ったが後にコーリッシュ弦楽四重奏団(1922-1939)と改称した。1944年にコーリッシュはアメリカのウィスコンシン大学に招かれ、新たに組織されたプロアルト弦楽四重奏団のリーダーとなり1967年まで務めた。 この録音はコーリッシュにとって2回目の録音にあたる。第1回のARCO録音とメンバーが入れ代わっている。DIALレーベルはLP時代に登場した現代音楽を積極的に取り上げたユニークなレーベル。1950年6月号の英GRAMOPHONE誌の "アメリカ便り" でアメリカの音楽評論家ハロルド・ショーンバーグがこのレーベルを紹介していた。 | ||
ブレンデル最初期録音〜R.シュトラウス: 5つのピアノ小品 Op.3/ピアノ・ソナタ ロ短調 Op.5 |
アルフレッド・ブレンデル(P) | |
米 SOCIETY OF PARTICIPATING ARTISTS SPA-48 (Mono)。録音:1954年。この2曲の世界初録音。作曲家R.シュトラウスが1880-81年に作曲した作品。当時15-6歳だった。アルフレッド・ブレンデル(1931-)は北モラヴィアのヴィーゼンベルク生まれ、オーストリアのグラーツ音楽院で学んだ。1949年ブゾーニ国際コンクールで入賞後ウィーンデビュー。その後エトヴィン・フィッシャーのマスタークラスを受講し多大な影響を受けた。この録音はブレンデルが20代の半ばにアメリカのSPAレコードに録音したもので、ほとんど知られていない物。ここに既にブレンデルの音楽が聴ける貴重なアルバム。SPAにはもう一枚リストの「クリスマス・ツリー」(SPA-26)があった。 | ||
ブッシュ室内合奏団〜ベートーヴェン: 大フーガ 変ロ長調 Op.133 |
アドルフ・ブッシュ(音楽監督) ブッシュ室内合奏団 | |
米 COLUMBIA 11778/9(Set MX-221)。録音:1941年10月2日、ニューヨーク、リーダークランツ・ホール。アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの大ヴァイオリニスト。1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍した。1936年ゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚したが、ゼルキンはナチスのユダヤ人迫害からアメリカに逃れた。その後ブッシュもドイツを去ってスイスに移住、1939年実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに定住した。 このシリーズでブッシュはJ.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲第2番(78CDR-3216)、二つのヴァイオリンのための協奏曲(78CDR-3235)、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番(78CDR-3243)、他が出ている。 | ||
ギレ〔ギレー〕SQ〜バルトーク:弦楽四重奏曲第4番(1928)
ギレSQ[ダニエル・ギレ(第1Vn) ジャック・ゴロデツキ(第2Vn) フランク・ブリーフ(Va) リュシアン・ラポルト(Vc)] | ||
米 CONCERT HALL SOCIETY Set A-8。録音:1947年、ニューヨーク。この曲の世界初録音。ダニエル・ギレ(1899-1990)はロシア生まれ。パリ音楽院でジョルジュ・エネスコとギヨーム・レミに師事し、オペラ・コミックのコンサートマスターを務めた後1941年にアメリカに移住、ギレ弦楽四重奏団を組織、1944年にアルトゥーロ・トスカニーニ指揮のNBCso.に入団、1951年にコンサート・マスターとなった。1954年にはピアニストのメナヘム・プレスラーとチェロのバーナード・グリーンハウスと共にボザール三重奏団を結成した。1969年に引退し、イシドア・コーエンがそのポジションを引き継いだ。第2ヴァイオリンのジャック・ゴロデツキはブダペスト弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者を務めたこともある。チェロのリュシアン・ラポルトはパリ音楽院で一等賞を得た名手。ヴィオラのフランク・ブリーフはパリのフォンテーヌブロー音楽学校出身。4人のメンバーはすべてパリで教育を受けた国籍の異なる音楽家。 | ||
ミルスタイン〔ミルシテイン〕〜 タルティーニ/クライスラー編曲: ヴァイオリン・ソナタ ト短調 Op.6 No.2「悪魔のトリル」 |
ナタン・ミルスタイン(Vn) レオポルド・ミットマン(P) | |
米 COLUMBIA 70552/3-D (Set MX 98)。録音:1938年1月31日、ニューヨーク、30丁目コロンビア・スタジオ。ナタン・ミルスタイン(1904-1992)はロシアのオデッサに生まれ、11歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学、名教師レオポルド・アウアー(1845-1930)に師事した。後にピアニストのホロヴィッツ(1903-1989)と出会い一緒に演奏旅行をしたこともある。1929年にアメリカ・デビュー、1942年にアメリカ市民権を得た。これはアメリカ・コロンビアに録音を始めたごく初期の物。 このシリーズでJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番(78CDR-3078)、ヴィターリ:シャコンヌ(78CDR-3306)が出ている。 | ||
A.シュナイダー&カークパトリック〜モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218 (*) /ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K.453 (#) アレクサンダー・シュナイダー(Vn;*)指揮ダンバートン・オークス室内o. ラルフ・カークパトリック(18世紀P;#) | ||
米 HAYDN SOCIETY HSLP 1040。録音:1951年3月、ニューヨーク、30丁目コロンビア・スタジオ。 ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダー(1908-1993)はリトアニアのヴィルナ生まれ。1932年から1944年、1955年から1967年にブダペスト四重奏団に在籍し、それ以外の期間はシュナイダー弦楽四重奏団やソリストとして活躍した。ラルフ・カークパトリック(1911-1984)はアメリカの音楽学者、鍵盤楽器奏者。ハーヴァード大学卒業後ヨーロッパ各地に留学し、1933年から34年にザルツブルクのモーツァルテウムで教鞭をとったこともある。1940年エール大学教授に就任、シュナイダーとのデュオではJ.S.バッハ、ヘンデル、モーツァルトのソナタ の録音を残している。ここではカークパトリックはジョン・チャリス(John Challis)が復元した18世紀ピアノを弾いている。典雅な響きが心を打つ。ダンバートン・オークスはワシントンD.C.の地名。ストラヴィンスキーがこの名を冠した室内オーケストラのための協奏曲(1938年)に作曲した。この室内o.は1950年代に幾つかの録音を残している。 シュナイダーはJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ (33CDR-3307)と無伴奏ヴァイオリン・パルティータ(33CDR-3308)、カークパトリックはJ.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲(33CDR-3322)が稀少な初期LPからの復刻で出ている。また二人が共演したヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ 集(33CDR-3327)も出た。 | ||
ギュンター・ラミン、1954年モスクワ・ライヴ〜J.S.バッハ: 半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV.903/パルティータ第4番 ニ長調 BWV.828 ギュンター・ラミン(Cemb) | ||
独 CONCERT HALL MMS-72。録音:1954年6月19日、モスクワ音楽院小ホール、ライヴ。 ギュンター・ラミン(1898-1956)はドイツの鍵盤楽器奏者、指揮者。1940年にライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽監督)となり、1956年の死までその地位にあった。特に1941年に録音されたJ.S.バッハ:マタイ受難曲」の抜粋盤(独ELECTROLA DB 6516/24S)は有名。またオルガンの録音は多数あるが、チェンバロの録音は非常に珍しい。 | ||
ブランカールのディスク・デビュー録音〜ドビュッシー:ピアノのための練習曲集(1915) より 〔第1番「5本の指のために」/第3番「4度のために」/第11番「アルペジオのために」/ 第4番「6度のために」/第8番「装飾音のために」/第10番「対比的な響きのために」 ジャクリーヌ・ブランカール(P) | ||
英 DECCA LY6094/6(仏 POLYDOR 27297/9と同一録音)。録音:1933年、パリ。 ジャクリーヌ・ブランカール(1909-1979)はパリ生まれの女流ピアニスト。パリ音楽院でイジドール・フィリップ(1863-1958)に師事し、1926年に一等賞を得た。以降オーケストラや室内楽、ソリストとして活躍。1938年にシャルル・ミュンシュ指揮パリpo.とラヴェル:左手のピアノのための協奏曲(DECCA X204/5)の世界初録音を行った。この録音は1933年ブランカールが24歳の時の彼女の初レコード録音で、ポリドールは当時イギリスではDECCAが発売していた。このシリーズでブランカールはLP録音のモーツァルト:ピアノ・ソナタ 集(33CDR-3328)が出ている。 | ||
I.メンゲス&H.サミュエル〜ブラームス: ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 Op.108 |
イゾルデ・メンゲス(Vn) ハロルド・サミュエル(P) | |
英 HIS MASTER'S VOICE C1923/5。録音:1929年12月2日-3日、1930年3月28日、ロンドン。 イゾルデ・メンゲス(1893-1976)はイギリスの女流ヴァイオリニスト。1910年17歳の時ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1930)に師事し、1913年20歳でロンドンでデビューした。ハロルド・サミュエル(1879-1937)はロンドン生まれのイギリスのピアニスト。バッハ演奏の権威で、バッハの全クラヴィーア作品を暗譜した。1898年当時ロンドンの聴衆には未知の作品だったバッハのゴルトベルク変奏曲 BWV.988を弾いてデビューした。バッハの演奏の傍らサミュエルは伴奏ピアニストとして人気があった。特に女流ヴァイオリン奏者イゾルデ・メンゲスとのデュオは有名だった。メンゲスは本シリーズでJ.S.バッハ:シャコンヌ(78CDR-3178)、シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第3番(78CDR-3206)が出ている。またサミュエルはJ.S.バッハ:パルティータ第2番 ハ短調 BWV.826(78CDR-3276)が出ている。 | ||
E.フィシャー〜シューベルト:8つの即興曲集 〔 Op.90 D.899 / Op.142 D.935 〕 |
エトヴィン・フィッシャー(P) | |
独 ELECTROLA DB3484/9 (英 HMV DB3434/9 と同一録音)。録音:1938年3月8日-9日、ロンドン、アビー・ロードEMI第3スタジオ。 エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイスのピアニスト。バーゼル音楽院で学んだ後、ベルリンでリスト(1811-1886)の高弟マルティン・クラウゼ(1853-1918)に師事した。1930年ベルリン高等音楽院の教授に任命され、一方演奏家としても活躍した。1942年スイスに戻り、ソロ活動に加えヴァイオリンのゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)、後にヴォルフガング・シュナイダーハン(1915-1990)、チェロのエンリーコ・マイナルディ(1897-1976)とフィッシャー・トリオを結成した。 | ||
ブランカール〜モーツァルト:ピアノ・ソナタ集 〔第3番 変ロ長調 K.281 /第16番 変ロ長調 K.570 / 第5番 ト長調 K.283 /第15番 ハ長調 K.545 〕 |
ジャクリーヌ・ブランカール(P) | |
英 DECCA, LXT 2666 (MONO/ffrr録音)。録音:1951年10月、ロンドン。 ジャクリーヌ・ブランカール(1909-1979)はパリ生まれの女流ピアニスト。パリ音楽院でイジドール・フィリップ(1863-1958)に師事し、1926年に一等賞を得た。以後オーケストラや室内楽のソリストとして活躍。1938年にシャルル・ミュンシュ指揮パリpo.とラヴェル:左手のピアノのための協奏曲(DECCA X204/5)の世界初録音を行った。また同曲をアンセルメ指揮スイス・ロマンドo.(DECCA LXT 2565)と再録音した。1948年にアメリカにデビューし、1979年パリに没した。このピアニストの数少ない録音の1枚で、パリ音楽院派のモーツァルトが聴ける。 | ||
A.シュナイダー、カークパトリック、ミラー〜ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ集 〔第4番 ニ長調 Op.1 No.13/第5番 イ長調 Op.1 No.14/第6番 ホ長調 Op.1 No.15/第3番 ヘ長調 Op.1 No.12 〕 アレクザンダー・シュナイダー(Vn) ラルフ・カークパトリック(Cemb) フランク・ミラー(Vc) | ||
米 COLUMBIA, ML 2150/51 (MONO)。録音:1950年1月4日、ニューヨーク、30丁目コロンビア・スタジオ。 ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダー(1908-1993)はリトアニアのヴィルナ生まれ。1932年から1944年、1955年から1967年にブダペスト四重奏団に在籍し、それ以外の期間はシュナイダー弦楽四重奏団やソリストとして活躍した。チェンバロのラルフ・カークパトリック(1911-1984)はアメリカの音楽学者、チェンバロ奏者。ハーヴァード大学卒業後ヨーロッパ各地に留学し、1933年から34年にザルツブルクのモーツァルテウムで教鞭をとったこともある。1940年エール大学教授に就任、シュナイダーとのデュオではJ.S.バッハ、ヘンデル、モーツァルトのソナタの録音を残している。 チェロのフランク・ミラー(1912-1986)はカーティス音楽学校で学び、18歳でレオポルド・ストコフスキー時代のフィラデルフィアo.に入団した。1940年から1954年まではアルトゥーロ・トスカニーニのNBCso.の首席を務め、1957年にはプエルト・リコのカザルス・フェスティヴァルo. 1959年から1985年にはシカゴso.の首席を務めた。 シュナイダーはJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(33CDR-3307)と無伴奏ヴァイオリン・パルティータ(33CDR-3308)、カークパトリックはJ.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲(33CDR-3322)が稀少な初期LPからの復刻で出ている。 | ||
ドホナーニ弾き振り〜モーツァルト: ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K.453 (カデンツァ:エルンスト・フォン・ドホナーニ) |
エルンスト・ フォン・ドホナーニ(P)指揮 ブダペストpo. | |
英 Columbia, L 2315/8 (とあるが、おそらく正しくは L 2215/8 )。録音:1928年6月28日。#商品型番は共に78XXX-3326へ変更する可能性があります。 エルンスト・フォン・ドホナーニ(1877-1960)はオーストリア=ハンガリー帝国のポジョニュ(スロヴァキア語名ブラチスラヴァ)生まれ。ブダペスト音楽アカデミーを卒業後、1897年オイゲン・ダルベルト(1864-1932)のレッスンを受けた後ピアニストとしてデビューした。ヨアヒムの招きでベルリン高等音楽院で教鞭をとった(1905-1915)。その後祖国に戻り、ブダペストpo.の音楽監督、音楽アカデミー院長をつとめた。第2次世界大戦後はアメリカに移住し、作曲家として活躍する一方、フロリダ州立大学で教鞭をとった。この録音は電気録音の初期のもので、自ら音楽監督を務めたブダペストpo.を指揮した、いわゆる "弾き振り" によるモーツァルトの協奏曲の初めての録音。現在指揮者として活躍するクリストフ・フォン・ドホナーニ(1929-)は孫にあたる。 | ||
シゲティ&ビーチャム〜プロコフィエフ: ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 Op.19 |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) トーマス・ビーチャム指揮 LPO | |
米 COLUMBIA, 69899/901-D。録音:1935年8月23日、ロンドン、アビー・ロードEMI第1スタジオ。 レコード録音史上に輝く名演奏の一つ。ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はブダペスト生まれ。ブダペスト音楽アカデミーでイェノ・フバイ(1858-1937)に師事し、13歳でデビューした。1907年から1913年に英国に住み、ピアニストのマイラ・ヘス(1890-1965)やフェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)らとのソナタ演奏から大きな音楽的影響を受け、その後ヨーロッパ大陸に戻り、1917年から1924年スイスのジュネーヴ音楽院で教えた。第2次世界大戦前の1932年と翌1933年に来日した。サー・トーマス・ビーチャム(1879-1961)は英国で最も尊敬された指揮者で1932年ロンドン・フルハーモニーo.を作った。 シゲティとビーチャムの顔合わせは、このプロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番の他に、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番(78CDR-3111)とメンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3124)がこのシリーズで出ている。 | ||
ミュンシュ&パリ音楽院管〜ドビュッシー: 管弦楽のための「映像」〜第2曲「イベリア」/ 英雄の子守歌 |
シャルル・ミュンシュ指揮 パリ音楽院o. | |
英 DECCA, AK 1763/5 (ffrr録音)。録音:1947年9月30日-10月2日、ロンドン、キングズウェイ・ホール。 シャルル・ミュンシュ(1891-1968)はストラスブールの生まれ。生地の音楽院でオルガンを学んだ後、パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)にヴァイオリンを学び、その後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1928)に師事した。1926年ライプツィヒ音楽院の教授に就任、1925年から32年にはゲヴァントハウスo.のソロ第一ヴァイオリン奏者もつとめ、ブルーノ・ワルター(1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し、指揮法も身につけた。パリに戻り1935年から38年にはパリ・フィルハーモニーの指揮者、1938年にはエコール・ノルマルのヴァイオリン科教授に任命された。1938年から45年にパリ音楽院o.指揮者をつとめた。1939年には同音楽院の指揮科教授に任命された。1949年にボストンso.の正指揮者となり1962年までつとめた。この録音はミュンシュとパリ音楽院o.のロンドン公演の際にスタジオ入りした物。オーケストラの各パートに音楽院の教授達の名人芸が聴こえる。コンデンサー・マイクロフォン独特の高域の輝きがffrrの特長。 ミュンシュ&パリ音楽院はラヴェル:ボレロ(78CDR-1164)チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(78CDR-3239)、プロコフィエフ:古典交響曲(78CDR-3321)が出ている。 | ||
ドレクリューズ、テーヴェ、ウーヴラドゥ〜 モーツァルト: クラリネット協奏曲 イ長調 K.622(*)/ ホルン協奏曲第3番 変ホ長調 K.477(#) |
ユリス・ドレクリューズ(Cl;*) リュシアン・テヴェ(Hr;#) フェルナン・ウーブラドゥー指揮 室内so. | |
仏 PATHE 33DTX 112。録音:1952年2月18日(*)、2月13日(#)、パリ。 クラリネットのユリス・ドレクリューズ(1907-1995)は1925年パリ音楽院で一等賞を得た後、コロンヌo. さらにパリ音楽院に入り、シャルル・ミュンシュの要請でパリ・フィルハーモニー(1935-1938)でも活躍した。1940年から1950年にギャルド・レピュブリケーヌのソリスト、1948年にパリ音楽院教授に就任1978年まで務めた。 ホルンのリュシアン・テヴェ(1914-2007)は1937年パリ音楽院で一等賞を得て、フランス国立放送o.(1937)、パリ音楽院o.(1938-1967)、パリ・オペラ座o.(1941-1974)で活躍した名手。 指揮者のフェルナン・ウーブラドゥー(1903-1986)は1921年パリ音楽院のファゴット科で一等賞を得た。フランスの主要オーケストラのソリストとして活躍、1942年からパリ音楽院の器楽合奏科の教授も務めた。 ドレクリューズはブラームス:クラリネット五重奏曲(33CDR-3317)、ラヴェル:序奏とアレグロ(78CDR-3264)、ベートーヴェン:七重奏曲(78CDR-3263)が出ている。 | ||
カークパトリックの「ゴルトベルク」第1回 J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV.988 |
ラルフ・ カークパトリック(Cemb) | |
米 HAYDN SOCIETY RECORDS HS-9035 (MONO)。録音:1952年。 ラルフ・カークパトリック(1911-1984)はアメリカの音楽学者、チェンバロ奏者。ハーヴァード大学を卒業後ヨーロッパ各地に留学。パリでナダィア・ブーランジェとワンダ・ランドフスカに、ロンドンでアーノルド・ドルメッチに、ベルリンでハインツ・ティーセンにライプツィヒでギュンター・ラミンに師事した。1933年から34年にザルツブルクのモーツァルテウムで教鞭をとった。1940年にエール大学教授に就任、ドメニコ・スカルラッティの評伝とソナタ作品にK.番号をつけてを整理した。また演奏家としてバッハの作品に取り組み、このゴルトベルク変奏曲は2回録音した第1回目の物。第2回目は独アルヒーフ(1959年)だった。 このシリーズでゴルトベルク変奏曲はランドフスカによる1933年録音(78CDR-3073)と1945年録音(78CDR-3288)が出ている。 | ||
ミュンシュ&パリ音楽院管の「古典」 プロコフィエフ: 交響曲第1番 ニ長調 Op.25「古典交響曲」 |
シャルル・ミュンシュ指揮 パリ音楽院o. | |
英 DECCA AK1756/7 (ffrr録音)。録音:1947年10月4日、ロンドン、キングズウェイ・ホール。 英国デッカのffrr録音。シャルル・ミュンシュ(1891-1968)はストラスブールの生まれ。生地の音楽院でオルガンを学んだ後、パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)にヴァイオリンを学び、その後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1928)に師事した。1926年ライプツィヒ音楽院の教授に就任、1925年から32年にはゲヴァントハウスo.のソロ第一ヴァイオリン奏者もつとめ、ブルーノ・ワルター(1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し、指揮法も身につけた。パリに戻り1935年から38年にはパリ・フィルハーモニーの指揮者、1938年にはエコール・ノルマルのヴァイオリン科教授に任命された。1938年から45年にパリ音楽院o.指揮者をつとめた。1939年には同音楽院の指揮科教授に任命された。1949年にボストンso.の正指揮者となり1962年までつとめた。 ミュンシュ&パリ音楽院はラヴェル:ボレロ(78CDR-1164)、チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(78CDR-3239)が出ている。 | ||
ケンプ&ラーべの「皇帝」 ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73「皇帝」 |
ヴィルヘルム・ケンプ(P) ペーター・ラーベ指揮 BPO | |
独 POLYDOR 67082/86。録音:1936年1月、ベルリン。 ヴィルヘルム・ケンプ(1895-1991)はドイツの名ピアニスト。機械式録音時代からステレオ録音時代まで多くの録音を残した。指揮者のペーター・ラーベ(1872-1945)はナチスの国家音楽協会の総裁を務めた人物。この時代の背景が窺われる。 ケンプはベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番(78CDR-3112)、ピアノ協奏曲第4番(78CDR-3120)、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番(78CDR-3164)何れも指揮はパウル・ファン・ケンペン、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」(78CDR-3133)が出ている。 | ||
シュタンスケ&シューリヒト〜 ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 Op.26 |
ハインツ・シュタンスケ(Vn) カール・シューリヒト指揮 ベルリン・ドイツ・オペラo. | |
独 POLYDOR 67864/6。録音:1942年1月、ベルリン。 ハインツ・シュタンスケ(1912-)はカール・フレッシュ(1873-1944)に師事したドイツのヴァイオリニスト。1937年ウィーン・コンクールで金賞を受賞した。第2次世界大戦中もドイツで活躍、ポリドールにSP録音をのこした。大戦後はコンサート活動と同時に後進の指導にあたり、女流ヴァイオリニスト、エディット・パイネマン(1939-)は弟子の一人だった。カール・シューリヒト(1880-1967)はドイツの指揮者。1912年から1944年までヴィスバーデン歌劇場の音楽監督をつとめると同時にBPOやウィーン・フィルにも客演した。 シュタンスケはモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番(指揮:パウル・フェン・ケンペン)(78CDR-3211)、シューリヒトはブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン:クーレンカンプ)(78CDR-3123)、ベートーヴェン:交響曲第2番(スイス・ロマンドo.)(78CDR-3115)、ベートーヴェン:交響曲第4番(ベルリン市立o.)(78CDR-3127)が出ている。 | ||
マイナルディ〜バッハ: 無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV.1009 |
エンリコ・マイナルディ(Vc) | |
英 DECCA LX3069 (ffrr録音)。録音:1950年1月20日、ロンドン、デッカ・スタジオ。 チェロのエンリコ・マイナルディ(1897-1976)はイタリア生まれ、ミラノ音楽院でチェロを、ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院で作曲を学んだ。チェロはベルリン高等音楽院のフーゴー・ベッカーに師事し、1933年からベッカーの後を継いでチェロ科の教授になった。この頃ヴァイオリンのクーレンカンプ、ピアノのエトヴィン・フィッシャーとトリオを結成し名声をあげた。この組曲第3番は1950年1月20日、に英デッカの10インチLPに録音された。デッカのSPには組曲第1番(AX-434/6)(1948年9月28日、録音)と組曲第2番(AK-2155/7)(1949年9月30日、録音)が残されているが、いずれも復刻盤は出ていない。これは稀少な初期LPからの復刻。 | ||
ドレクリューズ&パスカルSQ〜ブラームス:クラリネット五重奏曲 ロ短調 Op.115
ユリス・ドレクリューズ(Cl) パスカルSQ[ジャック・デュモン(第1Vn) モーリス・クリュ(第2Vn) レオン・パスカル(Va) ロベール・サル(Vc)] | ||
英 CLASSICS CLUB X47(Concert Hall Society CH-19と同一録音)。録音:1956年頃。 クラリネットのユリス・ドレクリューズ(1907-1995)は1925年のパリ音楽院で一等賞を得た後、コロンヌo.、さらにパリ音楽院o.に入り、シャルル・ミュンシュの要請でパリ・フィルハーモニー(1935-38)でも活躍した。1940年から1950年にギャルド・レピュブリケーヌのソリスト、1948年にパリ音楽院教授に就任1978年まで務めた。パスカル弦楽四重奏団は1941年にマルセイユ出身のレオン・パスカルによって組織され、後にO.R.T.F.(フランス国立放送局)弦楽四重奏団となり1973年に解散した名四重奏団。ドレクリューズは同曲をステレオ時代にレーヴェングート四重奏団と再録音している。 このシリーズでドレクリューズはラヴェル:序奏とアレグロ(78CDR-3264)、ベートーヴェン:七重奏曲(78CDR-3263)が出ている。 | ||
ファン・バレンツェンの「月光」〜ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 Op.27-2「月光」 |
アリーヌ・ ファン・バレンツェン(P) | |
仏 LVSM DB11165/6。録音:1947年6月4日、パリ、アルベール・スタジオ。使用楽器:ガヴォー。 アリーヌ・ファン・バレンツェン(1897-1981)アメリカ生まれのフランスのピアニスト。9歳でパリ音楽院に入学が許されエリー=ミリアム・ドラボルド(1839-1923)とマルグリット・ロン(1874-1966)に師事した。1909年11歳でアメリカ人として初めて一等賞を得た。この最年少記録は今も破られていない。その後ベルリンでエルンスト・フォン・ドホナーニ(1877-1960)、ウィーンでテオドール・レシェティツキ(1830-1915)について研鑽を重ねた。祖国アメリカに戻りフィラデルフィアの音楽学校、さらにブエノスアイレスの音楽学校の教授を歴任後、1954年にパリ音楽院の教授に任命された。 ベートーヴェン:「熱情」ソナタ(78CDR-3156)、ブラームス:パガニーニ変奏曲(78CDR-3185)、ファリャ:スペインの庭の夜(78CDR-3193)がこのシリーズで出ている。 | ||
コルトー〜リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 | アルフレッド・コルトー(P) | |
米 VICTROLA 7325/7(英His Master's Voice DB1307/9 と同一録音)。録音:1929年3月13日、ロンドン、小クイーンズ・ホール。 リスト生誕200年記念発売。アルフレッド・コルトー(1877-1962)も20世紀フランス最高のピアニスト。パリ音楽院でディエメールとピュニョに師事した。コルトーは偉大な教育者でもあった。1907年から1917年までパリ音楽院の教授をつとめ、1918年にエコール・ノルマル音楽学校を設立した。門下生にはマグダ・タリアフェロ、クララ・ハスキル、ディヌ・リパッティ、ヴラド・ペルルミュテル、イヴォンヌ・ルフェビュール、サンソン・フランソワ等がいる。このリストのソナタは世界初録音。これまでSP録音本来の強靱な音が復刻されてなかったため、コルトーの偉大な演奏が見過ごされてきた。ここではノイズの比較的少ない初期アメリカVICTOR盤を使用しコルトーの真の姿が浮かび上がっている。 | ||
ティボー&コルトー〜フランク: ヴァイオリン・ソナタ イ長調 |
ジャック・ティボー(Vn) アルフレッド・コルトー(P) | |
米 VICTROLA 8179/82(英 His Master's Voice DB1347/50 と同一録音)。録音:1929年5月28日、パリ、ショパン音楽堂。 ジャック・ティボー(1880-1953)は20世紀フランス最高のヴァイオリニスト。パリ音楽院でマルシックに師事、1896年に一等賞を得た。アルフレッド・コルトー(1877-1962)も20世紀フランス最高のピアニスト。パリ音楽院でディエメールとピュニョに師事した。二人は1923年にこのヴァイオリン・ソナタを機械式録音で吹き込みんだ(78CDR-3264)ことがある。1929年5月28日のこの録音はベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」(78CDR-3015)に続いて録音された。レコード史上永遠に輝く名演奏。復刻にはノイズの比較的少ない初期アメリカVICTOR盤を使用した。 | ||
フランチェスカッティ〜J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 〔第2番 ニ短調 BWV.1004 (*) / 第3番 ホ長調 BWV.1006 (#)〕 |
ジノ・ フランチェスカッティ(Vn) | |
米 COLUMBIA ML4935。録音:1952年4月24日(*)、1950年5月23日(#)、ニューヨーク30丁目コロムビア・スタジオ。 ジノ・フランチェスカッティ(1902-1991)はフランスの名ヴァイオリニスト。マルセイユに生まれ、ヴァイオリニストだった父親とその門下生だった母親の手ほどきを受けて研鑽を積み、5歳でリサイタルを開き10歳でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を公開演奏した。一時法律家を志したが父親の早逝でヴィオリニストになる決意をし、1924年にパガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番でパリ・デビューし、その後ジャック・ティボー(1880-1953)の薫陶を得た。1927年から31年までエコール・ノルマル音楽院の教授をつとめ、この間コンセール・ストララムに団員としても加わっていた。1939年にソリストとしてアメリカにデビュー、そのままニューヨークに定住した。1950年はJ.S.バッハ(1685-1750)の没後200年にあたり、フランスカッティを起用して無伴奏ソナタとパルティータのプロジェクトで、パルティータ第3番 BWV.1006から始めたが、第2弾のパルティータ第2番 BWV1004が2年後の録音となり、全曲完成の見込みが立たなくなった1954年にこの2曲だけ単売されたがすぐに廃盤になった。一筆書き風の輝かしいラテン バッハの名演を、是非後世に残したい気持ちを持って取り上げた。初期LPからの復刻で特有のノイズがあるが、ダイレクトトランスファーの生々しい音が特長。 | ||
ジュリアン・オレフスキー〜ブラームス: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77 |
ジュリアン・オレフスキー(Vn) ハワード・ミッチェル指揮 ナショナルso. | |
米 WESTMINSTER WL5273。録音:1953年12月18日-20日。 ヴァイオリンのジュリアン・オレフスキー(1926-1985)はドイツ生まれ。1935年に家族と共にアルゼンチンのブエノスアイレスに移住、ヴァイオリニストとしての研鑽を積んだ。1947年にアメリカに移住、1949年にニューヨークのタウンホールでデビュー、1950年にカーネギー・ホールで4回のリサイタルを行った。1959年来日した。演奏家として活躍すると同時にマサチューセッツ大学で後進の指導にあたった。59歳の時心臓麻痺で他界した。 このブラームスはLPレコードの出現で設立された米WESTMINSTERへの初録音。西条卓夫著「名曲この一枚」(文芸春秋新社)にとりあげられた。LP、CDを通して初復刻。 指揮者のハワード・ミッチェル(1910-1988)はネブラスカ生まれ。1950年から1969年までワシントンD.C.のナショナルso.の音楽監督をつとめた。初期LPからの復刻で特有のノイズがあるが、ダイレクトトランスファーの生々しい音が特長。 | ||
ブッシュSQ〜モーツァルト:弦楽四重奏曲第16番 変ホ長調K.428(421b)
ブッシュSQ[アドルフ・ブッシュ(第1Vn) ゲスタ・アンドレアソン(第2Vn) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)] | ||
米 COLUMBIA 71431/4D。録音:1942年5月15日、ニューヨーク、リーダークランツ・ホール。 ブッシュ弦楽四重奏団は1919年にアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によって組織され、1930年代には英 HIS MASTER'S VOICE に多くの録音をしている。ブッシュはまたピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とのデュオ録音でも活躍した。ブッシュは1939年に実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに移住、その後四重奏の二人のメンバーもアメリカに渡り、1941年からアメリカCOLUMBIAに録音を再開した。 このシリーズではヨーロッパ時代に録音したベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番Op.135(78CDR-3195)とアメリカ時代のベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」(78CDR-3287)、ピアノ三重奏曲「幽霊」(78CDR-3253)、シューマン:ピアノ五重奏曲作品44(ピアノ:ゼルキン)(78CDR-3305)などが出ている。 | ||
ブランシュ・セルヴァ〜フランク: 前奏曲、コラールとフーガ |
ブランシュ・セルヴァ(P) | |
仏 COLUMBIA LFX168/70。録音:1930年6月6日、パリ。 ブランシュ・セルヴァ(1884-1942)はパリ音楽院でピアノを学び1895年に11歳で一等賞、1904年にJ.S.バッハのクアヴィーア曲集を全曲ピアノで演奏した。セルヴァは1930年11月のコンサート中に卒中に襲われステージ活動を離れた。 セルヴァはJ.S.バッハ:パルティータ第1番BWV.825(78CDR-3191)、フランク:ヴァイオリン・ソナタ(ヴァイオリン:ジョアン・マッシア)(78CDR-3012)、ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(ヴァイオリン:ジョアン・マッシア)(78CDR-3028)が出ている。 | ||
モイーズ&ラスキーヌ〜モーツァルト: フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299 |
マルセル・モイーズ(Fl) リリー・ラスキーヌ(Hp) ピエロ・コッポラ指揮o. | |
仏 DISQUE GRAMOPHONE L876/8。録音:1931年1月26日、2月26日、パリ。 フルートのマルセル・モイーズ(1889-1984)はパリ音楽院でポール・タファネル(1844-1908)、フィリップ・ゴーベール(1879-1941)に師事し1905年に一等賞を得た。1908年にソロ・デビュー、オペラ・コミック、ストララムo.に席を置き、1932年から1949年まで母校の教授をつとめた。ハープのリリー・ラスキーヌ(1893-1988)は12歳の時パリ音楽院で一等賞を得た。コンセール・ラムルーのハーピスト、ソリストとして活躍し、1948年から1958年まで母校の教授をつとめた。ピエロ・コッポラ(1888-1977)はミラノ生まれ、フランスで活躍した。SPレコードの録音も多い。 モイーズとラスキーヌはドビュッシー:フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(78CDR-3064)、ラヴェル:序奏とアレグロ(78CDR-3284)が出ている。 | ||
A.シュナイダー〜無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.2 (#) J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV.1004/ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調 BWV.1005/ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番 ホ長調 BWV.1006 アレクサンダー・シュナイダー(Vn) | ||
A.シュナイダー〜無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ Vol.1 (*) J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 BWV.1001/ 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番 ロ短調 BWV.1002/ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV.1003 アレクサンダー・シュナイダー(Vn) | ||
米 MERCURY MG-10017/8 (*), MG-10019/20 (#) 。録音:1949年、ニューヨーク、リーヴス・スタジオ。 アレクサンダー・シュナイダー(1908-1993)はリトアニアのヴィルナ生まれ。ブダペスト弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者として活躍、ナチスの迫害を逃れ四重奏団の他のメンバーと共にアメリカの移住した。シュナイダーは1932年から1944年、1955年から1967年に四重奏団に在籍、ぞれ以外の期間はシュナイダー弦楽四重奏団やソリストとして活動した。シュナイダーはプラドで隠遁していたパブロ・カザルスの元をしばしば訪れバッハの演奏法の指導を受け、それが縁で1950年のプラド音楽祭が実現した。 この録音はシュナイダーはカザルスのバッハ理念をヴァイオリンで表現しているアルバム。 1950年はJ.S.バッハ(1685-1750)の没後200年にあたり、その記念にLP登場で初の無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全6曲がシュナイダーの手で完成した。録音は1949年に行われ、録音ディレクターがミッチェル・ミラー(1911-2010)、録音エンジニアはロバート・ファイン(1922-1982)。ミッチェル・ミラーは優れたオーボエ奏者、イングリッシュホルン奏者でもあり、後年アメリカ・コロンビアのA&R部長をつとめ、数々の名アーティストを生み出した人物。また自らアーティストとしてミッチ・ミラー合唱団を組織し、初期のTV番組「ミッチと歌おう」に出演した「ヒゲのおじさん」。ロバート・ファインはマーキュリー・オリンピアン・シリーズでLP初期のハイファイ録音時代を築いた人物。 | ||
ナタン・ミルシテイン(ミルスタイン) ヴィターリ:シャコンヌ(*) J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト短調 BWV.1001〜アダージョ(#) |
ナタン・ミルスタイン(Vn) レオポルド・ミットマン(P) | |
米 COLUMBIA 70488/9-D。録音:1935年12月31日、(*)、1936年2月21日、(#)、ニューヨーク、コロンビア・スタジオ。 ナタン・ミルスタイン(1904-1992)はロシアのオデッサに生まれ、11歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学、名教師レオポルド・アウアー(1845-1930)に師事した。後にピアニストのホロヴィッツ(1903-1989)と出会い一緒に演奏旅行をしたこともある。1929年にアメリカ・デビュー、1942年にアメリカ市民権を得た。 これはアメリカ・コロンビアに録音を始めたごく初期の物。同じころの録音であるJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番(78CDR-3078)が出ている。 | ||
ゼルキン&ブッシュSQ〜シューマン:ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op.44
ルドルフ・ゼルキン(P) ブッシュSQ 〔アドルフ・ブッシュ(第1Vn) ゲスタ・アンドレアソン(第2Vn) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)〕 | ||
米 COLUMBIA 71442/5-D。録音:1942年5月22日、ニューヨーク、リーダークランツ・ホール。 ブッシュ弦楽四重奏団は1913年にリーダーのアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によってドイツで組織され、1939年からアメリカで活動したが1952年にブッシュの死によって消滅した。ピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)は1922年からアドルフ・ブッシュとデュオを組んで活躍し、1935年ブッシュの娘イレーネと結婚した。ゼルキンはナチスのユダヤ人迫害を避けアメリカに移住した。 アメリカ時代のブッシュはこのシリーズでベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」(78CDR-3287)、ピアノ三重奏曲「幽霊」(ピアノ=ゼルキン)(78CDR-3253)、J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲第2番(78CDR-3216)、二つのヴァイオリンのための協奏曲(78CDR-3235)が出ている。 | ||
フォーレ:レクイエムOp.48
シュザンヌ・デュポン(S) モーリス・ディディエール(Br) エルネスト・ブールモーク指揮リヨン器楽合奏団&cho.、エドアール・コメット(Org) | ||
米 COLUMBIA 70295/9-D (英 COLUMBIA LX773/7と同一録音)。録音:1938年5月30日-31日、6月1日、リヨン、サン=ジャン大聖堂。 リヨンのサン=ジャン大聖堂で録音されたこの名曲の記念碑的録音。英コロンビアのプロデューサー、ウォルター・レッグによる録音。SP時代の同曲はフランスHMVが1929年に録音したギュスタヴ・ブレ指揮バッハ協会合唱団とo.(仏 LA VOIX DE SON MAITRE W1154-58)があったが1936年に廃盤になっていて、この新録音が大歓迎されたとの記述がある。 | ||
マドレーヌ・グレイ〜カントルーブ:オーヴェルニュの歌 〔バイレロ−高地オーヴェルニュの羊飼いの歌/泉の水/どこへ羊を放そうか/あちらのリムザンに/ 私には恋人がいない/うずら/牧場を通っておいで/子守歌 −女房持ちはかわいそう/紡ぎ歌−アントゥエノ〕 マドレーヌ・グレイ(Ms) エリー・コーエン指揮o. | ||
録音:1930年2月3日(1-2), 2月5日(3-6)、パリ。日 COLUMBIA J8124/6 。 マドレーヌ・グレイ(1896-1976)はフランスのメゾソプラノ。パリ音楽院でコルトーにピアノをエタッシュに声楽を学んだ。コンセール・ラムルーの演奏会でデビューしたとき彼女の声楽家としての才能がフォーレとラヴェルの目にとまった。フォーレの歌曲集「まぼろし」(1919)の初演者、ラヴェルの歌曲集「二つのヘブライの歌」(1920)と「マダガスカルの土人の歌」(1926)の初演者に選ばれた。この「オーヴェルニュの歌」は作曲者のジョゼフ・カントルーブ(1879-1957)が採集した民謡に器楽伴奏をつけたもので、1926年彼女によって創唱された。この初演盤は日本コロムビアからSPレコード時代に発売され人気のアルバムであった。 | ||
マルティネッリ&J.ドワイヤン〜 シューベルト:歌曲集「美しき水車屋の娘」D.795 (フランス語歌唱版/モーリス・ショッサン詩) |
ジェルメーヌ・ マルティネッリ(S) ジャン・ドワイヤン(P) | |
録音:1935年4月3日(1-7), 4月5日(9-12), 4月8日(13-20)。使用ピアノ:プレイエル。仏 COLUMBIA RFX42/46 。 ジェルメーヌ・マルティネッリ(1887-1964)はパリ生まれ。父親はいくつかの劇場を回っていた医師で、しばしば娘を演奏会に連れていった。1900年13歳のときサル・プレイエルで独唱会を開いた。音楽院に行かず、個人教授で研鑽をつんだ。1908年、パブロ・カザルス、ジャック・ティボー、ラウル・ピュニョが出演したあるマチネ・コンサートで歌い大反響を呼んだ。第1次大戦(1914-18)中は病院や軍の劇場を訪問して歌った。1919年になってコロンヌo.の指揮者だったガブリエル・ピエルネ(1863-1937)の演奏会で歌い、以降パリでの名声が広まっていった。1928年にはフランス歌曲とドイツ歌曲の独唱会をひらき評判を呼んだ。いくつかの賞を受賞し、フランス放送のスターの一人になった。1941年に引退、パリ音楽院の試験審査官のメンバーと声楽科の教授を1963年までつとめた。このシューベルトの「美しい水車屋の娘」をフランス語で歌った物。彼女はシューマンの「女の愛と生涯」もフランス語で歌った録音がある。なめらかで美しい声はこの曲の魅力を倍加している。ピアノのジャン・ドワイヤン(1907-1982)はパリ音楽院でマルグリット・ロン(1874-1966)に師事した。この録音はおそらくドワイヤンの初録音であろう。 | ||
天使の糧〜ベニャミーノ・ジーリ(T) ヴェルディ:清きアイーダ / プッチーニ:「ボエーム」〜愛らしい乙女よ(*) [マリア・カニーリャ(S;*) ワルター・ゲール指揮 o./ Eng.HMV DB3225A, B /1937年5月28日]/ カルディッロ:カタリ(つれないお前) / ファルヴォ:君に告げてよ [ライナルド・ツァンボーニ指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場o./ Eng.HMV DB6436A , B /1946年12月13日]/ フランク:天使の糧 / チレア:フェデリコのロマンス [ブルーノ・ザイトラー=ヴィンクラー指揮ベルリン国立歌劇場o. & cho./ Eng.HMV DB2914A, B /1936年6月2日]/ デ・クルティス:忘れな草 / シューベルト/メリヒャル編曲:千人の天使の合唱(シューベルトの子守歌) [アロイス・メリヒャル指揮ベルリン国立歌劇場o./ Ger.Electrola DA1447A, B /1935年10月25日] | ||
ベニャミーノ・ジーリ(1890-1957)はイタリアの偉大なオペラ歌手。1914年パルマで開かれた国際コンクールで優勝し、すぐにオペラ・デビューした。パルレモのマッシモ劇場、ナポリのサン・カルロ劇場、ローマのコスタンツィ劇場、ミラノのラ・スカラ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に出演した。1921年にイタリアの大テノール歌手エンリーコ・カルーゾの死去後、ジーリは第2のカルーゾとしての国際的名声が急遽上昇した。1932年に出演料についての不満からメトロポリタンを離れヨーロッパに戻った。イタリアの独裁者ムッソリーニのお気に入りの歌い手だった。これは戦後になっての人気に影響をあたえた。ジーリはオペラ以外にナポリ民謡、宗教曲、さらに映画音楽などの幅広い録音を残した。ここにはそれらの名唱を集めた。SPレコードならではの実在感のある音が聴ける。 | ||
すみれ・野ばら〜エリーザベト・シューマン(S) モーツァルト:すみれ[ジェラルド・ムーア(P)/ Eng.HMV DA1854A /1945年8月]/ シューベルト:野ばら−草原の歌[カール・アルヴィン(P)/ Eng.HMV DB1844A /1932年11月7日]/ 子守歌−蝶々[ジョージ・リーヴス(P)/ Eng.HMV DB3426A /1937年11月29日]/ ブラームス:眠りの精[ジェラルド・ムーア(P) Eng.HMV DA1526A /1936年9月7日]/ レーガー:マリアの子守歌[ワルター・ゲール指揮o./ Ger.Electrola DA1619A /1937年11月22日]/ ブラームス:子守歌[オーケストラ伴奏/ Eng.HMV DA1562A /1937年3月11日]/ R.シュトラウス:子守歌[アイヴァー・ニュートン(P) Ger.Electrola EJ197A /1927年5月24日]/ フリース/伝モーツァルト:モーツァルトの子守歌 [ローランス・コリングウッド指揮o./ Eng.HMV E555A /1930年2月17日] | ||
エリーザベト・シューマン(1885-1952)はドイツの名ソプラノ。1909年にハンブルグ歌劇場でデビューした。彼女はオペラ。オペレッタ、宗教曲、リートと幅広いレパートリーを誇った。ここには1927年電気録音初期から1945年までに録音された10曲を選んだ。大歌手が親しみを持って歌いかけてくるSPレコードの魅力が満喫できる。シューマンはこのシリーズで「シューマン:女の愛と生涯」(78CDR-3273)が出ている。 | ||
夢の後に〜ニノン・ヴァラン(S) マスネ:エレジー / トセリ:セレナード [ピエール・ダルク(P) J.フォール(Vc)/ Fr. Odeon 238.030 A, B /1936年5月11日]/ フォーレ:秋[モーリス・フォール(P)/ Fr.Pathe PG60A /1934年]/ 夢の後に[J.アンドルフィ(P)/ Fr.Pathe X93081A /1929年]/ ドビュッシー:グリーン/マンドリン−操り人形[ギュスタヴ・クローエ(P)/ Fr.Odeon 188.595A /1928年7月3日]/ レイナルド・アーン:至福の時/歌に翼ありせば[不明伴奏者(P)/ Fr.Odeon 188.579 A, B /1928年3月31日] | ||
ニノン・ヴァラン(1886-1961)はフランスのソプラノ。最初リヨン音楽院、続いてパリ音楽院で学んだ。最初はオペラ歌手になる意志はなく、声楽家として舞台に立つことを考えていた。1911年ドビュッシー(1862-1918)の神秘劇「聖セバスティアンの殉教」の初演にエリゴネ役に選ばれ、1914年にはドビュッシーの「ステファヌ・マラルメの三つの詩」の初演を行った。その後オペラ出演を説得され主要なオペラの主役を40年間に渡って演じた。SPレコードにはシャルパンティエ(1860-1956)の「ルイーズ」(1935年ビゴー指揮抜粋)やマスネ(1842-1912)の「ウェルテル」(1931年エリー・コーエン指揮全曲、ジョルジュ・ティルとの共演)がある。ヴァランはオペラ出演の傍らパリのミュージックホール「アランブラ」にも出演したこともあり、これが人気を広めた。ここに集めた曲は初めての人にもヴァランの魅力を伝えることを意図して選曲した。SPレコードならではの声の良さが聴ける。 | ||
コーリッシュSQ〜モーツァルト: 弦楽四重奏曲第21番 ニ長調 K.575 「プロシャ王第1番」 |
コーリシュSQ [ルドルフ・コーリッシュ(第1Vn) フェリックス・クーナー(第2Vn) オイゲン・レーナー(Va) ベルナール・ハイフェッツ(Vc)] | |
ソース:英 COLUMBIA LX337/8。録音:1934年6月25日、ロンドン、アビー・ロードEMI第3スタジオ。 コーリッシュ弦楽四重奏団は新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲を演奏する目的でルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)によって1921年に結成された。結成当初は作曲家シェーンベルクの指導の下でウィーン弦楽四重奏団と名乗っていたが、後にコーリッシュ弦楽四重奏団に改称し、現代音楽だけではなく古典レパートリーの演奏にも取り組んだ。コーリッシュは子供の頃左手に怪我をしたため、右手でヴァイオリンを持ち、左手に弓を持って弾いた。 このシリーズで他にモーツァルト:弦楽四重奏曲第22番 K.589「プロシャ王第2番」(78CDR-3197)、シューマン:ピアノ四重奏曲作品47(78CDR-3242)、モーツァルト:音楽の冗談K.522(78CDR-3250)が出ている。 | ||
ナタン・ミルシテイン〜モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタ第24番 ハ長調 K.296 |
ナタン・ミルシテイン(Vn) アルトゥール・バルサム(P) | |
ソース:米 COLUMBIA 70628/9-D(Set X-MX-143)。録音:1939年4月5日、ニューヨーク、コロンビア・スタジオ。 ナタン・ミルシテイン〔ミルスタイン; 1904-92〕はロシアのオデッサの生まれ、11歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学、名ヴァイオリン教授レオポルド・アウアー(1845-1930)に師事した。後にピアニストのウラディミル・ホロヴィッツと出会い一緒に演奏旅行を行ったこともある。1929年にアメリカ・デビュー、1942年にアメリカ市民権を得た。アメリカ移住後のSP時代、米COLUMBIAの若手アーティストとして多くの録音をしている。 ピアノのアルトゥール・バルサム(1906-94)はポーランド生まれのピアニスト。ベルリン高等音楽院に学び、1930年にメンデルスゾーン賞を得た。1932年にヴァイオリンのイェフディ・メニューイン(1916-99)のアメリカ・ツアーに同行した。ナチスの台頭でアメリカに移住し、ソロ、室内楽に活躍した他、イーストマン音楽学校、ボストン大学、マンハッタン音楽院で教鞭をとった。 ミルスタインは本シリーズではJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番(78CDR-3078)とラロ:スペイン交響曲(78CDR-3132)が出ている。 | ||
ヤッシャ・ハイフェッツ〜モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタ第40番 変ロ長調 K.454 |
ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn) エマヌエル・ベイ(P) | |
ソース:米 VICTOR 14328/30。録音:1936年2月10日、ニューヨーク、RCA Victorスタジオ。 ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-87)はリトアニアのヴィルナ生まれ。サンクトペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー教授に師事、10歳の春にデビューした。1916年16歳の時に革命を逃れ一家はアメリカに移住し、少年ハイフェッツは一流演奏家として待遇された。その後青年期、壮年期を経て引退するまで世界最高のヴァイオリン奏者として崇められた。この録音はハイフェッツが35歳の時の物。 ピアノのエマヌエル・ベイ(1891-1968)はロシア生まれ。ハイフェッツの伴奏ピアニストとして活躍した。 ハイフェッツはこのシリーズでチャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3036)とメンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3114)、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3179)が出ている。 | ||
アルバート・スポールディング〜モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタ第36番 変ホ長調 K.380(374f) |
アルバート・ スポールディング(Vn) アンドレ・ブノワ(P) | |
ソース:米 VICTOR 18156/7 (Set M819)。録音:1940年5月1日、ニューヨーク、RCA Victor第2スタジオ。 アルバート・スポールディング(1888-1953)はシカゴ生まれのアメリカのヴァイオリニスト。パリとボローニャの音楽学校で学んだ後1906年にパリでデビュー。第1次世界大戦の1922年、パリ音楽院o.の初のアメリカ人独奏者に迎えられた。その1年後同音楽院のヴァイオリン科の卒業審査員に選ばれた。 スポールディングはエジソンレコードに初期の円筒レコード時代から小品の録音を始め、縦振動のダイアモンドディスク、短命だったエジソンの電気録音レコードにも録音を残した。1930年代にはRCA VICTORの専属アーティストとなった。第2次世界大戦後のLP時代になってベートーヴェンとブラームスのヴァイオリン協奏曲をREMINGTONに録音、同レーベルにはエルネ・ドホナーニ(1877-1960)のピアノでブラームスのヴァイオリン・ソナタ3曲を残した。 ピアノのアンドレ・ブノワ(1879-1953)はフランスのピアニスト。パリ音楽院でラウル・ピュニョ(1852-1914)とサン=サーンス(1835-1921)に師事した。名伴奏ピアニストとして多くの大物アーティストと共演した。 | ||
カール・フレッシュ モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタ第34番 変ロ長調K.378(317d)(*) ヘンデル: ヴァイオリン・ソナタ第5番 イ長調 Op.1-14(#) |
カール・フレッシュ(Vn) フェリックス・ダイク(P) | |
ソース:日 POLYDOR 90004/6 (独 Polydor 67179/80 &67178 と同一録音)。録音:1936年2月26日(*)、2月25日(#)、パリ。 カール・フレッシュ(1873-1944)はハンガリー出身のヴァイオリニスト。ウィーンで学んだ後、パリ音楽院でマルタン・マルシック(1847-1924)に師事し、1894年に一等賞を得た。マルシックはジャック・ティボー(1880-1953)、ジョルジュ・エネスコ(1881-1955)の師でもあった。フレッシュは演奏家とヴァイオリン教師として活躍、ブカレスト(1897-1902)、アムステルダム(1903-8)、フィラデルフィア(1924-28)、ベルリン高等音楽院(1929-34)で教えた。弟子にはイダ・ヘンデル、ジョセフ・ハッシド、シモン・ゴールドベルク、マックス・ロスタルらがいる。フレッシュは名声の高かったわりには録音が少なく、この2曲は彼の残した大曲の唯一のもので、59歳の時の録音だった。 | ||
カペーSQ〜ラヴェル:弦楽四重奏曲 ヘ長調 | カペーSQ [リュシアン・カペー(第1Vn) モーリス・エヴィット(第2Vn) アンリ・ブノワ(Va) カミーユ・ドローベル(Vc)] | |
ソース: 英 COLUMBIA D15057/60。録音:1928年6月15日、19日、パリ。 「人類の遺産」の一つに数えられるカペー弦楽四重奏団が1928年にフランス・コロンビアに録音した一曲。リーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)は医師の誤診による腹膜炎で1928年12月18日に急逝した。享年55歳。カペーは1893年パリ音楽院で一等賞を得て、その年に弦楽四重奏団を組織した。1920年頃から毎年ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をパリで開催していた。カペーは1928年6月10日から10月15日にかけてフランス・コロンビアに51枚の録音をした。まるで自らの死を予期したようなハイペースの録音だった。 このシリーズでカペーはフランク:ピアノ五重奏曲(ピアノ=シャンピ)(78CDR-3034)、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第5番(78CDR-3042)、シューマン:弦楽四重奏曲第1番(78CDR-3056)、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」(78CDR-3277)、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番(78CDR-3082)、ドビュッシー:弦楽四重奏曲(78CDR-3168)、ハイドン:弦楽四重奏曲「ひばり」(78CDR-3194)、シューベルト:弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」(78CDR-3270)が出ている。 | ||
フルニエ&シュナーベル〜ベートーヴェン: チェロ・ソナタ第5番 ニ長調 Op.102-2 |
ピエール・フルニエ(Vc) アルトゥール・シュナーベル(P) | |
ソース:英 HIS MASTER'S VOICE DB9438/40。録音:1948年6月21日、ロンドン、アビー・ロードEMI第3スタジオ。 ピエール・フルニエ(1906-1986)はパリ生まれのチェリスト。最初ピアノを学んだが9歳のとき小児麻痺による右足障害のためチェロに転向した。1923年パリ音楽院で一等賞を得て楽壇にデビュー、ヴァイオリンのガブリエル・ブイヨン、ピアノのヴラド・ペルルミュテルとのトリオで注目された。1937年エコール・ノルマル教授、1941年から1949年までパリ音楽院教授をつとめた。1942年にヴァイオリンのシゲティ、ピアノのシュナーベルとのピアノ・トリオ、ヴィオラのプリムローズを加えて四重奏で活動、さらに1945年にはカザルスの抜けたカザルス・トリオに加わりヴァイオリンのティボー、ピアノのコルトーと演奏活動をした。1954年に初来日。その後何度も日本を訪れた。 ピアノのシュナーベル(1882-1951)はオーストリアの大ピアニスト。ウィーンで高名なレシェティツキーに師事した。 この顔合わせによるベートーヴェン:チェロ・ソナタ第3番(78CDR-3171)、第4番(78CDR-3232)がこのシリーズで出ている。 | ||
デニス・ブレイン〜モーツァルト: ホルン協奏曲第4番 変ホ長調 K.495(*)/ ホルン協奏曲第2番 変ホ長調 K.417(#) |
デニス・ブレイン(Hr) マルコム・サージェント指揮 (*; 第1楽章) ローレンス・ターナー指揮 (*; 第2&3楽章) ハレo.(*) ワルター・ジュスキンド指揮(#) フィルハーモニアo.(#) | |
ソース:英 Columbia DX1123/4(*)、DX1365/6(#)。録音:1943年6月21日(*)、1947年5月21日(#)。 デニス・ブレイン(1921-1957)は夭折した伝説的なイギリスのホルン奏者。父親のオーブリー・ブレイン(1893-1955)の指導を受けた。デニス・ブレインは1957年9月1日、エディンバラからロンドンに戻る途中、自身の運転するスポーツカー(トライアンフTR2)の事故で命を落とした。享年36歳。 この録音は1953年にカラヤン指揮で録音したモーツァルト:ホルン協奏曲集(4曲)以前の、若いブレインが聴ける貴重な遺産。第2番が26歳、第4番が22歳の時の録音。 ワルター・ジュスキンド(1913-80)はプラハ生まれのイギリスの指揮者。マルコム・サージェント(1895-1967)はイギリスの名指揮者。二人ともレコード録音が多い。 | ||
モイーズのモーツァルト モーツァルト: フルート協奏曲第1番 ト長調 K.313(*) (カデンツァ:タファネル)/ フルート協奏曲第2番 ニ長調 K.314(#) (カデンツァ:ド・ドンジョン) |
マルセル・モイーズ(Fl) ウジェーヌ・ビゴー指揮(*) ピエロ・コッポラ指揮(#) o. | |
ソース:米 Victor 12853/5(*)、12477/8(#)、(仏Gramophone L1021/3 &L.835/6と同一録音)。録音:1936年2月17日(*)/1930年3月28日(#)、パリ。 フルートのマルセル・モイーズ(1889-1984)はパリ音楽院でポール・タファネル(1844-1908)、フィリップ・ゴーベール(1879-1941)に師事し1905年に一等賞を得た。1932年から49年まで母校パリ音楽院の教授をつとめた。指揮者のウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)はパリ音楽院出身。シャンゼリゼ劇場の指揮者を経てパリ音楽院o.、フランス放送o.、ラムルーo.、オペラ・コミックの指揮者を歴任。母校の指揮科の教授もつとめた。ピエロ・コッポラ(188-1977)はミラノ生まれ、フランスで活躍した。SPレコードの録音も多い。 | ||
「四季」の世界初録音 ヴィヴァルディ/モリナーリ編曲: 協奏曲集「四季」Op.8 Nos.1-4 |
ベルナルディーノ・モリナーリ指揮 ローマ・ サンタ・チェチーリア音楽院o. | |
ソース:米 Cetra-Soria BB2043/8 (Set No.107)、(伊 Parlophone BB 25067/72と同一録音)。録音:1941年11月-12月。珍しい録音で、少なくともCD期では、以前 伊 ERMITAGE / AURA (廃盤)から出ていただけと思われ、FONIT / CETRA 系列(現 WARNER FONIT)からのCD化は成されていない。 ヴィヴァルディの「四季」の世界初レコード。ベルナルディーノ・モリナーリはローマ生まれのイタリアの指揮者。サンタ・チェチーリア音楽院で指揮を学び1912年にローマ・アウグステオo.(後にサンタ・チェチーリア音楽院o.と改名)の音楽監督に就任し、第2次世界大戦終了時までその地位にあった。モリナーリはヨーロッパやアメリカの主要オーケストラに多く客演した。彼は他のイタリアの指揮者とは異なり管弦楽曲の指揮を好み、オペラの指揮はめったにしなかったという。レスピーギの交響詩「ローマの松」の初演(1924)の指揮をした。 この「四季」の編曲は1927年に出版された。1928年1月にモリナーリの指揮でアメリカ初演がセントルイスso.で行われた。同年2月にはアルトゥーロ・トスカニーニがニューヨーク・フルハーモニーで「春」を指揮した。これは第2次世界大戦中の録音でイタリア以外では知られていなっかたため、「四季」の初録音はルイス・カウフマン(1905-94)のヴァイオリンによるコンサートホール盤(1948年録音)とされていたが、こちらが7年も早く録音されていた。 | ||
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2010年リリース分 (末尾 229-288) | ||
ランドフスカの「ゴルトベルク」1945年 J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV.988 |
ワンダ・ランドフスカ(Cemb) | |
ソース: 米 RCA VICTOR 11-8939/44。録音:1945年3月29日-30日、4月2日、6月5日、6日、12日、ニューヨーク、RCA VICTORスタジオ。 ワンダ・ランドフスカ(1879-1959)による2回目の「ゴルトベルク変奏曲」の録音。ランドフスカはポーランドのワルシャワ生まれ。20世紀最高のチェンバロ奏者。またピアニスト、音楽学者、教授で1900年から13年間パリのスコラ・カントルムで教鞭をとった。二列の鍵盤と七個のペダルを有する自分のハープシードをパリのプレイエル社に作らせて生涯この楽器を使用した。1940年フランス国籍を得たが、1941年ドイツ軍のフランス侵攻によりアメリカに逃れた。アメリカへ移住後、1942年2月21日、14年ぶりにニューヨークのタウン・ホールでゴルトベルク変奏曲を弾いた。作曲家ヴァージル・トムソン(1896-1989)の感激的なリポートがこのオリジナルSPアルバムに載っている。 ランドフスカは1933年にゴルトベルク変奏曲をフランス DISQUE GRAMOPHONE に録音していた(現・原盤保有:EMI/当シリーズでの復刻あり:78CDR-3073)。 | ||
ブッシュSQ ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調 Op.59 No.1「ラズモフスキー第1番」 ハイドン:弦楽四重奏曲第83番 変ロ長調 Op.103〜メヌエット・マ・ノン・トロッポ ブッシュSQ[アドルフ・ブッシュ(第1Vn) ゲスタ・アンドレアソン(第2Vn) カール・ドクトル(Va) ヘルマン・ブッシュ(Vc)] | ||
ソース: 米 COLUMBIA 71474/9D。録音:1942年5月15日、25日、ニューヨーク。 ブッシュ弦楽四重奏団は1919年にアドルフ・ブッシュ(1891-1952)によって組織され、1930年代には英 HIS MASTER'S VOICEに多くの録音をしている。ブッシュはまたピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とのデュオ録音でも活躍した。ブッシュは1939年に実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに移住、その後四重奏の二人のメンバーもアメリカに渡り、1941年からアメリカCOLUMBIAに録音を再開した。 このシリーズではヨーロッパ時代に録音したベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番Op.135(78CDR-3195)が出ている。 | ||
ヴォルフスタール + グルリット〜ベートーヴェン: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61 (カデンツァ:ヨアヒム) |
ヨーゼフ・ ヴォルフスタール(Vn) マンフレート・グルリット指揮 BPO | |
ソース: 米 BRUNSWICK 90277/81 (独 GRAMMOPHON 95243/7 と同一録音)。録音:1929年1月、ベルリン高等音楽院。 ヨーゼフ・ヴォルフスタール(1899-1931)はウクライナのレンブルク(現在のリヴォフ)に生まれた。1912年13歳の時ベルリンの名教師カール・フレッシュ(1873-1944)につき厳格な指導を受け、3年後にデビュー。オーケストラのコンサートマスターをつとめた後、1922年に師フレッシュのアシスタントとしてベルリンで後進の指導にあたった。1928年指揮者のオットー・クレンペラー(1885-1973)の要請でベルリンのクロル・オペラのコンサートマスターに就任したが、1930年11月にインフルエンザに感染、それをこじらせたのが原因で翌1931年2月、32歳で他界した。指揮者のマンフレート・グルリット(1890-1972)はドイツ生まれ。ベルリン高等音楽院で教鞭をとると同時に国立歌劇場の客演指揮者として活躍した。1939年から日本に住みわが国の音楽界の発展に寄与した。 | ||
フォイアマン + サージェント〜ハイドン: チェロ協奏曲第2番 ニ長調 Op.101 Hob.VIIb-2 |
エマヌエル・フォイアマン(Vc) マルコム・サージェント指揮o. | |
ソース: 米 COLUMBIA 69925/8D (英 COLUMBIA LX8227/30 と同一録音)。録音:1935年11月25日、ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ。 エマヌエル・フォイアマン(1902-1942)はウクライナのコロミア生まれ。ライプツィヒの音楽院で名教授ユリウス・クレンゲル(1859-1933)に師事した。1929年ベルリン高等音楽院の教授になり斎藤秀雄(1902-1974)も教えた。ナチスを逃れて一時スイスに居を構えたが、1938年アメリカに移住した。フィラデルフィアのカーティス音楽院で教える一方、ヴァイオリンのハイフェッツ、ピアノのルービンシュタインと "百万ドル・トリオ" を結成して活躍した。1942年に40歳の若さでニューヨークで死去した。指揮者のマルコム・サージェント(1895-1967)は指揮者、オルガニスト、作曲家。特に合唱作品の指揮に秀でていた。SP時代に協奏曲の録音を多く残した。 | ||
ラスキーヌ、モイーズ、ドレクリューズ、カルヴェSQ〜ラヴェル:序奏とアレグロ(1906)
リリー・ラスキーヌ(Hp) マルセル・モイーズ(Fl) ユリス・ドレクリューズ(Cl) カルヴェSQ | ||
ソース: 仏 DISQUE GRAMOPHONE K8168/9。録音:1938年5月19日、パリ、アルベール・スタジオ。 小ハープ協奏曲と目されるラヴェルの傑作。ハープのリリー・ラスキーヌ(1893-1988)は12歳の時パリ音楽院で一等賞を得た。コンセール・ラムルーのハーピスト、ソリストとしても活躍し、1948年から1958年まで母校の教授をつとめた。フルートのマルセル・モイーズ(1899-1984)は1906年にパリ音楽院で一等賞を得て、1908にソロ・デビュー。オペラ・コミック、ストララムo.に席を置き、1932年から1949には母校の教授もつとめた。クラリネットのユリス・ドレクリューズ(1907-1995)は1925年にパリ音楽院で一等賞を得た後、ギャルド・レピュブリケーヌのソリストに就任。1948年退団後母校の教授をつとめた。カルヴェ四重奏団は1919年ジョゼフ・カルヴェによって組織され、1950年に解散したフランスの名門四重奏団。 本シリーズではモイーズ、ラスキーヌ、ジノによるドビュッシー:フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(78CDR-3064)が出ている。 | ||
バーンスタイン弾き振り〜ラヴェル: ピアノ協奏曲 ト長調 |
レナード・ バーンスタイン(P)指揮 フィルハーモニアo. | |
米 RCA VICTOR 18-0115/7。録音:1946年6月1日、ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ。 レナード・バーンスタイン(1918-1990)はアメリカ、マサチューセッツ州ローレンスに生まれた指揮者。ハーバード大学とカーティス音楽院で学んだ。指揮をフリッツ・ライナー(1888-1963)とセルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)にピアノをイザベラ・ヴェンゲローヴァ(1877-1956)に師事した。1943年アルトゥール・ロジンスキー(1892-1958)の指名でNYPハーモニーso.の副指揮者に就任、1943年病気のブルーノ・ワルター(1876-1962)の代役として指揮者デビュー大評判をとった。 この録音は1946年バーンスタイン27歳の時の物。この大音楽家の初レコード録音であろう。得意のピアノと指揮。米RCA VICTORは主要アーティストの録音はほとんどロンドンのアビー・ロードに送り込んで録音するしきたりがあったが、バーンスタインもこの例にもれなかった。復刻にはRCA社がSPレコード時代に開発したビニール素材を使用した'RED SEAL'DELUXE盤を使用した。LP並に雑音が少ないのが特長。 | ||
トスカニーニ、1939年の「運命」 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67「運命」 |
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBCso. | |
仏 LA VOIX DE SON MAITRE DB8691/4 (米 VICTOR 15965/8と同一録音)。録音:1939年2月28日、3月1日、29日、ニューヨーク、NBC 8-H スタジオ。 アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)はイタリアのパルマ生まれ。最初チェロを学んだ。1886年南米への演奏旅行中に指揮者の代役をつとめ、それを機に指揮者に転向した。1898-1908年ミラノ・スカラ座音楽監督、1908-1915年ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場音楽監督、1926-1936年NYPハーモニー音楽監督を歴任した。1930-1931年バイロイト音楽祭出演、1934-1937年ザルツブルク音楽祭に出演した。1937年ムッソリーニの独裁政権に反対してアメリカに亡命、一旦引退を表明したが、NBCso.が創立され復帰し、途中一年間の空白(1943年)があったが、1954年まで常任指揮者をつとめた。トスカニーニは1939年にNBCso.を指揮したSP録音による「運命」。LP時代のトスカニーニには見られない覇気と白熱に満ちた圧倒的な演奏が聴かれる。 | ||
ビング・クロスビー〜フォスター:歌曲集 金髪のジェニー 18801-A (DLA 1968) (1940.03.22) (*) ネルと私 18801-B (DLA2503) (1941.07.15) (*) 夢みる人 18802-A (DLA1967) (1940.03.22) (*) やすらかに眠る、私の美しいアリス 18802-B (DLA2442) (1941.06.26) (*) なつかしいケンタッキーの我が家よ 18803-A (DLA2261) (1940.12.09) (#) 草競馬 18803-B (DLA2259) (1940.12.09) (#) 故郷の人びと(スワニー川) 18804-A (DLA96) (1935.02.21) (+) オールド・ブラック・ジョー 18804-B (DLA2445) (1941.06.16) (*) ビング・クロスビー(Vo) ジョン・スコット・トロッター楽団(*) キングズ・メンとヴィクター・ヤング楽団(#) クリノライン合唱団とジョージー・ストール楽団(+) | ||
米 DECCA 18801/4 (Album: A-440)。 スティーヴン・コリンズ・フォスター(1826-1864)は19世紀のアメリカのポピュラーソングの作曲家。その作品は旅回りのE.クリスティのミンストレルズのために作曲した。作曲後150年を経た今日まで歌いつづけられている名曲が多い。 ビング・クロスビー(1903-1977)はアメリカの歌手、俳優。アメリカ初のマルチエンタテイナーのひとり。高校時代から演劇や音楽に関心を持ち、大学は法学部に進むがジャズバンドを友人と結成して中退。1926年に当時人気の高かったポール・ホワイトマン楽団に歌手として入団、3人の男声コーラスグループ、リズム・ボーイズのメンバーになる。1931年ソロ歌手として独立、ラジオの「ビング・クロスビー・ショー」で大人気を獲得した。マイクロフォンの特性を生かして滑らかに発声する歌唱法を確立して、新しいポピュラーソングに大きな影響を与えた。その後映画に進出した。「ホワイト・クリスマス」は1942年に発売され後のリメイク盤を含めて全世界で4500万枚を超える大ヒット、生涯のレコード売り上げ枚数は4億枚を越えた。 この「フォスター歌曲集」は第2次世界大戦前にアメリカDECCAに録音された物。滑らかな歌唱がダイレクト・トランスファーで際だって聞こえる。 | ||
テネシー・ワルツ〜ジョー・スタッフォード、SP録音集 テネシー・ワルツ(1950) #7 39065 (RHCO 4303) ユー・ビロング・トゥ・ミー(1952) #1 39811 (RHCO 10204) ジャンバラヤ(1952) #3 39838 (RHCO 10260)(*) シュリンプ・ボート(1951) #2 39581 (RHCO 4554) (*) ヘイ、グッドルッキン(1951) #9 39570 (RHCO 4588) (#) ア・フール・サッチ・アズ・アイ(1952) 39930 (RHCO 10374) 霧のロンドン橋(1956) #38 B22024 H (AA 22008.2 H) また会う日まで(1951) 1-G (RHCO-4435) (+) ジョー・スタッフォード(Vo) フランキー・レイン(#) ネルソン・エディ(+) ポール・ウェストン楽団 [PAUL WESTON AND HIS ORCHESTRA] ノーマン・ルボフcho.(*) | ||
ジョー・スタッフォード(1917.11.12-2008.07.16)はアメリカのポップス・シンガー。1938年、男女4人編成のヴォーカルグループ"パイド・パイパーズ" の一員としてトミー・ドーシー楽団に加わり、その後ソロ・シンガーに抜擢された。1942年にバンドを辞して独立、ヴォーカリストとしての道を歩みはじめた。1950年にCAPITOLからコロンビアに移籍。夫君のピアニスト=アランジャーのポール・ウェストンと二人三脚でスターシンガーの地位を築いた。ここには第2次大戦後わが国でもヒットした名唱を集めた。SPレコードならではの声の温もり、力強さをダイレクト・トランスファーで聴いていただきたい。 括弧内の年号は録音年、その次項にある#はチャートの最高位。さらに使用した米コロンビアのオリジナルレコード番号と原盤番号を付記。「霧のロンドン橋」はオランダ・フィリップスのSPを使用した。 | ||
パブロ・カザルス〜J.S.バッハ: 無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007/ 無伴奏チェロ組曲第6番 ニ長調 BWV1012 |
パブロ・カザルス(Vc) | |
米 VICTOR 17658/64(Set M-742)、(英 HIS MASTER'S VOICE DB8590/96と同一録音)。録音:1938年6月2日-4日、パリ、アルベール・スタジオ。 米RCA VICTOR盤による復刻。パブロ・カザルス(1876-1973)はスペインのカタルーニャ地方の町エル・ベドレルに生まれた偉大なチェロ奏者。バルセロナ音楽院でチェロ、ピアノ、楽理、作曲を学んだ。1890年バルセロナでバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会った。1899年23歳でパリにデビュー、1904年バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏した。1905年ピアノのコルトー、ヴァイオリンのティボーとトリオを結成。1908年コンセール・ラムルーo.で指揮デビューした。カザルスのバッハ:無伴奏チェロ組曲全6曲は2曲ずつ録音された。第1巻は組曲2番と3番で1936年録音(78CDR-3004/ HMV盤、78CDR-3100/ RCA盤)。第2巻はここに収録の組曲1番と6番で1938年録音(78CDR-3224/ HMV盤)。第3巻は組曲4番と5番(78CDR-3070/ RCA盤)で1939年4月にパリで録音された。1930年代のカザルスのSPはどれを聴いても圧倒的な感銘をうける。 | ||
自作自演〜ストラヴィンキー:兵士の物語(1918)(七重奏曲版)
マルセル・ダリュー(Vn) ベルナール・ブサゴル(Cb) エミル・ゴドー(Cl) ギュスタヴ・デラン(Fg) ウジェーヌ・フォヴォー(コルネット) ラファエル・デルボ(Tb) ジャン=ポール・モレル(Perc) イーゴリ・ストラヴィンスキー指揮 | ||
ソース:日 COLUMBIA J8108/10 (仏 COLUMBIA LFX263/5と同一録音)、録音:1932年5月6日-7日、パリ。 1930年代前半にフランスで活躍していた器楽奏者達による七重奏曲版「兵士の物語」。朗読者、悪魔、兵士、王女のセリフは入っていない。作曲者で指揮をしているイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)1918年の作品。作曲時36歳だったストラヴィンスキーは第1次世界大戦(1914-1918)とロシア革命(1917)のため、祖国ロシアを捨てスイスに居を定めていた。 以下物語のあらすじ。「あらゆる疑問に解答する魔法の書とひきかえにヴァイオリンを悪魔に売ってしまった兵士は、悪魔に誘われて3日間の楽しい時を共に過ごした。ところがそれは3年間に相当していた。故郷に帰った兵士を母親も許婚も見分けることができない。魔法の書が教える金もうけも幸福をもたらさないので、兵士は本を捨てて冒険の旅に出た。ある日一人の王女が病気になっていて、それを治した男が王女と結婚できると兵士は教えられる。王宮へやってきた兵士はばったり悪魔に出くわし、二人はカードゲームをはじめる。兵士は持ち金を全部すってしまうが、悪魔が酔いつぶれているすきにヴァイオリンを取り戻し、これで王女の病を治しめでたく結婚し幸福に暮らす。しかしホームシックになった兵士は、王女を連れて故郷の入口まで来たとたんに、兵士は悪魔に連れ去られ、王女は置き去りにされた」。 このシリーズでサン=サーンス:七重奏曲作品65(78CDR-3162)(1927年録音)があり編成は異なるがフランスの器楽奏者の名演が楽しめる。 | ||
カペーSQ ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調 Op.59-1「ラズモフスキー第1番」 カペーSQ[リュシアン・カペー(第1Vn) モーリス・エウィット(第2Vn) アンリ・ブノワ(Va) カミーユ・ドローベル(Vc)] | ||
ソース:日 COLUMBIA J8055/60 (仏COLUMBIA D15063/70と同一録音)、録音:1928年6月15日、パリ。 「人類の遺産」の一つに数えられるカペー弦楽四重奏団が1928年にフランス・コロンビアに録音した一曲。リーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)は医師の誤診による腹膜炎で1928年12月18日に急逝した。享年55歳。カペーは1893年パリ音楽院で一等賞を得て、その年に弦楽四重奏団を組織した。1920年頃から毎年ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をパリで開催していた。カペーは1928年6月10日から10月15日にかけてフランス・コロンビアに51枚の録音をした。まるで自らの死を予期したようなハイペースの録音だった。 このシリーズでカペーはフランク:ピアノ五重奏曲(ピアノ=シャンピ)(78CDR-3034)、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第5番(78CDR-3042)、シューマン:弦楽四重奏曲第1番(78CDR-3056)、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番(78CDR-3082)、ドビュッシー:弦楽四重奏曲(78CDR-3168)、ハイドン:弦楽四重奏曲「ひばり」(78CDR-3194)、シューベルト:弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」(78CDR-3270)が出ている。 | ||
ハロルド・サミュエル J.S.バッハ:パルティータ第2番 ハ短調 BWV.826 |
ハロルド・サミュエル(P) | |
ソース:米 COLUMBIA 68056/7-D (英 COLUMBIA DX427/8と同一録音)、録音:1931年11月6日、ロンドン。 ハロルド・サミュエル(1879-1937)はロンドン生まれのイギリスのピアニスト。バッハ演奏の権威で、バッハの全クラヴィーア作品を暗譜した。1898年当時ロンドンの聴衆には未知の作品だったバッハのゴルトベルク変奏曲BWV.988を弾いてデビューした。バッハの演奏の傍らサミュエルは伴奏ピアニストとして人気があった。特に女流ヴァイオリン奏者イゾルデ・メンゲスとのデュオは有名だった。バッハ演奏の評判が上がる中で1921年にはロンドンで6日にわたるバッハ連続演奏会を開いた。同様のコンサートをニューヨークでも行った。この録音はイギリス・コロンビアの技術者アラン・ダウアー・ブルムレインが開発した新型録音機の最初期の物。電気録音の導入当初から使用されたウェスタン・エレクトリック社の録音機使用料が高かったために、自社製のしかも従来のものを凌ぐ高性能な録音機を開発したのだった。 本シリーズではフランスの女流ピアニスト、ブランシュ・セルヴァによるJ.S.バッハのパルティータ第1番 BWV.825(78CDR-3191)が出ている。これらで1920-30年代のバッハ演奏を知ることができる。 | ||
ヴィート(ヴィトー)、ゼッキ〜 J.S.バッハ: ブランデンブルク協奏曲第5番 ニ長調 BWV.1050 |
ジョコンダ・デ・ヴィトー(Vn) カルロ・ゼッキ(P) アリーゴ・タッシナーリ(Fl) フェルナンド・プレヴィターリ指揮 トリノ・イタリア放送室内o. | |
ソース:スイス ODEON O-7884/6 (伊 PARLOPHONE CB20519/61と同一録音)、録音:1938年5月9日、イタリア。 ジョコンダ・デ・ヴィトー(1907-1994)の初録音レコード。デ・ヴィトーは11歳でペサロ音楽院に入りレミ・プリンチーペ(1899-1977)に師事した。1932年にウィーン国際ヴァイオリン・コンクールで一等賞をとった。フルートのアリーゴ・タッシナーリ(1889-1988)はボローニャ音楽院出身。ミラノ・スカラ座の首席フルート奏者をつとめた後ソリストとして活躍した。ピアノのカルロ・ゼッキ(1903-1984)はローマ生まれ。ピアニストとして活躍した後指揮者に転向した。指揮者のフェルナンド・プレヴィターリ(1907-1985)はイタリアのアドリア生まれ。トリノ音楽院で学び、1928年から35年にフィレンツェでヴィットリオ・グイ(1885-1975)のアシスタントを務めた。プレヴィターリは1936年から1953年の間イタリア放送局の芸術監督をつとめ、特に1951年のヴェルディ没後50年にヴェルディのオペラ全曲を指揮した。ヴァイオリンのデ・ヴィトーは1948年ロンドン・デビュー後のEMI録音はよく知られているが、この27歳の時のイタリア録音はほとんど知られていない。初々しいヴァイオリンが魅力。イタリアを代表する演奏家の若き日の演奏が聴ける貴重な録音。 | ||
リリー・クラウス モーツァルト:ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調 K.456 (カデンツァ:モーツァルト) |
リリー・クラウス(P) ワルター・ゲール指揮 ロンドンpo. | |
ソース:仏 ODEON 123.835/8 (英 PARLOPHONE R20404/7と同一録音)、録音:1938年3月25日、ロンドン。 リリー・クラウス(1905-1986)ハンガリー生まれの女流ピアニスト。17歳でブダペスト音楽院に入り、ベラ・バルトーク(1881-1945)、ゾルターン・コダーイ(1882-1967)らに師事した。1922年にはウィーンに赴きウィーン音楽アカデミーでアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)とエドゥアルト・シュトイアーマン(1892-1964)についてさらに研鑽を積んだ。1930年代からモーツァルトやベートーヴェンの演奏家として名声をあげ、ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)と共演して各国で評判をとった。1942年インドネシアのジャワで公演中、ゴールドベルクと共に日本軍によって軟禁され大戦終結まで軟禁された。戦後イギリス国籍を取得して演奏活動を再開、1967年から1983年アメリカで活躍。最終的にアメリカに定住した。このモーツァルトはこの曲の初レコードでおそらくクラウスの初協奏曲録音。指揮者のワルター・ゲール(1903-1960)はドイツ出身。シェーンベルクについて作曲を勉強した後イギリスに亡命、指揮者として活躍した。 ゲールはこのシリーズでワンダ・ランドフスカによるモーツァルト:ピアノ協奏曲第26番 K.537「戴冠式」(78CDR-3117)の指揮をしている。 | ||
E.シューマン&ムーア〜シューマン: 歌曲集「女の愛と生涯」Op.42 |
エリーザベト・シューマン(S) ジェラルド・ムーア(P) | |
英 HIS MASTER'S VOICE DB9567/9。録音:1946年10月9日、1948年10月2日、1949年6月20日ロンドン、EMI アビー・ロード第3スタジオ。 エリーザベト・シューマン(1885-1952)はドイツの名ソプラノ歌手。1909年ハンブルク歌劇場でデビューした。シューマンはオペラ、オペレッタ、宗教曲、リートと幅広いレーパートリーを誇り、1910年代の機械式録音時代からレコード録音で活躍した。この「女の愛と生涯」は最晩年の録音。1946年に始まった録音が完成したのが1949年であった。大歌手シューマンの自らの人生を省みるような、味わい深い歌唱をレコードに残した制作者の見識に敬意を抱く。 ダイレクト・トランスファーの声楽曲は他にシューベルト:冬の旅(ソプラノ=ロッテ・レーマン)(78CDR-3048、3049)とシューベルト:美しき水車屋の娘(ソプラノ=ロッテ・レーマン)(78CDR-3079)が出ている。ピアノのジェラルド・ムーア(1899-1987)は伴奏者として高名だった。レコード録音は数多い。 | ||
A.ブレイン + ボールト〜モーツァルト: ホルン協奏曲第3番 変ホ長調 K.447 |
オーブリー・ブレイン(Hr) エイドリアン・ボールト指揮 BBC so. | |
米 VICTOR 13784/5 (英 HIS MASTER'S VOICE DB3973/4と同一録音)。録音:1940年4月9日、ロンドン、EMI アビー・ロード第1スタジオ。 オーブリー・ブレイン(1893-1955)は20世紀前半に活躍したイギリスの名ホルン奏者、デニス・ブレインの父親。1911年王立アカデミーで奨学金を受け、同年新so.の首席奏者に就任。翌1912年にはドイツの大指揮者アルトゥール・ニキシュ指揮LSOの北米楽旅に参加した。1923年から母校の王立アカデミーでホルンを教えはじめた。その生徒の一人が息子のデニス・ブレイン(1921-1957)だった。 指揮者のサー・エイドリアン・ボールト(1889-1983)はイギリスのチェスターの生まれ。オックスフォードのウェストミンスター・スクールとキリスト教会で学んだ後、ライプツィヒでマックス・レーガーに師事した。ニキシュの手ほどきを受けたこともある。バーミンガム市立so.、BBCso.、ロンドン・フィル等の指揮者を歴任し1979年に退任した。レコードはSP録音のホルスト:惑星他LPも多数ある。 | ||
マレシャル&カサドシュ ドビュッシー:チェロ・ソナタ(1915) カプレ:「エピファニ」〜小さな黒ん坊の踊り |
モーリス・マレシャル(Vc) ロベール・カザドシュ(P) | |
日 COLUMBIA J7795/6 (仏 COLUMBIA LFX85/6 と同一録音)。録音:1930年6月3日、パリ。 モーリス・マレシャル(1892-1964)はフランスの名チェリスト。パリ音楽院でチェロをジュール・レブに、室内楽をルフェーブルに、指揮法をポール・デュカに学び1911年に一等賞を得た。マレシャルは第1次世界大戦(1914-1918)に従軍、戦後の1919年にコンセール・ラムルーにソリストとしてデビューした。以来世界中を楽旅し、日本にも何度か来訪し、日本コロムビアにも録音したこともある。ここに収録されたキャプレ:「エピファニ」の初演者でもあった。 ピアノのロベール・カザドシュ(1899-1972)はパリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)に師事し、1913年に一等賞を得た。カザドシュ家はパリの高名な音楽一家。甥のアンリとマリユスはカペー弦楽四重奏団の初期のメンバーで、カザドシュ邸でしばしばリハーサルをしていた。1921年女流ピアニストのガブリエル・ロートと結婚、夫人はギャビー・カザドシュ(1901-1999)の名で活躍する。第2次大戦中はアメリカで過ごしニュージャージー州プリンストン大学で教鞭を執っていた。これはカザドシュの初期の録音で貴重。 マレシャルはこのシリーズでラロ:チェロ協奏曲(指揮=ゴーベール)(78CDR-3135)が出ている。 | ||
カペーSQ〜シューベルト:弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D.810「死と乙女」
カペーSQ[リュシアン・カペー(第1Vn) モーリス・エヴィット(第2Vn) アンリ・ブノワ(Va) カミーユ・ドローベル(Vc)] | ||
日本COLUMBIA J7958/61 (仏 COLUMBIA D15053/6と同一録音)。録音:1928年6月19日、21日、パリ。 「人類の遺産」の一つに数えられるカペー弦楽四重奏団が1928年にフランス・コロンビアに録音した一曲。リーダーのリュシアン・カペー(1873-1928)は医師の誤診による腹膜炎で1928年12月18日に急逝した。享年55歳。カペーは1893年パリ音楽院で一等賞を得て、その年に弦楽四重奏団を組織した。1920年頃から毎年ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏会をパリで開催していた。カペーは1928年6月10日から10月15日にかけてフランス・コロンビアに51枚の録音をした。まるで自らの死を予期したようなハイペースの録音だった。 このシリーズでカペーはフランク:ピアノ五重奏曲(ピアノ=シャンピ)(78CDR-3034)、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第5番(78CDR-3042)、シューマン:弦楽四重奏曲第1番(78CDR-3056)、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番(78CDR-3082)、ドビュッシー:弦楽四重奏曲(78CDR-3168)、ハイドン:弦楽四重奏曲「ひばり」(78CDR-3194)が出ている。 | ||
ロン + ゴーベール〜フォーレ: ピアノと管弦楽のためのバラードOp.19 |
マルグリット・ロン(P) フィリップ・ゴーベール指揮o. | |
仏 COLUMBIA LFX54/5。録音:1930年4月1日、パリ。 マルグリット・ロン(1874-1966)は1891年19歳でパリ音楽院の一等賞を得た後コンサートデビュー、ガブリエル・フォーレ(1845-1924)やフィガロ紙の評論家達から絶賛された。1906年パリ音楽院の教授に就任、1940年まで務めた。 1943年ヴァイオリンのジャック・ティボー(1880-1954)と共に、若い優秀な音楽家を発掘する国際コンクールをパリで創設した。指揮者のフィリップ・ゴーベール(1879-1941)はパリ音楽院でポール・タファネルにフルートを学び1894年に一等賞に輝き、1904年にはフーガ科で一等賞、1905年にはローマ賞二等賞を得た。1920年には母校パリ音楽院のフルート科の教授に就任した。1919年以降指揮者としても活躍、パリ音楽界の重鎮的存在だった。 このシリーズでロンはショパン:ピアノ協奏曲第2番(指揮=ゴーベール)(78CDR-3092)、ラヴェル:ピアノ協奏曲(指揮=ラヴェル)(78CDR-3075)、モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番K.488(指揮=ゴーベール)(78CDR-3023)、フォーレ:ピアノ四重奏曲第2番(ヴァイオリン=ティボー、チェロ=フルニエ)等が出ている。 | ||
当曲の世界初録音〜カテラル&ハーティ モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタ第42番 イ長調 K.526 |
アーサー・カテラル(Vn) ハミルトン・ハーティ(P) | |
英 COLUMBIA L1494/6。録音:1923年4月27日、ロンドン。機械式録音盤(電気録音以前)。 この曲の初録音。カテラルとハーティーについては78CDR-3266(モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番/指揮はハーティ)に記載。ここではピアニストとしてのハーティの演奏が聴ける。 | ||
4楽章盤の世界初録音〜ストロッコフ&ハーティ ラロ:スペイン交響曲 Op.21 |
レオ・ストロッコフ(Vn) ハミルトン・ハーティ指揮o. | |
米 COLUMBIA 67059/61-D。録音:1924年7月14日、ロンドン。機械式録音盤(電気録音以前)。 この曲の4楽章版による初録音。レオ・ストロッコフ(1888-1957)はロシア生まれのアメリカのヴァイオリニスト、作曲家、作詞家。機械式録音時代にイギリス・コロンビアに小品の録音が多くあった。アメリカに移住してからも活躍。 この「スペイン交響曲」はこのヴァイオリニストの唯一の大曲録音。ベルギーの大ヴァイリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858-1931)がアメリカ公演した際に共演したことがある。 | ||
当曲の世界初録音〜カテラル&ハーティ モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 K.219 |
アーサー・カテラル(Vn) ハミルトン・ハーティ指揮o. | |
英 COLUMBIA L1592/5。録音:1924年4月10日、ロンドン。機械式録音盤(電気録音以前)。 この曲の初録音。アーサー・カテラル(1883-1943)はイギリスのヴァイオリニスト。マンチェスター王立音楽アカデミーで学び、1902年18歳で指揮者ハンス・リヒター(1843-1916)の招きでバイロイトに赴きヴァーグナーの未亡人コジマ・ヴァーグナーが催したシーズン音楽会に登場した。1903年ハレo.でチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏した。1909年ロンドンのクイーンズ・ホールのプロナードo.のコンサートマスター、1929年に創立されたBBCso.のコンサートマスターに就任した。コンサート活動の傍らロンドンの王立音楽アデミーでも教えた。20世紀の最初の四半世紀にイギリスで最も活躍したヴァイオリニストで、録音した曲の多くはそれらの初レコードだった。指揮者のサー・ハミルトン・ハーティ(1879-1941)はアイルランド出身の指揮者。教会のオルガン奏者だった父親の指導を受け12歳で教会オルガニストになった。1901年ロンドンに出て大アーティスト達のピアノ伴奏者をつとめ、1920年ハレo.の指揮者となり1993年までつとめた。ハーティは1925年に叙勲され、作曲家、編曲者としても活躍した。 このシリーズでカテラルはモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第42番 K.526(78CDR-3268)が出ている。ピアニストはハーティ。 | ||
当曲の世界初録音〜イェリー・ダラーニ(ダラニー) モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K.216/ セレナード第7番 ニ長調「ハフナー」K.250〜メヌエット |
イェリー・ダラニー(Vn) スタンリー・チャップル指揮 エオリアンo. | |
英 VOCALION A0242/4。録音:1925年、イギリス。機械式録音盤(電気録音以前)。 この曲の初レコ-ド。イェリー・ダラニー(1893-1966)はハンガリーのブダペスト生まれの女流ヴァイオリニスト。大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)の甥の娘にあたる。ブダペスト音楽院で最初ピアノを学んだが、ヴァイオリン科のイェノ・フバイ(1858-1937)のクラスに入学が許されヴァイオリンに転向した。ヨーロッパ各地やアメリカに演奏旅行のあとロンドンに定住した。妹のアディラ・ダラニーもヴァイオリン奏者で二人のデュオの録音もある。作曲家でピアニストだったベラ・バルトーク(1881-1945)と一緒にロンドンとパリでソナタ演奏会を開いた。モーリス・ラヴェル(1875-1937)は「ツィガーヌ」を彼女に献呈し1924年にロンドンで初演。ソリストだけでなく室内楽でも活躍した。指揮者のスタンリー・チャップル(1900-1987)は1921年にLSOの指揮者になり、1930年にBPOを指揮してヨーロッパでの名声を得た。1939年にボストンに行きそのままアメリカに留まり、タングルウッド音楽祭のディレクターをレナード・バーンスタイン(1918-1990)と共につとめた。 | ||
当曲の世界初録音、ティボー&コルトー〜フランク: ヴァイオリン・ソナタ イ長調 |
ジャック・ティボー(Vn) アルフレッド・コルトー(P) | |
英 HIS MASTER'S VOICE DB785/8。録音:1923年10月22日、イギリス、ミドルセックス州ヘイズHMVスタジオRoom第1番。機械式録音盤(電気録音以前)。 この曲の初レコード。ジャック・ティボー(1880)は20世紀フランス最高のヴァイオリニスト。1897年パリ音楽院のマルシック教授のもとで一等賞を得た。ピアノのアルフレッド・コルトー(1877-1962)は1896年にパリ音楽院のディエメール教授のもとで一等賞を得た。1905年二人はチェロのパブロ・カザルス(1876-1973)を加えピアノ三重奏団の「カザルス・トリオ」を結成、以後四半世紀にわたって最高の三重奏団として君臨した。 この録音はティボーとコルトーによる初顔合わせの録音。まだ電気録音が生まれていない1923年、大きなラッパの前で演奏した物。ティボーが43歳、コルトーが46歳だった。二人はフランクのソナタを1929年に再録音している。 このシリーズでコルトーとティボーはベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」(78CDR-3015)、ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ(78CDR-3044)が出ている。カザルスが加わったトリオの演奏はベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第7番「大公」(78CDR-3009)、シューベルト:ピアノ三重奏曲第1番(78CDR-3131)、ハイドン:ピアノ三重奏曲第39番(78CDR-3199)がある。他にティボー、コルトーのソロ、協奏曲録音は多数出ている。 | ||
パリ・プロ・ムジカ〜ベートーヴェン: 七重奏曲 変ホ長調 Op.20 (ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、 クラリネット、ファゴットとホルンのための) |
パリ・プロ・ムジカ室内グループ [アンリ・メルケル(Vn) P.ラドユイ(Va) アンドレ・ナヴァラ(Vc) H.モロー(Cb) ユリス・ドレクリューズ(Cl) J.ルーシェ(Fg) G.クルシエル(Hr)] | |
仏 POLYDOR 566 270/3。録音:1948年4月15日、パリ。 この録音は第2次世界大戦後、当時パリ音楽院の教授をつとめていた器楽奏者によるパリ・プロムジカ室内グループによる。ヴァイオリンのアンリ・メルケル(1897-1969)、チェロのアンドレ・ナヴァラ(1911-1988)、クラリネットのユリス・ドレクリューズ(1907-1995)などの名手が参加し、彼らは他にも多くの名録音を残している。1948年の録音はSPレコード末期のためレコードの数が少ない稀少盤。このシリーズでヴァイオリンのメルケルはベートーヴェンのヴァイオリオン協奏曲(78CDR-3020)、ラロのスペイン交響曲(78CDR-3107)、サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番(78CDR-3166)が、チェロのアンドレ・ナヴァラはベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番(78CDR-3095)が出ている。 | ||
メニューイン&エネスコ〜モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K.216 |
イェフディ・メニューイン(Vn) ジョルジュ・エネスコ指揮so. | |
ソース:英 HIS MASTER'S VOICE DB 2729/31。録音:1935年12月19日、パリ、アルベール・スタジオ。 イェフディ・メニューイン(1916-1999)はニューヨーク生まれ。サンフランシスコに移り3歳からヴァイオリンを習いシグムンド・アンカー、ルイ・パーシンガー(1887-1966)に師事した。1924年6歳の時アルフレッド・ヘルツ(1871-1942)指揮サンフランシスコso.とラロのスペイン交響曲を弾いてデビュー、神童として評判になった。その後パリでジョルジュ・エネスコ(1881-1955)、ベルリンでアドルフ・ブッシュ(1891-1952)の手ほどきをうけた。1928年12歳で初レコード録音を行った。このモーツァルトは19歳の時の録音で、オーケストラは師のエネスコが指揮をしている。メニューインはこのシリーズでモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第42番 K.526(78CDR-3026)、モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第32番 K.376(78CDR-3037)、ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第4番(78CDR-3155)、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3136)が出ている。 | ||
モイーズ&A.ブッシュ〜J.S.バッハ: 管弦楽組曲第2番 ロ短調 BWV.1067 |
マルセル・モイーズ(Fl) アドルフ・ブッシュ指揮 ブッシュ室内o. | |
ソース:仏 LVSM DB 3015/7 (英 HIS MASTRER'S VOICE DB 3015/7と同一録音)。録音:1935年11月1日、ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ。 マルセル・モイーズ(1889-1984)は20世紀最高のフランスのフルート奏者。パリ音楽院でポール・タファネル(1844-1941)に師事し、1906年に一等賞を得た。1932年から1949年までパリ音楽院の教授をつとめる一方、パドルーo.、パリ音楽院o.、ストララムo.の首席フルート奏者をつとめた。1960年代にはスイス、イギリス、アメリカ、日本で後進の指導にあたった。アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの名ヴァイオリニスト。1939年にアメリカに定住した。この録音はヨーロッパ時代のもので、同時期にバッハのブランデンブルク協奏曲全6曲も録音していた。モイーズはこのシリーズでドビュッシーのフルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(78CDR-3064)、ベートーヴェンのセレナーデ作品25(78CDR-3231)、バッハのブランデンブルク協奏曲第4番、ピエルネの室内ソナタ(78CDR-3249)が出ている。 | ||
ランドフスカ〜ドメニコ・スカルラッティ: チェンバロ・ソナタ集第1巻(20曲) |
ワンダ・ ランドフスカ(Cemb) | |
ソース:英 HIS MASTER'S VOICE DB 4960/5。録音:1934年9月10日-12日、パリ、サル・ショパン。 ワンダ・ランドフスカ(1879-1959)はポーランドのワルソー生まれ。20世紀最高のチェンバロ奏者。1900年から13年間パリのスコラ・カントルムで教鞭をとった。二段の鍵盤と七個のペダルを有する自分のチェンバロをパリのプレイエル社に作らせ、生涯この楽器を使用した。ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757)は、ナポリ派の作曲家、ハープシコーソ奏者、オルガン奏者。ヴァチカンの楽長、ポルトガル宮廷礼拝堂の楽長、スペイン王妃つきの音楽指導者として活躍し、500曲を越えるチェンバロ曲を作曲した。Lはロンゴによる整理番号、Kはカークパトリックによる整理番号で、便宜のため両方を記した。ランドフスカはこの第1集の後に第2集も録音した。ランドフスカはこのシリーズでJ.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲(78CDR-3073)、フランソワ・クープラン:クラヴサン曲集(78CDR-3081)他が出ている。 | ||
パレー&コロンヌ管〜ベートーヴェン: 交響曲第6番 ヘ長調 Op.68「田園」/ アテネの廃墟 Op.113〜「トルコ行進曲」 |
ポール・パレー指揮 コロンヌo. | |
ソース:英 COLUMBIA DCX 63/7。録音:1934年5月23日、25日、パリ。 ポール・パレー(1886-1979)はフランスの大指揮者、作曲家。1911年にカンタータ「ヤニッツァ」でローマ大賞を得てイタリアに留学。第1次世界大戦(1914-1918)でフランス軍に従軍したが、ドイツ軍の捕虜となり、ダルムシュタット収容所生活の間に音楽家たちと交友を築く。大戦後コンセール・ラムルーo. コンセール・コロンヌo.の指揮者となって活躍、とくに後者とは1932年から1940年音楽監督を務め、第2次世界大戦のパリ開放後の1944年から1956年も同じ地位を務めた。1951年にアメリカのデトロイトso.に招かれその育成にあたり、米国有数のオーケストラに仕上げLPレコード録音も多い。この「田園」交響曲はコンセール・コロンヌ時代のものであまり知られていない。SPレコード時代の再生法では大指揮者の風格の片鱗すらも聴くことが出来なかったが、ダイレクト・トランスファーによって、その至芸の全貌が明らかになった。特にオーケストラの木管パートの妙技に耳を傾けてほしい。 | ||
レーヌ・ジャノリの稀少録音 ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31-3 ブラームス:狂詩曲第2番 ト短調 Op.79-2 |
レーヌ・ジャノーリ(P) | |
仏 BAM 41/43。録音:1947年5月30日、パリ。クリストファ・N.野沢氏のライブラリより。 レーヌ・ジャノーリ(1915-1979)はパリ生まれ。パリ音楽師範学校エコール・ノルマルでアルフレッド・コルトー(1887-1962)に指導を受け、同時期にパリ音楽院でイヴ・ナット(1890-1956)にもついた。さらにルツェルンでエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)に学び、フィッシャーと共に2台、3台クラヴィーア曲の演奏に力を入れた。1946年にコルトーの推薦でエコール・ノルマルのピアノ科の主任教授、室内楽科の教授を兼任、演奏家としてカザルス、エネスコ、フルニエ、シャンドル・ヴェーグらと共演した。1956年にはパリ音楽院教授に任命され、門下にはジャン=イヴ・ティボーデ(1961-)がいる。 このSP録音はジャノーリが32歳の時のもので、おそらく初レコード録音と思われる。ジャノーリはモーツァルト:ピアノ・ソナタ全集(米ウェストミンスター)、シューマン:ピアノ曲全集(仏アデ)他、LP時代に数多くの録音を残した。 | ||
当曲の世界初録音 モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番 ヘ長調 K.459 |
ジョルジュ・ボスコフ(P) ギュスターヴ・クロエ指揮 パリpo. | |
仏 ODEON 171.115/7。録音:1930年12月10日、パリ。 ジョルジュ・ボスコフ(1882-1960)はルーマニア生まれのピアニスト。パリ音楽院でルイ・ディエメール(1843-1919)に師事した。 このボスコフ盤はこの曲の世界初録音で、フランス・ピアニスムの伝統の繊細で軽い奏法が聴ける貴重な物。カデンツァは縮小版ながらモーツァルトの作曲したものが弾かれていえる。 ギュスターヴ・クロエ(1890-1970)はフランスの指揮者。フランス・オデオンに多くの録音を残している。 | ||
ワンダ・ランドフスカ ヘンデル:チェンバロ協奏曲 変ロ長調 Op.4-6/ アリアと変奏曲 変ロ長調 |
ワンダ・ランドフスカ (Cemb) ウジェーヌ・ビゴー指揮o. | |
英 HIS MASTER'S VOICE DB3307/8。録音:1937年4月21日、パリ、アルベール・スタジオ。 ワンダ・ランドフスカ(1879-1959)はポーランドのワルソー生まれ。20世紀最高のチェンバロ&ピアノ奏者。彼女はピアニスト、音楽学者、教授で1900年から13年間パリのスコラ・カントルムで教鞭をとった。二列の鍵盤と七個のペダルを有する自分のチェンバロをパリのプレイエル社に特注し、生涯この楽器を使用した。1940年フランス国籍を得たが、1941年ドイツ軍のフランス侵攻によりアメリカにのがれた。パリに残したチェンバロは後にアメリカ軍によって彼女の手元に送られた。このヘンデルはランドフスカが58歳の時の録音。ハイドン:チェンバロ協奏曲 ニ長調(78CDR-3053)の二日後の録音。 指揮者のウジェーヌ・ビゴー(1888-1965)はパリ音楽院出身。シャンゼリゼ劇場の指揮者を経て1923年パリ音楽院o.、1928年にフランス放送o.、1935年ラムルーo.、オペラ・コミックの指揮者を歴任。パリ音楽院の指揮科教授も務めた。 「アリアと変奏曲 変ホ長調」はブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ作品24の主題の原曲。 | ||
ブッシュ&モイーズ J.S.バッハ: ブランデンブルク協奏曲第4番 ト長調 BWV.1049 |
ブッシュ室内合奏団 アドルフ・ブッシュ(Vn) マルセル・モイーズ(第1Fl) ルイ・モイーズ(第2Fl) | |
蘭COLUMBIA LX441/2。録音:1935年10月15日、ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ。 マルセル・モイーズ(1889-1984)は20世紀最高のフランスのフルート奏者。パリ音楽院でポール・タファネル(1844-1908)、フィリップ・ゴーベール(1879-1941)に師事し、1906年に一等賞を得た。1932年から1949年までパリ音楽院の教授をつとめる一方、パドルーo.、パリ音楽院o.、ストララムo.の首席奏者もつとめた。1960年代にはスイス、イギリス、アメリカ、日本で後進の指導にあたった。第2フルートのルイ・モイーズ(1912-2007)は息子でピアニストでもあった。父子の録音も多い。アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの名ヴァイオリニスト。1939年にアメリカに定住した。この録音はヨーロッパ時代のも、同時期にブランデンブルク協奏曲全6曲を録音していた。 モイーズはこのシリーズでドビュッシー:フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(78CDR-3064)、ベートーヴェン:セレナーデ作品25(78CDR-3231)が出ている。 | ||
チェリビダッケ&LPO モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K.183 |
セルジュ・チェリビダッケ指揮 LPO | |
録音:1948年4月9日、12月29日、ロンドン、キングズウェイ・ホール。 セルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)はルーマニア生まれ。ベルリンに学び、その地で第2次世界大戦の終戦を迎えた。当時BPOの常任指揮者だったヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)が大戦中のナチスとの関係をとがめられ謹慎生活に入った。後継の指揮者にレオ・ボルヒャルトが選ばれたが、ボルヒャルトが急死したため、後継者さがしのコンクールが開かれ応募したチェリビダッケが審査員全員一致で優勝。ボルヒャルトの死の6日後にBPOの野外コンサートで指揮者デビューした。1947年のフルトヴェングラー復帰後も、BPOに留まっていが、1954年フルトヴェングラーの死後カラヤンがBPOの首席指揮者になってから、イタリア、スウェーデンのオーケストラに客演した。1971年に南ドイツ放送so.、1979年にミュンヘン・フィルの首席指揮者になった。 この録音はチェリビダッケが36歳の時の英デッカ社に正規に録音した物。第1楽章と第2楽章は1948年4月に行われた録音セッションの結果に満足せず、同年の12月の再セッションでOKを出している。同じ時期にデッカにはチャイコフスキー:交響曲第5番と胡桃割り人形組曲の2曲があった。いずれもSPレコード末期のffrr録音。 | ||
ブッシュ兄弟&R.ゼルキン ベートーヴェン: ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調 Op.70-1「幽霊」 |
アドルフ・ブッシュ(Vn) ヘルマン・ブッシュ(Vc) ルドルフ・ゼルキン(P) | |
録音:1947年12月15日、ニューヨーク。ソース:米 COLUMBIA 72748/50。 アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの大ヴァイオリニスト。1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んだ活躍した。1936年ゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚したが、ゼルキンはナチスのユダヤ人迫害を避けてアメリカに逃れた。その後ブッシュもドイツを去ってスイスに移住、1939年に実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに定住した。この録音は第2次世界大戦後のニューヨークでの録音。ゼルキンのピアノが光っている。 このシリーズで他にブッシュとゼルキンにホルンのオーブリー・ブレイン(1893-1955)を加えたブラームス:ホルン三重奏曲(78CDR-3218)が出ている。 オーブリー・ブレインは有名なホルン奏者デニス・ブレイン(1921-1957)の父親で師でもある。アメリカ時代のブッシュの録音はJ.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲第2番 BWV.1042(78CDR-3216)、二つのヴァイオリンのための協奏曲 BWV.1043(78CDR-3235)が出ている。 | ||
ゴールドベルク、ヒンデミット、フォイアマン ベートーヴェン:セレナード ニ長調 Op.8 |
シモン・ゴールドベルク(Vn) パウル・ヒンデミット(Va) エマヌエル・フォイアマン(Vc) | |
録音:1934年1月22日、ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ。ソース:日本コロムビア J8358/60 (英COLUMBIA LX354/6と同一録音)。 ヴァイオリンのシモン・ゴールドベルク(1909-1993)はポーランド出身のヴァイオリニスト。ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)に師事し16歳でドレスデン・フィルのコンサート・マスターに就任した。20歳の時フルトヴェングラーの招きでBPOのコンサート・マスターになった。1930年にヴィオラ奏者で作曲家のパウル・ヒンデミット(1895-1963)とチェロのエマヌエル・フォイアマン(1902-1942)と弦楽三重奏団を結成した。これはこの三重奏団の残した貴重な録音。ゴールドベルクは1934年ナチスの迫害でBPOを退団し1938年ニューヨークにデビューした。1942年演奏旅行中にジャワ島で日本軍に拘束され抑留生活を強いられたこともある。1990年に日本人ピアニスト山根美代子と結婚、富山県立山のホテルで死去した。この録音はBPO退団直後の物。レコード史上永遠に残したい名演奏。 | ||
プロ・アルトSQ〔プロ・アルテSQ〕 モーツァルト:弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516 プロ・アルトSQ [アルフォンス・オンヌー(第1Vn) ローラン・アルー(第2Vn) ジェルマン・プレヴォー(Va) ロベール・マース(Vc)] アルフレッド・ホブデイ(第2Va)] | ||
録音:1934年2月15日、ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ。ソース:英 HIS MASTER'S VOICE DB2173/6。 プロ・アルト弦楽四重奏団は1912年アルフォンス・オンヌーをリーダーにベルギーのブリュッセルで結成された。1926年アメリカに初公演、ワシントンの国会図書館音楽ホールの開館式で演奏した。1932年にベルギーの宮廷四重奏団の称号を得た。1941年にアメリカのウィスコンシン大学からの要請で各メンバーが教授に就任。1944年にコーリッシュ弦楽四重奏団が解散したとき、リーダーだったルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)が第1ヴァイオリンに就任した。プロ・アルト弦楽四重奏団は1930年代にイギリスHMVに数多くの録音を残し、中でもアルバム全8巻SP56枚の「ハイドン弦楽四重奏ソサイエティ」(1932年と1936年録音)はレコード録音史の快挙だった。 | ||
コーリッシュSQ モーツァルト:音楽の冗談 ヘ長調 K.522(二本のホルンと弦楽四重奏のための) ドメニコ・カプート、ジョン・バロウズ(Hr) コーリッシュSQ [ルドルフ・コーリッシュ(第1Vn) フェリックス・クーナー(第2Vn) オイゲン・レーナー(Va) ベルナール・ハイフェッツ(Vc)] | ||
録音:1937年11月12日、ニューヨーク、RCAスタジオ。ソース:英 HIS MASTER'S VOICE DB3645/6 (米VICTOR 14822/3と同一録音)。 別名「村の音楽士の六重奏」。村の楽師が未熟のため、音をはずすさまなどを取り入れたモーツァルトらしいジョークにみちた面白い曲。コーリッシュ四重奏団はシェーンベルクの指導を受け、新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲を演奏する目的で組織された。リーダーのルドルフ・コーリシュ(1896-1978)は子供の頃左手に怪我をしたため、右手でヴァイオリンを持ち左手で弓を持って弾いた。現代音楽のスペシャリストがモーツァルトを取り上げた面白さがある。コーリッシュ四重奏団はこのシリーズでモーツァルト:弦楽四重奏曲第22番K.589 「プロシャ王第2番」(78CDR-3197)、シューマン:ピアノ四重奏曲作品47(ピアノ=モナート、78CDR-3242)が出ている。 | ||
モイーズ&ピエルネ ピエルネ:室内ソナタOp.48 |
ガブリエル・ピエルネ(P) マルセル・モイーズ(Fl) M.ロペス(Vc) | |
録音:1928年6月11日、パリ、アルベール・スタジオ。ソース:英 COLUMBIA 5275/7(仏 COLUMBIA D13063/5と同一録音)。 ガブリエル・ピエルネ(1863-1937)は1871年にパリ音楽院に入り、アントワーヌ=フランソワ・マルモンテル(1816-1898)にピアノを、ジュール・マスネ(1842-1912)に作曲を、セザール・フランク(1822-1890)にオルガンを学んだ。各部門で一等賞を得た後、1882年のローマ賞を受賞した。1891年からフランクの後を継いでパリの聖クロティルド教会のオルガニストになり、1903年からコロンヌo.の指揮者となり、1910年から34年まで正指揮者をつとめた。 フルートのマルセル・モイーズ(1889-1984)はパリ音楽院でポール・タファネル(1844-1908)、フィリップ・ゴベール(1879-1941)らに師事し1905年に一等賞を得た。1932年から1949年までパリ音楽院教授をつとめた。モイーズはこのシリーズでドビュッシー:フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(78CDR-3064)、ベートーヴェン:セレナーデ作品25(78CDR-3231)が出ている。 | ||
ティボー&コルトー〜 J.S.バッハ: ブランデンブルク協奏曲第5番 ニ長調 BWV.1050 |
ジャック・ティボー(Vn) アルフレッド・コルトー(P)指揮 ロジェ・コルテ(Fl) パリ・エコール・ノルマル室内o. | |
英 HIS MASTER'S VOICE DB 1783/4、録音:1932年5月16日-17日、パリ、サル・ショパン。 アルフレッド・コルトー(1977-1962)は20世紀最高のフランスのピアニスト。スイスのニヨンに生まれ、両親はフランス人。1892年パリ音楽院のルイ・ディエメール(1843-1919)のクラスに入り、1893年に一等賞を得た。1902年にヴァイオリンのジャック・ティボー(1880-1953)、チェロのパブロ・カザルス(1876-1973)とピアノ・トリオを結成した。コルトーは1917年にパリ音楽院教授に任命され、1919年にパリのエコール・ノルマル(音楽師範学校)を設立した。ジャック・ティボー(1880-1953)は20世紀最高のフランスのヴァイオリニスト。1893年14歳でパリ音楽院に入りマルシック教授(1848-1924)に師事した。後にパリ音楽院教授になったジュール・ブーシュリ(1877-1962)とは音楽院時代からの盟友で、コロンヌo.のリーダーを交代でつとめていたこともあった(マルク・ソリアノ著「ヴァイオリンの奥義、ジュール・ブーシュリ回想録」(日本語版近刊)。ティボーとコルトーはこのシリーズで多数出ている。 | ||
マルグリット・ロン〜 SP 録音集 ショパン:即興曲第2番 嬰ヘ長調 Op.36(*) ドビュッシー: 「版画」〜雨の庭(#)/レントよりおそく(#) フォーレ:夜想曲第4番 変ホ長調 Op.36(+)/ 舟歌第6番 変ホ長調 Op.70(+) |
マルグリット・ロン(P) | |
仏 COLUMBIA LFX 513(*)、LFX24(#)、LFX 567(+)、録音:1936年7月23日、1937年4月18日(*)/1929年11月12日、11月6日(#)/1937年5月19日(+)。使用ピアノ:プレイエル。 マルグリット・ロン(1874-1966)はフランスのニームに生まれた。17歳でパリ音楽院の一等賞を得た後、マルモンテル(1816-1898)教授のもとでさらに研鑽をつみ、1893年にサル・プレイエルでデビューした。1906年32歳でパリ音楽院の教授に就任した。ロンの弟子にはサンソン・フランソワ(1924-1970)、イヴォンヌ・ルフェビュール(1898-1986)、リュセット・デカーヴ(1906-)、ジャン・ドワイヤン(1907-1982)、ジャック・フェヴリエ(1900-1979)、ニコール・アンリオ・シュワイツァー(1925-)らがいる。これはロンのSP時代のソロ録音の一部だが、偉大な演奏家の真の姿をとらえた録音。 ロンはこのシリーズでモーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 K.488(78CDR-3023)、ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調(78CDR-3075)、ショパン:ピアノ協奏曲第2番Op.21(78CDR-3092)が出ている。 | ||
フランシス・プランテ ショパン: エチュード第11番 イ短調 Op.25-11「木枯らし」 シューマン/ドビュッシー編:噴水のほとりで ショパン: エチュード第11番 イ短調 Op.25-11「木枯らし」 (WLX516-1のメタル原盤) |
フランシス・プランテ(P) | |
仏 COLUMBIA D15089、録音:1928年7月3日-4日、フランス、ランド県モン=ド=マルサン。使用ピアノ:エラール。 フランシス・プランテ(1839-1934)はフランスの超人かつ伝説的なピアニスト。パリ音楽院のアントワーヌ=フランソワ・マルモンテル(1816-1898)教授のクラスで一等賞を得た。この録音はプランテが89歳の時にフランス・コロンビアに録音した9枚のSPレコードの中の一枚。プランテは95歳で死去するまで、毎日未明の早朝からピアノに向かい、それが終わった後に市長の公務についたと伝えられる。この録音はモン=ド=マルサン市から依頼された慈善演奏会にスケジュールの都合がつかないので、代わりにこの録音の報酬を市に寄付するという代案を受け入れて実現したという。トラック(3)はSPレコードの金属原盤からのダイレクト・トランスファーを収録した。プランテについてはマルク・ソリアノ著「ヴァイオリンの奥義、ジュール・ブーシュリ回想録」(日本語版近刊)に愉快な逸話が載っている。 プランテはフランスの画家ポール・セザンヌ(1839-1906)、詩人のシュリ=プリュドム(1839-1881)、また幕末の志士、高杉晋作(1839=天保10年-1867=慶応3年)と同年の生まれ。ベルリオーズ(1803-1869)、シューマン(1810-1856)、リスト(1811-1886)、ワーグナー(1813-1883)、ブラームス(1833-1897)達と同時代に生きた人物で、19世紀の大演奏家の音が電気録音による録音で残されたのは奇跡と言える。 | ||
マグダ・タリアフェロ〜 アーン:ピアノのためのソナチネ ハ長調(*)/ ピアノ協奏曲第1番 ホ長調(#) |
マグダ・タリアフェロ(P) レナルド・アーン指揮o. | |
仏 PATHE PAT61(*)、PAT86/8(#)、録音:1936年7月8日(*)、1937年5月10日-11日(#)。使用ピアノ:ガヴォー。 ピアノのマグダ・タリアフェロ(1893-1986)はブラジル生まれ、両親はフランス人。1906年にパリ音楽院に入り9カ月後に一等賞を得た。タリアフェロはSPレコード時代から多くの録音をしているが、この協奏曲はまぎれもなく彼女の最高傑作。作曲者で指揮をしているレナルド・アーン(1875-1947)はベネズエラのカラカス生まれ、3歳の時にパリに移住した。6歳の時に神童として、ナポレオン3世の従妹マティルドのサロンにデビュー、ボーイソプラノでのピアノの弾き語りでサロンの寵児となり、作曲家ジュール・マスネ(1842-1912)の推薦を得て10歳でパリ音楽院に入学した。長じて美声と数カ国語をあやつる巧みな話術、豊かな教養で各界の名士、貴婦人たちと交友を築き、パリ・オペラ座の指揮者として活躍、ザルツブルク音楽祭でもモーツァルト指揮者として名声をあげた。また作曲家として声楽曲の作品が多数あるが、親交のあった音楽家のために作曲した器楽作品もある。 タリアフェロとアーンの顔合わせでモーツァルト:ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」(78CDR-3039)がこのシリーズで出ている。 | ||
ドニーズ・ソリアーノ(ソリアノ)〜 アーン:ヴァイオリン・ソナタ ハ長調(*)/ ロマンス イ長調(#) |
ドニーズ・ソリアノ(Vn) ドニーズ・ステルンベルグ(P;*) E.ロワゾー(P;#) | |
仏 PATHE PDT 183/4(*)、仏 PATHE PAT 54(#)、録音:1948年4月15日、パリ、アルベール・スタジオ(*)、1936年5月22日、パリ、アルベール・スタジオ録音(#)。お詫び:全体にキズ及び録音の不具合により聴き難い箇所がある。 ドニーズ・ソリアノ(1916-2006)はパリ音楽院のヴァイオリン科教授ジュール・ブーシュリ(1878-1962)に師事した女流ヴァイオリニスト。1932年16歳でパリ音楽院の一等賞を得た。1934年にピアノのマグダ・タリアフェロ(1893-1986)と録音したフォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番(78CDR-1135)がディスク大賞を受賞した。 ソリアノはソリストとして活動すると同時に師のブーシュリ教授の片腕として後進の指導にあたり、後に結婚した。ブーシュリはレナルド・アーン(1875-1947)と親交があり、このソナタを弟子のソリアノに弾かせて作曲者を喜ばせたと、その回想録にある。ジャック・ティボー(1880-1953)はソリアノを「今は亡きジネット・ヌヴーの後継者たる唯一無二の名ヴァイオリニスト」と絶賛した(マルク・ソリアノ著「ヴァイオリンの奥義、ジュール・ブーシュリ回想録」(日本語版近刊)に収録された「ソリアノ追悼記」にある)。このシリーズでドニーズ・ソリアノの録音のほとんどが出ている。トラック5の冒頭にソリアノと思われる声が聞こえる。 | ||
アドルフ・ブッシュ モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 K.219(*) (カデンツァ:J.ヨアヒム) タルティーニ: ヴァイオリン・ソナタ第12番 ト長調Op.2〜アリア(#) |
アドルフ・ブッシュ(Vn) ブッシュ室内o. | |
米 COLUMBIA 71749/52-D。録音:1945年4月30日(*)、5月3日(#)、ニューヨーク。 アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの大ヴァイオリニスト。1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍した。1936年ゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚したが、ゼルキンはナチスのユダヤ人迫害を避けてアメリカに逃れた。その後ブッシュもドイツを去ってスイスに移住、1939年実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに定住した。 この録音は第2次世界大戦最末期の録音。ブッシュの協奏曲はJ.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲第2番 BWV.1042(78CDR-3216)、二つのヴァイオリンのための協奏曲 BWV.1043(78CDR-3235)が出ている。 | ||
コーリッシュSQ団員のシューマン シューマン:ピアノ四重奏曲 変ホ長調Op.47 |
ホルテンス・モナート(P) コーリッシュSQ団員 [ルドルフ・コーリッシュ(Vn) オイゲン・レーネル(Va) ベナール・ハイフェッツ(Vc)] | |
英 HIS MASTER'S VOICE DB3642/4(米 VICTOR 14816/8 と同一録音)。録音:1937年11月26日。 ホルテンス・モナート(1905-1955)はアメリカ生まれの女流ピアニスト。アルトゥール・シュナーベルに師事し、トスカニーニ指揮NBCso.のソリストに迎えられた最初の女性ピアニストだった。 コーリッシュ弦楽四重奏団は新ウィーン楽派の音楽を演奏するためにルドルフ・コーリッシュ(1896-1978)によって1921年に組織された。シェーンベルグの指導を受けた後、現代音楽だけでなく古典音楽にも目を向けた。ナチスに追われてアメリカに移住し活動を続けたが1942年に解散した。 このシリーズにはモーツァルト:弦楽四重奏曲第22番 K.589「プロシャ王第2番(78CDR-3197)が出ている。これは聴く者の心をを幸せにしてくれる名曲の名演奏。 | ||
ヴィート(ヴィトー)のヴィターリ ヴィターリ/レスピーギ編:シャコンヌ ト短調 |
ジョコンダ・デ・ヴィトー(Vn) アルベルト・エレーデ指揮 フィルハーモニアo. ハーバート・ドーソン(Org) | |
英 HIS MASTER'S VOICE DB6936/7。録音:1948年5月14日、29日、ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ。 レスピーギ(1879-1936)によるオルガン入りの壮麗なオーケストレーション。 ジョコンダ・デ・ヴィトー(1907-1994)はイタリアの女流奏者。11歳でペサロ音楽院に入り、レミ・プリンチーペ(1899-1977)に師事した。1932年にウィーン国際ヴァイリン・コンクールで一等賞をとった。1935年イタリアPARLOPHONEにJ.S.バッハのブランデンブルク協奏曲第5番(アリーゴ・タッシナーリ/fl,カルロ・ゼッキ/pf,プレヴィターリ/cond.)と共にを録音したのが初レコーディング。1941年にはベルリンでブラームスのヴァイオリン協奏曲をドイツPOLYDORに録音(78CDR-1174)した。第2次世界大戦後の1948年ロンドンにデビューしEMIのアーティストになり、SPレコードと初期のLPに優れた録音を残した。 指揮者のアルベルト・エレーデ(1909-2001)はイタリアのジェノア生まれ。ミラノで学んだ後スイスでヴァインガルトナー、ドレスデンでフリッツ・ブッシュのアシスタントをつとめた。戦後ロンドンのニュー・ロンドン・オペラ団の指揮者になり、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも指揮をした。1968年バイロイトで「ローエングリン」を指揮した。トスカニーニ以来バイロイトに登場した二人目のイタリア人指揮者だった。 | ||
テルマニーのニルセン ニルセン:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調Op.9 |
エミール・テルマニー(Vn) クリスティアン・ クリスティアンセン(P) | |
英 HIS MASTER'S VOICE DB2732/4。録音:1935年10月13日。 カール・ニルセン(1865-1931)は北欧デンマークを代表する作曲家。これは1895年の作品。 ヴィオリンのエミール・テルマニー(1892-1988)はハンガリー生まれ。ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。1919年来デンマークのコペンハーゲンに在住し、ニルセンの娘婿となった。テルマニーの美音は一度聴くと忘れられない魅力がある。 このシリーズでメンデルスーン:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-3087)が出ている。 | ||
ミュンシュ&パリ管の「悲愴」 チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調Op.74「悲愴」 |
シャルル・ミュンシュ指揮 パリ音楽院o. | |
英 DECCA AK1968/73。録音:1948年5月22日-23日、パリ、サル・ド・ラ・ミュチュアリテ。 英国デッカのffrr録音。シャルル・ミュンシュ (1891-1968)はストラスブールの生まれ。生地の音楽院でオルガンを学んだ後、パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)にヴァイオリンを学び、その後ベルリンでカール・フレッシュ(1873-1928)に師事した。1926年ライプツィヒ音楽院の教授に就任、1925年から32年にはゲヴァントハウスo.のソロ第一ヴァイオリン奏者もつとめ、ブルーノ・ワルター (1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し、指揮法も身につけた。パリに戻り1935年から38年にはパリ・フィルハーモニーの指揮者、1938年にはエコール・ノルマルのヴァイオリン科教授に任命された。1938年から45年にパリ音楽院o.指揮者をつとめた。1939年には同音楽院の指揮科教授に任命された。1949年にボストンso.の正指揮者となり1962年までつとめた。 この録音はデッカ社の録音クルーがパリに赴いての物。オーケストラの各パートに音楽院の教授達の名人芸が聴こえる。コンデンサー・マイクロフォン独特の高域の輝きがffrrの特長。 ミュンシュ&パリ音楽院はラヴェル:ボレロ(78CDR-1164)が出ている。 | ||
メニューイン&ランドフスカ J.S.バッハ: ヴァイオリン・ソナタ第3番 ホ長調 BWV1016 |
イェフディ・メニューイン(Vn) ワンダ・ランドフスカ(Cemb) | |
録音:1944年12月28日、RCA第1スタジオ、ニューヨーク。ソース: 米 VICTOR 11-9052/4。 ワンダ・ランドフスカ(1879-1959)はポーランドのワルシャワ生まれ。20世紀最高のチェンバロ奏者、ピアニスト、音楽学者。パリのプレイエル社に二列の鍵盤と七個のペダルを持つ自分のチェンバロを作らせ生涯この楽器を使用した。1940年にフランス国籍を得たが、1941年ドイツ軍のフランス侵攻によってアメリカに逃れた。パリに残したチェンバロはアメリカ軍によって戦後彼女の元に届けられた。ランドフスカはJ.S.バッハの演奏に特に造詣が深く、「平均律クラヴィーア曲集」、「ゴルトベルク変奏曲」の大作を録音していた。イェフディ・メニューイン(1916-1999)は神童としてデビューし、12歳でレコード初録音。ジョルジュ・エネスコ(1881-1955)やアドルフ・ブッシュ(1891-1952)にも師事した。これは第2次大戦末期のアメリカ録音。 | ||
エリー・ナイ モーツァルト:ピアノ協奏曲第15番 変ロ長調 K.450 |
エリー・ナイ(P) ウィレム・ファン・ ホーフストラーテン指揮 室内o. | |
録音:1935年10月、ベルリン。ソース: 英 HIS MASTER'S VOICE DB8071/3。 エリー・ナイ(1882-1968)はドイツの女流ピアニスト。初録音は1906年にウェルテ・ミニョン社のピアノロール。ウィーンでレシェティツキーやフォン・ザウアーの薫陶を得た。1911年にオランダの指揮者ウィレム・ファン・ホーフストラーテン(1884-1964)と結婚。1921年から夫君とニューヨークに暮らす。だが1927年に離婚。ドイツに戻りヒトラー政権下で演奏活動を続けた。戦後の名誉回復後も精力的な演奏活動を続けた。この録音は夫君だったホーフストラーテンとの初録音で、且つこの名曲の世界初録音でもあった。ホーフストラーテンは1923年から1925年NYPの首席指揮者を務め、1925年にオレゴンso.に移った。さらに1935年から1945年にザルツブルク・モーツァルテウムの指揮者を努めた。 | ||
シゲティ&フォルデス コレッリ/レオナール編:ラ・フォリア(*) J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ パルティータ第1番 ロ短調BWV1002〜ブーレ |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) アンドール・フォルデス(P;*) | |
録音:1940年6月5日(*)/1941年3月21日、以上ニューヨーク。ソース: 米 COLUMBIA 71187/8-D 。 ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリー生まれのヴァイオリニスト。ブダペスト音楽院でイェネー・フバイ(1858-1937)に師事した。1905年ベルリンで大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)に認められた。1917年から24年スイスのジュネーヴ音楽院で教え、1940年にアメリカに移住した。この録音はアメリカ定住直後のニューヨーク録音。このシリーズではヨーロッパ時代に録音したシゲティの重要録音が多数出ている。 | ||
A.ブッシュのバッハ J.S.バッハ: 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043 |
アドルフ・ブッシュ、 フランセス・マグネス(Vn) ブッシュ室内合奏団 | |
録音:1945年4月26日、ニューヨーク。ソース: 米 COLUMBIA 71676/7-D。 アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツのヴァイオリニスト。1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキンと(1903-1991)デュオを組んで活躍した。1936年ゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚したがゼルキンはナチのユダヤ人迫害を避けてアメリカに移住した。その後ブッシュも実弟でチェリストのヘルマン・ブッシュと共にアメリカに定住した。この録音はブッシュのアメリカ時代のも。第2次世界大戦末期のニューヨークで行われた。第2ヴァイオリンを弾く女流のフランセス・マグネスの経歴は不詳。LP初期のバルトークレコードやエソテリックレコードに現代音楽の録音があった。 | ||
ドレイパー&レナーSQ ブラームス:クラリネット五重奏曲 ロ短調Op.115 |
チャールズ・ドレイパー(Cl) レナーSQ | |
録音:1928年11月7日&10日、ロンドン。ソース: 米 COLUMBIA 67613/7-D (英 COLUMBIA L2228/32 と同一録音)。 レナー弦楽四重奏団は1918年ハンガリーのブダペストで結成された、全員がブダペスト音楽院出身。4人はブダペスト・オペラの楽員だったが1918年のハンガリー革命を機に弦楽四重奏団を結成し、2年間田舎の村に籠もって練習を積んだ。1920年ウィーンにデビュー、そこに居合わせたラヴェル(1875-1937)が聴いて彼らをパリに招いた。パリ公演は大成功を収め、その後1922年にロンドン、1929年にアメリカにデビューした。クラリネットのチャールズ・ドレイパー(1869-1952)はイギリスのサマーセットシャー生まれ。ロイヤル・アカデミーやギルドホール音楽校の教授を務め、イギリスのクラリネット界の祖父として尊敬された。ブラームスがこの曲を捧げたミュールフェルトの伝統を継ぐ奏者と言われていた。このシリーズではレナーとドレイパーの組み合わせでモーツァルト:クラリネット五重奏曲(78CDR-3045)も出ている。 | ||
A.ブッシュ&R.ゼルキン ブラームス: ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調Op.100 |
アドルフ・ブッシュ(Vn) ルドルフ・ゼルキン(P) | |
録音:1932年、ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ。ソース:英 HIS MASTER'S VOICE DB1805/6。 アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの大ヴァイオリニスト。1912年20歳の時にウィーンのコンツェルトフェライン(後のウィーンso.)ソロ・ヴァイオリンに抜擢され、1918年ベルリン高等音楽院の教授になった。1922年以後ピアニストのルドルフ・ゼルキンとデュオを組んで活躍した。ゼルキンは1936年ブッシュの娘イレーネと結婚したが、ナチのユダヤ人迫害を避けてアメリカに移住、ブッシュも第2次世界大戦直前にアメリカに渡った。ブッシュ=ゼルキンの顔合わせではブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番(78CDR-3204)、ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」(78CDR-3222)、モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第33番K.377(78CDR-3038)、シューベルト幻想曲 ハ長調(78CDR-1172)、ブッシュのソロでバッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番(78CDR-3226)がこのシリーズで出ている。 | ||
フルニエ&シュナーベル ベートーヴェン: チェロ・ソナタ第4番 ハ長調Op.102-1 |
ピエール・フルニエ(Vc) アルトゥール・シュナーベル(P) | |
録音:1947年6月ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ。ソース:英 HIS MASTER'S VOICE DB9555/6 。 ピエール・フルニエ(1906-1986)はパリ生まれのチェリスト。最初ピアノを学んだが9歳のとき小児麻痺による右足障害のためチェロに転向した。1923年パリ音楽院で一等賞を得て楽壇にデビュー、ヴァイオリンのガブリエル・ブイヨン、ピアノのヴラド・ペルルミュテルとのトリオで注目された。1937年エコール・ノルマル教授、1941年から1949年までパリ音楽院教授をつとめた。1942年にヴァイオリンのシゲティ、ピアノのシュナーベルとのピアノ・トリオ、ヴィオラのプリムローズを加えて四重奏で活動、さらに1945年にはカザルスの抜けたカザルス・トリオに加わりヴァイオリンのティボー、ピアノのコルトーと演奏活動をした。1954年に初来日。その後何度も日本を訪れた。ピアノのシュナーベル(1882-1951)はオーストリアの大ピアニスト。ウィーンで高名なレシェティツキーに師事した。この顔合わせによるベートーヴェンは、チェロ・ソナタ第3番(78CDR-1171)がこのシリーズで出ている。 | ||
モイーズ、ダリュー、P.パスキエ ベートーヴェン:セレナーデ ニ長調Op.25 (フルート、ヴァイオリン、ヴィオラのための) |
マルセル・モイーズ(Fl) マルセル・ダリュー(Vn) ピエール・パスキエ(Va) | |
録音:1931年頃。ソース:米 DECCA 25592/3 (英 DECCA K582/3 と同一録音)。#第1面に周期ノイズがあります。 フルートのマルセル・モイーズ(1889-1984)はパリ音楽院でポール・タファネル(1844-1908)、フィリップ・ゴーベール(1879-1941)らに師事し1905年に一等賞を得た。1932年から1949年までパリ音楽院教授をつとめ、SP時代からレコード録音も多い。ヴァイオリンのマルセル・ダリューは1895年生まれ。パリの選りすぐりの音楽家を集めて組織されたストララムo.のコンサート・マスターとして活躍、ストラヴィンスキーが自ら指揮した「兵士の物語」のSP録音にも参加していた。ピエール・パスキエはパスキエ三兄弟で組織した弦楽三重奏団のヴィオラ奏者で彼もまたストララムo.のメンバーだった。英デッカ・レーベルの黎明期の録音。モイーズのフルートはドビュッシー: フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(78CDR-3064)がこのシリーズで出ている。 | ||
イヴォンヌ・アストリュック J.S.バッハ: ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 BWV1041 |
イヴォンヌ・アストリュック(Vn) ギュスタヴ・ブレー指揮 弦楽合奏団 | |
録音:1935年、パリ。ソース:英 DECCA CA8225/6 (仏 POLYDOR 516 636/7 と同一録音)。 イヴォンヌ・アストリュックは1889年に生まれたフランスの女流ヴァイオリニスト。ダリユス・ミヨー(1892-1974)の「春のコンチェルティーノ」(1934)は作曲者ミヨーの指揮アストリュックのヴァイオリン演奏のSP録音で有名になった。ピアニストのマルセル・シャンピ(1891-1980)夫人で、仏COLUMBIAのSPにグリーグ・ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ短調Op.45を夫妻で録音している。映画監督で医師のイヴ・シャンピ(1921-1982)は息子にあたる。指揮者のギュスタヴ・ブレーは1875年生まれのオルガニスト。パリ音楽院でウィドールに師事、スコラ・カントルムでダンディーに学んだ。サンシュルピス寺院のオルガニストを務め、パリ・バッハ協会の設立者でもあった。 | ||
A.B.ミケランジェリ J.S.バッハ/ブゾーニ編:シャコンヌ (無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004より) |
アルトゥーロ・ベネデッティ・ ミケランジェリ(P) | |
録音:1948年10月27日ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ。ソース:英HIS MASTER'S VOICE DB21005/6。 アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920-1995)はイタリアの大ピアニスト。1939年ジュネーヴ国際コンクールで優勝し、審査員長のアルフレッド・コルトー(1877-1962)は「リストの再来」と賞賛したと伝えられる。この「シャコンヌ」はミケランジェリが第2次世界大戦後楽壇に飛躍するきっかけになった記念すべきスタジオ録音。この名ピアニストの20代の演奏がきける。ダイレクト・トランスファーで演奏の細部が浮き彫りにされている。本シリーズでは他に録音時22歳のイヴォンヌ・ロリオによるバッハ=ブゾーニ編:シャコンヌ(78CDR-3186)が出ている。 |
GOODIES "DIRECT TRANSFER" 2009年以前発売旧譜 (末尾 000-228) 3000番台の商品は、DSD録音による新マスターを使用し、高音質化再発売された物です(下3ケタが1000番台と共通)。 | ||
ブロニスワフ・フーベルマン〜J.S.バッハ: ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 BWV1041 |
ブロニスワフ・ フーベルマン(Vn) イッサイ・ドブローウェン指揮 VPO | |
英COLUMBIA LX329/30。録音:1934年6月13日、ウィーン。 20世紀前半の巨匠フーベルマンはバッハを弾いても個性豊かなスタイルを保っていた。ヴァイオリンを自在に操り、聴き手を自らの世界に引き込んでいく魔術的な演奏家ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)はポーランド生まれ。1892年10歳の時に大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)の指揮でベルリンにデビューし、1895年ブラームスのヴァイオリン協奏曲を作曲家の前で弾いて作曲者を唸らせた。フーベルマンは活動拠点をウィーンに置いていたが、ナチスの台頭後パレスチナに移り、ドイツを追われたユダヤ系の音楽家のためにオーケストラを組織した。それが現在のイスラエル・フィル。このダイレクト・トランスファー・シリーズには全盛期のフーベルマンの演奏が多数出ている。 | ||
イェフディ・メニューイン〜J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005 |
イェフディ・メニューイン(Vn) | |
英HIS MASTER'S VOICE DB1368/70。録音:1929年11月13日、ロンドン、クイーンズ・ホール第3スタジオ"C"。 第4面(トラック4)に大きなキズ音が7回入る。ご了承頂きたい。 イェフディ・メニューイン(1916-1999)はニューヨーク生まれ。4歳からヴァイオリンの手ほどきを受け7歳でサンフランシスコso.との共演でデビューした。その後パリでジョルジュ・エネスコ(1881-1955)、ベルリンでアドルフ・ブッシュ(1891-1952)に師事した。神童メニューインが13歳でバッハの無伴奏に取り組んだ記念すべきこの曲の世界初レコード。15歳年長の師アドルフ・ブッシュがパルティータ第2番(78CDR-3226)をベルリンで録音した5日後のもの。メニューインは同曲を5年後の1934年にパリで2回目の録音(HMV DB2284/86)をしている。 | ||
アドルフ・ブッシュ〜J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・ パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004 |
アドルフ・ブッシュ(Vn) | |
伊DISCO GRAMMOFONO DB1422/4。録音:1929年11月8日、ベルリン。 この曲の世界初録音。アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの名ヴァイオリニスト。1912年20歳の時ウィーンのコンツェルトフェライン(ウィーンso.)のソロ・ヴァイオリンに抜擢され、1918年ベルリン高等音楽院の教授になった。その頃弦楽四重奏団を組織している。ブッシュは電気録音以前のラッパ吹き込み時代にドイツのポリドールにソロと弦楽四重奏の録音を残していた。さらに電気録音時代になってベートーヴェンの弦楽四重奏曲やソナタをHMVに録音した。このバッハのパルティータ第2番は世界初録音。録音時ブッシュは38歳だった。第2次世界大戦直前にアメリカに渡った。ダイレクト・トランスファー・シリーズではブッシュの名演奏を多数発売している。 | ||
ヨーゼフ・シゲティ〜J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 BWV1001 |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) | |
日本コロムビア J7825/6(英COLUMBIA LX127/8と同一録音)。録音:1931年2月3日、ロンドン。 定評のあるシゲティのJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータの全曲録音の原点にあたる演奏。録音時シゲティは39歳だった。ハンガリー生まれのヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。1905年ベルリンで大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)に認められた。1917年から24年スイスのジュネーヴ音楽院で教え、1940年にアメリカに移住した。シゲティはSPレコードにこのJ.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番と第2番(78CDR-3041)の2曲を録音し、いずれもこの名曲の全曲初録音であった。 | ||
パブロ・カザルス〜 J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 Vol.3(完結編) [第1番 ト長調 BWV1007/第6番 ニ長調 BWV1012] |
パブロ・カザルス(Vc) | |
英HIS MASTER'S VOICE DB8590/97。録音:1938年6月2日-4日、パリ、アルベール・スタジオ。 レコード史上の金字塔、カザルスのJ.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全6曲ダイレクト・トランスファー・シリーズで完成。パブロ・カザルス(1876-1973)はスペインのカタルーニャ地方の町エル・ベドレルに生まれた偉大なチェロ奏者。バルセロナ音楽院でチェロ、ピアノ、楽理、作曲を学んだ。1890年バルセロナでバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会った。1899年23歳でパリにデビュー、1904年バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏した。1905年ピアノのコルトー、ヴァイオリンのティボーとトリオを結成。1908年コンセール・ラムルーo.で指揮デビューした。カザルスのバッハ:無伴奏チェロ組曲全6曲は2曲ずつ録音された。第1巻は組曲2番と3番で1936年録音(78CDR-3004)。第2巻はここに収録の組曲1番と6番で1938年録音。第3巻は組曲4番と5番(78CDR-3070)で1939年4月にパリで録音された。1930年代のカザルスのSPはどれを聴いても圧倒的な感銘をうける。 | ||
アルフレッド・コルトー ショパン:4つのバラード |
アルフレッド・コルトー(P) | |
録音:1933年7月6日-7日、ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ。ソース:米VICTOR 16538/41 (英HIS MASTER'S VOICE DB2023/6 と同一録音)。 アルフレッド・コルトー(1877-1962)は20世紀最高のフランスのピアニスト。1892年パリ音楽院にルイ・ディエメール(1843-1919)のクラスで研鑽を積む。1896年一等賞を得て卒業。1902年にヴァイオリンのジャック・ティボー(1880-1953)とチェロのパブロ・カザルス(1876-1973)とトリオを組んだ。1917年にパリ音楽院教授、1919年にパリに音楽学校エコール・ノルマルを設立した。コルトーはショパンの4つのバラードを2回録音していて、これは2回目の録音。 | ||
A.ブッシュ + 父ゼルキン ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調Op.24「春」 |
アドルフ・ブッシュ(Vn) ルドルフ・ゼルキン(P) | |
録音:1933年5月17日、ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ。ソース:米VICTOR 8351/3 (英HIS MASTER'S VOICE DB1970/2 と同一録音)。 アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツの名ヴァイオリニスト。1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍した。1936年ゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚したが、ゼルキンはナチのユダヤ人迫害を避けてアメリカに移住した。その後ブッシュもアメリカに渡り1939年に定住した。 | ||
カザルス + ホルショフスキ ベートーヴェン:チェロ・ソナタ第1番 ヘ長調Op.5-1 |
パブロ・カザルス(Vc) ミェチスワフ・ ホルショフスキ(P) | |
録音:1939年6月19日、20日、パリ、アルベール・スタジオ。ソース:米VICTOR 18288/90 (英HIS MASTER'S VOICE DB3908/10と同一録音)。 パブロ・カザルス(1876-1973)はスペインのカタルーニャ地方の町エル・ベドレルに生まれた偉大なチェロ奏者。バルセロナ音楽院でチェロ、ピアノ、楽理、作曲を学んだ。1890年バルセロナでバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会った。1899年23歳でパリでデビュー、1904年バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏した。1902年ピアノのコルトー、ヴァイオリンのティボーとトリオを結成。1908年コンセール・ラムルーo.で指揮デビューした。レコード録音は機械式録音時代の1915年から行いバッハの無伴奏チェロ組曲第3番から4曲、G線上のアリアほか小品を18面録音した。 ピアノのミェチスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)はポーランド出身のピアニスト。99歳までステージで演奏した伝説的なピアニスト。カザルスの第1回目のベートヴェン:チェロ・ソナタ全集では第3番以外のピアニストを務めた。このシリーズでは1936年録音のカザルスとのブラームス:チェロ・ソナタ第2番(78CDR-1084)が出ている。 | ||
ヨーゼフ・シゲティ ブラームス: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調Op.77(*) (カデンツァ:J.ヨアヒム)/ ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調Op.108 〜第2楽章(#) |
ヨーゼフ・シゲティ(Vn) ハミルトン・ハーティ指揮(*) ハレo.(*) クルト・リュールザイツ(P;#) | |
録音:1928年12月3日、5日(*)/1927年7月1日(#)。ソース:米COLUMBIA 67608/12D (英COLUMBIA L2265/9と同一録音)。 ヨーゼフ・シゲティ(1892-1973)はハンガリーのブダペスト生まれ。ブダペスト音楽院でイェノ・フバイ(1850-1937)に師事した。1905年13歳でベルリン・デビュー、大ヴァイオリニスト、ヨアヒム(1831-1907)に認められた。1917年から24年スイスのジュネーヴ音楽院で教え、1940年にアメリカに移住した。ブラームスのヴァイオリン協奏曲をシゲティは生涯3回録音しているが、これはその第1回目のもので、36歳のシゲティの初の協奏曲録音だった。 | ||
ワルター弾き振り モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466 (カデンツァ:C.H.ライネッケ) |
ブルーノ・ワルター(P)指揮 VPO | |
録音:1937年5月7日、ウィーン、ムジークフェライン大ホール。ソース:米VICTOR 12151/4 (英HIS MASTER'S VOICE DB3273/6 と同一録音)。 ブルーノ・ワルター(1876-1962)はドイツ出身の大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後ピニストとしてデビュー、その後指揮者に転向した。1894年ケルン市立歌劇場でデビュー、1896年ハンブルク歌劇場へ移った。そこで音楽監督だったグスタフ・マーラー(1860-1911)と出会い交友を深めた。ワルターは以後ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスo.などの楽長、音楽監督を歴任。VPOやBPOも指揮した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると、迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。この録音は1937年ウィーン・フィルを指揮して自らピアノを弾いた録音。ダイレクト・トランスファーによってムジークフェライン大ホールの美しい響きがワルターのピアノとオーケストラの音色を引き立てているのがよく聴き取れる。録音時ワルターは61歳だった。 | ||
父ブレイン + A.ブッシュ + 父ゼルキン ブラームス:ホルン三重奏曲 変ホ長調Op.40 |
オーブリー・ブレイン(Hr) アドルフ・ブッシュ(Vn) ルドルフ・ゼルキン(P) | |
録音:1933年11月13日、ロンドン、アビー・ロード第3スタジオ。ソース:米 VICTOR 17112/5 (英 HIS MASTER'S VOICE DB2105/8と同一録音)。 オーブリー・ブレイン(1893-1955)は20世紀の前半に活躍したイギリスの名ホルン奏者、デニス・ブレイン(1921-1957)の父親にあたる。1911年王立アカデミーで奨学金を受け、同年、新so.の首席奏者に就任。翌1912年には大指揮者アルトゥール・ニキシュ指揮LSOの北米楽旅に参加した。1923年から母校の王立アカデミーでホルン教え始めた。ずっと後になるが、生徒の一人が息子のデニス・ブレインだった。アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツのヴァイオリニスト。1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍した。このブラームスは3人の名人によるブラームスの濃厚なロマンティシズムが表出した名演奏。 | ||
ゲオルク・クーレンカンプ ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調Op.24「春」 |
ゲオルク・クーレンカンプ(Vn) ジークフリート・シュルツェ(P) | |
録音:1940年6月15日、ベルリン。ソース:独 TELEFINKEN E3124/6。 ゲオルク・クーレンカンプ(1898-1948)はドイツのヴァイオリニスト。第2次世界大戦中はソリストとしてドイツを代表する演奏家だった。またベルリン高等音楽院のヴァイリン科教授も務めた。 この録音は1940年ドイツ・テレフンケン社への録音。クーレンカンプは1944年にスイスのルツェルン音楽院の教授になり、ピアノのエトヴィン・フィッシャー(1886-1960)、チェロのエンリコ・マイナルディ(1897-1976)とのトリオでも活躍した。彼は1948年50歳を迎えて間もなく急逝した。ピアノのジークフリート・シュルツェは経歴不明。ポーランド出身の大ヴァイオリニスト、ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)と多くの録音をしていた。 クーレンカンプは本シリーズでブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番(シューリヒト指揮チューリヒ・トンハレo.1947年録音)(78CDR-1123)が出ている。 | ||
アドルフ・ブッシュ J.S.バッハ: ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 BWV.1042(*) コレッリ/ブッシュ編: ソナタ ヘ長調Op.5-10〜プレリュード(#) |
アドルフ・ブッシュ(Vn) ブッシュ室内合奏団 | |
録音:1941年10月3日(*)、1942年5月27日(#)、ニューヨーク。ソース:米 COLUMBIA 119146/6-D(Set M-MM-530)。 アドルフ・ブッシュ(1891-1952)はドイツのヴァイオリニスト。1922年からピアニストのルドルフ・ゼルキン(1903-1991)とデュオを組んで活躍した。1936年ゼルキンはブッシュの娘イレーネと結婚したが、ゼルキンはナチのユダヤ人迫害を避けてアメリカに移住した。その後ブッシュもドイツを去ってスイスに移住、1939年実弟でチェリストのヘルマン・ブュッシュと共にアメリカに定住した。 この録音はブッシュがアメリカでの最初の録音にあたる。ブッシュの演奏はこのシリーズでモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第33番 K.377(78CDR-3038)、シューベルト:幻想曲 ハ長調(78CDR-1172)が出ている。ピアノはいずれもゼルキン。 | ||
マックス・シュトループ + ベーム ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調Op.61 |
マックス・シュトループ(Vn) カール・ベーム指揮 ザクセン国立歌劇場o. | |
録音:1939年6月29日-30日、ドレスデン。ソース:独 ELECTROLA DB5516/21S。 マックス・シュトループ(1900-1966)はドイツのヴァイオリン奏者。1922年、当時ザクセン国立歌劇場の音楽監督だったフリッツ・ブッシュ(1890-1951)の招きでコンサート・マスターに就任。1924年から1928年にワイマール音楽学校のヴァイオリン教授になり、一方オットー・クレンペラーの要請でベルリン国立歌劇場のコンサートマスターも務めた。1934年にはピアニストのエリー・ナイ(1882-1968)、チェリストのルートヴィヒ・ヘルシャー(1907-1996)とピアノ三重奏団を組織した。 カール・ベーム(1894-1981)はオーストリアのグラーツ生まれの大指揮者。グラーツ大学で法律を専攻した法学博士でもある。1917年グラーツ市立歌劇場で指揮者としてデビュー、1921年ブルーノ・ワルター(1876-1962)に招かれバイエルン国立歌劇場の指揮者になった。その後ダルムシュタット、ハンブルクの歌劇場の指揮者を歴任、1934年にフリッツ・ブッシュの後任としてザクセン国立歌劇場の音楽監督に就任、1943年にウィーン国立歌劇場に転出すまでその地位にあった。 これは第2次世界大戦勃発三ヵ月前の録音。当時ベームは45歳だった。第6面のカデンツァが聴き物。 | ||
エトヴィン・フィッシャー モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491 (カデンツァ:E.フィッシャー) |
エトヴィン・フィッシャー(P) ローランス・コリングウッド指揮 ロンドンpo. | |
録音:1937年3月5日、ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ。 エトヴィン・フィッシャー(1886-1960)はスイスのピアニスト。バーゼル音楽院で学んだ後、ベルリンに出てリスト(1811-1886)の高弟マルティン・クラウゼ(1853-1918)についた。1930年ベルリン高等音楽院の教授に就任、また演奏家としても活躍した。このモーツァルトはフィッシャーが51歳の時の録音。弟子にレーヌ・ジャノーリ(1915-1979)、パウル・バドゥラ=スコダ(1927-)、アルフレッド・ブレンデル(1931-)らがいる。 指揮者のローランス・コリングウッド(1887-1982)はイギリスの指揮者。ロンドンのギルドホール音楽学校で学んだ後、オックフォード大学に進んだ。1912年ロシアのペテルブルク音楽院に留学、グラズノフ、チェレプニン等に指導を受けた。1918年イギリスに戻り指揮者として活躍、1931年から1941年サドラーズ・ウェールズ・オペラの首席指揮者、1941年から47年音楽監督を務めた。 フィッシャーはこのシリーズでモーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番 K.330(78CDR-3036)、モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲つき」(78CDR-1096)、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番Op.110(78CDR-1106)、ハイドン:ピアノ協奏曲 ニ長調(78CDR-1129)、J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集全曲(78CDR-1142-1146分売)、ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番Op.25(78CDR-1160)、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」(78CDR-3202)が出ている。 | ||
グリュミオー&プーニエ J.S.バッハ: 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV.1043 |
アルテュール・グリュミオー、 ジャン・プーニエ(Vn) ワルター・ジュスキンド指揮 フィルハーモニア室内o. ボリス・オード(Cemb) | |
蘭 COLUMBIA DX1276/77、録音:1946年3月27日、ロンドン、アビー・ロード第1スタジオ。 アルテュール・グリュミオー(1921-1986)はベルギーの名ヴァイオリニスト。3歳から祖父にヴァイオリンの手ほどきを受け、6歳で生地のシャルルロワ音楽院に入った。5年の間にヴァイオリンとピアノで一等賞になり、ブリュッセル王立音楽院でアルフレッド・デュボワ(1898-1944)についてさらに研鑽をつんだ。1939年にアンリ・ヴュータン賞とフランソワ・プリューム賞を受賞、シャルル・ミュンシュ(1891-1955)の指揮でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾きデビューした。その後パリでジョルジュ・エネスコ(1881-1955)の指導を受けた。第2次大戦中は英米軍の兵士に慰問活動をした。戦後すぐにEMIのプロデューサー、ワルター・レッグに招かれイギリス・コロンビアに録音した。この演奏はグリュミオーの初協奏曲録音にあたる。ジャン・プーニエ(1907-1968)はインド洋のモーリシャス島にイギリス人の両親のもとに生まれ、2歳の時にイギリスに移住し王立アカデミーで学んだ。ワルター・ジュスキンド(1913-1980)はチェコ出身のイギリスの指揮者。プラハ音楽院でスークやハーバに師事した後、ベルリンでジョージ・セル(1897-1970)のアシスタントになり薫陶を得た。 | ||
アニヤ・イグナティウス シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調Op.47 |
アニヤ・イグナティウス(Vn) アルマス・ヤルネフェルト指揮 ベルリン市立o. | |
独 POLYDOR 68046/49、録音:1943年、ベルリン。 アニヤ・イグナティウス(1911-1995)はフィンランドの女流ヴァイオリニスト。1924年-28年までパリ音楽院、1928年-29年にチェコの巨匠シェヴチーク(1852-1934)、1929年-31年にはベルリンでカール・フレッシュ(1873-1944)に師事した。特にシベリウスのヴァイオリン協奏曲は作曲家自身が高く評価し、この曲のスペシャリストになった。1955年-78年にヘルシンキのシベリウス・アカデミーの教授を務めた。指揮者のアルマス・ヤルネフェルト(1869-1958)はフィンランドの作曲家で指揮者。ヤルネフェルトの「子守歌」の作曲者でもある。 この録音は第2次世界大戦後期のもの。 | ||
ハインツ・シュタンスケ モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218 (カデンツァ:J.ヨアヒム) |
ハインツ・シュタンスケ(Vn) パウル・ファン・ケンペン指揮 ドレスデンpo. | |
独 POLYDOR 67888/90、録音:1942年、ドレスデン。 ハインツ・シュタンスケ(1912-)はカール・フレッシュ(1873-1944)に師事したヴァイオリニスト。1937年のウィーン音楽祭で金賞を受賞した。第2次大戦中のドイツ・ポリドールにSP録音がある。シュタンスケは戦後コンサート活動と同時に後進の指導にあたり、女流ヴァイオリニスト、エディット・パイネマン(1939-)は弟子の一人だった。指揮者のパウル・ファン・ケンペン(1893-1955)はオランダの指揮者。17歳でアムステルダム・コンセルトヘボウo.のヴァイオリン奏者になり、1916年からドイツ各地のオーケストラで指揮者として活動した。1934年-42年にはドレスデン・フィルの常任指揮者としてこのオーケストランをヨーロッパ有数の楽団に育てあげた。 このシリーズではジョコンダ・デ・ヴィトーのヴァイオリンでブラームス:ヴァイオリン協奏曲(78CDR-1174)、ヴィルヘルム・ケンプのピアノでモーツァルト:ピアノ協奏曲第20番(78CDR-1153)、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番(78CDR-1112)、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番(78CDR-1120)が出ている。 | ||
カール・フロイント ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調Op.61 (カデンツァ:H.レオナール) |
カール・フロイント(Vn) ヴァルター・ダヴィッソン指揮 BPO | |
独 POLYDOR 15205/09。録音:1938年3月5日、8日、ベルリン高等音楽院。 戦前の全盛期にあったBPOによるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲でLP、CDを通じて初復刻と思われる。ヴァイオリンのカール・フロイント(1904-1955?)はドイツのヴァイオリニスト。経歴の詳細は不明だが、ドイツ・ポリドールのSPにピアノ・トリオの録音がある。ドイツの女流ヴァイオリニスト、シュザンヌ・ラウテンバッハー(1932-)の師だった。指揮者のヴァルター・ダヴィッソン(1885-1973)はフランクフルト生まれ。フランクフルト音楽院でヴァイオリンを学び、卒業後母校でヴァイオリンを教えた。その後指揮者として活躍し、1932年にライプツィヒ音楽院の校長に就任した。この録音が行われた1938年は大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)がBPOの正指揮者の時代だった。フルトヴェングラー指揮BPOの演奏はこのシリーズでチャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(78CDR-1103)が出ている。 | ||
ティボー&ミュンシュ モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 K.219 (カデツァ:J.ヨアヒム) |
ジャック・ティボー(Vn) シャルル・ミュンシュ指揮 パリ音楽院o. | |
仏 DISQUE GRAMOPHONE DB5142/4。録音:1941年1月6日、パリ、アルベール・スタジオ。 ジャック・ティボー(1880-1953)は20世紀フランス最高のヴァイオリニスト、世界中で最も優れたモーツァルト演奏家のひとりだった。この録音が行われた当時、フランスはナチ・ドイツの占領下だったが、1941年はモーツァルト没後150年にあたりヨーロッパの各地で記念行事が行われた。この録音もその記念のためのものと思われる。指揮者のシャルル・ミュンシュ(1891-1955)はストラスブール生まれ。パリ音楽院でリュシアン・カペー(1873-1928)にヴァイオリンを学んだ。1926年-32年にはライプツィヒのゲヴァントハウスo.のソロ第一ヴァイオリン奏者をつとめ、ブルーノ・ワルター(1876-1962)やヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)のもとで演奏し指揮法も身につけた。1938年-45年にパリ音楽院o.の指揮者をつとめ、1939年には同音楽院の指揮科の教授に任命された。この録音はその当時のもの。ティボーのモーツァルトはヴァイオリン協奏曲第3番(78CDR-1118)とヴァイオリン協奏曲第6番(78CDR-1080)がこのシリーズで出ている。 | ||
マルツィ&アントニエッティ モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタ第32番 ヘ長調 K.376(374d) |
ヨハンナ・マルツィ(Vn) ジャン・アントニエッティ(P) | |
DEUTSCHE-GRAMMOPHON LV36035/6e。録音:1952年7月9日。全体に小キズによるノイズ)。 ヨハンナ・マルツィ(1924-1979)はハンガリー生まれの女流ヴァイオリニスト。1934年10歳でブダペストのフランツ・リスト音楽院に入学、イェノ・フバイ(1858-1937)に師事した。13歳でデビューしたが、大戦のため活動を中断。1947年ジュネーヴ国際音楽コンクーるに入賞しスイスに居をかまえた。1953年にロンドンにデビューした。この録音はロンドン・デビュー前にドイツ・グラモフォンに入れたもの。この社が開発した長時間収録の78回転SP、VG盤に収録されたもの。ピアノのジャン・アントニエッィはオランダ生まれ。マルツィとの共演の他にハンガリー弦楽四重奏団とシューベルトの「ます」を録音していた。 | ||
ゴールドベルク&ムーア ヘンデル: ヴァイオリン・ソナタ第4番 ニ長調Op.1-13 |
シモン・ゴールドベルク(Vn) ジェラルド・ムーア(P) | |
蘭 PARLOPHONE PXO 1043/4。録音:1947年5月6日、ロンドン。 シモン・ゴールドベルク(1909-1993)はポーランド生まれのヴァイオリニスト。ベルリンで名教授カール・フレッシュ(1873-1944)に師事し、1929年にフルトヴェングラーに招かれBPOのコンサート・マスターに就任した。1934年ドイツがナチ政権になった時退団、ロンドンに移住した。1936年ハンガリー出身の女流ピアニスト、リリー・クラウスと共に来日したこともある。1942年クラウスと共にアジア演奏旅行中にインドネシアのジャワ島で日本軍に捕らえられ1945年まで抑留生活を強いられた。大戦後はオランダとアメリカで活躍、晩年日本のピアニスト山根美代子さんと結婚、立山で暮らしていた。この録音は戦後の1947年のもの、録音時ゴールドベルクは38歳だった。ピアノのジェラルド・ムーア(1899-1987)はイギリスのピアニスト。主に声楽家の名伴奏者として録音の数も多かった。 | ||
メンゲス&デ・グリーフ シューベルト:ヴァイオリンとピアノのための ソナチネ第3番 ト短調 D.408 Op.137-3 |
イゾルデ・メンゲス(Vn) アーサー・デ・グリーフ(P) | |
英 HIS MASTER'S VOICE D1398/9。録音:1927年12月13日、ロンドン。 イゾルデ・メンゲス(1893-1976)はイギリスの女流ヴァイオリニスト。1910年17歳の時ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1930)に師事し3年間の滞在中アウアーの最もお気に入りの弟子となった。1913年20歳でロンドンでデビューし、1916年から1919年にかけて北米公演を行いアメリカのメジャーオーケストラのほとんどと共演し名声を高めた。 このシューベルトは電気録音最初期のもの。ピアノのアーサー・デ・グリーフ(1862-1940)はベルギー生まれのピアニスト。17歳でブリュッセル王立音楽院を卒業後、ワイマールに赴きフランツ・リストに2年間師事した。デ・グリーフはSP時代のHMVに数多くの録音を残した。イゾルデ・メンゲスはバッハの「シャコンヌ」(78CDR-1178)が本シリーズで出ている。 | ||
ザイデル&レッサー ブラームス: ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調Op.100 |
トッシャ・ザイデル(Vn) アーサー・レッサー(P) | |
米 COLUMBIA 67180/2-D。録音:1926年1月14日-15日。 トッシャ・ザイデル(1899-1962)はオデッサ生まれのロシアのヴァイオリニスト。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアー(1845-1930)に師事した。後にアメリカ国籍を得た。ジンバリスト(1889-1985)、エルマン(1891-1967)、ハイフェッツ(1899-1987)、ミルスタイン(1904-1992)等と共にヴァイオリンのロシア楽派を築いた。ザイデルはロマンティックな音色と自由なルバートで評判をとった。この録音はザイデルが27歳の時のもの。現在の演奏家からは聴けないロマンティックな味わいが満ちあふれた名演奏。ピアノのアーサー・レッサー(1894-1969)はドイツ系のアメリカのピアニスト。戦後日比谷公会堂でアメリカ駐留軍士官時代に軍服姿でショパンのピアノ協奏曲を日本フィルハーモニーと演奏したこともあった。復刻には米 COLUMBIAのブルーシェラック盤を使用した。 | ||
A.ブッシュ&ゼルキン ブラームス: ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調Op.78「雨の歌」 |
アドルフ・ブッシュ(Vn) ルドルフ・ゼルキン(P) | |
米 VICTROLA 7 |